教えられること、教えること

CWB 松井名津

 日本の技能を伝える教えるとはいえ、伝統工芸に登録されているようなところは敷居が高い。農機具については何となく見当がつくのだが、それ以外にどんなものがあるだろうかと考えていた。そんな時に大洲の台腰さんと話をした。薬草園整備の話をしていたのだ、が、いつものように話がとっ散らかっていった。

 足踏み式脱穀機・唐箕をアジアに持っていけないか―唐箕はすごく薄い杉材で出来ていたから子供二人で軽々運べた話、材木の組み合わせでできているだけに微妙な調整が必要だ。一微妙な調整が必要なのが人力を使う道具の特徴。そういえば妻が若い頃機織りに凝っていて、各地の博物館で機織り機の復元に携わったことがある。その時も機織り機の構造や動きがわかっている大工さんでないと、うまく復元できない…。機(はた)といえば、今青森の叔母が身辺整理をしていて30台ほどある各種機織り機のうち何十台引き取ってくれる?と言われてひ、っくりした。彼女は裂織をしていたから古い布もトラックに何台分も保存していて…。南予は養蚕が盛んだった。蚕は昔春先に農家が一枚いくらで雲丹のような蚕の卵を買い取って…。

 ああ、そうなのだ。日本は平和で、ある程度他の世界から隔離されていた長い江戸時代に藩ごとに労働集約的な技能が発達した。米作りはその典型例だろう。村落全員が食っていけ、年貢を差し出すことができる米を多くの人力(余裕があれば金肥=干鰯などの肥料を入れて)で生産してきた。明治以降も戦後になるまで、農業の機械化があまり進まなかった。山問地が多く耕作地が棚田のように小規模で複雑な形態をした農地が多いのも要因だっただろう。機織りや和紙づくり、藍染などの染物の技術。こうした技術はとりあえず昭和40年代あたりまで、細々であれ現役だったわけだ。そのほかにも多種多様な技能がきっと各地に眠っている。いや眠っていると思うのは外からの視点で、現地ではなんとかその技能を伝えようという試みがあったり、道具や器具を残したいと思う人がたくさんいるだろう。断捨離ブームで、あっても、長年使ってきた道具に愛着があって捨てられない人も多いはずだ。日常に根付いていたから残ってきたもの、日常のものだから「伝統工芸」ではないもの。日本で後継者が見つからないのであれば、アジアに残せばいいのではないか。アジアにも手工芸はある。けれど日本と異なり、戦後までの植民地支配のもとで「近代化」や「モノカルチャ化」を余儀なくされたところ、技能伝承が途絶えたところ、さらに手作業からいきなりトラクターやコンパインの時代に移ってしまったところ。手作業から機械化の聞をつなぐ人力と工夫による労働集約だけど労働の効率を高めるやり方があまり残っていないところがある。そして急速な近代化と共に食糧であれ衣料であれ薬草や手当の知恵であれ、西洋化された大量生産・大量消費の価値観が蔓延していく。

 このモダンの蔓延が何をもたらすのかは、日本の現状を見ればよくわかる。70年を経て行き詰まり、あちこちで金属疲労を起こしている日本がモダンの行き着く先だ。でもそんな日本にかすかに残っている昔の日常技能をアジアに伝える。そのために日本中からいろんな人、いろんな技術、いろんな道具を持ち寄る。持ち寄って渡すだけでは技能は移転しない。だから、アジアから来てもらって体験し経験してもらう。さらにアジアの各コミュニティの事情に合わせた変容をお互いに考える。現地に行く人もいれば、1T技術を使って遠隔から伝える人もいるだろう。アジアから再度日本に来る人もいれば、毎日のようにズームやスカイプをつないで細かな質問を重ねてくれる人もいるだろう。いや、「だろう」ではない。農であれ、加工であれ、伝統技術であれ、目的意識を持って日本に来てくれるような人を見つけ出さなくてはならない。そして、その人材(人才と呼びたい)をきちんと受け止め、「働きながら学ぶ」受け入れ体制を作らなくてはいけない。それが新しい技術移転のモデルとなることを目指して。

