多焦点人格の勧め(多重人格の誤入力ではない、念のため)。

今回はやや専門的な話から始めさせてもらおうと思う。政治あるいは社会思想の中に「共同体主義」という考え方がある。共同体主義は人間は個々人が孤立して存在しているのではなく、何らかの共同体の中で自分の考え方を創り、判断をし、行動をしているのだと考えるのである。その意味では個人は個人としてだけで行動するのではなく、何らかの共同体を背景とした個人として行動する事になる。だからこそ、ある共同体に密接に関連する事柄に関して(たとえば津波被害にあった町や村が、高台移転を望むのか、それとも長大な防波堤を築く事を求めるのか)は、第一にその町村の人間が決定権を持つ事になる。小さくて、地域的なところの意思決定が優先されることになる。

 では小さな共同体が対等の立場で互いに深く交錯したら、利害対立が生じたら…。共同体主義ではこうした深い交錯や利害対立は(個々人レベルではともかく)国家のレベルで調整されると考えている(らしい)。これは日本で考えると奇妙に思えるかもしれない。しかし共同体主義の生まれ故郷は多民族国家カナダである。単にフランス語圏・イギリス語圏の対立だけでなく、イヌイットやそれ以外の多数の少数民族、中国系・韓半島系等々の移民。アメリカ合衆国以上に他民族だといわれるカナダでそれぞれの民族なり集団が、それぞれの独自文化を温存しつつ、一つの大きな社会を形成する理想的モデルとしてうまれたのが共同体主義だともいえる。

 そして共同体主義では個々人のアイデンティティは、自分のうまれた家族(核家族など血縁関係のみならず類似家族も含む)を中心として、隣近所、町内会…と同心円上に形成されているとする。

 話があまりに抽象的になったので、ちょっとした実験をしてもらえると分かりやすいかもしれない。なるべく底が平らな洗面器の一方の端に墨汁(なければ珈琲)を落とす。そしてもう一方の端に牛乳を落とす。静かに落とすとそれぞれの液は同心円上に広がっていくはずだ。十分にはなれていれば(大きな社会で利害対立が起こらない状態)両方の色は混ざっているようには見えない。けれどより近づけば近づく程、互いの形が歪み、色が混ざったり、互いの円を壊したりしてしまう。これを調整するのが洗面器(国家)で、国家は共同体同士がうまく共存できるルールを定めるという事になる。

 しかしどうだろう。私たちが個人として、あるいは一つの集団として対等に相手側と対峙し、関係を持つとき、その間の対立や交錯はより大きな社会や国家に任せるしかないのだろうか。たとえばカナダの少数民族の村を愛し、そこで一年の大多数を過ごし、日本にはほとんど在住していない日本国籍の人が、その少数民族の村に建設が予定されているカジノへの賛否を問う住民投票に参加したいといった場合、おそらく共同体主義はこの人の要求を退けるだろう。なぜなら同心円で考える限り、要求をしている日本人の最もコアなアイデンティティは日本に生まれ育ったことであり、カナダの少数民族の村で多くの日時を過ごしてきたといっても、それは後から形成された外周のアイデンティティでしかないと看做されるだろう。

 でもやはりなんだかオカシイ気がしないだろうか。

 実は私の後輩に仙台生まれ、仙台育ちの自称「似非大阪人」がいる。彼の文章も口舌もほとんど大阪人と変わらない(どころか、近頃のテレビで育った若い大阪人よりもよほど大阪弁に通じている)。心性も大阪人的である。かれは仙台にいるときから大阪に憧れ、大阪人として大阪に受け入れられるように血のにじむような努力を重ね(たかどうかは知らない。けれど仙台にいながらにして吉本新喜劇の機微に通じるには、ある種の特性と努力ー腹筋ではない腹の皮筋を鍛えるーが必要であったであろう)、立派に上阪し大阪人として9分9厘行動している。残りの1厘はベガルタ仙台の熱心なファンであり、長居であろうと千里であろうとアウェイの(?)側にいるという事だけだ。彼にアイデンティティを聞けば「大阪」と答えるだろう。「じゃあ何故セレッソじゃなくてベガルタなんだ」と聞けば「そこはゆずれん」と大阪弁で答えるだろう。彼のアイデンティティは同心円ではなく、楕円(二重の焦点を持つ円)かもしれない。

