伝統とは

松井 名津

 伝統とJ.S.ミルは相性が悪いことになっている。個人主義で自由主義、既得権益を批判する…といった特色から当然と思われるかもしれないが、実はミルと伝統が相容れないと考えられている要因の一つに、ハイエクによる批判がある。少し専門的な話になるが伝統を考えるときに重要な要素も含んでいるので、お付き合い願いたい。

 自由主義を擁護する際にハイエクは「真の個人主義」と「偽の個人主義」という考え方を持ち出した。真の個人主義は自由主義を擁護する、あるいは自由主義を促進するのに対して、偽の個人主義は集団主義や全体主義への道を開くものだという。そして真と偽を見分けるメルクマールの一つに伝統がある。ここでいう伝統は、長年続いてきて社会で当たり前になっている物事のやり方、と考えてもらったらいいだろう。ちょっと洒落た言葉でいえば「社会インフラ」としての伝統である。真の個人主義はこうした社会インフラが存在してはじめて個人、あるいは個人の自由が成立すると考える。これに対して偽の個人主義は、合理的計算を行う個人を出発点として社会を考えるから、伝統といった社会インフラを否定し、合理的な法律体系を求める。また人間の理性が無謬の計画を設計できると考えるから、伝統や慣習によって決まっているやり方(ルール)よりも、設計された法律や体制が優れていると考える。したがって、合理的な体制が成立すれば、自由は確保されると考えがちだから、一旦体制が成立すれば体制と摩擦を起こすような自由は抑圧しても良いとする。

 以上がハイエクによる「真の個人主義と偽の個人主義」の荒っぽい要約である。そしてこの中でハイエクはミルを本来なら真の個人主義の伝統に根ざしているのに、偽の個人主義の影響を強く受けてしまった人物として描き出す。その際槍玉に挙げられるのが、既存の慣習や世論の影響を鋭く批判した『自由論』だった。このハイエクの論が非常に有名になったこと、そしてハイエクの議論と軌を一つにするバーリンの「二つの自由論」との相乗作用で、ミルには非伝統主義者というイメージが付着したのである。

 さて本当のところはどうだろう。私自身はミルと伝統は単純に対立とか親和とかではないと思っている。確かに『自由論』でも『論理学体系』でも習慣的なものの見方を疑うという姿勢は一貫している。しかしその一方で、ありとあらゆるものを分析してしまい、行動に伴う感情を失うことの恐怖を、彼自身が自分の経験として文字通り身にしみて知っている。伝統をそのまま丸呑みにすることも、伝統を分析し尽くしてその妙味を失うことも、彼は拒否していると思える。ある意味中途半端というか、折衷的な態度である(そう、ミルはいつも折衷的と批判されるのだ)。しかしこの折衷的な態度こそ、伝統に対して真っ当に向き合う際に忘れてはならない態度ではないかと思うのだ。

 「伝統」とはなんだろう。日本もイギリスも伝統の国だとよく言われる。イギリスの伝統というと何だろうか。山高帽に固く巻いた傘をもつジェントルマンだろうか(「キングスメン」という映画ではこの典型的な紳士姿のスパイが活躍したが)。しかしこのスタイルはミルの時代に確立されようとしていたところだった。イギリスといえば紅茶といわれるが、これまた18世紀以降少なくともジャマイカ等の西インド諸島を植民地としてから、イギリス全土に広がる習慣である。では日本は?日本の伝統ー茶道・華道だろうか。華道は室町時代、茶道は安土・桃山の好機に確立したから、確かに年月を経ている。しかし、どちらにも共通する「家元制度」は江戸時代の産物だといわれている。また同じ茶道であっても近年まで家元制度を採らなかった流派もある。家元とか伝統芸能に見られる一子相伝も、血縁関係によるものではない。むしろ近代特に戦後になってから一子相伝が強まったといえるかもしれない。芸能に限らず、武家も町屋も「家」「商家」を守るために、他所から養子を取ることが当たり前だった。能力が足りない後継を押し込めたり、隠居させたりして、能力のある子どもを養子として家を継がせるのは、生き残りのために必須の作戦でもあった。

 そう、伝統は今ある形のまま伝わってきたのではない。継続させるための努力があって、残ってきているものである。残すためには養子を取るだけではなく、様々な変更を加え続けている。能楽は室町時代の言葉をそのまま現代に残しているとして、ユネスコ世界遺産になった。しかし節回しは大きく変わっている。かつては一つの節回ししかなかったが、江戸の頃に二つ(強と弱)に別れたらしい。失われた曲も多いー演目が人気がなかったとか、作り物が多くお金がかかるとかー、仕舞としてはよく上演されるけど、全曲上演がほとんどない曲はそれ以上に多い。舞い方もちょっとずつ変化するー実際に舞台で演じられるのと、教本として描かれているのにズレがあったりする。そんな時私の師匠は「う〜ん、これは自分もやったことがないですね。これだと舞台でうまく合わないですよ…どうしますかね〜」などと言って、最初は教本通りに教えようとするのだが、やっぱり自分のやり方で教えてくれる。教本が間違っているのではなく、教本がまとめられた時と現在(30年程度)とでは、囃子方や謡の速さや間の取り方が異なっているのだ。もちろん歌舞伎のようにアニメや他国の伝統芸(マハーバラータ)を新演目として取り入れる場合もある。華道では洋物といわれる西洋花を使うことはもう当たり前のことになった。茶道でも椅子席を使った手前が開発され続けている。伝統が博物館の展示物にならないためには、伝統を生かし続ける人々と、その人々を経済的に支える装置(演技場しかり、観客しかり)が必要なのだ。

 この関連する人たちが生かし続ける伝統とは若干異なる伝統というものもある。「礼節を重んじるのは日本が世界に誇る伝統である」とか「日本の伝統でもある謙虚さを世界にアピールする」といった風に語られる伝統である。その多くがいわゆる道徳律である。古いところだと「大和魂」などがある。いつの間にか武士道と一緒くたになってしまっているが、歴史は浅くて明治期以降に流布されたものである。江戸時代の武士道は支配官僚としての武士階層の倫理として確立したという側面が強いから、非常に儒学的で理想主義的で教条的なものがある。実際に武士が戦いに従事していた頃には「7度主君を変えてこそ武士」だとか「卑怯といわれようと臆病といわれようと生き延びることこそが大事」というのちの武士道から見れば、トンデモナイ発言が武将の格言ー自家が生き延びるための手段ーとして残っている。

 さて大和魂に話を戻そう。大和魂といえば本居宣長の「敷島のやまと心を人とわば朝日に匂う山桜花」から取られたとされている。そして大和魂といえば「武士として潔く散る」である。ところがここで歌われているのは山桜である。山桜は柔らかい若芽と蕾が一緒に出てくる。決して一気に咲く花ではない。また散り落ちる時ははらはらとこぼれるように舞い散る花だ。とてもとても一気に咲いて一気に散る花ではない。第一、本居宣長といえば漢学(儒教)に対して「やまと心」を訴えた人ではあるけれど、彼が賞揚したのは『源氏物語』に典型的に現れている「もののあはれ」である。確かに山野の広葉樹林のなかにチラホラと混じる山桜の花が朝日に照らされている風情は、潔さよりも「色気」「艶」という言葉がよく似合う。生来のプレイボーイ光源氏にはよく似合いそうだ。ところがどういうわけか、山桜はソメイヨシノになり、もののあはれは武士道や儒教になってしまった。その転換点はどうやら日露戦後の日本にあるらしい。漱石の『我輩は猫である』の一節に「東郷大将が大和魂を持っている。魚屋の銀さんも大和魂を持っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている」「誰も口にせぬものはないが、誰も見たものはいない。誰も聞いたことがあるが、誰も逢ったものはない。大和魂はそれ天狗の類か」と皮肉満点な部分がある。どうやら日露戦争の戦勝に酔って、上から下まで大和魂が掛け声になったのが始まりのようだ。

 とすれば、この伝統は結構眉唾物だといえる。人々の生活の中、あるいは上層階層の文化の中から出てきたものでもなく、守り伝えようと努めたがゆえに現代まで生き続けているものでもなく、ある時代の風潮の上に出来上がり、あたかも古くから存在したかのような顔をしているわけである。しかしそれが「伝統」という顔をしてまかり通るのは、それ相応の時代の風潮とその時代が去った後もこれを「伝統」として振りかざすことが利益になる人たちがいるからである(日露戦争の戦費のために政府が宣長の歌から名前をとったタバコを作ったりしている)。

 ミルが伝統に対して、是々非々とでもいうべき折衷的な態度をとったのは、伝統という言葉で本来は伝統ではないものまで、伝統と呼ばれかねないからだ。それは19世紀半ば「イギリスといえばジェントルマン」の伝統が目の前で作り上げられようとしていた時代に生きていたゆえかもしれない。あるいはまた、戦時の意気軒高に酔いしれて「イギリス一番!!」と気勢を揚げる時代に生きていたからかもしれない。ともあれ、ハイエクが主張したように伝統を重んじるから真の個人主義で、自由主義を守れるのだと、そう簡単にはいかないことは、この20年の日本やアメリカを見ていると痛感することでもある。

 最後にミルだったらいいそうなことを付け加えて終わりにしよう。「伝統とは何か。それは他の伝統と比較した時に初めて分かる何かである」。

籠の中の「ダイヴァーシティ」、食い破るための多様性

松井 名津

 いつの間には多様性という言葉が流行り、いつの間にかダイヴァーシティというカタカナ語になった。カタカナ語になった途端に、毎日どこかで見かけるようになったが、誰もなぜダイヴァーシティが必要なのかきちんとした説明をしてくれたことがない。曰く、経営上望ましい、仕事の上で効果がある、様々な側面から顧客や商品の分析ができる等々。なんだかダイヴァーシティが万能薬に見えてくる。ただし非常に薄っぺらい、流行が過ぎると見捨てられる万能薬に。

 多様性はそんな単純で薄っぺらな存在なのだろうか。少数意見の重要性を説き続けていたミルの意見を聞いてみよう。現代では地球が丸いことを信じない人は誰もいないと思う。この誰もが認める地球が丸いという真理があれば、「地球は平たい」というトンデモ少数意見は必要どころか、頭から否定してイヤ無視して構わないように思える。しかしミルはこの場合であっても「地球は平たい」という少数意見は必要だという。そして真面目に取り上げ、真面目に反論すべきだという。私たちは「地球が丸い」と思っている。学校でそう習ったから、みんながそう言っているから、なんとなく常識だから…。確立された真理はこんな風に「なんとなく」「権威があるから」真理として受け入れられている。そして確立されているがゆえに、この真理に反するような意見は「邪道」「トンデモ」として一笑に付されるか、白眼視されるか、極端な場合は沈黙を余儀なくされる。ここまで来ると真理は真理でなくなるとミルはいう。たとえその真理が「真」であっても、それが真である理由を示さないまま「真なるもの」として人々に教えられる時、それは真理ではなくドグマ(教理)になるのだと。

