リスクと付き合う

松井 名津

 第二近代という言葉はこのシビルの読者にとっては耳になじんだ言葉だと思う。けれど、今一度定義を振り返っておこう。この言葉は1986年『危険社会』(ウルリッヒ・ベック著)で提唱された言葉で、第一の近代が「富の分配」を主題とした社会であったのに対して、第二の近代は「(認知された)リスクの分配」が課題となるとベックは主張した。ベックがこうした概念を提唱した背景には、冷戦構造の崩壊・福祉国家の限界といった国民国家の弱体(第一近代のセイフティネットの崩壊)と、個人化の進展(家族や親族といったセイフティネットの崩壊)、グローバル化(個人や国民国家の枠組みでは対処できない危機の存在)があったといわれる。ザクッとまとめると、既存の枠組みが崩壊しているのがだれの目にも明らかになりつつある一方で、新しい枠組みがなく人々や社会が漂流している状態を表したものだと考えることができるだろう。

 さて、ミルは現代から振り返れば第一近代に生きた人物である。が、彼も含めて彼の同時代人は自分たちの時代を、過去の枠組みが崩壊し未だ新しい枠組みが成立していない移行期と捉えていた。これは哲学者や思想家だけでなく、ディゲンズやカーライルといった文学者も同様に感じていた。既存の枠組みと新しい動きが錯綜する中で、さまざまな理想社会像が描かれる一方で、新しい動き、特に市場経済の発展を脅威と考え、社会の安定・秩序の強化も提唱された。ミルのアソシエーション論もこうしたさまざまな思想的実験の一つだといえる。たしかに第一近代の始まりにおけるこうしたさまざまな思想的実験は(マルクスの社会主義も含めて)「富の分配」をめぐる議論としてまとめることができる。が、今日はあえてベックに倣ってリスクの分配という観点から考えてみることにしたい。

 カーライルやディケンズは市場経済の進展とともに、労働者と雇用主との関係が単なる「金銭的絆(キャッシュネクサス)」に堕してしまったと捉える。金銭を媒介とした雇用契約は、労働者と雇用主を対等な契約者として扱うように見えるが、雇用主は被雇用者である労働者の衣食住に対する責務を一切負わない。一方で労働者もまた真摯な労働、雇用主への人的愛着を一切排除して、ただ金銭のためにのみ労働を行う。労働者にとっては一定の金銭が支払われる時間内でいかに労働量を節約するかが、雇用者にとっては時間内にどれくらい労働量をしぼりとるかが、双方の命がけの闘争の場となる。これに対して南部アメリカ合衆国等で展開されている近代的な奴隷制は、雇用主が奴隷の衣食住に全面的な責務を負う一方、奴隷は雇用主に対して人的愛着を持って奉仕を行うと考えられた(彼らが近代的奴隷制を全面的に擁護したわけではない。たとえば男女や家族が強制的に分離される点を激しく批判している。とはいえ、こうした批判もまた雇用主が奴隷の家庭的生活に責任を負わなくてはならないという視点からなされている)。この主張をリスクの観点から整理してみよう。雇用の安定という点から見れば市場は不安定でリスクを伴う装置である。全体的な好不況の波ばかりではなく、個別業種、個別企業の業績が雇用の継続を決定する。そして、金銭的契約に基づく雇用関係は、こうしたリスクのすべてを労働者に押し付ける。雇用契約が打ち切られると、金銭的収入を雇用に依拠していた労働者は生計の手段を失う。雇用者もまたリスクの海の中で、リスクを回避すべく必死の努力を続けているものと想定されているが、彼がこうした市場のリスクから重大な影響を受けるのは、労働者のすべてが犠牲となった後である。解雇した労働者の生活がどうなるかはあくまでも雇用者の責任の範疇外に位置付けられているのが「金銭的絆」の社会である。

 これに対して奴隷主と奴隷は一家として、市場の荒波を共に渡り抜こうとする運命共同体とされる。船主である奴隷主は一家のために、ありとあらゆるリスクを計算し、最適の航路を選択し、決断と命令を下す。全ての成員は船主の命令に服従し、それぞれの責務を果たす。リスクも責任も奴隷主だけが背負い、全員を保護する責務を全うしなくてはならない。だからこそ、全員は奴隷主に愛情と敬意を抱き、その命令に従う。奴隷制という点だけから見れば、非人道的で時代遅れの議論に過ぎないが、当時こうした雇用主が被雇用者の生活を守るべきだという主張は、保守層だけでなく社会変革側からも唱えられていた。その代表がオーウェンであり「ニューハーモニー」はその実践でもあった。彼らは市場のリスクを「悪」とみなし、このリスクから人々を守る「組織」を形成し、トップダウン方式で人々を保護しようとしたのである。この方式は実は20世紀の様々な組織の原型となっていると考えることができる。会社にしろ、労働組合にしろ、あるいは福祉国家という国家形態にしろ、「組織」を形成し組織のメンバーをリスクから保護する(日本型経営はその主たるものだろう)。リスクはトップに集中し、メンバーはリスクを考えることなく、奉仕(仕事)に専念するという方式である。個々のメンバーにとってリスクは複雑かつ巨大すぎて個人では対処できないものと考えられた。

