最小不幸と最大幸福(2)

 ミルは一応ベンサムとともに功利主義の論者とされている。「されている」と書いたのは、最初に説明した快苦スケールに量だけではなく質も含まれるべきと主張したという点で非常に扱いに困る論者だからである。スケールが一つではない場合、どのようにある快楽とある快楽を比べるのかという問題がでくる。その上彼はArt of Life として正義や倫理の分野、政策等の分野(深慮)、そして美や高貴の分野に分けて人間の行動を評価しようとする。スケールに量だけでなく、分野が入ってくるのだから、単純になにが「最大」なのかわからなくなってしまう。というわけで、研究者の間でも彼がどのような功利主義者なのか、そもそも功利主義者なのかを巡って、今も論争が続いている。

 それはさておき、私が注目したいのは、彼がArt of Lifeを追求する上で、そして幸福を最大化するときに、各個人が生存する上で必須と考えられる要素(vital interest )が確保されている(secure)ということを基礎としていることである。そしてその上で、各個人が他者と協力して(あるいは反発しながら)自らの生、生き方を自由に追求していくことを求めた点である。この必須要素はセンのベーシックケイパビリティとよく似ているのだが、何が必須要素にあたるかは時代ごとに、社会ごとに、地域ごとに異なっている。逆に言えば個別事情に応じて、各個人が、あるいは各地域がその場における必須要素が何かを考えなくてはならないのである。極度の貧困に喘ぐような社会では必須要素に関する合意は達成しやすいだろうし、他の社会から見ても判断しやすいだろう。世界的な機関による全般的な救済策や災害時の緊急要請などがそれにあたる。しかし慢性的な貧困や豊かな社会に偏在する貧困や必須要素の欠如は、個別事情を勘案しつつ解決を図るしか無い要素をはらんでいる。だからこそミルは統治を「人々の教育」として位置づけている。各人が他者の利益関心に興味と関心を寄せつつ、当該社会の必須要素欠如をどう解消していくのかを真剣に考えることが、「統治」であり、それは代表者のみが行うもの、行政が一律に行うものではない。むしろ各人が作り出していくものである。

 その上で、各個人は自ら求める理想の人生像を求め続けるための活動を行うことになる。こうした活動を経済的に支えるものが何かといえば、労働である。しかし、ミルにとって労働は「誰かに雇用される=資本に雇用される」労働ではなかった。むしろ人々が自由に資本を雇用して活動することが将来像として提示されている。そしてその場合「投資」は一攫千金のためではなく、各人がそれぞれ、あるいは協同して行う事業の理念に対する賛成票であり、応援手段である。

 ミルが求めた社会において、最小不幸は人々がその内容を考え、自ら達成するものであり、そのためにも各個人の自由な活動と、その活動を支える様々な人々の投資が必要だと考えられていたのではないか。最小不幸を何か一つの概念として固定するのではなく、常に考え続け、常に解消につとめることの中に、人間の進展があるというのが私がミルから学んだことである。

 とここまで書き進んだところで、3月11日を迎えた。その日から以降の事柄を今更事々しくかき立てるつもりはない。また通常ならば「東北地方の未曾有宇の災害に云々」というフレーズを付け加えるところだろうが、それもしたくはない。起こった事柄はそこに厳然として「ある」。その厳然としてあるものに対して、単なる決まり文句を繰り返すことはしたくないからだ。ただ、支援の輪が広がる中で、また今回の災害の中で気になっていることをミルに引きつけながら、書いて終わりとしたいと思う。それが今の私にできるわずかながらの支援だと考えている。

 まず第一にソーシャルメディアの広がりとその中で垣間見えた「教育=共育」の可能性である。すでにソーシャルメディアの活躍とその功罪については、マスメディアでも取り上げられているのでご存じの方も多いと思う。これからの議論はアカウントを持ちリアルタイムで体験した一個人の考えとして読んでほしい。今回に限らずソーシャルメディアでよく見られるのは誤報である。悪意を持ってではなく、善意から流される誤報もあれば、時間的に古くなっていて結果的に誤報となっている場合もある。今回震災直後からみられた私個人のTwitterアカウントでもそうした情報が流れていたし、注意を喚起する情報が流れた。その中で情報源を確かめより精度の高い情報を出しているアカウント、それを拡散するアカウント、さらに誤った情報を訂正するアカウント、誤報を自ら訂正し削除したことを表明するアカウント(マスメディアと比べてほしいのだけど)もあった。ずっと誤報なり偏った情報を出しているアカウントもある。結果的にアカウントを持っている各個人は、自分が情報の精度や確実度の高いと考えたアカウントから発信された情報を選択し、場合によっては拡散する。

  ミルは自らのことを社会主義者と呼び、当時の資本中心の社会に対して根底から批判的であったが、当時の一般的な社会主義者のように「競争」そのものには反対しなかった。彼が反対したのは巨大な力が圧倒的な力を持つ場での競争であり、生存のためには他社を蹴落とすことが第一義になるような競争である。ミルにとって本来の競争は「互いに互いを高めるため」「互いの違いを鮮明にするため」の競争であった。Twitterのタイムラインと、マスメディアの視聴率優先の報道を眺めながら、各個人の持つ発信力とともに個人だからこそ互いに対等に競争(時には罵倒も伴いながら)する情報市場では、情報の精査だけでなく、受け手の情報感度も教育されるのではないかと考えたのである。それは誰かのアカウントが(著名な知識人だからといった理由で)誰かのアカウントを教育するというものではなく、相互のアカウント同士がフォローや削除を通じて、互いの価値を互いに知らしめるという意味で「共育」である。おそらくこれが本来の共育なのだろう。

  そしてもう一つ、義援金や寄付以外の支援の動きである。それは「雇用創出のための消費活動」。自粛という言葉が日本中に蔓延し始めたころから始まった、ある意味政府や世間的常識に逆らう、静かなしかし芯の通った一人一人の行動の呼びかけである。義援金も寄付金も地元に届くまでに時間がかかる。そして避難者とひとくくりにラベル付けされ「支援されるーする」関係性の中に絡みとられると、人間は「依存する」ことになれてしまう。ミルが19世紀の半ば工場経営者が労働者住宅を建てることに強く反対してのもこの点ゆえだ。経営者が建てた住宅に住み、経営者が支給する支援金になれてしまえば、労働者は「個人」ではなく「経営者のお抱え奴隷」になってしまうとミルは考えたのである。この奴隷は身体的には拘束されていない。しかし自ら人生を自ら考えることをしなくてもよい,それは経営者に任せればよい考えさせられてしまった精神的奴隷なのである(同様のことをミルは女性問題でも論じている)。

  緊急時の支援は必要である。けれど1月先、半年先を見通すなら、必要なのは「自立」であり、そのためには何より自分の力で生活を再建できる見通しがあることが第一である。だからこそ、被災しなかった、日常を無事に過ごせる私たちは、日常通りに消費をし、被災地の産品を好んで消費することによって、被災地の雇用再建の道を閉ざさないことが肝心なのだ。上記の呼びかけをした多くの人がそう考えたのであろう。彼らは、経済が互いにつながっていること、自らの手で生活することが人間の自尊心にとっていかに重要か、そしてそれがいかにもろいものかをよく知っているのだと思う。被災者ではなく一人の人間として仲間とともに、自らの人生を生き続け自分自身の幸せを追求するために「必須な要素」は一方的な支援ではなく、「自立」である。そのためには、消費行動からさらに踏み出して、「被災者」だからではなく「あなただから」という信頼を基盤とした投資というミルが提唱した方法も有効な手立てだと考えている。