 地球が平たいという説を真っ当に取り上げ、それに反論し、あるいは地球が丸いということを「きちんと」証明する。ここの「きちんと」は普通の、つまりは専門家でない人でもわかるような言葉で証明するということだ。こういう営みを行なっていれば、誰もが地球は丸いことの根拠を理解して、自分の意見として「地球は丸い」といえるだろう。たとえ真理であっても少数意見が必要なのは、真理が常に人の心のなかで「生きている」真理になるためである。

 さらにいえば、ある時代の「真理」が永遠に真理とは限らない。「平行線は交わらない」はユークリッド幾何学では真理だが、非ユークリッド幾何学では真理ではなくなる。2000年来の幾何学の常識である「平行線は交わらない」が真理でないと確信したガウスは、世の反発を恐れてその発見を隠した。(とはいえその後すぐに他の人が発表してしまうのだが)。私自身も高校で非ユークリッド幾何学だとか、虚数だとかに出会うたびに、常識的な世界ではない世界を扱う「抽象的な数学」に頭を悩ませたものだ。ではこうしたより抽象的な数学が数学者自身の営み(頭の中)から生まれてきたのかというと、そうでもないらしいということを最近知った。非ユークリッド幾何学は、この地球という丸い曲面で最短距離を求めるときには欠かせない概念なのだ。つまり、ユークリッド幾何学は机の上(平面)では役に立つのだが、地球をめぐる航路設定では役に立たないのだ。現代数学の難解で抽象的な概念のほとんどが、数学の外部ー統計学、化学、地理学等々ーの要請に応えようとする試みから生まれ出てきている。そして外部の要請に応えようとした結果、それまでの数学の常識、真理を打ち壊すことになったのだ(ということを遠山啓『無限と連続』を読んで初めて知った。この本を読んで現代数学がわかったかというと、読む前も読んだ後も???の数は減っていないのだが)。

 話を多様性に戻そう。世の中の常識的な真理を、人々の心の中で生きている真理とするために少数意見が必要だというのが、ミルの主張だった。そして場合によっては常識的真理が真理でないことがわかる場合もある(大概それは科学の進歩と呼ばれる)。では少数意見の必要性、つまりは多様性は真理に関わる分野に限定された話なのだろうか。ミルは真理と政治を重ね合わせて論じているところがある。厳密にいえば、ミルは真理をめぐる討議を政治における討議の理想形として描いていたのだと、私は考えている。

 例えば子育て後の女性こそ国政に関わるべきだという主張は、彼女たちが「男社会」では得られない少数意見を持つからこそだ。アイルランドの独立運動に対して、独立よりもブリテンの議会で議席を持つことを勧めるのも、ブリテンの議会にアイルランド在住のカソリック(17世紀以来土地を奪われた人々)の少数意見が反映されないからだ。少数意見が議会に席を得て、自分たちの利益を堂々と主張し、論戦を行うことをミルは求めていた。

 しかし、と多くの人が疑問を呈するだろう。所詮民主主義は多数派が勝つ。少数派がどんな主張をしても最後は数の力が勝つのだと(全くそれを絵に描いたような議会が身近にあるのだから、困ったものだ)。前にも書いたことがあるが、ミルは民主主義というシステム自体にさして大きな期待を持っていない。声の大きなものが勝つという民主主義の限界を知っていたからだ。だからこそ、知性がある人、経験が豊富な人に2票を与えるとか、反民主主義・エリート主義的な施策を提言しているし、政党にではなく意見のある個人に有利な投票システムを提唱したりしている。さらに彼自身が国会議員への立候補を求められた時、立候補しても良いが1つ条件があるといった。その条件は自分は代表者(representative)ではあるが、選挙区から派遣された使節(delegatation)ではない。したがって選挙区に不利な法案、選挙区民とは違う意見であっても、自分が正しいと判断すれば賛成し主張するというものだ。「皆様の〜」を連呼する選挙カー路線とは真反対である。この条件を飲んだ方も方だが、そんな条件付きの立候補者を当選させた選挙区民も選挙区民である(ちなみにミルはシティ&ウエストミンスター区から立候補している)。そして黒人が主体の暴動を「鎮圧」した英国総督を弾劾する委員会を組織した結果、次回の選挙では見事に落選している。

 こうしたミルの議論や実際の行動を考えると、彼が議会に求めていたのは、多様な意見が文字通り論「争」として闘い合うことだと思う。予定調和的な論争ではなく、雌雄を決するための闘争であり、時に自分の主張の非を認めてかつての敵側に身を置くことも辞さない態度であり、同時に論争の中から落とし所を探る微妙な駆け引きだ。多様な意見はショーウィンドウに飾られる彩りのよい花として存在しているのではない。とりあえず「聴きおきました」とご意見拝聴のためにあるのでもない。議場では、他の全ての意見を食い潰して、自己の味方とする論理と修辞、根回しも含む高等戦術を駆使することが求められる。ただ一人、全てを敵に回しても勝利する戦術と戦略が必要なのだ。

 例えばアイルランドの場合、もし彼らが当時のイギリス議会に議席を持ち、彼らの要求を主張したとして、それが多数の名の下に退けられたとしたら、彼らは武力闘争を決断するだろう。だからこそイギリス議会の多数派は何としてでも、彼らを説得しなくてはならない。あるいは彼らの要求と妥協しなくてはならない。アイルランドの側も自分たちの主張だけを通そうとしても、現実的ではないことを論争を通して認識しなくてはならない。ゴリ押しして議会で決裂すれば、イギリス側の武力弾圧が正当化されかねないからだ。議会はこうした現実の武力という危険性を背負いながら、どこで利害を調整するのかという闘いの場である。お互いに負けられないが、逆にこの「場」を破壊することはより大きな危険(武力)を招く。だから理性的な論争が求められるし、妥協点を見出す努力が必要となる。

 それはちょうど、科学の論争が理論の生命をかけて行われるが故に激烈になるのと同じであり、また論争を続けること、論争の場にあることが科学を継続させる唯一の手段であるという認識が共有化されていることとよく似ている。ミルが議会に求めたのはこうした命懸けともいえる論争である。命懸けだからこそ生半可な妥協は許されないが、命懸けだからこそ妥協が可能でもあるのだ。

 多様性をダイヴァーシティとカタカナにして、百花繚乱の彩の一つにするのが日本流なのかもしれない。確かにそれは「美しい」。予定調和の中で誰も深い傷を負うことはない(だろう)。しかしそれは摩擦も論争も生み出さない。いや正確に言おう。論争や摩擦を生み出さないように手懐けられた多様性がダイバーシティというカタカナで呼ばれているのだ。争いを生まないダイバーシティは美しいかもしれない。けれどそこに真の生命力は宿らない。ちょうど真理がただ真理だという理由で、その地位を保持するならば真理から生命力が失われるのと同じことだ。

 多様性は何か(科学、社会、組織)がその生命力を維持するためにこそ必要なものだとミルは考えていたのだと思う。ただし、多様性によって生み出されるのは予定調和ではない。多様性によってもたらされるのは、異なった意見、主張、風習等々が互いに食い潰そうとする命懸けの闘いである。その闘いを経て初めて生命力は維持されるのだ。

本の読み方あれこれ

本の読み方というタイトルを見て、なんだか難しそう、敷居が高い、縁がない、読む気になれないという人も結構多いと思う。そもそも本をわざわざ読む必要があるのだろうかという疑問を持つ人もいると思う。今はネットで検索すればありとあらゆる情報が万単位で画面に現れる。無料だし早い。それに比べれば本は有料だし自分が知りたい情報がすぐに手に入る訳ではない。でも検索は万能だろうか。「ニューアムステルダム」という言葉は酒(ジン)であったり、ニューヨークの古い名称だったり、劇場の名前だったり…と色々な意味を持つ。どの意味を選択するかを決定しているのは検索する側だ。どの意味を選択すべきかに関する適切な情報や知識がないと、誤った検索結果を覚え込んでしまうことになる(さすがにジンとニューヨークは間違えないとは思うが)。選択する際に必要な情報や知識という背景があって初めて適切な検索ができる。通常こうした背景情報は検索する側が持っている。先ほどの例でいけば、たまたまその名前のジンを見たのだけれど、どんなものなのか知りたいなどにあたる。さてニューアムステルダムジンがどこで造られるお酒か、名前の由来がわかったとして、それでジンの歴史を知ったことになるだろうか。ジンの歴史を知るためにまた検索をしてみると、ジンを初めて作った人の名前が3種類でてくる。さらに連続蒸留だのオレニエ公ウィレムだの訳のわからない言葉が羅列されている。大学のレポートならばわからない言葉であってもコピペすれば良いかもしれないが、コピペの知識を自分の知識だと思う人はいないだろう。検索で情報を得るのと「知識がある」というのの間には結構な溝がある。

 この溝を埋めるのに役に立つのが本だといってもいいかもしれない。情報の背景を深堀する時、文字面を知っているだけではなくその意味合いも知りたいと思うとき、断片的な情報が詰まっているネットの海を検索エンジンを使って渡る方法はお勧めできない。単純に無駄が多いからだ。「情報を得た」から「知識がある」に進むには、体系が不可欠だ。体系といっても小難しい理屈ではなく、情報がまとまって入っているお弁当だと思ってもらえば良い。数々のお惣菜をあれこれと詰め込んでもなんだか統一のとれないものが出来上がってしまう。幕の内だとか、○○名物だとかの名前がついて売っているお弁当はそれなりに色目がそろっているし、味の統一感もある。本を読むというのはお弁当を購入するものだと思うと良い。手軽に主食と副菜のバランスがとれた食事がとれるのと同じように、手軽に体系だったひとまとめの情報を入手できるし、バランスよく情報が配置されている。とはいえ、このお弁当は食べるのにコツがいる(と思う)。まぁ所詮お弁当の食べ方だから作法というよりも個人的な好みの範疇だとは思うのだが、私のコツを紹介しておこう。

