戦国BASARA、信長がなぜうける?

 年のNHK大河ドラマは『軍師勘兵衛』で久方ぶりの高視聴率…らしい。面白い事に、この頃四半期13クールで変わる(私たちの頃は1年1クールだったのだが)アニメ業界も戦国物が多い。ただし真面目でお固い(?)NHKとちがって、こちらは時代考証無視、時代背景もどちら側が勝ったなども適当に無視してよいから、結構面白い。

 何しろ信長とアレキサンダー大王が巨大ロボットにのって対戦する(ちなみにアレキサンダー大王を率いて信長に敵対しているのは、かのアーサー王である。チャンと聖杯もでてくる。ものまである。「助さんや、格さんや」で始まり、20時45分になれば「この印籠が…」という台詞が決まって流れていた昔とはエライ違いである。

 今回奥谷さんから「日本の若者は何故チャレンジしないんでしょうね」と投げかけられた時、真っ先に頭に浮かんだのがこの改変された戦国もの(最初は戦国BASARA辺りらしい。バサラといえば室町時代なのだが…)の多さなのだ。で、その一瞬後「なんで改変戦国もの、特に信長の名前とチャレンジしない若者が私の中で結びついたんだろう」と自問自答し始めた。メールだったからよかったが、時々私はこういう風に自分で思いついたり、言った事の理由が分からなくて、自問自答し始める事が多い。同席している人の話には生返事するようになる。慣れている友人によると「シャットダウンして、別の世界に行ったみたい」になるのだそうだ。で、今回もその自問自答モードに入ったのだが、なかなか答えが出てこない。第一社会学者ではないから、いつ頃から増え始めたのか、一体本当に全アニメの中で「多い」と断言できる程の多さなのかはわからない。おそらくは対戦ゲームや戦略ゲームのアニメ化から始まったのだろうと推測するだけだ。少なくとも断言できるのは40年前にはなかったぞ!ということだ。ちなみに40年前のアニメといって分かる人は少ないと思うので、1979年に「機動戦士ガンダム」が放映されているとだけいっておこう。

 時代は日本の経済成長がピークを迎え、やがてバブルへと突入する10年程前。アニメが子ども向けだけでなく、中学高校生を対象として作られ始めた初期の頃である。中高生なりにアニメ世界の登場人物になったり、新たな人物としてアニメ世界に変化をもたらす(同人誌)ことは、オタクと言われない人間にとってもごく普通の脳内妄想の一つだった。

 さて、改変戦国ものに戻ると、このストーリーに「自分らしき人物」(能力や外観は違っていても自分の性格の一部を切り取った人物)を登場させる事が可能なのだろうかと思ってしまう。というのもこういったアニメには「普通の人間」がいないからだ。かつてのアニメはごく普通の人間が巻き込まれて…だった。自分とほぼ同じ年齢、外見も当初の能力も普通の人間が主人公だった(もちろん特殊能力が発現したり、特殊能力を持つためのグッズを持っていたりしても)。けれど改変戦国ものの多くは「既に異能をもった戦国武将」が溢れている。こうした「異能者」に溢れた世界では、ごく普通の人間は異能者のファンとして自分を位置づける事になるのだろう。歴女ブームがいつから始まったのか分からないのだけれど、当初彼女たちがファンになったのは「かっこ良くて爽やかな伊達政宗」であって、歴史上の伊達政宗ではなかっただろう(近頃は某航空会社の旅行案内番組に登場して、ふるう必要のない槍をふるっている)。男性であれば「侠気」だとか「漢」「義」に殉じる姿に憧れるのだろう(かつて学園紛争時代に日活ヤクザ路線の映画が流行ったように。違いは、あの時代に高倉健を見て「かわゆい~」と言う女性がいなかったぐらいじゃないかと思う。「可愛いは世界を制する」時代になったのだー余談)。

 と、ここまで自問自答モードが続いて、やっとこさ私は何故奥谷さんの質問にすぐに「戦国武将もの、信長がなぜもてる」で始めましょうかと答えたのか、何となくわかってきた。

 アニメの戦国武将の中でもダントツ出現率が高いのは信長である(悪役・主人公・脇役を問わない)。それは彼が実際に戦国時代に活躍した…からではないと思う。破壊者として従来のルールを全て破り、一方で建設者として新たな日本を創造しようとしていた。この両面性をどう描こうとも「話」になる。加えて主要な戦国武将と何らかの関係を持っているからストーリーに登場させやすいといった制作会社側の理屈だけではないと思う。歴史上も「異能」を思わせる存在感を持っており、短い人生を燃やし尽くしたと思える人物像。戦国者だけでなく幕末者でも人気があるのはこういう人物だ。