 こうした方式を拒否したのがミルである。彼は人道的奴隷制にも、オーウェンのニューハーモニーにも真正面から反対した。その根元には人間が元来リスクとともに生きているという認識がある(人間は過去から未来を類推する生き物である。未来の事象は因果律に従っているとはいえ、人間はその全てを把握する能力を有していないために、未来は常に不確定性を帯びる)。人間がリスクの認識から完全に保護されることは、外界世界から隔絶され自分で感じ考えることを排除されることでもある。一部の人間のみがリスクを判断することは、権力の固定化につながるとともに、他の人間の能力を封殺することにつながる。リスクは人間の生を脅かす「悪」であると同時に、人間の生を活性化する「種子」でもある。アソシエーションにおいて、責任が特定の個人に集中するのではなく、それぞれの役割や才能に応じてリーダーシップが交代する形式を求めたのも、全員がリスクを担うという側面を持つといえる。ミルが求めたのは全員が何らかの形でリスクを担うアソシエーションが、市場の中で互いに競争することでもあった。市場はリスクの塊ではなく、人々やアソシエーションがリスクと出会い、格闘し、それぞれの解を見つけるための共通の場である。ミルは別に個々人にリスクに立ち向かう英雄になることを求めているわけではない。各人がそれぞれの経験からリスクに対処する行動様式を形成していく。従ってリスク回避型の人もいれば、リスク追求型の人も出てくるだろう。そのどちらが良いというのではなく、それぞれの場で判断や討議を重ねつつ、市場でその判断を確かめていく。ここで市場はリスクの荒海ではなく、リスクに対する様々な判断が示されるショールーム、リスクへの対処を確かめる実験場である。失敗や成功という判断基準はもちろんあるが、それよりも重要なのは、多様な判断に対する多様な経過と結果の情報・知識の蓄積である。こうした情報や知識は市場参加者の共有財産でもある(ミルが「株式会社」の透明性を重んじたのも、経営判断のプロセスが囲い込まれないことにあった)。

 さて、現代に目を移そう。私たちは、特に日本という土地に生きている私たちは、どんな社会に生きているのだろう。食品偽装が起こるたび「食の安全」が叫ばれ、自然災害が起きるたびに「ハザードマップ」「リスク評価」がうたわれ、子供が事故にあえば「通学路の安全確保」が問題になる。あたかも安全であることが当たり前で、リスクは「あってはならない」ことのようだ。「あってはならない」という言葉もこの頃よく繰り返される言葉だ。「このような事態はあってはならないことで…」「本来あってはならないことが…」という台詞が、いつも出てくるものだから「あってはならない」という言葉の意味が、「あるべきではないが、必ず起こること」に変わらないか心配になってくる。いやもし「あってはならない」が「あるべきではないが、必ず起きること」を意味するとすれば、この言葉はリスクに対する今の私たちの態度を言い当ててるのではないだろうか。私たちはリスクを無視したがる。いつも安全・安心100%を求めている。災害だけではない。自分の将来に対してさえ「安全・安心」な進路を求めている。そしてリスクは「あってはならない」こと、避けて通るべきこと、私たちの生活に「あるべきではないこと」になる。あるべきでないリスクが顕現した時、私たちはリスクの存在そのものを誰か他人の責任にしてしまいたくなる。想定外を想定すべきであったと、100%の安全を確保すべきだったと。けれど、人間が100%未来を予知できない生物である以上、私たちの日常生活にリスクは常について回る。第2近代が「(認知された)リスクを分配」する社会なのだとしたら、私たちがまずしなくてはならないのは、リスクを認知することなのではないだろうか。

 リスクをただ「あってはならない」ものとして忌避するのではなく、人間という存在にとって良くも悪くも欠かすことのできない存在として、私たちはそれを認め、知り、付き合うすべを互いに学び続けなくてはならない。ミルが将来世代に残した「自由への賭け」、将来世代が選ぶ社会への道は、リスクの認知から始まると私は思う。