 1)目次と索引は活用しよう。

 大抵の本には目次がある。索引はついていない本が多いがちょっと専門的な本ならばついている。さて、この目次と索引はお弁当の包みと名前のようなもの。どんな内容の情報が入っているのか見当をつけるためにすごく役に立つ。とくに何か特定の情報を背景付きで探りたいときに役立つのが索引だ。自分が求めているキーワードがあるかどうか、あるのなら何頁分の分量になっているのかが一目で分かるのが索引である。索引でキーワードがあって1頁以上の分量があれば、まずそこを覗いてみる。わかりやすそうかどうか、自分が知らない事柄が載っているかどうかを点検する。求めている情報がありそうだとわかったら、その頁が属している章など一定のまとまりをなしている部分を読めば良い。本だからといって、最初から最後まで読み通す必要はない。ところが索引は便利なのだが、ついている本が少ない。なので通常は索引の代わりに目次を使う。目次の場合はキーワードがそのままというわけにはいかないが、それでも似たような言葉が載っていたら、まずその部分に目を通せばいい。当たりかどうかがわかる。さらに目次を読めば、その本の雰囲気とか取り扱っている題材がわかってくる。自分が読もうとする本が適切な情報を含んでいるかどうかを見定めてから、本を読む方が効率的だし、読む気も起きるだろう。ちなみに目次で内容や雰囲気をつかむという方法は情報を探したり知識を得たりするだけじゃなくて、楽しみのために本を読む場合にも役に立つ。私は推理小説が好きだけど、新しい作家の小説を買うときは、目次を見て興味をそそられるかどうか食指が動くかどうかで選んでいたりする。

 2)前書き(はじめに)後書き(おわりに)は概略を示してくれる。

 前書きとか後書きとか、解説とか、本には本文の前や後ろにいろんなものがついている。これだけを読むという方法もある。前書きなどはその本を書いた作者の動機や問題意識が書かれてある。後書きなどは、書き手が作者の場合はその後の課題だったり、書いた後の感想だったりするし、他人だったらその本の意義だとか面白さが書かれていたりする。前書きと後書きを読めばその本の概略が何となくわかると思っていい。それに作家が書いた場合は、その前書き等の文体が合わないと、本文を読むのが辛いだけになる。だから着いていたら目を通すべきだ(一部ネタバレ注意もあるけど)。楽しみのためだけでなく知識を求める場合でも、その本が初心者向けか専門家向けかを判断するためにも前書きは肝心だ。前書きに書かれているのがやたらと細かい情報で、言葉も難しいようなら、その本を読むのはやめて、別の本を探した方が良いだろう。また何となく「合わないな…」と感じる文体で書く人もいる(専門書であっても)。これは私の悪い癖でもあるのだけれど、でも個人的には文体的が合わない人の本を読むのは(仕事などでどうしてもという場合を除いて)お勧めしない。精神衛生上悪いからだ。どんなに有益な情報であっても読んでいてどうにも合わない文体で書かれていると、決して自分の中に入ってはこない。むしろ感情的な反発や嫌悪感が先に立つ場合があるので、注意が必要だ。だからなんだか合わないと感じたときは、その本をおいて、別の人が書いたその分野の本を探した方が良いと思う。

 3)斜め読み、飛ばし読みの勧め。

 斜め読みや飛ばし読みは悪いことではない。小説はそうはいかないが、知識を得るための本であれば、目次を見て良さそうだと思った中で、特にここが面白そうというところから読むのは良いことだと思う。もちろん本は体系だっているから、途中から読み始めるとわからないことが多くなる。けれど、はじめから読んで疲れるよりは、つまみ食いも良いものだ(まぁ幕の内弁当の中の好きなおかずから食べるようなもの)。分からない言葉が出てきたり、前後の脈略がよくわからないと思ってから、最初に戻って読むのは案外苦にならない。なぜって「知りたい」という思いがあるからだ。

 4)多読の勧め。

 図書館でも大型書店でも良い。とにかくたくさん本のあるところで目次読み、前書き等の概略読み、斜め読み、飛ばし読みをたくさん試してみること。そのうちに相性が分かってくる。まぁマッチングパーティーとか合同説明会みたいなものだ。それだけではない。ある特定の分野(図書館でも書店でも同じところに集まっている)でこの読み方をし続けると、なんとな~くだけど知っている事柄が増えてくる。あの本のこの情報と、こちらの本のこの情報って似ているとか、なんか結びつきそうとか、え~嘘!違ってるじゃんなんてことが感覚的につかめてくる。そうなるとシメタもの。それは自分なりに自分のお弁当を作る腕ができてきたということだ。本は他人が作ったお弁当だから、味が濃すぎたり、好きじゃないおかずが入っていたり、逆に食べたいものが入っていなかったりする。ある程度数をこなすと自分の好みもはっきりしてくるし、役に立ち身になる情報とそうではない情報の区別もできるようになる。なにより情報の中身に精通してくるので、材料となっている情報の善し悪しが判別できるようになる。また調理の方法(文体とかね)もよく分かってきて、腕の善し悪しも分かってくる。複数の本の中から特定の情報をうまく取り出して、自分なりに調理することもできるようになる。たとえば北欧の福祉国家の実態を知るために専門書を読むのは有益だし必要だけど、社会派の推理小説を読むのもお勧めなのだ。小説のほうがその社会を切実に鮮明に捉えていたりして興味や関心が湧いたりする。本を読むときに何より大事なのは知識欲だと思う。知識欲を持つきっかけは何だっていい。本を読む究極のコツは好奇心を失わないことだと思う。

曖昧な日本の…

日本の若者には元気がない、覇気がない、やる気がない、よくいわれている。内向き志向、縮み志向といった言葉も日本の若者の同じような生態を表す言葉だろう。これに対して、何事にもどん欲で、上昇志向で、目的意識が強く、活気にあふれ、外へとどんどん出て行くのがアジアの若者。エネルギッシュだ。日本の若者はどうも分が悪い。そしてグローバル時代の今、若者がこんなざまで日本は(あるいは日本人は)どうなるのか!と危機が叫ばれる。私はこの危機のすべてを否定するつもりはない。けれどその危機を日本特有のものとしたり、危機対処策として若者を厳しく鍛え直す必要性が叫ばれたりすると、ちょっとした違和感を覚える。

 歴史上、隆盛を誇った国や体制がピークを過ぎた頃。「近頃の若者は軟弱だ」「何を考えているのか」「豊かな生活に甘えてダレきっている」といわれる。右肩上がりの成長を続けた勃興期、社会変化を受けた変革期に比べ、自分の生活中心で社会のことを考えなくなっているとも批判される。そう、今の日本の若者に投げかけられる言葉の60%ぐらいがいつも繰り返されている言葉だ。共通の表現の根っこには共通の要因が潜んでいると思ってよいだろう。私が考える共通要因は共通目的の喪失だ。共通といっても意識して共有されているとは限らない。時代の風とか時代の精神とか、日本的にいえば「世間の常識」といったものとして、無意識の裡にしっかりと人々の生活や行動、思考様式に根を下ろしているものだ。高度成長期の日本でいうと「明日は良くなる」という考え方になるだろう。今のアジアの若者たちもそう考えているのかもしれないが、高度成長期の日本の若者たちは、自分が努力すれば明日は(近い将来は)きっと良くなる、良い生活(良い給料、良い家、良い…)が得られると思っていた。

 今の日本はどうだろう。時代の風とか精神というと不透明・不確実・想定外という言葉が浮かんでくるのだが、この原稿の読者であるあなたは何を思い浮かべるだろうか。物質的には豊かになった、確かに今日の食べ物はあるかもしれない。でもこの先どうなるのかよくわからない。今はなんとか職についているけれど、来月は、来週はどうなるかわからない。自分は運良く職に就けたけど、先輩は、後輩は…(本当は自分だって運が悪かったら…)。努力と成果が直結していると素直に信じきることができない時代にいるのではないだろうか。逆説的にだからこそ、一部の若者の間で自己責任が叫ばれ、保護を受けている人たち(彼らからみれば努力せずに報酬を受け取っている人たち)に対するバッシングが流行しているのではないか。「あいつ」たちが失業しているのは、惨めな思いをしているのは、保護を受けなくてはならないのは、怠けていたからだ。努力している自分は決してそんな目に遭うとことはないのだと信じたいがために、自己責任を叫び立てているのではないだろうか。全てが自己責任ならがんばっている自分は報いられるはずなのだから。

 話がそれてしまったが(とはいえ結構同根だと思っているのだけれど)要は豊かだけれど、あるいは豊だからこそ、先の見通しがつかなくなっているのではといいたいのだ。別段不況で就職難で雇用不安だからというだけではない(もちろんそれも大きな要因だが)。かつてのように収入が増えれば「良い」生活が得られると考えられない。なぜって「良い」生活の良さがいろいろあるんだといわれているから。目的を持って生きろといわれるけれど、じゃあ目的って何ですかというと、自分で見つけれろ甘えるなといわれる。でもそういっている側はどうかといえば、自分で目的が明確にあった訳ではなく、やはり何となく生きてきただけだったりする。それでも目的があるようにいえたのは、時代の風が目的を設定してくれていたからだ。まずは「豊かになろう」と。でも豊かさって「何の」豊かさなんだろう(お金の?人付き合いの?丁寧に生きるって?貧しくても豊かだって??)。「良い」も「豊かさ」もかつてのような共通のイメージを呼び起こさない。だから自分で考えろといわれる。そしてそれこそが自立なのだといわれる。

 自分で考えること、自分で問うことが大事なのは言うまでもない。でも自分で考えるためには何かしら基盤が必要だ。考え、疑問を呈し、ぶつかるための強固な基盤。ところが、そんなものは「ない」というのが世間の常識だ(本当にないのかどうかはこの際どっちでもいい。ないということになっているのが重要なのだ)。更地から考えること、更地から何かを打ち立てることはしんどい。それよりは目的なしといわれようと、何を考えているんだかといわれようと、「ある」ようにみえるレールに従ったまま、これまで通りに生活を続けて行く方が随分と楽だ。前ではなく下を向いて(そうすれば躓かずにすむ)、決して高望みせず(そうすれば失望せずにすむ)、失敗しても悔しがらず(そうすれば失敗の傷を小さく思うことができる)あるいは失敗を受け入れて(本当は受け入れていないけれど、「わかりました」といっておけば二度とは追求されない)…。

 人間は何時いかなる時代でも、東西を問わずどこでも、一般に(つまり普通なら)辛いよりも楽な方を好むし、何かをして傷つくよりは何もしないことを好む。だから今の状況で日本の若者に冒険的であれ、どん欲であれと望むのは身勝手な話だ。ピークを迎えて嗜好や価値観や生き方が多様だということが建前上であれ「常識」の社会では、若者は未来に賭けることができない。賭けるものが大きいからではない、賭けの報酬が曖昧だからだ(何円あたるかわからない宝くじを誰が買うだろう)。タイトルを「曖昧な」としたのはこのことだ。