 これは彼だけの特性ではないと私は思う。人間のアイデンティティというのは幼児期には同心円かもしれない。けれど、後天的生活の影響からそのアイデンティティは正円ではなく、楕円のように複数の焦点を持つ円、多焦点になっていくのではないだろうか。デンマーク人で熱心な日本空手の修行者(「gutsだせ」というのが分からなくて悩んでいたらしい。だすのが「はらわた」じゃなくて、元気や根性だと分かってホッとしたらしい)。若冲に通じたプライス氏(『若冲が来てくれました』という東北3県を巡る企画展で、彼は無償でそのコレクションを提供した。彼の「多くの子供たちが親しめるように」との意図を活かし展覧会は従来とは異なって「幽霊がいるよ」とか「たくさん、たくさん」といった子供目線の展示になっていた)。逆に中南米のフォルクローレやアメリカのデキシーランドジャズを愛し、演奏を続け、ついに本場でも「本場以上に本物を残している」と認められた人たち…。こういった人たちはうまれ持ったアイデンティティ(焦点)以外にも自分で選んだアイデンティティ(焦点)を持っている事がはっきりしている人だ。けれど、それほどはっきりしなくても、普通の私たちもいろんな焦点を持っている。普通それは役割意識とか役割人格(ペルソナ)とかいわれる。確かに多くの場合職業上の立場や母や父といった家庭での立場に関わっている場合が多い。けれど多数の役割意識を持ち、日常生活を行っている時、自分がどこに焦点を当てて言動しているのかを無意識に切り替えて、多くの焦点の間を器用に渡り歩き双方を結びつけ、葛藤を解決していないだろうか。

 「今の時代」という言葉をあまり使いたくないのだけれど、でも誰でも無意識に気がついているように、私たちは今、時空間を事にする世界と容易に結びつく事が出来る(SNSや画面を通して)し、全くスピードの異なる世界が同一平面上に重なり合っている(秒単位のネットトレードと10年、100年単位の農林水産業)。私たちは、持とうと思えばネットの中でのアイデンティティ、地域社会でのアイデンティティ、企業人としてのアイデンティティ、家庭人としての…と幾らでも焦点をもって、それぞれのアイデンティティで動く事が出来る。けれど、その焦点がバラバラに存在しているのではなく、自分という1人の人間の中に同時に存在している事に意識的になる必要があるのではないかと思う。というのは多焦点には人や場所を結びつけ、葛藤を解決する利点もある、が、その逆に焦点の間を器用に渡り歩きすぎると、その度に傷つけたり、侮蔑したり、足を踏んづけた人の事を忘れ、たまにまた出会って、その事を批判されると「そんなつもりはなかったのに誤解された」と自分が被害者のように思ってしまう。逆にある焦点の代弁者として、他人を攻撃し反論を許されない立場にその人を追い込んでしまう。当事者達はそんな対立構造など望んでいなかったかもしれないのに、敵味方に分ける対立構造を外から持ち込んでしまう。そして対立が激化した頃に、しれっとした顔で対立構造を評論しているかもしれない。自分自身のアイデンティティが、多焦点性に無意識でいると、そんな落とし穴に陥ってしまう。

 多焦点性に無意識になれるのは、どこかで自分のアイデンティティは一定であり、揺るぎがなく、確固としたものだと思い込んでいるからではないだろうか。元々アイデンティティという言葉そのものが「自己同一性」なのだから、確固としたものというイメージが強い。以前も話題にしたように「本当の自分」等と言い出すと、余計にその感が強くなるし、この頃は帰属集団へのアイデンティティを強調する本が満ちあふれてきている(日本人の本質とか、○○人の~性を暴く)。経営関係の本にしてもミッションとかクレドとか、従業員がアイデンティティを持てるような核を持ち、あたかも一つの人格のように行動するだけでなく、社会市民として企業が立地している社会に貢献する事が素晴らしい事のように書かれている。そんな確固としたアイデンティティが強調されるなかで、自分という1人の中にある様々なアイデンティティの焦点は、自分という一つの確固としたアイデンティティを持った人間が、役割に応じて付け替える事の出来る仮面(ペルソナ・役割人格)として、いつでも外したりつけたりする事が出来るもののように見えてしまう。

 アイデンティティの多焦点性と役割人格が違うのは、つけたり外したりが出来るかどうかという点にあると私は考える。役割人格というのは非常に怖い。ナチスのユダヤ人虐殺を指揮したアイヒマンを裁判で見たハンナ・アーレントは、アイヒマンを普通の人間だといって非難されたけれど、彼女が言いたかったのはどんな人間も役割人格を与えられて、その役割を正当化される組織に所属し、正当な口実を与えられれば、アイヒマンのような事をいとも簡単にしてしまうという事だったのだろう。アイデンティティの多焦点性はこれを許さないものだと、いやこれを許さないからこそ、つけたり外したりしないからこそ、多焦点性であるのだと考えている。

 とはいえつけたり外したりしないけれど、多焦点性は常に揺らいでいるし、常に変化していく。その点では(先にこの原稿を読んだ片岡さんが言うように)アメーバーのようなものといった方が近いかもしれない。じゃあアメーバー的多焦点アイデンティティをもった人間同士が、それぞれの多焦点性やアメーバー性を意識しながら、どうやって出会い、交流(トランザクション)していくのだろうか。これについては号を改めて書いてみたい。(校註:実際のアメーバーは性交以外は単独行動者であるか、集団で固まって1個の生物のようにして生きているかのどちらかだという。このどちらにも人間は惹かれてきたのだけれど、悲しいかな(?)人間はアメーバーではないので、そのどちらにもなりきれないー苦笑)。