常識・非常識

このところTPPがらみで日本経済新聞などでは「今農業が新しい」とか「成長産業としての農業」という言葉が踊っている。一頃の衰退産業扱いとは打って変わって花形産業扱いだ。ところが同じ1次産業の水産業ときたら、相変わらす衰退産業扱いである。そんな水産業で非常識なことをする人がいる。彼は愛媛八幡浜にあるトロール漁会社の跡継ぎだ。トロール漁法は網を広げて魚を捕るから、網の中には狙った魚のほかに変わった魚が入ってくることがある。一尾か二尾だから市場では売れない。浜の常識では廃棄処分か身内が食べるものだった。彼は「もったいない」と思った。「なんとか売れないか」そう思った。だから非常識に直売りを考えた。今彼は東京の一流料理店やフレンチレストランと契約している。八幡浜であがった「ただ一尾」の魚を契約レストラン等に直送しているのだ。彼は淡々とそのことを語る。常識を壊した風雲児などと持ち上げられることを好まない。彼は自分の会社と従業員の生き残りをかけて必死に模索した結果だと言う。

 常識とか非常識という話になるといつも彼のことを思い出す。そしてもう一つ思い浮かぶ挿話がある。森村泰昌『美術の解剖学講義』の挿話である。それは「シャボン玉とんだ」という歌がとてつもない災害を歌った歌だと主張する漫才師の話だ。なぜか。シャボン玉どころか「屋根まで」飛んでいるからだ。屋根が飛ぶなんてトンでもない強風なのに、飛んだ屋根は「壊れて消えた」のだ!

 この本を初めて読んだとき笑いをこらえるのに難儀した。そして同時に妙に納得した。確かに歌詞はそうなっている。じゃあ何故それまで飛ぶのはシャボン玉で屋根ではないと思っていたかというと、屋根は滅多矢鱈と飛ぶものではないと思っていたからだ。そう「常識」では…。でも常識を取り外して歌詞だけを見れば、飛ぶのはシャボン玉でなく屋根であってもかまわない。いやむしろ最後に「風、風吹くな」と願いを込められているのだから、屋根の方がふさわしいかもしれない(と思わず納得するのである)。

 こんな風に常識というやつは人のものの見方や考え方を規定している。そして常識が壊されるとき、物事は違って見えるし新しい価値が生まれたりする。最初に紹介した話では、常識的には「捨てるだけで値打ちのない魚」が一流料理店でウン万円の晩餐の材料になる。でもただこれだけの話なら世間によくある起業家の成功話にすぎない。私が八幡浜の彼のことを紹介したかったのは、彼が自分のことをちっとも非常識だと思っていないからだ。彼は経営者の「常識」として会社の存続をはかっただけだという。そしてそれを聞く私もきっとそうなのだろうと思っている。

 常識、英語ではcommon senseという。commonは共通のという意味、senseは感覚だ。原義通りに英語の常識には「みんながそれがそうだと感じている何か」という感じがある。なんとなく「それはそうだ」と感じている(考えているのではない)から、何となくそれがまかり通っている。それが常識というものが持っている強みであり、弱みでもある。みんなが「それはそうだ」と感じているもの、なんだか空気みたいで取り立てて意識していないもの。だから常識は強い。みんなのものだから、それに逆らう人や事柄は「非常識」であり、非常識は非難しても良く、いやむしろ積極的に排除すべき事柄…と無意識のうちにエスカレートして行く。とくに常識を破っている相手が、自分たちと共通の背景を持っていなかったりすると、排除までの道は一直線だ。私は大相撲の横綱をめぐる騒ぎを見るたびにこの常識の排他的な側面を思い出してしまう。日本の常識に従う外国人力士は「立派な横綱」で、そうでないのは「品格にかける」と、はなっから決めてかかっているような気がしてならないからだ。

 とはいえ、常識の強みは排他的に働くだけではない。何となくみんなが守っているものがないと、世の中うまく行かないことが多い。交差点での車のすれ違い方もそうだ。大阪では交差点で「メンチ」を切って勝った方がわたるのが常識である。東京では(少なくとも管見する限り)信号機に従うのが常識である。東京で信号機がストップしたら通行はできないだろう。でも大阪では何とかなるのではないかと思う(実際郊外の幹線道路で信号機が動いていないのに遭遇したが、2車線道路を車が相互に通行していた。後でニュースになっていないところを見ると事故も起きなかったようである)。明示的なルールがなくても常識があれば、なんとか世の中は動いてしまうものだ。初対面同士の挨拶だとか冠婚葬祭の服装だとかも常識が幅を利かせる分野だ。常識がないと結構困ってしまう(自由な服装でお越し下さいと案内される結婚披露宴は会場に着くまでドキドキものだ)。