 さて、ではこの曖昧な状況の中でそのまま座してひたすら黄昏れていくべきなのだろうか。その道も「有り」だと思う。ただその道はリスクが高い。黄昏れるということは、いわゆるグローバルな競争から降りるということだ。競争から降りた結果、追い抜かれて、馬鹿にされて…でも淡々と生きることができる人はごく少数だと思う。追い抜かれ相手が自分のことをせせら笑っていると思っらコンチクショウと怒る。怒っても自分に実力が伴わない時人間は卑怯になる。自分に実力がないことを泰然自若と受け入れることができずに、相手の揚げ足を取ったり姑息な手段に訴えて相手をおとしめたりしがちだ。そう、黄昏れるという道をとるならば、日本の若者は真剣に自分の品性を磨かなくてはいけない。グローバルな競争という一元的な価値観に決して振り回されることなく、相手を貶めることなく、かといって自分を卑下することなく、淡々と生きることができるための確固とした何かを自分のうちに築き上げなくてはならない。それは結構大変なことだ。

 黄昏れることが難しいならどうすればいいのだろうか。曖昧な状況の中で、共通の目的もなく、黄昏れることもできず、いわゆるグローバル競争で勝ち残るだけの気力や意欲も持てない。きわめて中途半端、まさに曖昧そのものだ。今の若者の姿とどこかだぶって見える。そして私はこの曖昧さの中で曖昧さともがき続けることが、日本の若者の道なのではないかと思っている。もしかすると日本の若者にしかできないことなのかもしれないとさえ思っている。なにしろノーベル文学賞受賞記念講演のタイトルが「曖昧な日本の私」、水墨画にしろ洋画にしろ日本に来ると湿度に満ちた曖昧風となり、白と黒の淡いに百匹の鼠(色)を見いだす。そういう風土と文化に育ってきた日本の若者(国籍ではない、この土地と風土で育っているとどうしてもそうなってしまうのだ)。共通の目的を喪失し曖昧な状況に陥るということが、繁栄のピークを過ぎた「成熟社会」の共通特質だとしたら、曖昧な風土に育った日本の若者はその曖昧さを活かして曖昧な中で生き続ける新しいモデルを作るという道があるのではないだろうか。一見熱のない、ちゃらんぽらんな生き方と区別がつかない道でもある。でも常に留保条件を付け別のやり方や道を意識する曖昧さとちゃらんぽらんな生き方との差は確かにある。それは「自分で決めた」という意識を捨てないことだ。たとえそれが本当は単なる偶然にすぎなく、一時の気まぐれだったりしても、「なんだかんだいっても自分が決めたんだし」と自分自身に対してちゃんといえるかどうかだ。ちゃらんぽらんな生き方にはこれがない。逆に「親がいったから」「会社の命令だから」「いやその時はそれが正解だって風潮だったし」という他人の決定がある。そこさえわきまえていれば、道は千差万別きわめて曖昧。だけどその曖昧さを楽しむ知恵は日本の風土と歴史と知恵の中に埋もれていると思うのだ。

その事実、本当に事実ですか?ー数字って意外に嘘つき

なんだか今回はキャチコピーのようなタイトルになってしまったけれど、3.11以来、数字のマジックというものをつくづく考えさせられてしまうことが多いのだ。数字のマジックといっても、数字自体が間違っているというのは論外。というよりむしろ質がいいのかもしれない。事実ではないということが調べればすぐにわかるからだ。このごろ増加しているのが「数字は間違いではないが伝え方によって意味合いや印象が異なってしまう」という例だ。

 「死因順位別にみると、第1位は悪性新生物(ガンのこと)…全死亡者のおよそ3人に1人は悪性新生物で死亡したことになる」。この文章は厚生労働省の統計から引用したものだ。さてこの数字やこの文章がガン保険の宣伝に使われていたら、どう感じるだろう。ガンで死ぬ人は3人に1人なのだから、自分もガンになるかもしれない、今のうちに保険に入っておかないと…という不安にかられないだろうか。これがいわゆる数字のマジックである。マジックの種は「全死亡者」にある。「全死亡者」というような、日頃自分が使っていない言葉を前にすると人間は、それを自分にとってなじみのある言葉や概念に置き換えてしまう傾向があるという。この場合「全死亡者」は「全ての人」に置き換えられやすい。全ての人は必ず死ぬ訳のだからといって、そう置き換えて…は「いけない」。全死亡者はその年に死んだ人全員である。この文章は平成20年の統計のものなので、全死亡者数は114万2467人、ガン死亡者数は34万2849人(30%)。これに対して同年の全人口は1億2769万2000人。ということはガンで死ぬ人は全人口比だと2%強。さぁどうだろう。先ほどと数字から受ける印象は随分違っていると思う。

 もう一つ古典的な例としてはグラフの縦軸の比率を変えるといったグラフのマジックもあるが、このマジックを文章で説明するのは難しいので、似たような例としてある心理実験をあげておこう。アイスクリームがカップに入っている写真を想像してほしい。一枚目は250ml入りのカップにアイスクリームがあふれんばかりに入っている(カップの大きさは250mlと書いてある)。二枚目ではアイスクリームはカップにちょっきり収まっている(カップの大きさは300mlだ)。二枚の写真を順番に見た被験者のほとんどが一枚目のアイスクリームを選択するという。見た目「山盛りで多そう」だからだ。逆に二枚の写真を一度に見せられた被験者のほとんどは二枚目を選んだ。比較対象があることで冷静に二つを比べ数字を確かめたからだ。心理学や行動経済学の近年の実験や観察から、人間は山盛りの外見に惹かれやすいーわかりやすい指標に飛びついて判断しがちだということがわかってきている。

 さてさて、このところの報道やネットの記事等々で「見やすく」「わかりやすく」「違いが際立つ」文章やグラフを見かけなかっただろうか。そして何となく数字があるから、データがあるから、きっとこれは確かな事実なんだと思いがちではないだろうか(といっている私も実は数字には極端に弱い。だから数字やグラフがあると詳細に検討せず、鵜呑みにしがちである)。「事実」と思えるように、嘘とはいわないまでも微妙に誤解を招くような文脈で語られていることに気がつかないまま、なんとなく見出しや字幕やコメントを見聞きして、なんとなくそれが事実だと思って、なんとなく不安感や不信感を持ったり、なんとなく「悪いのは…だ」と思ったり…というようなことが、近頃多いような気がする。なによりこのごろ世の中には悪いニュースが満ちている。災いをいち早く知らせることがニュースの語源だと聞いたことはあるけれど、それにしてもちょっと遣り過ぎ何じゃないかというぐらい、新聞各社の見出しは不安と不信と危機の連続だ。就職危機に雇用危機、子供は貧困に陥り、放射能や農薬その他諸々で国土は汚染され、農林水産業は衰退の一途で食料不足が起きる可能性が大、エネルギー不足は目に見えており、近隣諸国からは常に武力で圧力をかけられ、同盟国も頼りになるのかならぬのか、政治は機能麻痺で、政財界は汚職まみれとマスコミ各社の見出しは疲れ知らずだ。本当にこの日本のことなのかと疑ってみたくなる。その報道が全く嘘だとはいわない。日本が順風満帆だともいわない。けれどなんだか危機や不安が喧伝されっぱなしで、耳目を集める「事実」だけが消費されていっている気がする。

 だからマスコミはと批判したいのではない。マスコミとて商売だから「売れる情報」を優先する。危機意識をあおる情報が確実に売れるのは、人間が動物であり危機に敏感にならざるを得ないから仕方がない。かといってメディアリテラシーの向上をいいたいのでもない。先に書いたようにわかりやすく目を引きやすい情報によって判断しがちなのは、人間の業、性(さが)でもある。微妙な嘘や欺瞞を追求するのも本心ではない。そうではなくて微妙は嘘や欺瞞とうまく付き合う術を一人一人が考えた方が良さそうだということを言いたい。というのも、人間である限り一人一人全員が日常生活の中で微妙な嘘や欺瞞を発しているし、それに付き合わざるを得ないからだ。自分で見聞きしたことだから、経験したことだから、それは事実だし真実に違いないと私たちは思いがちだ。けれど人間の記憶に残る事実は常に「現在から見た過去」でしかない。あるいは日常的知識の文脈の中で解釈された事実、注意を喚起されることで切り取られた事実でしかない(バスケットボールの試合のビデオを見ながら、パスが誰から誰に何回渡ったのか空で記憶するようにといわれた被験者は、コートのど真ん中を横切るゴリラに全く気がつかないという実験結果がある)。私自身、自分の過去を今の自分に都合の良いように解釈し記憶している。夫婦喧嘩の時、過去の出来事を互いに全く逆に覚えていた事実に気がついて愕然としたこともある。大はマスコミから、小は自分自身や周りの人々まで、私たちは微妙な嘘…といってよいどうかわかないが、文脈に依存する解釈の海の中で生きている。

 その中で私たちはともすれば極端な行動をとりがちだ。マスコミがだめならブログ、西洋医学がだめなら代替医療等々。AがだめならBしかない。最初に書いた数字のマジックもそんな極端な行動を後押しする。なんとか確実で信頼のおける安心安全100%を求めて…。でもそれは人間である限り望むべくもないことだ。何故なら人間が関わる限り100%の事実はあり得ない。一人一人それぞれの事実がそれぞれの濃淡を伴いながら存在するだけだ。微妙な濃淡、微妙な嘘、解釈の海の中で、100%を求めようとするとかえって極端な行動をとることになる。あるものやある出来事、ある情報のなかに見つけた一つの嘘で、そのすべてを否定することになる。かといって、全てを否定して何でもかんでも自分で確かめようとしても、それは一人の人間の能力を超えてしまうし、第一不安で不安で正気を保つことも危ういだろう。何を信用したらいいのかと思い倦ねるときほど、嘘をついていないように見える、根拠があって確からしくって、他者の嘘を暴き自分の真理を決然と主張するものは魅力的に見える。それを100%信頼したくなる。こうして私たちは(私も含めてだ)AがだめならBという行動をとってしまう。

 でも、もうそろそろやめよう。この世の中が微妙な嘘で出来上がっていることを引き受けよう。100%の真実、事実はないかもしれない。でも100%意図的な嘘、欺瞞で全てが出来上がっているのでもない。頑なに嘘を拒絶する姿勢は、逆に嘘につけ込まれやすくなる。頑なに力を込めた防御の構えほど、脆く隙だらけなのと一緒なのかもしれない。武道の達人によると、一番強いのは全身を柔らかく保っておくこと、どこかに力を偏らせることなく、いつでもどの方向にでも対処できるように構えておくことなのだそうだ。不安だとか不信だとか危機が喧伝される今の時代に必要なのは、心を柔らかに保っておくことなのかもしれない。いつでも人を信じることができて、いつでも人を許すことができる。でも「なぜ」「どうして」と問うこと、疑問を持つことは忘れない。体の軸をぶらさずにふんわりと構えるのが武道の達人だとすれば、この世の中を行き来する達人は、自分軸をぶらさずに他人をふんわり信じられる人なのかもしれない。

