「伝統」と「変化」

タイトルを見て、「え?伝統って変わらないものでしょ?それと変化ってどう結びつくの?」と思う人が多いだろう。伝統的な技術たとえば西陣織に使う型紙が、現代の生活の合わせて洋服のプリントに使われ、海外で人気を博しているというような「伝統技術の新しい展開」を思い起こした人がいたら、アンテナ精度の高い人だろう。けれど、ここで話したいのは「伝統の新しい展開」ではなく「伝統は変化している」という一種逆説的な話である。

 伝統という言葉を英語だと普通traditionになるが、実はもう一つ日本語では通常慣習や約束事と訳するconventionという単語がある。ところがこの言葉は慣習だけでなく、伝統的な決まり事や振る舞い方、日本語では伝統と訳すだろうこともconventionという。ここでまず取り上げたいのは、こうしたconventionに当たるような日常的で、だからこそ変化しないと思われていることがらである。

 西欧系の人に接した人なら、彼らが座る事を大の苦手としている事にすぐ気がつくだろう。これに対して日本で生まれ育った人間は当然のように座る。では「座り方の礼儀作法」はどうだろう。座る文化を身体的な伝統とすれば、どの座り方がふさわしいかは文化的伝統ともいえる。そして通常私たちが伝統という場合はこの文化的伝統の方である。身体的な伝統が変化していないなら、文化的伝統も変化しないのだろうか。

 皆さん自身頭の中で座り方を、堅苦しい方から気楽な方、そして見苦しいというかだらしない方へと並べてみてほしい。おそらく「正座→胡座(女性の場合は横座り)→片膝立て→ヤンキー座り」となると思う(真ん中辺りは人によって違うかもしれない)。しかしこうした礼儀作法の順序が定まったのはおそらく江戸中期ぐらいだといわれている。大正10年出版の入江氏著『日本人の座り方』ですでに「正座」が非常に例外的な座り方(例えば受刑者や身分の高い人に対する庶民の座り方)であったという指摘がある。平安時代では男女とも「胡座」が正式な座り方であり、脇息を使う横座りが「気楽な」座り方、足をたてて座る形(片膝付き、両膝付き)は下人等貴人の近辺で各種用事を果たす「人間外」の者の座り方であり、正座はさらに稀な事(罪人等)であった。時代が下っても男性の場合は胡座が正式な座り方である事は、江戸城登城の絵図などでも分かる。また女性の場合も長らく韓半島と同じく片膝立ての座り方が正式の座り方であった(女性の胡座がなくなったのは、衣服様式の変化とともに胡座で座ると秘部が他人にさらされるからであったろうと著者の入江氏は推測している)。

 では正座はどうだろう。入江氏は江戸時代に入って庶民の座り方としての正座が普及して行ったのだろうとしている。けれどこれはどうも解せない。当時の庶民(大部分が農民。時代劇で見るような「町人」は大都市江戸・大阪と各城下町に限定される)が、恭順の印として正座していたとしても、日常的な座り方として正座を採用していたとは(素人ながら)考えにくいのだ。丁稚奉公等町方に修行をしに行っていた農村の子弟(女性も含む)が町方での作法として、目上の者に対する座り方として「正座」を普及させて行ったという事の方がありそうだ。

 いずれにしろ大正時代にすでに正座は高々200年かそこらの文化にすぎないと指摘されている事は確かである(その後も年代が下がりこそすれ、正座が後代の文化である事は変わっていない)。最後に「ヤンキー座り」は、北斎の絵でも分かるように。農村でも町中でも道ばた等腰をおろすのに適切な場所がないとき、ごく普通に採用される座り方だった。まとめると「胡座(女性では片膝たてか崩した正座・身分が高ければ横座り)→ヤンキー座り→正座」というのが長らく続いた伝統的礼儀作法になる。

 今やお茶でも何でも正統な「日本文化の伝統」の一つとされる正座も、さして歴史の古いものではなかったという事だ(これは面白い事に大正時代でも同じだったらしく、入江氏の本は彼の講演を書き起こして資料を追加したものだが、冒頭に日本独自の、古来からの座り方としての正座という言い回しが出ている)。

 「伝統的」とされているものが、案外新しい文化だというのはよくある事である。神社での神前結婚式も大正天皇の結婚のときに慌てて作られた儀式なので、未だに安定しないらしい。途中で指輪の交換(何のために?)があるし、「平和な家庭を作る事を誓います」なんて甲子園の選手宣誓みたいな誓詞を言わされる。

 いや、そんなことはない。身体的な作法とかは時代に合わせて変わるかもしれないし、冠婚葬祭には文明開化に合わせて急に作られた所があるだろうが、伝統文化として確立しているものは変わらないはずという人もいるかもしれない。では典型的な伝統文化である能楽を取り上げてみよう。