 けれど何となくの常識には弱みがある。なんとなく…なので、改めてその根拠はと問われると返答に困ってしまう(「だってジョーシキでしょ」としか言えなくなる)。そして常識が壊されるとき、妙な開放感が生まれ、快哉が叫ばれる。場合によっては新しい価値が生まれるときもある。何故ならそれまで当たり前だと空気のように思っていたことが、自分の考えやものの見方を拘束していたことに気がつき、それが壊されたことで「清々した」感じを覚えるからだ。時代が不況だとか、失業だとか、あるいはうまく言葉にならないような不安や不満に満ちて閉塞状態に陥っていればいるほど、常識を壊す動きは「清々した」開放感を持って迎えられる。そして常識を壊すことはなんだかすばらしく格好良いことのように見える。

 でも、それは間違いだ。常識を壊してはいけないというのではない。常識は破っても壊してもかまわない。その常識が排他的だったり、あなた自身をどうしようもなく拘束してしまっているものだったりするのなら、破るべきだ。けれど常識を常識だからと破るのはやめた方がいい。何かを壊すとき、何かを破るとき、「何か」が何なのかはよく承知しておいた方がいい。

 そして常識の中には破ってはならない常識もある。最初に紹介した彼が従っているのは「会社は従業員の仕事を守るものだ」という常識だ。だから彼は常識破りと呼ばれるのを好まない。人を殺すなというのも常識の一つだ。目的は手段を正当化しないというのもこういう常識の一つかもしれない。長年人々がいろんな行動を積み重ねた結果、これだけは守っておかないとどうも人間社会というものがうまく行かないと悟った、その「これだけ」の常識。これは破ってはならない常識だ。一方で、儀礼だとか長年の…と言われる常識の中には、もう死に絶えてしまって人を縛る効果しか持たないものもある。

 けれど、この二つの違いを見分けるのは実は難しい。なぜなら常識はたくさんの人の共通の経験を集めた「なにか」であって、それが人間社会の基盤になっているのか、ただの習慣にすぎないかはちょっと見た目はわからないからだ。人間は未来を予見できない。わかるのは過去の出来事とその結果だけだ。だから過去を手がかりにして必死になって未来の行動を決定しようとする。未来の行動のよすがとなる過去の手がかりが大量に集まっているのが常識なのである。常識は分類されていないおもちゃ箱のようなものだ。ただの習慣に思えたものが、案外基盤的な要素を持っていたりするし、逆に基盤に思えたものが、案外単なる習慣にすぎなかったりする。(挨拶は習慣に見えるけれど、挨拶がない社会というのは非常にすみにくいということが立証されている。結婚して子供を産むのが日本社会の基盤のように見えるが、そうなったのは戦後になってからだ)。

 ではどうすれば見分けれるのか。スマートな見分け方は私にもわからない。自分が自分の生き方をして、どうしてもこれは譲れないというものと常識がぶつかってしまった時。実はその時、その常識が本当に基盤的なものか、それとも慣習として破ってもかまわないものかが試されているのだと私は思う。基盤的なものであれば、きっと個々人の生き方の自由が生かされる道がどこかに存在しているー人を殺すなという常識に抜け道があるようにー。単なる習慣的なものなら非常に排他的な圧力が生まれる。自分の生き方だとか楽しく必死になってもがいている日々の営みがあって初めて常識の価値がわかるのかもしれない。

 本当に真剣な常識破りが世の中にたくさんある社会こそが、人が人として生きやすい社会なのではないだろうか。不必要な排他性や拘束はないけれど、しなやかな決まり事はきちんと守られているという意味で。