 そんな達人になるにはまだまだ道は遠いけれど、でも心を柔らかにおおらかに保つ意識はずっと持っていたい。

常識・非常識

このところTPPがらみで日本経済新聞などでは「今農業が新しい」とか「成長産業としての農業」という言葉が踊っている。一頃の衰退産業扱いとは打って変わって花形産業扱いだ。ところが同じ1次産業の水産業ときたら、相変わらす衰退産業扱いである。そんな水産業で非常識なことをする人がいる。彼は愛媛八幡浜にあるトロール漁会社の跡継ぎだ。トロール漁法は網を広げて魚を捕るから、網の中には狙った魚のほかに変わった魚が入ってくることがある。一尾か二尾だから市場では売れない。浜の常識では廃棄処分か身内が食べるものだった。彼は「もったいない」と思った。「なんとか売れないか」そう思った。だから非常識に直売りを考えた。今彼は東京の一流料理店やフレンチレストランと契約している。八幡浜であがった「ただ一尾」の魚を契約レストラン等に直送しているのだ。彼は淡々とそのことを語る。常識を壊した風雲児などと持ち上げられることを好まない。彼は自分の会社と従業員の生き残りをかけて必死に模索した結果だと言う。

 常識とか非常識という話になるといつも彼のことを思い出す。そしてもう一つ思い浮かぶ挿話がある。森村泰昌『美術の解剖学講義』の挿話である。それは「シャボン玉とんだ」という歌がとてつもない災害を歌った歌だと主張する漫才師の話だ。なぜか。シャボン玉どころか「屋根まで」飛んでいるからだ。屋根が飛ぶなんてトンでもない強風なのに、飛んだ屋根は「壊れて消えた」のだ!

 この本を初めて読んだとき笑いをこらえるのに難儀した。そして同時に妙に納得した。確かに歌詞はそうなっている。じゃあ何故それまで飛ぶのはシャボン玉で屋根ではないと思っていたかというと、屋根は滅多矢鱈と飛ぶものではないと思っていたからだ。そう「常識」では…。でも常識を取り外して歌詞だけを見れば、飛ぶのはシャボン玉でなく屋根であってもかまわない。いやむしろ最後に「風、風吹くな」と願いを込められているのだから、屋根の方がふさわしいかもしれない(と思わず納得するのである)。

 こんな風に常識というやつは人のものの見方や考え方を規定している。そして常識が壊されるとき、物事は違って見えるし新しい価値が生まれたりする。最初に紹介した話では、常識的には「捨てるだけで値打ちのない魚」が一流料理店でウン万円の晩餐の材料になる。でもただこれだけの話なら世間によくある起業家の成功話にすぎない。私が八幡浜の彼のことを紹介したかったのは、彼が自分のことをちっとも非常識だと思っていないからだ。彼は経営者の「常識」として会社の存続をはかっただけだという。そしてそれを聞く私もきっとそうなのだろうと思っている。

 常識、英語ではcommon senseという。commonは共通のという意味、senseは感覚だ。原義通りに英語の常識には「みんながそれがそうだと感じている何か」という感じがある。なんとなく「それはそうだ」と感じている(考えているのではない)から、何となくそれがまかり通っている。それが常識というものが持っている強みであり、弱みでもある。みんなが「それはそうだ」と感じているもの、なんだか空気みたいで取り立てて意識していないもの。だから常識は強い。みんなのものだから、それに逆らう人や事柄は「非常識」であり、非常識は非難しても良く、いやむしろ積極的に排除すべき事柄…と無意識のうちにエスカレートして行く。とくに常識を破っている相手が、自分たちと共通の背景を持っていなかったりすると、排除までの道は一直線だ。私は大相撲の横綱をめぐる騒ぎを見るたびにこの常識の排他的な側面を思い出してしまう。日本の常識に従う外国人力士は「立派な横綱」で、そうでないのは「品格にかける」と、はなっから決めてかかっているような気がしてならないからだ。

 とはいえ、常識の強みは排他的に働くだけではない。何となくみんなが守っているものがないと、世の中うまく行かないことが多い。交差点での車のすれ違い方もそうだ。大阪では交差点で「メンチ」を切って勝った方がわたるのが常識である。東京では(少なくとも管見する限り)信号機に従うのが常識である。東京で信号機がストップしたら通行はできないだろう。でも大阪では何とかなるのではないかと思う(実際郊外の幹線道路で信号機が動いていないのに遭遇したが、2車線道路を車が相互に通行していた。後でニュースになっていないところを見ると事故も起きなかったようである)。明示的なルールがなくても常識があれば、なんとか世の中は動いてしまうものだ。初対面同士の挨拶だとか冠婚葬祭の服装だとかも常識が幅を利かせる分野だ。常識がないと結構困ってしまう(自由な服装でお越し下さいと案内される結婚披露宴は会場に着くまでドキドキものだ)。

 けれど何となくの常識には弱みがある。なんとなく…なので、改めてその根拠はと問われると返答に困ってしまう(「だってジョーシキでしょ」としか言えなくなる)。そして常識が壊されるとき、妙な開放感が生まれ、快哉が叫ばれる。場合によっては新しい価値が生まれるときもある。何故ならそれまで当たり前だと空気のように思っていたことが、自分の考えやものの見方を拘束していたことに気がつき、それが壊されたことで「清々した」感じを覚えるからだ。時代が不況だとか、失業だとか、あるいはうまく言葉にならないような不安や不満に満ちて閉塞状態に陥っていればいるほど、常識を壊す動きは「清々した」開放感を持って迎えられる。そして常識を壊すことはなんだかすばらしく格好良いことのように見える。

 でも、それは間違いだ。常識を壊してはいけないというのではない。常識は破っても壊してもかまわない。その常識が排他的だったり、あなた自身をどうしようもなく拘束してしまっているものだったりするのなら、破るべきだ。けれど常識を常識だからと破るのはやめた方がいい。何かを壊すとき、何かを破るとき、「何か」が何なのかはよく承知しておいた方がいい。

 そして常識の中には破ってはならない常識もある。最初に紹介した彼が従っているのは「会社は従業員の仕事を守るものだ」という常識だ。だから彼は常識破りと呼ばれるのを好まない。人を殺すなというのも常識の一つだ。目的は手段を正当化しないというのもこういう常識の一つかもしれない。長年人々がいろんな行動を積み重ねた結果、これだけは守っておかないとどうも人間社会というものがうまく行かないと悟った、その「これだけ」の常識。これは破ってはならない常識だ。一方で、儀礼だとか長年の…と言われる常識の中には、もう死に絶えてしまって人を縛る効果しか持たないものもある。

 けれど、この二つの違いを見分けるのは実は難しい。なぜなら常識はたくさんの人の共通の経験を集めた「なにか」であって、それが人間社会の基盤になっているのか、ただの習慣にすぎないかはちょっと見た目はわからないからだ。人間は未来を予見できない。わかるのは過去の出来事とその結果だけだ。だから過去を手がかりにして必死になって未来の行動を決定しようとする。未来の行動のよすがとなる過去の手がかりが大量に集まっているのが常識なのである。常識は分類されていないおもちゃ箱のようなものだ。ただの習慣に思えたものが、案外基盤的な要素を持っていたりするし、逆に基盤に思えたものが、案外単なる習慣にすぎなかったりする。(挨拶は習慣に見えるけれど、挨拶がない社会というのは非常にすみにくいということが立証されている。結婚して子供を産むのが日本社会の基盤のように見えるが、そうなったのは戦後になってからだ)。

 ではどうすれば見分けれるのか。スマートな見分け方は私にもわからない。自分が自分の生き方をして、どうしてもこれは譲れないというものと常識がぶつかってしまった時。実はその時、その常識が本当に基盤的なものか、それとも慣習として破ってもかまわないものかが試されているのだと私は思う。基盤的なものであれば、きっと個々人の生き方の自由が生かされる道がどこかに存在しているー人を殺すなという常識に抜け道があるようにー。単なる習慣的なものなら非常に排他的な圧力が生まれる。自分の生き方だとか楽しく必死になってもがいている日々の営みがあって初めて常識の価値がわかるのかもしれない。

 本当に真剣な常識破りが世の中にたくさんある社会こそが、人が人として生きやすい社会なのではないだろうか。不必要な排他性や拘束はないけれど、しなやかな決まり事はきちんと守られているという意味で。

「新しい」?時代

新年、政権が変わったこともあってか、「新しい時代」だとか「新たな胎動」といって見出しを見ることが多くなった気がする。根っからへそ曲がりで、天の邪鬼なものだから、こうした見出しを見ると「ほんと?」と突っ込みを入れたくなる。9.11の後、世界が変わったと言われた。3.11そしてFUKUSHIMA。世界は変わるのだと言われている。「レス・イズ・モア」というタイトルの記事が生活を啓蒙するのがうたい文句の雑誌を飾っている。

 どうもどこかで見た風景だと、半世紀生きてきた人間は思う。オイル・ショックの時、日本中が(といっていいぐらいに、マスコミが)スモール・イズ・ビューティフルと叫んでいた。1973年の交通標語は「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」だったし、石油会社のCMでは「気楽に行こうよ」という歌が流れていた。省エネが叫ばれ、自然や環境と調和した暮らしが理想のモデルとされ、有機栽培とか無農薬という言葉が登場し…。今流行っている物事の原型は全部そろっていたような気がする。こう切り出したからといって、今の時代風潮が70年代の焼き直しだと言いたいわけではない。ただ、「新しい…」には落とし穴があるということを言っておきたいと思ったのだ。