ミャンマーの若者受け入れへ

CWB 松井名津

 ミャンマーを始めとするアジアの若者を受け入れ、日本の技能を伝え、教えたい。単に「技能を教えるだけでは伝わらないと思うのだ。教わる側に事前準備が必要とか、教える方も教える内容を整理するとか、技術的な問題の前に何かを考えなくてはならない。

 それが何なのか、しばらくわからなかった。月曜会議で「大規模生産も必要だとは思う。世界人口を全て支えなくてはいけないから。でもコロナのように非常事態の場合、交通が途絶した場合、コミュニテイレベルで自活できる技術を持つことが必要だと思う。自分達が食べられる安心があれば、他も思いやることができる」と説明したが抽象的と思わざるえなかった。自分自身で言葉が上滑りしていると思った。里山に行って門屋さんと話して、少し見えてきた気がする。門屋さんは以前から「農は業ではない」と主張している。農業は他の産業と同じく効率性や生産性、収益率で比べられる存在になる。ある意味当たり前のことだ。だからこそ「儲かる農業」が提唱されたり、6次産業化が推進されてきた。だがこうした政策に容易に対応できたのは換金作物だ。主食の米は補助金を与えられ、国に価格を定められる統制の影響が長らく続いた。一般には米の保護政策といわれるが、同時に米の価格を低く安定させるためだった。以降も米価は下がったままだ。私たちはそういうものだと思い込んでいる。

 門屋さんはいつもこの点を学生たちに問う。なぜ米は安いのか。米離れ・食生活の変化…学生たちの答えは様々だ。けれどどれも本質を突いてはいない。米は食に直結している主食だ。主食が高くなれば暴動が起きる。それを防ぐための食管法で、70数年変わっていない。おそらく工業化しているどこの国でも同じことが起きている。食の生産現場から離れた私たちは、代わりに給与という形でお金を手にする。そして私たちはお金があるからいつでも食事を買えると思っている。その裏で農は疲弊していった。業としてみた時、農は儲からない・きつい職業のーつとして、敬遠されるものになった。おそらくどこの国でも工業化・現代化と同時に生じたこと(生じていること)だろう。けれど門屋さんは「食は人間の命を支えるもの、空気や水と同じだj と。中井さんも同じことをいう「食(食を作るのは)人間の基本的権利jだと。つまり農、食料を生産することは、社会全体の利益であり、社会共通資本なのだ。その農の技術、特に化石燃料や電気に容易に頼らない技術は、いつでも誰にでも使える技術としてあらゆる社会に共通な技能・技術として伝えられなくてはならない。だからこそ、私たちは伝えたいのだし、伝えなくてはならないと直感的に思うのだ。

 社会共通資本とは形や場所ではない。普通の人々が単に生きるだけではなく、生き続けるために共通に必要とする資本一資源なのだ。重要なのは人々が共通に必要とする点だ。皆が必要とするものを他人の手に委ねたままにするのはよくない。それは自分たちの首根っこを抑えられるようなものだ。それに食糧や空気、水あるいは棲家や土地を自分たちで管理し、親しんでおかなければ、非常時に戸惑うばかりだろう。社会共通資本は「みんなにとって必要Jであると共に「みんなが関心を持ち必要とするべき」という意味でもある。

 アジアからの技能研修生の受け入れは、技能を伝えるためだけではない。私たち自身が、衰えてしまった私たちの社会共通資本を見直し、場合によっては見出し、それを受け継ぎ守る機会でもある。技能は教える、でもそれだけでは足りない。私たち自身が私たちが受け渡したいものを見つけなくてはならないのだ。

監査の意味、スリラン力の解へできることを緊急提案

プレス・オールターナティブ 監査 松井名津

 「audit (監査)」は、ラテン語の「audio」、「audre」と同じ語源であった。つまり、「聞く」という意味なのですが、自分の役割を説明するためにこの言葉を選びました。なぜか?他の言葉、例えば、inspectionやcheckingは、コントロールしたり、何らかの欠陥や偽りを発見することに重点、を置いている。普通の会社では、監査がそれを行うべきだし、PAにとっても、チェックは不可欠である。しかし、私がチェックしたいのは、普通の虚偽ではありません。私は、PAの利益の使い方をチェクしたいのです。これは、通常の監査の役割でもなければ、監査の責任でもない。しかし、私は、もっとコミットしたいので、そうしたいと思います。以下は、私がPAの監査役としてどのようなことをしたいかという個人的な見解である。