「新しい」?時代

新年、政権が変わったこともあってか、「新しい時代」だとか「新たな胎動」といって見出しを見ることが多くなった気がする。根っからへそ曲がりで、天の邪鬼なものだから、こうした見出しを見ると「ほんと?」と突っ込みを入れたくなる。9.11の後、世界が変わったと言われた。3.11そしてFUKUSHIMA。世界は変わるのだと言われている。「レス・イズ・モア」というタイトルの記事が生活を啓蒙するのがうたい文句の雑誌を飾っている。

 どうもどこかで見た風景だと、半世紀生きてきた人間は思う。オイル・ショックの時、日本中が(といっていいぐらいに、マスコミが)スモール・イズ・ビューティフルと叫んでいた。1973年の交通標語は「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」だったし、石油会社のCMでは「気楽に行こうよ」という歌が流れていた。省エネが叫ばれ、自然や環境と調和した暮らしが理想のモデルとされ、有機栽培とか無農薬という言葉が登場し…。今流行っている物事の原型は全部そろっていたような気がする。こう切り出したからといって、今の時代風潮が70年代の焼き直しだと言いたいわけではない。ただ、「新しい…」には落とし穴があるということを言っておきたいと思ったのだ。

 新しいことがなぜか無条件によいと思われがちな国に私たちは住んでいる。これはどうしようもないことだ。なにせ新しいものはいつも「外」から来て、そしてそれはいつも「自分たちのものより優れている」と思わされるものだったのだから(韓半島から、中国から、そして欧米から)。だからこそ「新しい」には注意が必要だ。新規なものに対して、あるいは新たな経験や挑戦に対して慎重になれといいたいのではない。「新しい」がついて喧伝されるものに対して、慎重になって欲しいのだ。それは本当に新しいのかー単に古いものの上に新しそうな皮を着せただけではないのか、それは本当によいのかー単にうたい文句だけのものに終わっていないか、それは自分に合っているのかー単に流行だからになっていないか。「新しい」という形容詞がついたものに出会ったら、とりあえずこの3点は点検してみて欲しい。というのも、この国では「新しい」ことは消費されては捨てられていく運命に逢うからだ。新しさが「目新しさ」の別名で、単純に外面の新しさが通用してしまいがちなところで、本当に新しいものと目先だけ新しいものが競い合っている。こういうとき、得てしてわかりやすい新しさの方が先に目立ち、脚光を浴びる。やがてわかりやすい新しさが忘れ去られるとき、わかりにくかったけれど本当は大切だった新しさも、わかりやすい新しさと一緒くたにして捨て去られてしまったりする。だから「新しい…」には出会ったら、慎重に見極めて欲しいのだ。 

 なんだかわかったようなわからないような議論かもしれない。では私の友人が作ったたとえ話を紹介しよう。あるところに老夫婦二人でやっている豆腐屋があった。二人きりで作っているので量はたくさんできないが、丁寧に作っているので、近所では贔屓にしている人が多かった。ある時、この豆腐屋がテレビの取材を受け、全国的に評判となり、客が押しかけることになった。近所のお客さんが豆腐屋に出かけても売り切ればかり。銀行は増産を勧め機械化のための融資をするという。夫婦の息子は銀行の話に乗って機械化と増産をした。けれど機械化で手作りの良さがうしなわれ、全国からの客は潮が引くようにいなくなってしまった。近所のお客は、売り切れ続きに嫌気をさして、別の豆腐屋さんのお客になってしまっていた。結局老夫婦は豆腐屋をやめることになってしまった。さてどうだろう。元々あった良さや大切なものが、流行やブームの中でその良さをうしない、ついに飽きられるという図式は結構あちこちにないだろうか。「新しさ」に慎重になって欲しいというのは、こうした現象がこの国では多発しているからだ。ことは流行の店、流行のファッションに限らない。考え方、働き方といった形にならない、人の生き方に関わるようなことでも同じようなことが起きている。たとえば「フリーター」という生き方。今では信じられないかもしれないが、バブル最盛期の頃、この言葉のイメージは「かっこいい!」だった。会社の奴隷にならない、世の中の「通常の」「お仕着せの」価値観やレールを飛び出した、自由な若者の新しい生き方だった。さて、今流行の「ノマド」な生き方や働き方。同じような言葉でもてはやされていないだろうか。キーワードは全く一緒。もてはやし方も全く一緒。そして事の本質をどこかで外している(かもしれない)ところでも全く一緒…なのではないかという危惧を抱いている。