 新しいことがなぜか無条件によいと思われがちな国に私たちは住んでいる。これはどうしようもないことだ。なにせ新しいものはいつも「外」から来て、そしてそれはいつも「自分たちのものより優れている」と思わされるものだったのだから(韓半島から、中国から、そして欧米から)。だからこそ「新しい」には注意が必要だ。新規なものに対して、あるいは新たな経験や挑戦に対して慎重になれといいたいのではない。「新しい」がついて喧伝されるものに対して、慎重になって欲しいのだ。それは本当に新しいのかー単に古いものの上に新しそうな皮を着せただけではないのか、それは本当によいのかー単にうたい文句だけのものに終わっていないか、それは自分に合っているのかー単に流行だからになっていないか。「新しい」という形容詞がついたものに出会ったら、とりあえずこの3点は点検してみて欲しい。というのも、この国では「新しい」ことは消費されては捨てられていく運命に逢うからだ。新しさが「目新しさ」の別名で、単純に外面の新しさが通用してしまいがちなところで、本当に新しいものと目先だけ新しいものが競い合っている。こういうとき、得てしてわかりやすい新しさの方が先に目立ち、脚光を浴びる。やがてわかりやすい新しさが忘れ去られるとき、わかりにくかったけれど本当は大切だった新しさも、わかりやすい新しさと一緒くたにして捨て去られてしまったりする。だから「新しい…」には出会ったら、慎重に見極めて欲しいのだ。 

 なんだかわかったようなわからないような議論かもしれない。では私の友人が作ったたとえ話を紹介しよう。あるところに老夫婦二人でやっている豆腐屋があった。二人きりで作っているので量はたくさんできないが、丁寧に作っているので、近所では贔屓にしている人が多かった。ある時、この豆腐屋がテレビの取材を受け、全国的に評判となり、客が押しかけることになった。近所のお客さんが豆腐屋に出かけても売り切ればかり。銀行は増産を勧め機械化のための融資をするという。夫婦の息子は銀行の話に乗って機械化と増産をした。けれど機械化で手作りの良さがうしなわれ、全国からの客は潮が引くようにいなくなってしまった。近所のお客は、売り切れ続きに嫌気をさして、別の豆腐屋さんのお客になってしまっていた。結局老夫婦は豆腐屋をやめることになってしまった。さてどうだろう。元々あった良さや大切なものが、流行やブームの中でその良さをうしない、ついに飽きられるという図式は結構あちこちにないだろうか。「新しさ」に慎重になって欲しいというのは、こうした現象がこの国では多発しているからだ。ことは流行の店、流行のファッションに限らない。考え方、働き方といった形にならない、人の生き方に関わるようなことでも同じようなことが起きている。たとえば「フリーター」という生き方。今では信じられないかもしれないが、バブル最盛期の頃、この言葉のイメージは「かっこいい!」だった。会社の奴隷にならない、世の中の「通常の」「お仕着せの」価値観やレールを飛び出した、自由な若者の新しい生き方だった。さて、今流行の「ノマド」な生き方や働き方。同じような言葉でもてはやされていないだろうか。キーワードは全く一緒。もてはやし方も全く一緒。そして事の本質をどこかで外している(かもしれない)ところでも全く一緒…なのではないかという危惧を抱いている。

 今、事の本質という言葉を使ったけれど、この「事の本質」すら流行の惹句である(だから要注意)。本当の「事の本質」というのは、誰か他人が言ったことの中にはなくて、自分自身で確かめるしかないのではないかと思う。とはいえ、私自身はといえば、実は自分自身だけで確かめてはいない。いつも頼りにしている準拠枠がある。時々ここでも紹介しているJ.S.ミルだ。彼が生きていたのは19世紀の半ばだし、場所はイギリス。時代も地域も国柄も違っている。でも彼の言葉を読んでいると頷いたり、そういう見方もあるのかと驚いたり、これはここにも通じるなと感心したりすることが多い。だから何か新しいものに出会うと、ミルだったらどう考えるのかなと考えてみる。個人の自由を大切にする彼だったら、体罰に関して何を言うだろう?規律と自由を矛盾するというだろうか?会社人間をどう考えるだろう?ノマドワークっていうけれど、本当に自由だっていうだろうか、そんな風に色々と考えてみる。そうしている内に、あれ?これって…と当たり前に受け入れてしまったことに疑問が湧いてきたり、見直してみたりということが起こる。自分一人だとなかなか考えが及ばなかった事柄に、彼だったら…と考えるだけで、別の見方ができたりする。一人で考えるのはめんどくさいし、うっとうしいのだけれど、ミルと会話していると考えると結構楽しい(何せ、いつ呼び出しても文句も言わず、ややこしい話でもとことんつきあってくれるなんて、現実の友人でもなかなかそうはいかない。そんな得難い相手でもある)。

 こんな風に一緒に考えたり、会話を続けていて気がついたことがある。それは枝葉的なことと、根本的なことの区別、そして根本的なことを考えるために自分なりの基準を持っておくことの大切さだ。彼は当時の制度の批判勢力として流行になっていた社会主義に賛同しながらも、質問を投げかける。現在の制度(個々人が財産権を持ち、互いに自由に競争する)は弱肉強食で、競争は死活をかけた闘争になっている。これに対して社会主義は理想的な未来図を描く。この両者を比べれば、旗は問題なく社会主義の方に揚がる。けれどそれは不公平な比較ではないか。なぜなら現実の様々な軋轢や偏見、歴史的経緯とは無縁の理念と、現実にまみれた現状を比較しているからだ。比較するなら、社会が富を所有するという社会主義の理念と、個人がその働きに応じて所有する権利を持つという現在の理念同士を、どちらが個々人の自由を尊重するかという視点で比較すべきだと彼は言う。彼の死後、社会主義はソビエト連邦等、現実の存在として実現し、やがて消滅した。その大きな要因に個人の自由が抑圧されていたことがある。そして社会主義が消滅した時、現在の制度の勝利だ、現在の自由な競争市場が正しいのだといった人たちがいた。ミルなら、そういう人たちに対しても苦言を呈するだろう。現在の制度が個々人の自由を実現できているのかと。

 現実を肯定する姿勢あるいは逆に批判し否定する姿勢。こうした姿勢を私たちは評価しがちだ。けれどそれは本質や根本ではない。何を基準にしているのか、何を理念として大切にしているのか。その根っこがあって初めて批判や肯定という姿勢がある。この根本を無視して、「現状を批判しているから”いい”」なんていうのはナンセンスだ、ということを私は彼から学んだ。なんだか日常生活と遠い話に思えるかもしれない。でも「新しい時代」といわれる時、その新しさで何を大切にしていくのか、何を根本においているのかを問うことなく、ただ新しいだけでは、本末転倒になったり、流行り廃りに浮かれ消費されてしまって結局元の木阿弥になってしまわないだろうか。

 例えばの話「無農薬野菜」が流行だけれど大量にそして簡便に無農薬野菜を作ろうと思えば、遺伝子組み換え野菜を作るのが一番になりかねない。病虫害や雑草に強い遺伝子組み換え野菜であれば、栽培中に農薬を撒く手間はいらないからだ。遺伝子組み換えが怖いというのであれば、植物工場という手もある。これならば無農薬で遺伝子組み換えではない。が、大量のエネルギーを消費する。「無農薬」で何を求めていたのだろう、何を大切にしたいと思っていたのだろう。そこを忘れるととんでもない結果を招くかもしれない。こういうことが、今「新しい」という言葉であちこちで起こっているのではないだろうか。

 何を大切にしたいのか。何を根本におきたいのか。それを見つめ、きちんと自分の中に定着させた上で、色んな物事に、新しい事柄に向き合っていってほしいと思うのだ。

ここから外へと向かう君に

今更贈る言葉と洒落るつもりはないが、今まで慣れ親しんだ場所から外へと出て行く人に、はなむけ代わりに。

 これを読んでいる君なら、行く先の人たちに「何かを教えてやる」なんて態度とは無縁だと思う。むしろ行く先々で色々なことを学ぼうとしているだろう。それはよいことなのだけれど、学ぶことばかり考えていないかい?教わろうとする謙虚な態度を批判するのではないよ。でもね、教わってばかりは貿易赤字だね。貿易赤字が累積すればその国の信用が低下するのと同じで、人同士の付き合いも貿易赤字だと長続きしない。誰かから教わってばかりの人って、いずれは信用をなくすんだよ。

 「えっ?」と不審げだね、それにちょっと不服そうだ。確かに今まで君は「教わる」姿勢で評価されてきたかもしれない。今の日本ではどこであれ、若者の「教えてください」「教わりたい」姿勢は、前向きで熱心さの証拠だと思われているからね。けれど、それって結局手抜きなんじゃないのかい。

 教わるに「」をつけたのは、教わるには二種類有るからだ。人に教えてくださいと明言する場合と、明言しない場合の二種類だ。明言した場合、教える人と教わる人が明確になる。教える側は、今まで漠然と繰り返してきた自分のやり方を明確にする必要にかられる(そうしないと言葉で教えられないから)。すごくめんどくさくて大変な作業だけれど、そうすることによって自分自身にとっても明確ではなかった自分のやり方が明確になる。あやふやだったこと、案外なおざりにしていたこと、あるいは気がつかなかったことを知るきっかけになる。教える側は大変だけど、教えた分学びも大きい。学ぶ方はどうだろう。とりあえずは受け身でかまわない。教える側が言うことを「はい」と聞いていればいい。必要なのは目を開いていること、聞き耳を立てていることだけだ(といっても、言うほど簡単なことではないことは認めるけれど)。ちょうど幼鳥が口を開けて餌を待っている感じだね。それはそれでいいことではある。おなかが空いていること、つまり自分には知識がないことを知っているし、知識を求めているわけだからね。けれど、そのままじゃいつまでたっても他人から与えられるだけなんじゃないかな?そして、これって結構楽なポジションじゃないだろうか。教える方は努力しているけれど、教えられる方は何を努力しているんだろう。傾聴の姿勢?それはコミュニケーションの基本であって、本来努力するものではないはずだよ。知識欲?でも、こういうときの君って、教わる以上のことを知ろうと努力しているかな?確かに知識欲があるというのは認めるよ。けど、その知識欲ってパソコンで検索するのとどこが違うのかな。知ってる人に聞いて、それを鵜呑みにしているだけじゃ、ウィキペディア丸写しと変わらないんじゃないかい。