 能楽は室町時代、世阿弥によって大成された形を現代まで連綿と受け継いできたとよくいわれる。確かに現代日本語では決してない発音(「日月」を「にちがった」と読む。ちなみにこの発音はハングルと同じである)があるし、意味が全く違う言葉(「やがて」は今すぐという意味)がある。と書くとまさしく「変化しない伝統」という感じなのだが、実際に演じている能楽師に聞くと、昔と今では随分と違うのだという。現在の能楽では「強吟」と「弱吟」の二つの謡い方があって、同じ記号がついていても音のあがり方や下がり方が全く違っている。ところが、江戸時代辺りまではこうした区別はなかったのだという。現代では訳が分からなくなった記号や、統一すればいい記号が残っていたりするのも、おそらくかつては別の謡方がされていたのかもしれないとも言う。実際に地方に残っている能楽の方が古い演じ方、謡い方を残しているという話もある。

 ではなぜ能楽が変化したのか。理由は非常に単純である。「生き残るため」。そもそも世阿弥自身、ライバルの猿楽者が韓国民俗舞踏のような華麗な足技に長けていたからこそ、その逆を狙って上流階層の上品さ、静やかな身振りを取り入れたという面があるのだ。こうして出来上がった能楽は、武士の時代を経て、より強い武将ものと柔らかい女物を区別する必要にかられて、二つの謡い方を分けるに至った…のではないかというのが私の推測である。

 さて、実はこの文章の最初に出てきたconventionという英単語には、日本中ほぼ至る所にあるコンビニの元々の語が派生語としてある。convenient(コンビニエント)。どちらもその元々は「~くる、なる」という意味合いのラテン語にさかのぼる。伝統=昔からあるもので今まで残ってきたものだとすれば、今まで生き残るために、様々な変化を遂げなくてはならなかったはずだ。そう、生き残った伝統が何故生き残ったかといえば、その時代の保護者(武士階級だったり、裕福な町人だったり、成り上がりだったり)や大衆の好みに合わせて、自らを変化させたからに他ならない。ただし、コンビニのようにではない。もしコンビニのように顧客の好みに合わせて次々と店舗を作ってはつぶし、商品を時間単位で入れ替えるだけの変化をしたのであれば、今、伝統といわれて残っているもの(少なくとも後継者がいるもの)は、現代まで生き残ってはいないだろう。

 では今の顧客の好みに答えつつ、先々の(それこそ100年、200年先の)顧客の好みに合わせるという、気が遠くなる程難しい生き残り術をやったのだろうか。

 そんな事は到底人間の出来る業ではない。おそらくひどく単純な事だったに違いないと私は思う。単に「生き残るため」だから、表装だけ変えよう。ちょっと今風にしてみよか…ありゃダメだわ、やってるこっちの方がギコチナイ、それがお客にも伝わるから受けが悪い。あかん、あかん、元に戻そ。こんな試行錯誤の連続だったのではないか。

 今「変化の時代」といわれて久しい(日本では少なくとも20年間いわれ続けているような気がする)。そしてどうも「変化」というと物事の根本から考え直し、設計し直し、作り直さなくては変化ではないような、そんな風潮がある。けれどそういう変化は案外命が短い。1人の人間が考えだし、設計し直した変化には限界がある。またチョー天才が考えたチョー凄い社会設計も多くの人間に受け入れなければ意味をなさない。そして多くの人間が受け入れる根本的変化なんて、コンビニの商品棚の顔ぶれを変えるようなものにすぎなくなってしまう。とくに社会に関してはそうだ。逆に1つの根本的に異なった発想に基づく商品が、社会を変える事の方が起こりやすい(ウォークマンが音楽を自分だけのものとして携帯できるようにしたように)。とはいえ、そういう商品が次々と産まれていたら、人間の方が追いつかない(ICレコーダーがどんなに精密になろうと、未だにカセットテープは健在だ。感覚的に巻き戻しが可能だからだ)。そして、一つの商品が変えるのは社会のある一面であり、変化が社会の全てに及ぶ変化になるかどうかは未知数だ。クラウドが世界を一つにするといった所で、クラウド端末を手にする事が出来ない人にとっては、それは無縁の世界でしかない。

 変化がもてはやされるとき程、むしろ変化してこなかったものに注目すべきだと私は思う。時代を超えて変化しなかったもの、けれど今は軋みを立てて、あたかも根っこから変わらなくてはならないように見えるもの。その中には時代を超えて変化しなかった根っこと、変化しなくてはならなかったのに、変化できなかった枝葉がきっとある。その見極めがついたときこそ、本当の変化が訪れる。そう私は思うのだ。