私が居るところ

人は皆平等だという。でもこの社会から「見えなくなってしまった」人たちがいる。この社会のある種の規格から外れてしまった人たちである。いわゆる障碍者のことだけをいっているわけではない(もちろんその人たちも含むのだけれど)。「普通」と考えられている基準・規格を少し外れると、あなたも私も容易に「周囲からは見えない」存在になる。例えば足を骨折したとしよう。その途端、普段は何とも思わなかったエスカレータの下りが恐怖のジェットコースターになる。一歩を踏み出せず躊躇するあなたの周りを、人々は一定の範囲を見事に保ちながら、通り過ぎていくだろう。まるでそこに透明な壁があるかのように。あなたは歩きながら思わず独り言を言ったり、携帯プレーヤーにあわせて小さく鼻歌を歌ったことはないだろうか。もしその独り言や歌声が、一定の音量を超えたとしたら…。あなたの周りにはやはり透明な壁ができる。周りの人はあなたが存在しないかのように、でもあなたには近づかないように、通り過ぎていく。

 ほんの少し、「普通」の境界を越えてしまうと、あなたはこの社会の人ではなくなり、居場所をうしなう。いくら「人間は平等だ」といっても詮のないことである。

 そして社会はこうした人に便利なレッテルをつけて分類する。障碍者・LD・発達障碍…そして通常の社会ではないところにしまい込んで見えなくしてしまう。こうした施設の現場の人が、そこをその人たちの居場所にしようと頑張っていたとしても、その人たちやその人たちのことを知悉している人、その協力者がどんなに声を上げたとしても、第一義的にその場所は見えなくするシステムの一部でしかない。その人たちの「居場所」ではない。

 同じことは今回の震災の被災者支援にもいえる。仮設住宅や避難施設で暮らしている間は「被災者」であり、保護の対象である。けれど一歩そこから出て暮らし始めると、もう被災者ではないかのように扱われる。いや正確には、その人たちの「被災」が見えなくなってしまう。逆に仮説や避難施設の人たちの「被災」は、支援対象になっている、その人たちのために安全な場所にいる私たちは十分に支援を、募金をしていると思っていることで、見えなくなってしまっている。

 では私たち、普通に正常に暮らしている私たちには居場所があるのだろうか。癒しブーム、占いやスピリチュアルなものに惹かれる人たち、生き甲斐や働きがいを求める老若男女…。さらには『今ここでいきる…』『置かれた場所で…』といった題名の数々の本。
 どうも私には、今の日本で「居場所」を持っている人が少ないような気がしてならないのだ。「普通」というわずかな幅の線上で、ひたすら「普通」であり続けるために必死になりすぎて、「普通」であることに疲れた人たちが、安全に「普通」から逃れるために農村や、テーマパークや、お手軽な神秘体験に自分を癒してくれる「居場所」を求めて苦闘しているように思えてならない。

 「居場所」。私は単なる住居や働く場所ではなく「自分がそこにいていい場所」という意味で、この言葉を使っている。「そこにいていい」には三つの意味があると思う。「そこにいていいよ」と受け入れてくれること、もう一つは「そこにいていい」と自分自身が思えること、そして最後のもっとも重要な「そこにいていい」と必要とされること。この三つが揃うことは滅多とないが、もし揃ったらそこ(場所とは限らない、ある人だったり、仲間だったりするかもしれない)は、あなたにとって掛け替えのないところになるだろう。この点で居場所と恋愛はひどく似ている。恋をしているとき、相手に受け入れてもらいたいと思う。相手が好きだと自分が思う。そして相手にとって必要な人でありたいと思う。この三つを二人の人間が共有できたとき、両思いになる訳だけど、世の中、そんなにうまくいくものではない。自分が相手を思っていても、相手はそうは思っていないかもしれない。相手が受け入れてくれているのに、自分が片意地に(あるいは誤解して)排除されていると思う場合もある。そして一番難しいのが「必要であること」。必要不可欠な存在でありたいと思うあまりに、相手を束縛する。自分を必要としてほしいと思うあまりに、相手を過保護にする。