 まぁそう不満そうな顔をせずに、もう一つの教わるも聞いて欲しい。もう一つの教わるは「見て覚えろ」の方。古めかしい、いまや職場環境じゃ死語になったと言われている言葉だ。だけどどんなに古くて時代遅れでも一抹の真実は詰まっているものだ。見て覚えろの場合、教える方は楽…ではない。なにせ見られている自分を意識しなくてはいけない。口で教える時と同じぐらい、自分の一挙手一動に気を配る(身体を使う仕事の場合は特にそうだけれど、身体を目立って使わない事務的な仕事でも仕事の手順を再度考える事でもある)。実は「見て覚えろ」は口で教えることよりも教える側の力量をより試される方法でもある。なぜって「教えてください」と言われていないからだ。自分自身の行動を学ぼうという人間がいることを敏感に察知する力量がまず必要になってくる。そして面白いことに、教わる側はそういう力量のある人の技を見て覚えようとするものだ。口で教えてくださいは誰にでもいえるけれど、「あの人のように…したい」と心で思える人は数少ないはずだ。まずそこで君は自分の頭と感性を使っている。そして実際に教えてもらうときは、明言していないからこそ「何がその仕事のこつになっているのか」「どうすればうまくいくのか」「その人独自の工夫は何で、それを自分がやるとすればどうすればいいのか」と様々に考えを巡らしながら、その人を観察することになる。明言して教えてもらう場合は、目と耳だけで良かったけれど、「見て覚えろ」の場合は目と耳と手足と頭が必要になる。そして一人として同じ頭を持っていないから、同じ人から「見て覚え」ても、実際に行動に移すとなると、それぞれ自分自身のやり方にこなれるまでの時間が必要だ。なにしろ「言葉」になっていないのだから、自分自身のものにしないと実行できない。そう、「見て覚える」ためには「自分が」という自分軸が必要になる。

 どうだい。どっちの「教わる」を多くやってきたのかな、今までの君は。言葉でのやりとりだけの「教わる」だと、教える側の情報を一方的に君は受け取るだけになりがちだ。教える方は、自分のやり方をふり返り、さらに良いものにするヒントを得ることができるから、最初は喜んでやり方を教えてくれるだろう(もしそれに気がつかずに単純に教える優越感だけに浸るようだったら、そんな人から教えてもらうのは辞めた方がいい)。けれど、いつまでたっても君が「教えてください」だったら…。心密かに「いったいこいつは何をしに来たんだろう」って疑問を持つはずだ。教えても教えても、さらなる「教えてください」で自分なりの工夫が見えないからね。教える人が優れた人であればあるほど、自分のクローンは作りたがらないものだ(もしクローンを作りたい人だとしたら、そういう人は避けた方が無難だ。自意識過剰だったり、部下を増やしたがる独裁者だったりする可能性が高い)。だからいつか「で、君はいったい何をしたいんだい」というような台詞が出てくることになる(もしくは静かに見捨てられる)。言葉のない「教わる」は、必死になって見よう見まねでぎこちない段階から、やがて自分なりに消化しスムーズに動ける段階へと移行する。教わる側も自分自身が変化したことを実感できるだろう。教える方も、君の成長を実感するし、自分のやり方の良し悪しを君を通して知ることができる。見て覚える方は、案外双方向的な「教える/教わる」関係なんだ(本来はね。もし上下関係がきついとか、一方的にやり方を押しつけられるのだとしたら、それは「見て覚える」じゃない)。だから教える方は面白い。もっと色々一緒にやりたくなる。新しいことを一緒に始めたくなる。

 最初に「教わる」だけじゃ貿易赤字で信用をなくすと書いたわけはもうわかってくれただろうか。この話を書こうと思ったのには、外の世界できっと新しい経験に出会う君に、その経験を受け身で受け取って欲しくはないからだ。どんな素晴らしい経験も受け身の間は「うわぁ~…」で終わってしまう。もっと悪い場合は「こんなすごい経験をした私」なんて変な優越感を生んでしまう。そうならないためにも、二つの教わるの違いは知っていって欲しい。

 それともう一つ。教えてください、僕にはわかりません。教えてください、まだまだ未熟ですから。教えてください…。「教えてください」は言い訳代わりにも使えるよね。こういう教えてくださいとは今ここで縁を切っていった方がいい。そんな甘いことはもう通用しない。最初っから成功する、うまくやることは期待されていない。けれど何もかも一から教えるような手間暇を君一人にかけるほど、相手は時間や費用があるのだろうか。うまくできなくても、見よう見まねで不器用でも、とにかく相手のやっていることを自分なりにやってみる。失敗したら…絶対確実に怒られるし、恥をかく。けれど学ぶことはできる。最初から「教えてください」は謙虚に見えるけれど、実は自分が傷つかないための予防線じゃないのかな。違う?違うなら違うところを見せて欲しい。自分は教えてくださいと言うけれど、けして甘えているわけでも、出来合いのやり方を欲しているわけでもないことを。自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身で新しい物事をどん欲に吸収しようとしていることを。

 少しばかりきつい言葉を書いたかもしれない。けれど、私自身は結構優しい初歩の初歩を書いたつもりだ。なぜって人と人との付き合いは双方向で相互関係(レシプロシティ)が大原則だと思うからだ。どこへ行っても「教わりたい」というのは簡単だけれど、「教えたい」と思わせるのは難しい。でも、自分が~したいという自分軸で動いている人には「教えたい」と手をさしのべる人が出てくるものだ。

悪縁・奇縁

このところ「異業種交流会」が再びはやりだしている。かつて異業種交流会といえば、その名を借りた名刺交換会だったが、この頃のは「…ソーシャル」とかカタカナがついていて、名刺ではなく名札をつけ、ソーシャルゲーム等を使ったりして、ランダムに人をまぜこぜにするのが売りになっているようだ。いろんなキャッチフレーズが使われるけれど、一言で言ってしまえば「ご縁を大切に」だろう。

 同じようなことは近頃の「元気な若者」の交流会でもそうだ。仲間内で集まるのではなく、社会人や外国籍の人との交流をうたっている。こちらも一言で言えば「異なった人との出会いを楽しもう」だろう。

 でも、不思議なことに、どちらの交流会も「近所のおっちゃんやおばちゃんが来まっせ」とはいわない。ご縁を大切にするのなら、別段読んでも不思議じゃない。異なった人との出会いをうたうのなら、まさに世代が異なった人だ。でも、呼ばない。(例外は近所のおっちゃんが、世界的に有名な中小企業の経営者だったり、近所のおばちゃんが、名高い女性起業家だったりする場合だろうーたぶん)。

 縁や出会いを大切にする。その言葉はすっごくきれいだし、すごく大切なことではある。人生の根本的なところを支えてくれているものでもある。ではあるけれど、どうもこの頃、人間は贅沢になってきたようだ。「いや、いい人に出会えました」と言うとき、大人であれば自分のビジネスのヒントになったとか、自分の生き方を見直すきっかけになりそうだという感じだろう。若者の場合は「就活の参考になった」とか「人生の先輩(ロールモデル)を得た」という感じだろう。どれも普通に言われる言葉であるし、それそのものが悪いというのではないけれど、これってどうも「役だった」と行っていることなのじゃないかと勘ぐってしまいたくなるのだ。近所のおばちゃん、おっちゃんが呼ばれないのは、おばちゃんやおっちゃんの話など「役に立つはずがない」と思われているからではないのだろうかと思ってしまうのだ。縁を大事にと言いつつ、大事にされるのは役に立つ「良縁」だけなのではないだろうかと思ってしまう。

 実はこう思いだしたのは、交流会がきっかけではない。若い人の自己向上欲求や自己実現欲求が過剰に強いのじゃないかと思い始めたからだ。といっても彼らが傲慢だというのではない。たいてい彼らは「勉強したい」「勉強させてください」と言う。自分は~を知らないから、自分には~という経験がかけているから、だから…と言う。彼らの行動には常に目的がある。そしてその目的は大概「役立つ」ということになる。(何に役立つのかは結構はっきりしなかったりする。漠然と自己実現とか、自分が成長するためにだったりするのが又不思議なのだが)。大学の講義でも今役に立つことを求められることが多い。ざっくばらんな話、私みたいに思想史なんて現代社会に無縁の科目を持っていると、何人かの元気な学生から同じ質問を受けるのだ。「先生、これって何の役に立つのですか?」私の答えは決まっている。「役に立たないよ」。その答えに学生は納得がいかないような、奇妙な顔をして立ち尽くす。まぁ理屈はつけられるし、講義を受けて何も得られないというのも何だから、わざと頭をひねってもらわないといけないような課題を出して、学生を困らせることにしている。少なくとも、頭を使って文章を書く練習として役に立つからだ。けれど、中身に関して言えば、はっきり言って「役に立たない」。近所のおっちゃんやおばちゃんと一緒なのだ。

 近所のおばちゃんやおっちゃんは、それぞれの人生を生きている。その生きてきた年数分だけ、独自の知恵を持っている。それはあまりにも独自すぎて、自分自身にとって役に立たないかもしれないし、逆に余りに平凡すぎて、既に知っている事柄に過ぎないのかもしれない。けれど「その人だけのもの」として存在している。私のやっている講義の中身も、古い昔のそれも外国の名前も知らない人の考えの解説でしかない。けれどそれはその昔の人がさんざん頭を絞って考え出した、「その人の考え」であり、古典として今まで多くの人に参照されてきた歴史を持っている。こうしたものは、即座にそして手軽に自分のものとするわけにはいかない。だから「役に立たない」。いずれどこかで役立つだろうということも考えず、できればおもしろがって聞いたり読んだりできると一番だ(退屈でもいいのだけれど、それだと余り行く通かもしれない)。

 けれど、私は存外こうした役に立たないものの方が、今自分に役立つ人脈や交流あるいは知識や情報よりも、大切なのではないかと思う。

 先ほどの縁という言葉をここで使うとしたら、良縁ではなく、悪縁や奇縁の方が大切なのではないかということだ。

 悪縁といっても、わざわざ騙されろとか、悪人とつきあえという意味ではない(念のため)。腐れ縁といってもいい。あいつとつきあったらいつもなんか損したていうか、めんどくさい羽目になるんだよな~。でも、あいつに頼まれたら、何となく引き受けてしまうんだよね~…なんて思える人がいたら、その人との縁が「悪縁」。奇縁は偶然に出会ってしまって、自分の意志はどこへやら、気がついたら巻き込まれてしまっていた…というやつ。これはごくごく珍しくて、出会うことが希だ。この二つの縁を私は大切にして欲しいと思う。

 というのは「良縁」は「今現在」の自分にとって役に立つ縁だからだ。今現在の自分にとって役立つ縁が、5年後、10年後の自分にとっても役に立つ縁かどうかはわからない。もし良縁ばかりを求め続けるのならば、良縁が良縁でなくなったら、つまり自分にとって役に立たない関係になったら、その人やその場所との関係を切断することになるだろう。良縁は続かないのだ。続かない縁(えにし)は積もっていくことはない。縁と縁が積み重なり結ばれ逢うことがない。ここでの「むすび」はひもを結ぶほうではなく、おにぎりを結ぶほうだ。一つ一つの縁(米粒)がちゃんと形を保ちながらも、積み重なりあって美味しいものを作り上げていく。そんな「むすび」だ。その時々に役立つことで結ばれた良縁は、こうした結びを作ることができないのではないかと思う。

