「新しい」?時代

新年、政権が変わったこともあってか、「新しい時代」だとか「新たな胎動」といって見出しを見ることが多くなった気がする。根っからへそ曲がりで、天の邪鬼なものだから、こうした見出しを見ると「ほんと?」と突っ込みを入れたくなる。9.11の後、世界が変わったと言われた。3.11そしてFUKUSHIMA。世界は変わるのだと言われている。「レス・イズ・モア」というタイトルの記事が生活を啓蒙するのがうたい文句の雑誌を飾っている。

 どうもどこかで見た風景だと、半世紀生きてきた人間は思う。オイル・ショックの時、日本中が(といっていいぐらいに、マスコミが)スモール・イズ・ビューティフルと叫んでいた。1973年の交通標語は「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」だったし、石油会社のCMでは「気楽に行こうよ」という歌が流れていた。省エネが叫ばれ、自然や環境と調和した暮らしが理想のモデルとされ、有機栽培とか無農薬という言葉が登場し…。今流行っている物事の原型は全部そろっていたような気がする。こう切り出したからといって、今の時代風潮が70年代の焼き直しだと言いたいわけではない。ただ、「新しい…」には落とし穴があるということを言っておきたいと思ったのだ。

 新しいことがなぜか無条件によいと思われがちな国に私たちは住んでいる。これはどうしようもないことだ。なにせ新しいものはいつも「外」から来て、そしてそれはいつも「自分たちのものより優れている」と思わされるものだったのだから(韓半島から、中国から、そして欧米から)。だからこそ「新しい」には注意が必要だ。新規なものに対して、あるいは新たな経験や挑戦に対して慎重になれといいたいのではない。「新しい」がついて喧伝されるものに対して、慎重になって欲しいのだ。それは本当に新しいのかー単に古いものの上に新しそうな皮を着せただけではないのか、それは本当によいのかー単にうたい文句だけのものに終わっていないか、それは自分に合っているのかー単に流行だからになっていないか。「新しい」という形容詞がついたものに出会ったら、とりあえずこの3点は点検してみて欲しい。というのも、この国では「新しい」ことは消費されては捨てられていく運命に逢うからだ。新しさが「目新しさ」の別名で、単純に外面の新しさが通用してしまいがちなところで、本当に新しいものと目先だけ新しいものが競い合っている。こういうとき、得てしてわかりやすい新しさの方が先に目立ち、脚光を浴びる。やがてわかりやすい新しさが忘れ去られるとき、わかりにくかったけれど本当は大切だった新しさも、わかりやすい新しさと一緒くたにして捨て去られてしまったりする。だから「新しい…」には出会ったら、慎重に見極めて欲しいのだ。 

 なんだかわかったようなわからないような議論かもしれない。では私の友人が作ったたとえ話を紹介しよう。あるところに老夫婦二人でやっている豆腐屋があった。二人きりで作っているので量はたくさんできないが、丁寧に作っているので、近所では贔屓にしている人が多かった。ある時、この豆腐屋がテレビの取材を受け、全国的に評判となり、客が押しかけることになった。近所のお客さんが豆腐屋に出かけても売り切ればかり。銀行は増産を勧め機械化のための融資をするという。夫婦の息子は銀行の話に乗って機械化と増産をした。けれど機械化で手作りの良さがうしなわれ、全国からの客は潮が引くようにいなくなってしまった。近所のお客は、売り切れ続きに嫌気をさして、別の豆腐屋さんのお客になってしまっていた。結局老夫婦は豆腐屋をやめることになってしまった。さてどうだろう。元々あった良さや大切なものが、流行やブームの中でその良さをうしない、ついに飽きられるという図式は結構あちこちにないだろうか。「新しさ」に慎重になって欲しいというのは、こうした現象がこの国では多発しているからだ。ことは流行の店、流行のファッションに限らない。考え方、働き方といった形にならない、人の生き方に関わるようなことでも同じようなことが起きている。たとえば「フリーター」という生き方。今では信じられないかもしれないが、バブル最盛期の頃、この言葉のイメージは「かっこいい!」だった。会社の奴隷にならない、世の中の「通常の」「お仕着せの」価値観やレールを飛び出した、自由な若者の新しい生き方だった。さて、今流行の「ノマド」な生き方や働き方。同じような言葉でもてはやされていないだろうか。キーワードは全く一緒。もてはやし方も全く一緒。そして事の本質をどこかで外している(かもしれない)ところでも全く一緒…なのではないかという危惧を抱いている。