 居場所も同様だ。自分が居場所だと思っている所、ここを居場所にしようと思い、そのためには…と熱意をかけても、それが片思い…どころか一方的な押しつけでしかない場合がある。そんな時、あなたのその熱意は、その土地の人や、相手にとっては厄介なものでしかない。少なくとも恋愛であれば、関係当事者の範囲はごく狭いだろうが、居場所となるとそうはいかない。多様な利害と、多様な欲望と、多様な関心や価値観を持った人が集まってくる。その中で自分の思いを届け、実現しようと必死になるだけでは、居場所にはならない。相手の話に正面から向き合わなければ何事も始まらない。逆に、ここがあなたの居場所ですよと受け入れてくれていても、どうしても居場所とは思えないときもある。それが本当に自分には合わない場所のときもあれば、そのとき自分自身では気がつかなかった自分自身の場所である場合もある。私自身がその典型例で、研究職という居場所を一度あきらめた人間だ。でも結局、その場所に戻ってきた。やはりどうやらここが私の居場所らしい。逆に周囲の押しつけを鵜呑みにして後悔する場合もあるだろう。似合いのカップルだからと言われ、何となくつきあってみたら、全然気が合わなかったようなものだ。就農支援事業で、農村に住まいを移し、そこで生きていこうと一旦は決心したものの、数年もたたずに村を出てしまわなくてはならなくなる。どちらが悪い訳ではない。最初にボタンのかけ違えや幻想があっただけのことだ。けれど、双方に深い傷を残してしまう。そして必要であることはもっとも難しい。その場所、その人たちに対して、自分は何ができるのかを常に考えなくてはならない。と同時に、必要とされることに慣れきってしまってもいけない。「必要とされる」ことは、凄く甘美な誘惑だ(恋愛でも)。けれど、結果的に、あなたに頼り切った居場所が出来上がってしまう。やがてあなた自身にとって居心地の悪い、責任の重いだけの場所に変化してしまう。そして、居場所に集う人たちにとっては、自分が取り立てて必要とされていない場所、つまり居場所ではない場所になってしまう。

 恋愛でも近頃は「婚活」関連の商売が成立しているが、居場所に関しても「居場所作り」が商売として成り立っている。中には地域全体を「都会人の癒しの場所」に仕立て上げるというものまである。そういうのにうかつにのると、居場所を作りたいと思った人も、受け入れたいと思った側も悲惨な結果に終わる場合がほとんどだ。

 恋愛と同じで、居場所も最後は自分自身がどうするか、どう思うかにつきるのだ。そして、恋をしようと思って必死になっていても、恋をすることはできない(なぜってそれは恋に恋しているだけで、相手のことを無視しているのだから)。それと同じように、居場所を作ろう、作ろうと必死になっていても、居場所を作ることはできない。居場所作りをする自分によっているだけに終わってしまったりする。居場所を外に求めるのではなくて、自分自身に居場所を問いかける方が良いだろう。その時、何よりも重要なのは、自分が自分自身のことを長所も欠点も含めて受け止めているのか、自分自身が周囲に正直なのかどうかということだ。「いてもいい場所」で嘘をついていても長続きしない。

 それが嫌だというのなら、あなたは結局自分にとって都合のいい「居場所」だけを求めていることになる。 自分自身にとってだけ居心地のいい「居場所」をつくることは、いつか自分自身がその居場所から排除される可能性を秘めている。自分がその都合のいい居場所の条件から外れるかもしれないからだ。また元通り細い幅の線上を歩くことになりかねない。自分自身の居場所が常に存在するためには、どんな人にもそれぞれの「居場所」があることが大切になってくるだろう。それは案外簡単なことかもしれない。
 自分の居場所を本当に作りたいと思うのなら、互いに正直であるだけでいいのだから。互いに正直であることは、きれいごとを言わないということでもある。障碍を持つ相手に生理的に嫌悪感を持つこともあるかもしれない。その嫌悪感を持つ自分と向き合い受け止め、なおかつその上で相手とどうつきあうかを考えるということだ。「悲惨な」「かわいそう」というレッテルではなく、一人の人間としてどうつきあうかを考えるということだ。