 では、悪縁はどうか。悪縁をもたらす人や場所の周りには、その被害にあった人たちがたくさんいる。被害者同盟ができるほどいる。なぜってみんな「しゃ~ないな~」と思いながら、その縁(えにし)を断ち切れずにつきあっている人たちだからだ。長年のつきあいの人も居れば、つい最近悪縁に連なったという人もいるだろう。なにせ被害者だから、悪いことややこしいことがあって当たり前。性懲りもなく悪縁につきあっている仲間同士という機運がどこかにあって、なんとなく悪縁をもたらす人や場所を種にして、互いに結ばれあっていく。積み重なる縁が出来上がっていく。

 奇縁となるとこれは出会うのが希なので、なおさら貴重だ(今の日本では絶滅危惧種に指定してもいいぐらい)。「えっ」という声を上げるまもなく、事態がなにやらわからぬまま、巻き込まれてしまった当事者同士。いったいどないしたんやろと、隣の人に聞いても、隣の人も「さぁ~またとんでもないこととちゃいます?」。何が目的で何が出てくるのやらわからないまま事態が進み、はっと気がついたら自分が責任者になっていたりする。「うわっえらいもんに出会うてしもた!」と思っても後の祭りというやつ。これはもうあきらめるしかないのだが、こういう奇縁をもたらす人の周りには、絶対同じぐらい奇縁を持った人がいて、次から次へと奇縁に巻き込まれることになる。そうなったらしめたもの。しんどくて、苦労もして、傷つくことも多いだろうが、退屈とは無縁の時間を過ごすことができる。そしてそこで出会った同じ巻き込まれ被害者は、苦労をともにしたかけがえのない仲間になることだろう。事のついでにいうと、奇縁の苦労話は暗くならない。なにせ奇妙なのだから、腹を抱えて笑ってしまうことになる場合が多い。世にも珍しい(と当事者たちは思っている)経験を共にしたという点では、秘境探検団みたいな奇妙な連帯感を持った仲間の輪の中にあなたはいるだろう。変わり種おむすびのようなものかもしれない(食べるのに勇気がいるところも)。

 悪縁も奇縁も、今のあなたには役に立たない。それどころか、逆に損や苦労をもたらすことの方が多いかもしれない。でも、それを面白がれるかどうか。自分を磨きたいと思う人は、それが試金石だと思ってみてはどうだろう。役に立つことはいずれは陳腐になる。今役に立つことで自分を磨いたとしてもたかがしれている。げぇ~と叫びたくなる経験に出会って、はじめてあなたは、今まで自分が出会えなかったあなたの中の新しいあなたに出会えるのだと私は思っている。

私が居るところ

人は皆平等だという。でもこの社会から「見えなくなってしまった」人たちがいる。この社会のある種の規格から外れてしまった人たちである。いわゆる障碍者のことだけをいっているわけではない(もちろんその人たちも含むのだけれど)。「普通」と考えられている基準・規格を少し外れると、あなたも私も容易に「周囲からは見えない」存在になる。例えば足を骨折したとしよう。その途端、普段は何とも思わなかったエスカレータの下りが恐怖のジェットコースターになる。一歩を踏み出せず躊躇するあなたの周りを、人々は一定の範囲を見事に保ちながら、通り過ぎていくだろう。まるでそこに透明な壁があるかのように。あなたは歩きながら思わず独り言を言ったり、携帯プレーヤーにあわせて小さく鼻歌を歌ったことはないだろうか。もしその独り言や歌声が、一定の音量を超えたとしたら…。あなたの周りにはやはり透明な壁ができる。周りの人はあなたが存在しないかのように、でもあなたには近づかないように、通り過ぎていく。

 ほんの少し、「普通」の境界を越えてしまうと、あなたはこの社会の人ではなくなり、居場所をうしなう。いくら「人間は平等だ」といっても詮のないことである。

 そして社会はこうした人に便利なレッテルをつけて分類する。障碍者・LD・発達障碍…そして通常の社会ではないところにしまい込んで見えなくしてしまう。こうした施設の現場の人が、そこをその人たちの居場所にしようと頑張っていたとしても、その人たちやその人たちのことを知悉している人、その協力者がどんなに声を上げたとしても、第一義的にその場所は見えなくするシステムの一部でしかない。その人たちの「居場所」ではない。

 同じことは今回の震災の被災者支援にもいえる。仮設住宅や避難施設で暮らしている間は「被災者」であり、保護の対象である。けれど一歩そこから出て暮らし始めると、もう被災者ではないかのように扱われる。いや正確には、その人たちの「被災」が見えなくなってしまう。逆に仮説や避難施設の人たちの「被災」は、支援対象になっている、その人たちのために安全な場所にいる私たちは十分に支援を、募金をしていると思っていることで、見えなくなってしまっている。

 では私たち、普通に正常に暮らしている私たちには居場所があるのだろうか。癒しブーム、占いやスピリチュアルなものに惹かれる人たち、生き甲斐や働きがいを求める老若男女…。さらには『今ここでいきる…』『置かれた場所で…』といった題名の数々の本。
 どうも私には、今の日本で「居場所」を持っている人が少ないような気がしてならないのだ。「普通」というわずかな幅の線上で、ひたすら「普通」であり続けるために必死になりすぎて、「普通」であることに疲れた人たちが、安全に「普通」から逃れるために農村や、テーマパークや、お手軽な神秘体験に自分を癒してくれる「居場所」を求めて苦闘しているように思えてならない。

 「居場所」。私は単なる住居や働く場所ではなく「自分がそこにいていい場所」という意味で、この言葉を使っている。「そこにいていい」には三つの意味があると思う。「そこにいていいよ」と受け入れてくれること、もう一つは「そこにいていい」と自分自身が思えること、そして最後のもっとも重要な「そこにいていい」と必要とされること。この三つが揃うことは滅多とないが、もし揃ったらそこ(場所とは限らない、ある人だったり、仲間だったりするかもしれない)は、あなたにとって掛け替えのないところになるだろう。この点で居場所と恋愛はひどく似ている。恋をしているとき、相手に受け入れてもらいたいと思う。相手が好きだと自分が思う。そして相手にとって必要な人でありたいと思う。この三つを二人の人間が共有できたとき、両思いになる訳だけど、世の中、そんなにうまくいくものではない。自分が相手を思っていても、相手はそうは思っていないかもしれない。相手が受け入れてくれているのに、自分が片意地に(あるいは誤解して)排除されていると思う場合もある。そして一番難しいのが「必要であること」。必要不可欠な存在でありたいと思うあまりに、相手を束縛する。自分を必要としてほしいと思うあまりに、相手を過保護にする。

 居場所も同様だ。自分が居場所だと思っている所、ここを居場所にしようと思い、そのためには…と熱意をかけても、それが片思い…どころか一方的な押しつけでしかない場合がある。そんな時、あなたのその熱意は、その土地の人や、相手にとっては厄介なものでしかない。少なくとも恋愛であれば、関係当事者の範囲はごく狭いだろうが、居場所となるとそうはいかない。多様な利害と、多様な欲望と、多様な関心や価値観を持った人が集まってくる。その中で自分の思いを届け、実現しようと必死になるだけでは、居場所にはならない。相手の話に正面から向き合わなければ何事も始まらない。逆に、ここがあなたの居場所ですよと受け入れてくれていても、どうしても居場所とは思えないときもある。それが本当に自分には合わない場所のときもあれば、そのとき自分自身では気がつかなかった自分自身の場所である場合もある。私自身がその典型例で、研究職という居場所を一度あきらめた人間だ。でも結局、その場所に戻ってきた。やはりどうやらここが私の居場所らしい。逆に周囲の押しつけを鵜呑みにして後悔する場合もあるだろう。似合いのカップルだからと言われ、何となくつきあってみたら、全然気が合わなかったようなものだ。就農支援事業で、農村に住まいを移し、そこで生きていこうと一旦は決心したものの、数年もたたずに村を出てしまわなくてはならなくなる。どちらが悪い訳ではない。最初にボタンのかけ違えや幻想があっただけのことだ。けれど、双方に深い傷を残してしまう。そして必要であることはもっとも難しい。その場所、その人たちに対して、自分は何ができるのかを常に考えなくてはならない。と同時に、必要とされることに慣れきってしまってもいけない。「必要とされる」ことは、凄く甘美な誘惑だ(恋愛でも)。けれど、結果的に、あなたに頼り切った居場所が出来上がってしまう。やがてあなた自身にとって居心地の悪い、責任の重いだけの場所に変化してしまう。そして、居場所に集う人たちにとっては、自分が取り立てて必要とされていない場所、つまり居場所ではない場所になってしまう。

 恋愛でも近頃は「婚活」関連の商売が成立しているが、居場所に関しても「居場所作り」が商売として成り立っている。中には地域全体を「都会人の癒しの場所」に仕立て上げるというものまである。そういうのにうかつにのると、居場所を作りたいと思った人も、受け入れたいと思った側も悲惨な結果に終わる場合がほとんどだ。

 恋愛と同じで、居場所も最後は自分自身がどうするか、どう思うかにつきるのだ。そして、恋をしようと思って必死になっていても、恋をすることはできない(なぜってそれは恋に恋しているだけで、相手のことを無視しているのだから)。それと同じように、居場所を作ろう、作ろうと必死になっていても、居場所を作ることはできない。居場所作りをする自分によっているだけに終わってしまったりする。居場所を外に求めるのではなくて、自分自身に居場所を問いかける方が良いだろう。その時、何よりも重要なのは、自分が自分自身のことを長所も欠点も含めて受け止めているのか、自分自身が周囲に正直なのかどうかということだ。「いてもいい場所」で嘘をついていても長続きしない。

 それが嫌だというのなら、あなたは結局自分にとって都合のいい「居場所」だけを求めていることになる。 自分自身にとってだけ居心地のいい「居場所」をつくることは、いつか自分自身がその居場所から排除される可能性を秘めている。自分がその都合のいい居場所の条件から外れるかもしれないからだ。また元通り細い幅の線上を歩くことになりかねない。自分自身の居場所が常に存在するためには、どんな人にもそれぞれの「居場所」があることが大切になってくるだろう。それは案外簡単なことかもしれない。
 自分の居場所を本当に作りたいと思うのなら、互いに正直であるだけでいいのだから。互いに正直であることは、きれいごとを言わないということでもある。障碍を持つ相手に生理的に嫌悪感を持つこともあるかもしれない。その嫌悪感を持つ自分と向き合い受け止め、なおかつその上で相手とどうつきあうかを考えるということだ。「悲惨な」「かわいそう」というレッテルではなく、一人の人間としてどうつきあうかを考えるということだ。