コミュニケーション?ミスコミュニケーション?

 人間のコミュニケーション全体に言葉が占める割合は、よくて1割だといわれる。けれどスカイプミーティングやズームを使った遠隔講義を担当していると、言葉をどううまく使うかという点に注意が向かわざるを得ない。読者の中にもネット会議システムのもどかしさを感じる人もおおいだろう。逆に音声と画像それにチャットと3つのチャンネルを同時に使用できることに可能性を感じている人もいるだろう。今回はこの言葉を使ったコミュニケーションに関して、少しミルをガイド役にして考えてみたい。

 ミルには『論理学体系』という大著がある。彼自身、自分の著作の中で後世まで残ると擦ればこの著作だろうと自負していたものである。けれど論理学の世界では古色蒼然、時代遅れの代物となって、顧みられることはない。しかし私はこの本は現代的な「論理学」の本というよりも、副題にあるように「推論と帰納」という人間が自分の考え方を整理し、展開していくための方法を書いたものだと思っている。で、それがなぜコミュニケーションの話になるかというと、人間はただ一人で推論を展開したり、帰納から結果を導き出しているわけではないからだ。自分の経験と他者の経験を照らし合わせたり、賛同を求めたり…と他者のコミュニケーションは自らの生命維持のための情報収集にも不可欠である。なので、この本は考え方の整理方法であるとともに、コミュニケーションのあり方、より良い意思疎通を図るための書物としても読めると考えている。

 さて前置きはこれくらいにして、ミルが人間のコミュニケーションをどう論じているのか、早速みていくことにしよう。まず第一に注意が必要なのが、人間が相互に完全に理解し合うことはないというのが大前提である点だ。どんなに愛し合う男女であろうと、親子であろうと、自分の痛みや感情は自分自身のものであり、他の人間が感じることはない。だから完全な理解は存在しない。人間は人間同士互いに決して理解し得ないという前提に立って、コミュニケーションを行う。これが基本的な立場である。ようは人間のコミュニケーションはミスコミュニケーションの連続であるということだ。そして言葉はこの状態を改善する場合もあるし、より一層深刻にする場合もある厄介な道具として考えられている。例えば二人の人間がたまたま出会って「水牛」の話をする。ただし片一方はアメリカ国籍、片一方はフィリピン国籍だ。共通の言葉は英語なので二人ともbaffaloという言葉を使う。けれどアメリカ人の方は北米大陸にかつて生息していたアメリカンバイソンを思い浮かべ、かたやフィリピン人は今も田舎で農業に使われるカラバオを思い浮かべる。この二人が「baffaloは力が強いし、なんといっても迫力がある」というような会話をしているうちは、二人とも自分自身のbaffaloのイメージを相手も共有していると思っている。ところが、アメリカ人が「でももうこの頃は絶滅危惧種で保護区でしか見ることができない」と言い出したとしたら、フィリピン人は「?」になるだろう。カラバオはフィリピンの国を象徴する動物でもあるし、今でも農家の貴重な労働力なのだから、「保護区でしか見ることができない」なんてとんでもないになる。

 さてこのような状況をミルならばどう判定するかだが、まず二人が全く違ったイメージを持ったまま同じbaffaloという言葉を使ってコミュニケーションしている段階に関しては、「無問題」である。例えこの二人が同じ国の出身者だとしても、こうした事例はコミュニケーションに際して常に生じることであり、お互いが意思疎通をできていると思っている(思っているというところが大事)限りは無問題なのだ。で、続いて二人の間でミスコミュニケーションが露呈した場合。ミルはこの時をチャンスと捉える。何のチャンスか。お互いの知識や見聞、あるいは情報量を増やすチャンスなのである。北米大陸の経験しか持たない人と、フィリピンの島々の経験しか持たない人が出会い、baffaloの多様な種類や利用方法、中には乱獲によって絶滅に追い込まれたる場合もあるといったお互いに知らない情報を交換する、そして自分の知識の欠落部分を補い、それまでの思い込みを訂正することができるわけだ。

