ここから外へと向かう君に

今更贈る言葉と洒落るつもりはないが、今まで慣れ親しんだ場所から外へと出て行く人に、はなむけ代わりに。

 これを読んでいる君なら、行く先の人たちに「何かを教えてやる」なんて態度とは無縁だと思う。むしろ行く先々で色々なことを学ぼうとしているだろう。それはよいことなのだけれど、学ぶことばかり考えていないかい?教わろうとする謙虚な態度を批判するのではないよ。でもね、教わってばかりは貿易赤字だね。貿易赤字が累積すればその国の信用が低下するのと同じで、人同士の付き合いも貿易赤字だと長続きしない。誰かから教わってばかりの人って、いずれは信用をなくすんだよ。

 「えっ?」と不審げだね、それにちょっと不服そうだ。確かに今まで君は「教わる」姿勢で評価されてきたかもしれない。今の日本ではどこであれ、若者の「教えてください」「教わりたい」姿勢は、前向きで熱心さの証拠だと思われているからね。けれど、それって結局手抜きなんじゃないのかい。

 教わるに「」をつけたのは、教わるには二種類有るからだ。人に教えてくださいと明言する場合と、明言しない場合の二種類だ。明言した場合、教える人と教わる人が明確になる。教える側は、今まで漠然と繰り返してきた自分のやり方を明確にする必要にかられる(そうしないと言葉で教えられないから)。すごくめんどくさくて大変な作業だけれど、そうすることによって自分自身にとっても明確ではなかった自分のやり方が明確になる。あやふやだったこと、案外なおざりにしていたこと、あるいは気がつかなかったことを知るきっかけになる。教える側は大変だけど、教えた分学びも大きい。学ぶ方はどうだろう。とりあえずは受け身でかまわない。教える側が言うことを「はい」と聞いていればいい。必要なのは目を開いていること、聞き耳を立てていることだけだ(といっても、言うほど簡単なことではないことは認めるけれど)。ちょうど幼鳥が口を開けて餌を待っている感じだね。それはそれでいいことではある。おなかが空いていること、つまり自分には知識がないことを知っているし、知識を求めているわけだからね。けれど、そのままじゃいつまでたっても他人から与えられるだけなんじゃないかな?そして、これって結構楽なポジションじゃないだろうか。教える方は努力しているけれど、教えられる方は何を努力しているんだろう。傾聴の姿勢?それはコミュニケーションの基本であって、本来努力するものではないはずだよ。知識欲?でも、こういうときの君って、教わる以上のことを知ろうと努力しているかな?確かに知識欲があるというのは認めるよ。けど、その知識欲ってパソコンで検索するのとどこが違うのかな。知ってる人に聞いて、それを鵜呑みにしているだけじゃ、ウィキペディア丸写しと変わらないんじゃないかい。

 まぁそう不満そうな顔をせずに、もう一つの教わるも聞いて欲しい。もう一つの教わるは「見て覚えろ」の方。古めかしい、いまや職場環境じゃ死語になったと言われている言葉だ。だけどどんなに古くて時代遅れでも一抹の真実は詰まっているものだ。見て覚えろの場合、教える方は楽…ではない。なにせ見られている自分を意識しなくてはいけない。口で教える時と同じぐらい、自分の一挙手一動に気を配る(身体を使う仕事の場合は特にそうだけれど、身体を目立って使わない事務的な仕事でも仕事の手順を再度考える事でもある)。実は「見て覚えろ」は口で教えることよりも教える側の力量をより試される方法でもある。なぜって「教えてください」と言われていないからだ。自分自身の行動を学ぼうという人間がいることを敏感に察知する力量がまず必要になってくる。そして面白いことに、教わる側はそういう力量のある人の技を見て覚えようとするものだ。口で教えてくださいは誰にでもいえるけれど、「あの人のように…したい」と心で思える人は数少ないはずだ。まずそこで君は自分の頭と感性を使っている。そして実際に教えてもらうときは、明言していないからこそ「何がその仕事のこつになっているのか」「どうすればうまくいくのか」「その人独自の工夫は何で、それを自分がやるとすればどうすればいいのか」と様々に考えを巡らしながら、その人を観察することになる。明言して教えてもらう場合は、目と耳だけで良かったけれど、「見て覚えろ」の場合は目と耳と手足と頭が必要になる。そして一人として同じ頭を持っていないから、同じ人から「見て覚え」ても、実際に行動に移すとなると、それぞれ自分自身のやり方にこなれるまでの時間が必要だ。なにしろ「言葉」になっていないのだから、自分自身のものにしないと実行できない。そう、「見て覚える」ためには「自分が」という自分軸が必要になる。