 利益の使い道は、その企業の真のミッションや考え方次第です。「私たちは仕事を通じて社会に貢献します」という使命があっても、会社や市場シェアを拡大するためだけに利益を使うのでは、その使命は偽りです。本当の使命は「会社を大きくすること」なのです。この場合、監査は何もしない。監査は、虚偽のお金の動きに気づかせる。この場合、CEOや他の役員は、会社の利益に反する行動をとらない。利益とは、会社の利益と株主の利益である。したがって、CEOが会社の使命に従って行動しているかどうかをチェックするための監査は存在しないことになる。

 PAにとってミッションは最も重要であり、PAはそのミッションから出発している。「世界中の貧困を削減すること。貧困の根源にある問題を解決する。貧困を減らし、問題を解決するための私たちの方法は、雇用を創出することです」。ですから、このミッションに忠実であるならば、私たちの利益は雇用の創出や問題の解決に使われるべきなのです。別の見方をすれば、私たちは、利益を3つに分けるというルールを持っています。

 今、ほとんどの会社が「社会に貢献したい」と言っています。この時代、私たちにとって社会貢献とは何でしょうか。社会貢献とは、ただ良いことをすることなのでしょうか?良いこととは、ただお金を寄付することだとしたら、それは間違っていることになりがちです。なぜでしょうか?寄付をする人は、お金の使い方や寄付の成果を軽視しがちです。昔も今も、未聞の国の子どもたちや難民の人たちに古着を寄付する運動があります。それはいいことだと思います。その結果、子どもたちは良い服を着ることができます。しかし、彼らの母親は仕事を失ってしまいました。難民キャンプでは、女性たちがミシンを使って縫製を学び、どこかの会社のもとで安価な子供服を作っています。もちろん、十分な収入にはなりませんが、彼女たちは何かを得ることができます。今、寄付された服が大量に送られてきています。安価な布の需要はなくなりました。だから、母親たちは仕事を失った。これが、「良いこと」の結果です。

 私たちPAは、自分のお金がどのように使われるかを考えなければなりません。使うだけではありません。その結果にコミットすること。それは面倒な作業です。寄付をしたり、使い道を確認したりするのは簡単です。例えば、「私たちのお金で、医療用の高価な機械が買えます。この機械を使って、医師が病気の症状を発見し、人々をより健康にする」、それだけです。その機械を使える人がいなくなっても、それは正しいのでしょうか?これは逸話ではありません。フィリピンの地域社会でかつて起こった実話です。

 お金には大きな力があります。監査は、彼らの話をよく聞いておく必要があります。彼らは本当の価値として喜んで使っているのか?それとも単なる名目的な価値なのか?監査は、地元の人々がお金の使い方、寄付や寄贈についてどのように考えているのかを聞くべきです。監査は、PAの人々が寄付についてどのように考えているかに耳を傾けるべきである。監査は、ただ聞くだけでなく、新しいアイデアを企画し、PAの人々に提案し、彼らの考えを聞くべきである。

 私たちは、良い仕事を作ることによって、新しい未来を作るべきです。PAと地域社会双方にとって良い仕事。監査はそのために働かなければなりません。

日経新聞に載っていた小さな記事(3・3)から

松井名津

スリランカで食料価格急騰という見出しです。これが農政によってもたらされた状況でもあることがわかると思います。日本の農業、特に米は農政によって左右され続けました。稲作はそんな農協から提供される苗に頼っているところも多く、苗建ての技術の継承が喫急の課題だと考えています。楠に期待するところ大です(苗建てがなぜ必要かも考え実践できるか?)。


またアジアのどこの国で起こってもおかしくないことでもあります。自前の農を国境を越えて広げていくことは、輸入業であるPA にとって「確かな製品の提供先」を確保することではないか、という議論を早速PA 役員会で行うことにしました。