 今、事の本質という言葉を使ったけれど、この「事の本質」すら流行の惹句である(だから要注意)。本当の「事の本質」というのは、誰か他人が言ったことの中にはなくて、自分自身で確かめるしかないのではないかと思う。とはいえ、私自身はといえば、実は自分自身だけで確かめてはいない。いつも頼りにしている準拠枠がある。時々ここでも紹介しているJ.S.ミルだ。彼が生きていたのは19世紀の半ばだし、場所はイギリス。時代も地域も国柄も違っている。でも彼の言葉を読んでいると頷いたり、そういう見方もあるのかと驚いたり、これはここにも通じるなと感心したりすることが多い。だから何か新しいものに出会うと、ミルだったらどう考えるのかなと考えてみる。個人の自由を大切にする彼だったら、体罰に関して何を言うだろう?規律と自由を矛盾するというだろうか?会社人間をどう考えるだろう?ノマドワークっていうけれど、本当に自由だっていうだろうか、そんな風に色々と考えてみる。そうしている内に、あれ?これって…と当たり前に受け入れてしまったことに疑問が湧いてきたり、見直してみたりということが起こる。自分一人だとなかなか考えが及ばなかった事柄に、彼だったら…と考えるだけで、別の見方ができたりする。一人で考えるのはめんどくさいし、うっとうしいのだけれど、ミルと会話していると考えると結構楽しい(何せ、いつ呼び出しても文句も言わず、ややこしい話でもとことんつきあってくれるなんて、現実の友人でもなかなかそうはいかない。そんな得難い相手でもある)。

 こんな風に一緒に考えたり、会話を続けていて気がついたことがある。それは枝葉的なことと、根本的なことの区別、そして根本的なことを考えるために自分なりの基準を持っておくことの大切さだ。彼は当時の制度の批判勢力として流行になっていた社会主義に賛同しながらも、質問を投げかける。現在の制度(個々人が財産権を持ち、互いに自由に競争する)は弱肉強食で、競争は死活をかけた闘争になっている。これに対して社会主義は理想的な未来図を描く。この両者を比べれば、旗は問題なく社会主義の方に揚がる。けれどそれは不公平な比較ではないか。なぜなら現実の様々な軋轢や偏見、歴史的経緯とは無縁の理念と、現実にまみれた現状を比較しているからだ。比較するなら、社会が富を所有するという社会主義の理念と、個人がその働きに応じて所有する権利を持つという現在の理念同士を、どちらが個々人の自由を尊重するかという視点で比較すべきだと彼は言う。彼の死後、社会主義はソビエト連邦等、現実の存在として実現し、やがて消滅した。その大きな要因に個人の自由が抑圧されていたことがある。そして社会主義が消滅した時、現在の制度の勝利だ、現在の自由な競争市場が正しいのだといった人たちがいた。ミルなら、そういう人たちに対しても苦言を呈するだろう。現在の制度が個々人の自由を実現できているのかと。

 現実を肯定する姿勢あるいは逆に批判し否定する姿勢。こうした姿勢を私たちは評価しがちだ。けれどそれは本質や根本ではない。何を基準にしているのか、何を理念として大切にしているのか。その根っこがあって初めて批判や肯定という姿勢がある。この根本を無視して、「現状を批判しているから”いい”」なんていうのはナンセンスだ、ということを私は彼から学んだ。なんだか日常生活と遠い話に思えるかもしれない。でも「新しい時代」といわれる時、その新しさで何を大切にしていくのか、何を根本においているのかを問うことなく、ただ新しいだけでは、本末転倒になったり、流行り廃りに浮かれ消費されてしまって結局元の木阿弥になってしまわないだろうか。

 例えばの話「無農薬野菜」が流行だけれど大量にそして簡便に無農薬野菜を作ろうと思えば、遺伝子組み換え野菜を作るのが一番になりかねない。病虫害や雑草に強い遺伝子組み換え野菜であれば、栽培中に農薬を撒く手間はいらないからだ。遺伝子組み換えが怖いというのであれば、植物工場という手もある。これならば無農薬で遺伝子組み換えではない。が、大量のエネルギーを消費する。「無農薬」で何を求めていたのだろう、何を大切にしたいと思っていたのだろう。そこを忘れるととんでもない結果を招くかもしれない。こういうことが、今「新しい」という言葉であちこちで起こっているのではないだろうか。