 どうだい。どっちの「教わる」を多くやってきたのかな、今までの君は。言葉でのやりとりだけの「教わる」だと、教える側の情報を一方的に君は受け取るだけになりがちだ。教える方は、自分のやり方をふり返り、さらに良いものにするヒントを得ることができるから、最初は喜んでやり方を教えてくれるだろう(もしそれに気がつかずに単純に教える優越感だけに浸るようだったら、そんな人から教えてもらうのは辞めた方がいい)。けれど、いつまでたっても君が「教えてください」だったら…。心密かに「いったいこいつは何をしに来たんだろう」って疑問を持つはずだ。教えても教えても、さらなる「教えてください」で自分なりの工夫が見えないからね。教える人が優れた人であればあるほど、自分のクローンは作りたがらないものだ(もしクローンを作りたい人だとしたら、そういう人は避けた方が無難だ。自意識過剰だったり、部下を増やしたがる独裁者だったりする可能性が高い)。だからいつか「で、君はいったい何をしたいんだい」というような台詞が出てくることになる(もしくは静かに見捨てられる)。言葉のない「教わる」は、必死になって見よう見まねでぎこちない段階から、やがて自分なりに消化しスムーズに動ける段階へと移行する。教わる側も自分自身が変化したことを実感できるだろう。教える方も、君の成長を実感するし、自分のやり方の良し悪しを君を通して知ることができる。見て覚える方は、案外双方向的な「教える/教わる」関係なんだ(本来はね。もし上下関係がきついとか、一方的にやり方を押しつけられるのだとしたら、それは「見て覚える」じゃない)。だから教える方は面白い。もっと色々一緒にやりたくなる。新しいことを一緒に始めたくなる。

 最初に「教わる」だけじゃ貿易赤字で信用をなくすと書いたわけはもうわかってくれただろうか。この話を書こうと思ったのには、外の世界できっと新しい経験に出会う君に、その経験を受け身で受け取って欲しくはないからだ。どんな素晴らしい経験も受け身の間は「うわぁ~…」で終わってしまう。もっと悪い場合は「こんなすごい経験をした私」なんて変な優越感を生んでしまう。そうならないためにも、二つの教わるの違いは知っていって欲しい。

 それともう一つ。教えてください、僕にはわかりません。教えてください、まだまだ未熟ですから。教えてください…。「教えてください」は言い訳代わりにも使えるよね。こういう教えてくださいとは今ここで縁を切っていった方がいい。そんな甘いことはもう通用しない。最初っから成功する、うまくやることは期待されていない。けれど何もかも一から教えるような手間暇を君一人にかけるほど、相手は時間や費用があるのだろうか。うまくできなくても、見よう見まねで不器用でも、とにかく相手のやっていることを自分なりにやってみる。失敗したら…絶対確実に怒られるし、恥をかく。けれど学ぶことはできる。最初から「教えてください」は謙虚に見えるけれど、実は自分が傷つかないための予防線じゃないのかな。違う?違うなら違うところを見せて欲しい。自分は教えてくださいと言うけれど、けして甘えているわけでも、出来合いのやり方を欲しているわけでもないことを。自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身で新しい物事をどん欲に吸収しようとしていることを。

 少しばかりきつい言葉を書いたかもしれない。けれど、私自身は結構優しい初歩の初歩を書いたつもりだ。なぜって人と人との付き合いは双方向で相互関係(レシプロシティ)が大原則だと思うからだ。どこへ行っても「教わりたい」というのは簡単だけれど、「教えたい」と思わせるのは難しい。でも、自分が~したいという自分軸で動いている人には「教えたい」と手をさしのべる人が出てくるものだ。