メンター候補へ、初歩の哲学書としておすすめ

松山大学経済学部教授 松井名津

カント・中山元訳『永遠平和について 啓蒙とは何か 他3編』光文社新書770円。光文社の新訳シリーズはわかりやすい訳と評判がいいです。このカントは短編ばかりですが、それだけにエッセンスが詰まっていて、読み返しながら読んでいくと心にコツンとくる言葉があると思います。

哲学書ではありませんが、夏目漱石の『私の個人主義』もおすすめ。青空文庫で読めるので是非。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card772.html

空海の本で読んでいてとても面白いものを1冊。

福永光司訳『三教指帰』中公クラッシックス

https://www.chuko.co.jp/zenshu/2003/05/160052.html

これは儒教と道教と仏教を比べたものです。それぞれの教えを体現した人が出てきて、道楽息子を諭すという構成になっています。よく引かれるのが「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」能でもよく出てくる章句です。なぜかこの章句に嘆きと同時に穏やかさを感じて好きです。

経済学講座紆余転変

松山大学経済学部教授 松井名津

 経済学講座します、それほど堅苦しい話はしません。とアナウンスして始めたはずの経済学講座なのですが、「農で自立心」の講座で貨幣と交換がディスカッションの的になったこともあり、第1回目は急遽交換と貨幣の話が焦点になりました。「お金」にはなぜか「あまり良くない」イメージが付き纏うのは、日本人だけではないらしく、お金を抜きにした交換が可能かどうかという点は1 回目と2 回目に共通するテーマとなりました。

 面白いことにお金、貨幣というものは、経済学理論の基礎ではあまり活躍の場がないのです。需要の量と供給の量が決まれば、価格はそれに連れて動く存在で、貨幣は価格を数量的に表す単位でしかありません(貨幣は交換を円滑にする手段)。でも現実に生きていると「貨幣って万能」、「貨幣ってパワーとか権力そのものじゃん」という方が実感に近いでしょう。そして貨幣の多寡によって人や物が価値づけられてしまう。貨幣が全て。貨幣を稼ぐために働かなくてはならない…。となると、いっそ貨幣なしに必要なものを必要な人同士が交換する仕組みが考えられないか。貨幣以外の価値判断基準で人が動くようになればいいのでは?こういう意見が出てきますし、当日の議論でも出てきました。

 確かに物々交換には困難が伴う(自分が欲しいものを持っている人が、自分が持っているものを欲しいとは限らない)けれど、今のIT 技術があれば、それぞれの欲しいものと持っているものをオープンにして、最適の組み合わせをAI で示せばいい―そんな意見がインドネシアのアディさんから第2回目に出ました。

 実は私自身は(そして多くの経済学の理論家も)貨幣抜きの交換、市場抜きの経済社会は想定不可能だと考えています。ただしこれは地域通貨の可能性だとか、アディさんが提唱しているようなIT システムを使った交換システムを小さなコミュニティの中で、実行することを排除するものではありません。なので、第2回目の時、アディさんには「身の回りの小さなコミュニティでは実行可能かもしれない。理論的には難しいけれど、理論と実行とはまた別だし、可能性はないとは言えない」と非常に歯切れの悪い答え方をしてしまったのです。

 その後、インドのスリーダラー先生と話をしていて、ああ、そうだったんだよな…経済学ってそういうところの理論なんだよねと思い直したのです。スリーダラー先生の一言は「誰もが欲張りでも、嘘つきでも、騙し屋でもなければ、うまく行くかもしれないね」でした。全てが善人であれば経済学はいらない(生産活動も分配も人間の間では問題にならないから)。全員が悪人なら経済学は成り立たない(誰もが盗み合い、殺し合うから)。7割ぐらいの人間がそこそこ世の中のルールを守るだろうというところで、経済なり経済学は成り立つ。

 ということで、第3回目からは「経済学が成り立つような社会」はどう成り立つのか、今の社会以外の社会のあり方はあるのか??みたいな根本的なテーマを考えつつ、個別のテーマにあたることになりそうです。第3回目はコモンがテーマですが、そもそも共有とコモンは一緒なのかどうかというところあたりから始めようかと思っています。