 何を大切にしたいのか。何を根本におきたいのか。それを見つめ、きちんと自分の中に定着させた上で、色んな物事に、新しい事柄に向き合っていってほしいと思うのだ。

ここから外へと向かう君に

今更贈る言葉と洒落るつもりはないが、今まで慣れ親しんだ場所から外へと出て行く人に、はなむけ代わりに。

 これを読んでいる君なら、行く先の人たちに「何かを教えてやる」なんて態度とは無縁だと思う。むしろ行く先々で色々なことを学ぼうとしているだろう。それはよいことなのだけれど、学ぶことばかり考えていないかい?教わろうとする謙虚な態度を批判するのではないよ。でもね、教わってばかりは貿易赤字だね。貿易赤字が累積すればその国の信用が低下するのと同じで、人同士の付き合いも貿易赤字だと長続きしない。誰かから教わってばかりの人って、いずれは信用をなくすんだよ。

 「えっ?」と不審げだね、それにちょっと不服そうだ。確かに今まで君は「教わる」姿勢で評価されてきたかもしれない。今の日本ではどこであれ、若者の「教えてください」「教わりたい」姿勢は、前向きで熱心さの証拠だと思われているからね。けれど、それって結局手抜きなんじゃないのかい。

 教わるに「」をつけたのは、教わるには二種類有るからだ。人に教えてくださいと明言する場合と、明言しない場合の二種類だ。明言した場合、教える人と教わる人が明確になる。教える側は、今まで漠然と繰り返してきた自分のやり方を明確にする必要にかられる(そうしないと言葉で教えられないから)。すごくめんどくさくて大変な作業だけれど、そうすることによって自分自身にとっても明確ではなかった自分のやり方が明確になる。あやふやだったこと、案外なおざりにしていたこと、あるいは気がつかなかったことを知るきっかけになる。教える側は大変だけど、教えた分学びも大きい。学ぶ方はどうだろう。とりあえずは受け身でかまわない。教える側が言うことを「はい」と聞いていればいい。必要なのは目を開いていること、聞き耳を立てていることだけだ(といっても、言うほど簡単なことではないことは認めるけれど)。ちょうど幼鳥が口を開けて餌を待っている感じだね。それはそれでいいことではある。おなかが空いていること、つまり自分には知識がないことを知っているし、知識を求めているわけだからね。けれど、そのままじゃいつまでたっても他人から与えられるだけなんじゃないかな?そして、これって結構楽なポジションじゃないだろうか。教える方は努力しているけれど、教えられる方は何を努力しているんだろう。傾聴の姿勢?それはコミュニケーションの基本であって、本来努力するものではないはずだよ。知識欲?でも、こういうときの君って、教わる以上のことを知ろうと努力しているかな?確かに知識欲があるというのは認めるよ。けど、その知識欲ってパソコンで検索するのとどこが違うのかな。知ってる人に聞いて、それを鵜呑みにしているだけじゃ、ウィキペディア丸写しと変わらないんじゃないかい。

 まぁそう不満そうな顔をせずに、もう一つの教わるも聞いて欲しい。もう一つの教わるは「見て覚えろ」の方。古めかしい、いまや職場環境じゃ死語になったと言われている言葉だ。だけどどんなに古くて時代遅れでも一抹の真実は詰まっているものだ。見て覚えろの場合、教える方は楽…ではない。なにせ見られている自分を意識しなくてはいけない。口で教える時と同じぐらい、自分の一挙手一動に気を配る(身体を使う仕事の場合は特にそうだけれど、身体を目立って使わない事務的な仕事でも仕事の手順を再度考える事でもある)。実は「見て覚えろ」は口で教えることよりも教える側の力量をより試される方法でもある。なぜって「教えてください」と言われていないからだ。自分自身の行動を学ぼうという人間がいることを敏感に察知する力量がまず必要になってくる。そして面白いことに、教わる側はそういう力量のある人の技を見て覚えようとするものだ。口で教えてくださいは誰にでもいえるけれど、「あの人のように…したい」と心で思える人は数少ないはずだ。まずそこで君は自分の頭と感性を使っている。そして実際に教えてもらうときは、明言していないからこそ「何がその仕事のこつになっているのか」「どうすればうまくいくのか」「その人独自の工夫は何で、それを自分がやるとすればどうすればいいのか」と様々に考えを巡らしながら、その人を観察することになる。明言して教えてもらう場合は、目と耳だけで良かったけれど、「見て覚えろ」の場合は目と耳と手足と頭が必要になる。そして一人として同じ頭を持っていないから、同じ人から「見て覚え」ても、実際に行動に移すとなると、それぞれ自分自身のやり方にこなれるまでの時間が必要だ。なにしろ「言葉」になっていないのだから、自分自身のものにしないと実行できない。そう、「見て覚える」ためには「自分が」という自分軸が必要になる。