 今、事の本質という言葉を使ったけれど、この「事の本質」すら流行の惹句である(だから要注意)。本当の「事の本質」というのは、誰か他人が言ったことの中にはなくて、自分自身で確かめるしかないのではないかと思う。とはいえ、私自身はといえば、実は自分自身だけで確かめてはいない。いつも頼りにしている準拠枠がある。時々ここでも紹介しているJ.S.ミルだ。彼が生きていたのは19世紀の半ばだし、場所はイギリス。時代も地域も国柄も違っている。でも彼の言葉を読んでいると頷いたり、そういう見方もあるのかと驚いたり、これはここにも通じるなと感心したりすることが多い。だから何か新しいものに出会うと、ミルだったらどう考えるのかなと考えてみる。個人の自由を大切にする彼だったら、体罰に関して何を言うだろう?規律と自由を矛盾するというだろうか?会社人間をどう考えるだろう?ノマドワークっていうけれど、本当に自由だっていうだろうか、そんな風に色々と考えてみる。そうしている内に、あれ?これって…と当たり前に受け入れてしまったことに疑問が湧いてきたり、見直してみたりということが起こる。自分一人だとなかなか考えが及ばなかった事柄に、彼だったら…と考えるだけで、別の見方ができたりする。一人で考えるのはめんどくさいし、うっとうしいのだけれど、ミルと会話していると考えると結構楽しい(何せ、いつ呼び出しても文句も言わず、ややこしい話でもとことんつきあってくれるなんて、現実の友人でもなかなかそうはいかない。そんな得難い相手でもある)。

 こんな風に一緒に考えたり、会話を続けていて気がついたことがある。それは枝葉的なことと、根本的なことの区別、そして根本的なことを考えるために自分なりの基準を持っておくことの大切さだ。彼は当時の制度の批判勢力として流行になっていた社会主義に賛同しながらも、質問を投げかける。現在の制度(個々人が財産権を持ち、互いに自由に競争する)は弱肉強食で、競争は死活をかけた闘争になっている。これに対して社会主義は理想的な未来図を描く。この両者を比べれば、旗は問題なく社会主義の方に揚がる。けれどそれは不公平な比較ではないか。なぜなら現実の様々な軋轢や偏見、歴史的経緯とは無縁の理念と、現実にまみれた現状を比較しているからだ。比較するなら、社会が富を所有するという社会主義の理念と、個人がその働きに応じて所有する権利を持つという現在の理念同士を、どちらが個々人の自由を尊重するかという視点で比較すべきだと彼は言う。彼の死後、社会主義はソビエト連邦等、現実の存在として実現し、やがて消滅した。その大きな要因に個人の自由が抑圧されていたことがある。そして社会主義が消滅した時、現在の制度の勝利だ、現在の自由な競争市場が正しいのだといった人たちがいた。ミルなら、そういう人たちに対しても苦言を呈するだろう。現在の制度が個々人の自由を実現できているのかと。

 現実を肯定する姿勢あるいは逆に批判し否定する姿勢。こうした姿勢を私たちは評価しがちだ。けれどそれは本質や根本ではない。何を基準にしているのか、何を理念として大切にしているのか。その根っこがあって初めて批判や肯定という姿勢がある。この根本を無視して、「現状を批判しているから”いい”」なんていうのはナンセンスだ、ということを私は彼から学んだ。なんだか日常生活と遠い話に思えるかもしれない。でも「新しい時代」といわれる時、その新しさで何を大切にしていくのか、何を根本においているのかを問うことなく、ただ新しいだけでは、本末転倒になったり、流行り廃りに浮かれ消費されてしまって結局元の木阿弥になってしまわないだろうか。

 例えばの話「無農薬野菜」が流行だけれど大量にそして簡便に無農薬野菜を作ろうと思えば、遺伝子組み換え野菜を作るのが一番になりかねない。病虫害や雑草に強い遺伝子組み換え野菜であれば、栽培中に農薬を撒く手間はいらないからだ。遺伝子組み換えが怖いというのであれば、植物工場という手もある。これならば無農薬で遺伝子組み換えではない。が、大量のエネルギーを消費する。「無農薬」で何を求めていたのだろう、何を大切にしたいと思っていたのだろう。そこを忘れるととんでもない結果を招くかもしれない。こういうことが、今「新しい」という言葉であちこちで起こっているのではないだろうか。

 何を大切にしたいのか。何を根本におきたいのか。それを見つめ、きちんと自分の中に定着させた上で、色んな物事に、新しい事柄に向き合っていってほしいと思うのだ。