 彼らは何らかの意味で「チャレンジャー」だ。しかし普通の人間ではない。信長は元来領主の息子だし、幕末の人物であれば動乱期とはいえ武士階級か武士階級に認められた人物である。部下もいる。資金もある。アニメともなればさらに「異能」を付与されている。ファンとして仰ぎ見る存在、でも実際自分がその人生を生きられるか?と問われると元々から…?がつく存在(特に普通に生きる事が夢である若者たちにとっては)、喝采を送りながらそのアニメを楽しむかもしれないし、グッズを集めるかもしれないけれど、アニメの世界に入り込もうとはしない…のが大多数だろう。(たとえ参加するにしても登場人物となってであって、自分の分身ではないだろう)。

 日本社会で「チャレンジャーになる」、「チャレンジ」することは、いつもこんな風に「時代を変革する」「社会を変革する」大事としてイメージされていないだろうか。起業家として一世を風靡した人(ホリエモンを含めて)はマスコミに大々的に取り上げられ、彼ら彼女たちの活動がいかに日本社会を変革したかが、些か以上に大げさに風潮される。今流行りの社会起業家だって、マスコミに出てしゃべる事は「世の中を変えたかったんです」になる。彼ら彼女たち個人を攻撃しようとは思わない。むしろ問題視したいのは「取り上げ方」なのだ。あたかも「特別な」「異能を持った」人間でないとチャレンジできないような、そんな報道のされ方が、戦国アニメと二重写しになるのだ。

 かてて加えて何かを始める時のハードルは高い。屋台で食べ物を売るにも資格と許可がいる。アメリカで小学生は屋台でレモネードを売る。そんな事は日本ではあり得ない。小学生が商売をする事はできない。ボランティアだけだ。クラウドファンディングという言葉がない頃、発展途上国で商売を始めたい個人と、寄付してもいい先進国の人をつなぐサイトが、テレビで紹介された事がある。その時発展途上国で商売を始めようとする女性が必要としていたのは、資金と設備だった。資金といっても今までの倍ピーナッツを仕入れるお金であり、設備は作ったピーナッツバターを小売りするためのタッパーウェアだ。さて、日本だとどうなるだろう。自家製のピーナッツバターを売り出すとなると、まず食品衛生法をクリアするための衛生設備が必要となり、小売りのための瓶なりパッケージが必要となり、流通経路を探さなくてはならなくなり…と「教えられる」。そして大げさに「岩盤規制」といわれ、この規制をクリアするためにチャレンジャーがどのような苦労をしたかが大げさに語られる。

 若者にチャレンジ精神がないと日本の大人は言う。そういいながらチャレンジするためのハードルはこんなに高いんだぞと見せつけている。そんな中でちょっとチャレンジ精神のある若者は、まず手近な試みとして「チャレンジして成功した大人」と「やる気のある若者」の交流会を企画する(それを手助けしてもうけている企業もある)。そうすると、周囲の大人は「素晴らしい。立派な若者のだ」とほめあげる。本人は何事かを成し遂げたような気になる。周囲の若い人も「すごいよなぁ」となる。冷静に考えてみよう。当人は何事かにチャレンジした訳ではない。新たな者を作り出した訳ではない。単にコンパを企画して人を集めただけと言われても仕方がないのだ。そしてその企画に出席した若者が、刺激を受けて起業したという話も寡聞にして知らない(地域活性化に成功した中山間地域には次々と視察団が集まるが、一向に活性化の波が起こらないのと同じ構造だ)。聞くだけ、勉強しただけで…という手本を大人が見せているのだから、若者が倣ったとしても不思議はないだろう(ほら、戦国アニメのファンになるのと一緒だ)。

 ハードルは高くとても越えられそうにないけれど、ファンとしてファンの同好会を開いたら褒められるなら、そちらをとるのが人間というものだろう。

 でも、よく見てほしい。君の近所にいる個人商店の人は君と変わった「異能者」だろうか。20年以上続いている個人商店は何故続いているのだろう。特別の技術を持っているのだろうか。そしてそうした商店の親父さん、おかみさんは日々「チャレンジ」していないだろうか。(全ての商店がチャレンジしているとは言わない。でも長年商売を続けるためにはそれなりの工夫が必要なはずだ。それが単純に親父さんの好みを貫いているだけだとしても)。

 小さなチャレンジは報道される事はない。単なる日常茶飯事になる。そんな社会に日本人はいきている。そしてその社会でチャレンジとして認められるには「異能」でないといけない。

 もし、日本の若者にチャレンジ精神を求めるのなら、チャレンジが30センチの幅の溝を越える事にすぎない事だという事、どんな規制にも工夫すればチャンと抜け道があること(それも若者なりの)、味方や仲間は最初からいる者ではない事、でも続けていれば支援する人が現れる事。そういう非常に常識的な事をチャンと伝える事から始めないといけないと思うのだ。

 戦国時代の武将はかっこ良く槍を振り回しはしない。あれは敵をたたき落とすために使う。泥だらけになって、生き残るために、生き延びるために戦う。その戦いに異能はいらない。日常生活の中での工夫と運が必要なだけだ。