コミュニティ経済学講座

松井名津

 高踏なお題ではあるが、実態は砕けたものになると思っている。なんと言っても大阪人がその大阪人振りを十全に発揮することになると思うからだ。

 この講座を企画しようと思ったのは、宇和島の友人がきっかけである。彼女が大人のための市民が作る市民の講座
を企画するんだけど、一口乗らない?と持ちかけてきてくれたのである。その時に彼女からリクエストがあったのが「なんか新聞の経済のニュースがわかるようなやつ」「学生の頃に習ったはずだけど、忘れてしまって今更学び直そうとすると、どれから手をつけていいか分からないようなやつ」だった。実は他の知人からも「MMT理論とか、赤字国債はいくら発行しても大丈夫とか聞くけど、ほんまに?」という質問を受けたところだった。なので友人に「経済学の基礎とかは?」彼女「経済はみんな興味持っとるけんね」私「というても金融とか、株はどれを買ったら…というやつじゃなくて、基礎理論」彼女「分からんけん、任せる」。という形で、構想が決まったものである。

 ということなので、経済学の方は無味乾燥で世間では誠に評判の悪い「現代経済学」の基礎を簡単にさらっとやってみようと思っている。一体なぜと思われるかもしれない。“narurato characteras universite”とは「自然科学大学」のことですと、○○大学教授という肩書きの人から突然言われたとする。これを自信をもって「嘘」と言い切れるだろうか?言い切れるとしたら、ラテン語とかギリシア語など印欧語をよく知っていて、どこが間違いかを指摘できる人だろう。どことなく英語風だし、相手は大学教授という肩書きを持っている。なんとなくおかしいような気がするけれど、相手は専門家らしいし…こっちは素人だし…という気がしてくるのではないだろうか?経済学はこういうことが相当な頻度で起こる(起こっている)分野である。

 こういう分野では基本を知っていると便利だ。少なくとも変なエコノミストや経済学理論に惑わされる(騙される)可能性は低くなる。また、経済の先行き予想などに対しても「???」だらけになることはないだろう。だからといって理論だけでとも思っている。経済学の理論には「歴史」や「時間」がない。理論は一種の仮想空間なので現実離れした結果が出てしまうことも度々である(だから酷評されるわけだが)。理論は言ってみれば現実を切り取る鋭いメスのようなものだ。よくキレるが、それだけに分厚い現実にぶち当たると折れてしまう。なので取り扱いには要注意である。その要注意点も含めて講義してみたい。厄介な似非エコノミストに騙されないために。そして現在の経済学に真正面から異議を唱えるために。

インドで始まったジャーナリズム校との協⼒

松⼭⼤学経済学部教授 松井名津

インドジャーナリスト校からの3名がCWB会議に加わった。彼らはビデオや写真、さらに記事を書くセミプロでもある。どうすれば魅⼒的なビデオが撮影できるか、どう編集すれば⼈に⾒てもらえるか。彼らから学べることは多い。時差の壁、英語の壁を低くするために、まずはオンデマンド型でビデオ講座が始まっている。

フィリピンから早速、スマホでアドバイスを受けたいと連絡。カンボジアからは商品プロモーションビデオ編集に技術協⼒ということでやりとりがスカイプのチャットグループで始まっています。アジアは早い。

シャンタヌ:こういう地域の隠された秘境みたいなものを探検するビデオはとても⾯⽩い。ビデオ編集の⾯では、字幕はビデオの下の⽅につけるべきだ。⾒ている⼈にビデオの全体が⾒えるようにした⽅が良い。

ラクシャ:最初に静⽌画が何枚かあってから、地元の⼈との会話や洞窟や⽔の映像があった⽅がいいと思う。字幕が⼤きすぎて主張しすぎている。字幕のサイズやフォントは⼩さいけれどよく⾒える程度。これは覚えておいて役に⽴つちょっとしたコツ。

ヴィネイ:スマートフォンで役⽴つフリーソフトの⼀覧を送ります。できるだけその国で使われているソフトにしたけど、国ごとで違うから⼀度⾃分でダウンロードしてみてほしい。

