急進的保守主義

 日本語の間違い???と思った人は感性の鋭い人かも。この用語は一般的には流通していません。なぜなら矛盾したものを引っ付けているから。急進的といえば、革新とか革命とかとにかく今の体制を破壊しよう!となりますし、保守主義といえば、守旧といわれる如く存在するものを守ろうとなります。この言葉を英語に訳したとしても、ラディカル(=根本的に変革しよう)とコンザーバティブ(保存しよう)なので、これまた言語矛盾に陥ります。けれどこの言葉、私が大学時代にイギリスのある一派の別称として紹介された言葉なのです。その一派とは「哲学的急進派」。ベンサムとかミル親子が属していた政治的かつ哲学的一団です。

 背景をちょっと説明しましょう。1688年にカソリックの王様を追い出して、その娘と娘婿を王位につけた出来事を名誉革命といいます。この名誉革命体制を正統として守り抜こうというのが、18世期から19世紀を通じてイギリスの保守主義の屋台骨になります。これに対して元の王政を正当とするのが、王党派(トーリー)です。保守主義である名誉体制派(ホィッグ)よりもさらに保守主義ともいえますが、一方で宗教的にはカソリックよりですし、元の王政を求めるわけですから、体制変革を求めるという意味では急進的ともいえます。この二派を中心として18世紀は動いていくのですが、その中から名誉革命体制が矛盾に満ちており、これを改革しなくてはいけないという一派が出てきます。アメリカ独立革命で有名になるトマス・ペイン等の急進派で、フランスで革命が起こるとこの動きを擁護します。これに対して従来の体制を擁護したのがバークで…。とここまではいいでしょうか。ちょっと図式化するとトーリー<ホィッグ<急進派となりますが、トーリーも急進派も体制変革を求める点では同一です。

 ところがフランス革命が急進化し、ルイ16世が処刑されるようになると、イギリス国内における急進派の勢力が衰え始めます(まぁそうですよね、王様がいますから)。その後ナポレオンが政権を握ると、イギリスは大陸封鎖の憂き目にあい、ナポレオンと徹底抗戦することになります。(大体イギリスがフランスを嫌うのは、ジャンヌダルクとナポレオンの為だとか)。ではナポレオン戦争が終了したら、体制は万々歳かというと、戦費の償還、大陸封鎖によって上昇していた穀物価格、貧民(単に貧しいだけでなく一ヶ所に定住しない人たち)問題と社会問題が山のように湧き出てきます。

 この状況の中で、名誉革命体制が不合理に満ちたものであり、理に適った政体に変化させるべきであると主張し始めたのが哲学的急進派です。しかしベンサムをはじめとして誰一人、王政を倒せとか、政府を打倒せよという主張は一切しません。政治改革や司法改革、それもダメなら言論を通じて選挙権者に訴える。フランス革命の主義主張が普遍的理性や自然法・自然権に基づいていたのに対し、哲学的急進派の思想は功利主義ですから、多くの幸福をもたらす政体であれば良いと考えます。フランス革命でも普通選挙による民主主義が唱えられましたが、それはあくまでも普遍的理性を持つ市民の権利としてでした(なのでこの市民に女性は入っていません。女性は理性を持たない存在とされていましたので)。一方功利主義はといえば、どのような支配体制であれ支配階級は自分の幸福を最大化すると考えます。ですからより多くの人の幸福を実現するためには、多くの人が支配階級となる(なれる可能性のある)民主主義が最も適切であろうと考えるわけです。なので多くの人が犠牲になるような暴力的手段は退けます。目的は手段を合理化しないのです。

 体制変革を求める急進主義ではありますが、革命ではなく漸進的手段を取り、体制内変革もしくは、議会外での活動や世論によって政治や体制を変革しようという点では保守的です。ということで、私の大学時代の教員は「急進的保守主義」という変な用語を作ったわけです。

 ところでベンサムや父ミルの場合は民主主義が適切で良かったのですが、息子のミルの場合は民主主義の中身を問題とするようになります。普通選挙(息子のミルの場合は女性も含みますが)で民主主義的に選ばれた政府であったとしても、少数者を弾圧する(あるいは無視する)政府になり得ます。いやむしろ多数派が政権を取るシステムだけに、正面切っての弾圧ではなく無言の圧制になる可能性が高い。ミルの関心はここにあります。

 政治体制が変わっても人の心が変化しなかったとしたら…。どんな政治体制も経済のシステムも実際に動かしているのは抽象的な「体制」でも「市場」でもなく、一人一人の人間です。ミルが「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会主義を理想の体制と認めながら、果たしてその体制にふさわしい人間性を今の人間は有しているのかと危惧を突きつけたのも、この観点からです。人間性が変わるには一定の時間が必要です。政治体制が変わったから、社会経済の仕組みが変わったから、突如として人間性が変わるわけではない。先に変わらなくてはいけないのは、人間性そのものだ。だからこそ個人個人が、自分自身の中に存在する可能性を磨くために競争は必要なのだ。金銭をめぐる競争は醜い。けれど現実にこれが人を前へと駆動する力なのだとしたら、せめて金銭をめぐる競争の出発点は同じにすべきだ。ここからミルはラディカルな相続権の制限を主張します。そして面白いことに、遺産を残す権利は認めるのです。人間誰しも自分の子供の行く末は心配になるものだし、私有財産制だから自分の財産を自由に処分する権利は認める。ただし、相続する側の権利を一定限度(余裕を持って一生が暮らせるくらい)に制限するというわけです。ラディカルな割には、なんとも中途半端な感じがします。なんだか現実に譲歩している感じがあります。なので一般的にミルは「折衷主義」といわれるのですが…。でも私はこれを譲歩とは考えません。むしろ政府などの手によって全てが規制されるよりも、もっと厳しい仕組みを提唱しているのだと考えます。自分の子供に巨額の財産を残したとしても、子供の手に入るのは一定額だけ。だとしたら残余をどうすればいいだろう。子供たちが「あんなゴウツクバリな親の子供やから…」と後ろ指を刺されないようにするには。子孫が周囲から「あの人の子孫やから」と好意的に見てもらえるためには。自分の財産をどのように残すのが最も良い方法なのか。その問いをこの仕組みは突きつけていると考えるからです。ラディカルで保守的。折衷かもしれません。しかし人間は何かと何かの間で生きている存在なのではないかと思うのです。

 今、コロナウィルスをきっかけとした危機の中で、日本では政府から「新しい生活習慣」をといわれ、自宅での自粛生活が推奨されています。アジアの各国ではさらに厳しく「制御」されています。そんな中で私たちが目指すのは体制の変革でしょうか?経済の仕組みを変えることでしょうか?誰にも譲れない自分の生き方を探ることでしょうか?それとも…。選択肢は一人一人にあります。