 どうだい。どっちの「教わる」を多くやってきたのかな、今までの君は。言葉でのやりとりだけの「教わる」だと、教える側の情報を一方的に君は受け取るだけになりがちだ。教える方は、自分のやり方をふり返り、さらに良いものにするヒントを得ることができるから、最初は喜んでやり方を教えてくれるだろう(もしそれに気がつかずに単純に教える優越感だけに浸るようだったら、そんな人から教えてもらうのは辞めた方がいい)。けれど、いつまでたっても君が「教えてください」だったら…。心密かに「いったいこいつは何をしに来たんだろう」って疑問を持つはずだ。教えても教えても、さらなる「教えてください」で自分なりの工夫が見えないからね。教える人が優れた人であればあるほど、自分のクローンは作りたがらないものだ(もしクローンを作りたい人だとしたら、そういう人は避けた方が無難だ。自意識過剰だったり、部下を増やしたがる独裁者だったりする可能性が高い)。だからいつか「で、君はいったい何をしたいんだい」というような台詞が出てくることになる(もしくは静かに見捨てられる)。言葉のない「教わる」は、必死になって見よう見まねでぎこちない段階から、やがて自分なりに消化しスムーズに動ける段階へと移行する。教わる側も自分自身が変化したことを実感できるだろう。教える方も、君の成長を実感するし、自分のやり方の良し悪しを君を通して知ることができる。見て覚える方は、案外双方向的な「教える/教わる」関係なんだ(本来はね。もし上下関係がきついとか、一方的にやり方を押しつけられるのだとしたら、それは「見て覚える」じゃない)。だから教える方は面白い。もっと色々一緒にやりたくなる。新しいことを一緒に始めたくなる。

 最初に「教わる」だけじゃ貿易赤字で信用をなくすと書いたわけはもうわかってくれただろうか。この話を書こうと思ったのには、外の世界できっと新しい経験に出会う君に、その経験を受け身で受け取って欲しくはないからだ。どんな素晴らしい経験も受け身の間は「うわぁ~…」で終わってしまう。もっと悪い場合は「こんなすごい経験をした私」なんて変な優越感を生んでしまう。そうならないためにも、二つの教わるの違いは知っていって欲しい。

 それともう一つ。教えてください、僕にはわかりません。教えてください、まだまだ未熟ですから。教えてください…。「教えてください」は言い訳代わりにも使えるよね。こういう教えてくださいとは今ここで縁を切っていった方がいい。そんな甘いことはもう通用しない。最初っから成功する、うまくやることは期待されていない。けれど何もかも一から教えるような手間暇を君一人にかけるほど、相手は時間や費用があるのだろうか。うまくできなくても、見よう見まねで不器用でも、とにかく相手のやっていることを自分なりにやってみる。失敗したら…絶対確実に怒られるし、恥をかく。けれど学ぶことはできる。最初から「教えてください」は謙虚に見えるけれど、実は自分が傷つかないための予防線じゃないのかな。違う?違うなら違うところを見せて欲しい。自分は教えてくださいと言うけれど、けして甘えているわけでも、出来合いのやり方を欲しているわけでもないことを。自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身で新しい物事をどん欲に吸収しようとしていることを。

 少しばかりきつい言葉を書いたかもしれない。けれど、私自身は結構優しい初歩の初歩を書いたつもりだ。なぜって人と人との付き合いは双方向で相互関係(レシプロシティ)が大原則だと思うからだ。どこへ行っても「教わりたい」というのは簡単だけれど、「教えたい」と思わせるのは難しい。でも、自分が~したいという自分軸で動いている人には「教えたい」と手をさしのべる人が出てくるものだ。