引き際―温泉津の吉⽥屋旅館を輪ケーションに、出会った⼥将から学ぶ

松井名津

どんなに人気を博した主役級の俳優でも、時が経つと自分はもう主役の俳優ではないと感じる時があるのだろう。年齢的な問題、顔や体の変化、あるいは単純にシリーズものが行き詰まったから、等々。その時、どう身を処するか。演劇や映画の世界から身を引く人もいれば、新しい自分を築く人もいる。そこにその人自身の美学だとか、潮目を読む力が集約されている気がする。

こんな前書きで始めたのは、温泉津温泉で引き際を心得ているんだなと思う人に出会ったからだ。子供に継がせることもなく、一人で切り盛りする旅館の幕引きを考えながら、それでも丁寧に朝ごはんを作ってくれた人だ。彼女が幕引きを考えるに至ったのはコロナのこともあっただろう(お客さんがぐんと減ってね)。世間の変化についていけない(何でもネットやけど、ネットはわからんし、1日張り付いてしまうから)のもあっただろうが、何より「潮時」を感じたからではないかと思う。

「若い人が帰ってきてやりよる。新しいもの」に対して羨望するのでも、嫉妬するのでもなく、興味津々で出かけていく。そこに転換期を見出す。自分の今までのやり方が通用しないのも肌身に染みて知っている(パートさんに来てもらってもな、仕入れも無駄になるし)。そろそろ退場の時が来たのだと自覚しているのだなと思った。そして彼女はできるだけ潔く、自分の場所を片付けたいのだろうとも思った。


戦後の社会も70余年。社会に年齢があるとしたら、そろそろ人生の幕引きを考える頃だ。そして確かに一つの時代の幕引きが近づいていることを感じている人も多くなっている。若い人が、ではない。年齢でいえば65から70歳ぐらいの人たち、それも自分で世の中を渡ってきた人たちが感じている。この年代の人たちは戦後の申し子といっていい。ただ申し子といっても常に時代の直中で活躍していたという意味ではない。安保闘争や学生運動の嵐が過ぎゆく頃、ある人は嵐の中にいて、他の人は嵐に遅れてきた。オイルショックの頃、価値観が180度転換するのも知ったし、群集心理の怖さも見た。バブルで踊った人もいれば、踊りたくても踊れなかった人も居ただろうが、時代の雰囲気は濃厚に覚えている。そしてその後の日本が迷走を深める中で、自分の年齢を自覚していった人たちだ。その人たちが「引き際」を考え始めている。なぜなら今が「潮時」だと感じているからだ。

全てが変わる…おそらく10年後には誰の目にもはっきりとわかるように。そう感じている。そしてその新しい何かを支えるのは、自分たちではなく今の高校生か中学生だろうと感じている。感じていて焦り「今」にしがみつこうとする人たちがいるのも確かだ。けれど、しがみつくのは自分たちが当然としてきた価値観が崩壊すると知っているからでもある。そういう人は総じて暗い顔をして悲観的なことを語る。

引き際を考えている人は結構明るい。悲観的なことを言いはする(特に日本社会がこのまま「戦争をする国」になるだろうという危機感を持っている人は多い)。けれど根っこは明るい。「見るべきほどのものは見つ」といって碇を担いで、仰向けに入水した平知盛ではないけれど、時代の変化を時代とともに見てきたと思っている。その上でこれからの10年、社会がどんなに変化していくかを見る楽しみにワクワクしている。そしてその新しい動きに自分の居た場所を明け渡したとしても、どうとしても生きていけるという「軽さ」を持っている。

私の個人的な感覚なのだが、若い世代よりもこの辺りの世代の方が、今が転換期だと確信している気がする。それはこの人たちが色々な潮目を見て、経験してきたからかもしれない。若い人にとっては生まれてから今まで、自分が生きている今ここの価値観しか知らないわけだから、この価値観がゴロっと変わるとは確信が持てずにいるのだろう。だとしたらできれば何かをやりたいと思っている若い人は、引き際を知っている人から話を聞くといい。人や時代が変わる時というのはどんな雰囲気なのか。多くの人はどんな風に行動を変えるのか(より正確にいうと行動を変えていないつもりで、変えているのか)。自分の思いを語るのもいいだろう。ただ言葉が通じないこともあるかもしれない。なにせ流行語には疎いから。でも自分の思いを多くの人に通じる言葉を練習する機会だと思って欲しい。彼らは君たちの話をじっくり聞くだろう。助言をするかもしれないが、邪魔はしない。躊躇する原因を抉り出されるかもしれないから、覚悟は必要になるだろうが。