国境を越えてスイーツ作り、インド・スペイン・カンボジアへ

松⼭⼤学経済学部教授 松井名津

カンボジアでは「ニュージャンプアッププロジェクト」として始まったニューとノーのスウィーツプロジ
ェクトが、コミュニティネットワークとして広がりを⾒せています。


デンくんがカンボジアの⽂化庁の若いメンバー向けにIT、特にビデオの講座を計画しています。これは⽂化庁の企画があまり知られていないという彼らの悩みに応えて⾏うものです。が、デンくん、ここで⼀計を案じました。プーンアジで開催する講座にやってくる彼らに対して、講座料の代わりにニューやノーが作った焼き菓⼦のセットを買ってもらうのです。焼き菓⼦のセットは1つ$10。講座の料⾦としてもちょうどいいぐらいだと考えたようです。さらにクイ族のコミュニティにも発信能⼒を⾝につけてもらうために、講座を提供したいと考えているデンくんは、クイ族の若者たちがスクーリングとしてプーンアジにくる時にも同様にして、焼き菓⼦のセットを広めようと考えています。ミャンマーのEラーンカフェのアイデイアです。カンボジアでは焼き菓⼦を⾷べる習慣がないので、地元コミュニティの⽂化を守る試みと新規事業を結びつけようという発想がとても⾯⽩いと思います。早速⽉曜⽇のCWB全体ミーティングで紹介してもらいました。するとインドのマノラマさんから「講座料がいくらになるのかをはっきり⽰した⽅がいい。何事もタダで提供されたものと思われると後でお⾦を取りにくくなる」というアドバイスが。さすが⻑年ビジネスの現場で働いてきたマダムの指摘は現実を厳しく切り取っ
ています。受講料としてだけでなくお⼟産として買っていってもらうことを想定してです。


⽇頃の国境を越えたコミュニティネットワークとしての広がりが、こうしたアドバイスを⽣んでいるともいえるでしょう。CWB⽉曜会議で話題になることは、どこのコミュニティの話題であっても、誰もが⾃分の課題として考えるようになっています。

アジアと起業塾始まる!

松⼭⼤学経済学部教授 松井名津

起業塾といっても校舎があるわけではない。当初から決まったカリキュラムがあるのでもない。全ては実戦から始まり実践で終わる。ただし⼀⼈が実践から学んだものは、全てのメンバーに共有され、議論され、何かしらの「理論」に還元される。ここでは会計講座でさえも、机上の理論だけに終わらない。複式簿記を学んだら⾃分たちの活動やビジネスを記帳する。記帳ができたら、出来上がったバランスシートや損益計算書から⾃分たちの現状を把握する講義が待っている。


すべての講座には具体的な「何のために、なぜ」がついている。だから単なるスキルアップのための専⾨学校ではない。スキル、例えばプログラミング、ビデオ編集、エクセル、フォトショップ…こういったスキルを⾝に付けるのは最低条件でしかない。ここで常に問われるのは「スキルを使って何をするか」「⾝につけたスキルをどう役⽴てるか」だ。「どう役⽴てるか」の中には⾃分の将来のためも⼊っているが、コミュニティのためも⼊っている。例えばフォトショップを使って仲間のe-コマースのための写真を加⼯するというのも⼀つの例だ。さらにステップアップすれば、他のコミュニティのメンバーのために⾃分のスキルを教えるという段階が待っている。その過程で⾃然と次のビジネスが⽣まれる。この起業塾にとって起業も⼿段の⼀つに過ぎない。⾃分が⾃⽴して⾃由に⽣きるための⼿段だ。そして⾃分が⾃⽴し⾃由に⽣きるためには、⾃分が⽣まれ育ち、これから⽣きていくコミュニティもまた⾃⽴し、⾃由でなくてはならない。だからこそミャンマーのメンバーはe-learningカフェを必死になって運営している。カンボジアのニューやノーはクッキー作りの技術を⾝につけ、プーンアジのメンバーに共有している。インドネシアのユダくんやクリスはITスキルを教え、アプリを作る。ネパールのアリヤはカンボジアの⽣徒の英⽂原稿を添削している。アジアと起業塾では、ネットを駆使した「学び合い・教え合い」の絆を太くしていきたい。この試みに⽇本の中⾼⽣が加わってくれているのが何とも楽しみだし、頼もしく感じている。