 しかしミスコミュニケーションが知識の交換や発見を妨げる要素がある。5種類に分類された「過誤」である。1)アプリオリな前提を置く2)観察によって確かめられたと思う3)観察から一般化できると思う4)推論が飛んでしまう5)安易に類比を使ってしまうである。1)は自分の議論の前提を自明な事だと考えて疑わないことである。上のbaffaloの例でいえば、アメリカ人がbaffaloは絶滅危惧種であることは自明の事実だとして、フィリピン人の主張を否定してしまう場合がこれにあたる。2)や3)は分かりやすいと思う。自分が経験したことが真実だと思ったり、一般的に当てはまると思うことだ。アメリカ人にカラバオのことを偽物だと否定されたフィリピン人は「アメリカ人は頑迷だ」という観察を真実だと思う。さらにそこから「全てのアメリカ人は頑迷だ」と考えるようになる。さらにこれが進むと、考えが柔軟なアメリカ人に出会ったとしても、「この人は両親が移民1世だから…」などと理屈をつけて例外扱いとし、自分の命題を強化しようとする。特に普通に広がっている意見が味方についている場合は、観察から得られた結果を強化する事例に注目するが、否定するような事例が目の前にあっても見逃してしまうのが普通だとする。4)は2)や3)が論理的に見せる方法でもある。5)もよく経験することだろう。いずれもごく普通に生じる誤りなのだが、誤りと感じず自分を正当化してしまうのである。

 特に、日常生活できちんと論理的に考える習慣を持たない、また専門家の意見が一致していたとしても、その説明がうまく伝わらない、最後に強い感情に根っこを持つものの見方によって知的な推論がごまかされてしまうというより一般的な問題があるとする。一番目は耳に痛い話だが、二番目もこの頃のコロナ騒ぎで立証されたような気がする。例えば接触率を8割削減するという感染症専門家の提言だ。これを人出を8割削減すると捉えた人が多かったと思う。実際には人の流れと接触率の掛け算なので、人出が6割減れば達成可能になることが多いという(とはいえ人出が集中する箇所ーターミナルステーションーなどは別途考えなくてはならないが)。そして三番目といえば「女のくせに」から始まり、アメリカの暴動の原因になっている「黒人のくせに」に至るまで、枚挙にいとまがない。この3つの一般的な問題は、上で挙げたような知識の拡大の機会を大いに奪ってしまう。

 さてミルの議論をこう整理してみると、私自身改めて「人間がコミュニケーションできているって不思議だなぁ」と思ってしまう。というかほとんど全てのコミュニケーションがミスコミュニケーションで、たまさかそこで互いの誤解というか思い違いが露呈しなかったから、なんとなくコミュニケートできた気になっている。お互いにわかった気になっているだけなんだなと思う。そのあやふやで曖昧な土台の上で、表面上円滑なコミュニケーションができるのは、おそらく同じ言葉と同じ風土で育った人同士だけだろう。例え同じ言語を使っていたとしても、大阪や東京のひとはタンポポは黄色いと思っているし、四国や九州の人はタンポポは白いと思っているからだ(本州のタンポポは日本在来種であっても黄色がほとんど。これに対して四国、九州ではシロバナタンポポが優勢で、道で見かける普通のタンポポといえば白い花なのだ)。

 さらに厄介なのが、最後の強い感情を根っこにもつ偏見だ。ミルは論理を専門家、論理学者のためのものと考えていない。専門用語でではなく、日常の用語でどう推論を組み立てるか、どうすれば物事をきちんと順序立てて説明し、他者と交流していけるのか、そのための方法論がミルの論理学である。ミルは人間が経験からまず認識を組み立てていくと考えているから、名前や単語に伴う感情は必須であり、必然でもある。単純な色の名前「白」であっても、子供の時の辛い入院生活と白衣が結びついている人にとっては、白は恐怖もしくは痛みの感情を伴うものになる。別の人にとっては、幼い時のたまさかの雪を思い出す色になる。そうした個別の経験を伴いながらも、無意識裡に個別の感情を超えた一般的な色名としての白を使っているのが通常の場合である。しかし、決定的なクリティカルな時になると、人間はこの無意識の感情に動かされる。だから強い感情を根っこに持つものの見方、特にその社会一般で共有されているものの見方は、その社会では「自然」なものとして意識されず底流に潜んでいる。

 だからこそ、ミスコミュニケーションは重要なのだと私は考えている。なんとなく通じている、何事もなく話が進むコミュニケーションは、気持ちがいいし楽だ。ミスコミュニケーションはもどかしい。イライラする。困惑する。けれどそこで諦めずになんとか自分の言葉を紡ぎ、相手の言葉を聞く時、ミスコミュニケーションに潜む「気づき」を得ることができる。それは時には自分自身が自然と身につけたものの見方に逆らうもので、ざわつき不安感を与え、目を瞑りたくなるものかもしれない。けれど一旦知ってしまえば、いつまでも目を瞑っているわけにはいかない(だろう、多分)。安定していた「常識」を不安にするものかもしれない。けれど「常識」の安定は常在するミスコミュニケーションを覆い隠しているから成立しているものでもある。

 パンデミックの中で、人間同士のコミュニケーションの1割しか担わない「言葉」によるコミュニケーションを強いられている今。私たちはミスコミュニケーションを楽しむ術を身につけるべきなのだと考えている。