インドから拡げるー草の根経済・交流圏創出を目指して

CWBアドバイザー 松井名津

 ドングレ先生とのミーティングの後、これからインドとの連携をどう位置付けていくのかという話を片岡さんと数回行った。その時にいきなり「BRICs&CWBだ」と言われた時は、正直絶句して反応できなかった。私の中でBRICsといえば広い国土・天然資源・人口をもとに大きな成長が期待できる国々であり、一般的な投資先の総称でしかなかったからだ。が、よく考えてみると「BRICs&CWB」は二極化している政治経済情勢の中で、第三極(というよりは別の未来)を現実的にするために、インドとCWB(CWBの一員としての日本)は地政学的にも絶好の位置にいるということだ。

 日本にいると、ロシアはウクライナに非人道的侵略を行い続けている国で、中国は虎視眈々と東アジアの支配を目指しているという報道ばかりに接してしまう。なのでインドの首相がプーチンと会談するとなると、インドは非人道的な国の方を持つのかと目くじらを立てることになる。しかし冷静に見れば、EUやアメリカではロシアとウクライナ間の調停はできない。何せ敵・味方の代理戦争をやっているのだから。イスラエルのガザ侵攻にしても「西欧文化圏」及び腰だ。何せ植民地統治と三枚舌外交のツケなのだから仕方ない。

 してみると西欧文化圏に属さないーその理屈に自動的に頷かない地域はインドとASEAN(中南米やアフリカもあるが経済的政治的にやや力不足だ)になる。しかもこの両地域は中国の影響を身近に受けるだけに、中国に対しても周到に立ち回らなくてはならない。非西欧でも非中国でも存在していかない綱渡りを強いられるともいえるし、強かさでいるともいえる。

 というわけで、以下のようなメッセージをドングレ先生に送った。

 「片岡さんがインドと日本の地政学的な状況を指摘してくれました。私たちCWBはただ一つの考えやただ一つのやり方で世界が支配されたり、二極化することを望みません。インドの2020年教育改革政策にあるように、私たちには西欧化されていないもう一つの考え方、私たち自身の社会に根ざしたやり方が必要です。今私たちが考えているのは、インターンの学生を一つのところで受け入れるのではなく、カンボジアやフィリピン、日本、スリランカなど私たちのネットワークの中で受け入れることです。これは西欧化された世界の中で、西欧化されていない―BRICsのように―場所で教育のネットワークを作る第一歩になると思います。日本政府はアメリカと非常に密接な関係にありますが、私たちはアメリカの金魚のフンになりたくはありません。私たちは極度な国家主義者ではありません。単にお互いの伝統的な知識や知恵を保存し、尊重し、互いに交流したいと考えています」。

これに対してドングレ先生からは非常に好意的で前向きな返事が返ってきた。

さてCWBネットワークの側から「BRICs&CWB」を考えると、経済・取引面での鍵となるのがASEAN域内での貿易・取引をさらに拡げる機会を活かせるのか、インドのインターン学生に何を学んでもらうのか(それはアジアの学生にとっても新しい見地を開くことになるだろう)になる。まずは経済・取引面を見てみよう。

 BRICsに入っているのはブラジルだが、中南米に関してはブルーノさんのおかげでスペイン語圏のコーポラティブの活動がよくわかるようになっている。そしてその基ともいうべきバスクのモンドラゴンのニュースも伝わってくる。理論的にも実践的にもCWBと非常に近いところにあるだけに、現実的な交流、取引に繋げたいところだ。

 ASEANで今注目しているのはカンボジアのバコンシステム(Bankong System)だ。元々はカンボジア国立銀行が自国通貨であるリエルの普及を目的として、日本のスタートアップ企業であるソラミツと共同開発したブロックチェーンデジタル通貨である。ブロックチェーン通貨といえばビットコインのように投機対象になってしまった感がある。が、バコンは決済の効率化、銀行口座を持たない層にも金融サービスの機会をあたる、リエルの普及に絞っている。カンボジアでは自国通貨よりもドルの信用度が高く、ドルでの決済が普通だった。私自身も何度かカンボジアに行っているが、リアル通貨は1ドル以下の支配や釣り銭としてしか見たことがなかった。この状況を強制的手段ではなく利便性によって解決しようというのがバコンである。国民の80%がスマホを持つ一方、銀行口座を開設しているのは30%に満たない。ならばスマホ上で電子決済等を可能にすれば、銀行口座と同じく「信用取引」ができる。こう説明すると日本でもすでにあるサービスじゃないか、といわれそうだ。しかしバコンは銀行間を跨いでの送金も自由にできる―個人間の送金なら手数料は0だ。取引データは各銀行や中央銀行に置かれるのではなく、ブロックチェーンの分散型ネットワークデータベースに保存される。書き換えは不可能だ。店舗での支払いはQRコードを読み取ることで可能だ。公務員の給与や税金の支払いもバコンでとなっている。おかげでバコンの取引額は700億件に及び、開設後2倍以上になったという(カンボアジアではリエルの口座とドルの口座を持つことができる。結果的にドルを日常的に使えるカンボジアは国際社会で、ドルも繋ぐことができる点で大変大きな可能性を持っている。こうした利便性をさらに拡大し、ドル社会とは別の国際通貨システムを作るのがバコンで、それがさらにカンボジア内にとどまらずアセアン内での国際取引の決済にも使えることだ。バコンのORコード決済にはタイ、ラオス、ベトナム。マレーシアが加わり、今年の6月にはインドも参加するという話が出ていた。バコン決済システムに接続することで、国境を跨いだ送金や通貨間の両替手数料がなくなる。日本は首相が導入を約束したようだが、まず、その壁を超えることはできないだろう。中国が加わると、ここでも日本は置いて行かれることになる。私たちのCWBは先行して挑戦し日本が入ってきたときの用意をしておきたい。

 これはCWBネットワークにとっては待望のシステムである。通貨(貨幣)は人や物と違って国境を超えて移動しやすいというイメージがあるが、それは投機筋のことであって、現実の商取引となると通貨の違いが大きな壁になるのだ。今までは各国に分散しているCWBファンドの口座間の取引を記録して、最終的な決済を1年に一度程度行うことで取引手数料や為替リスクを軽減してきたが、バコンシステムをCWBが利用すればさらに手軽にリスクを抑えて取引が可能だ。特にコミュニティートレードは動くもの自体は少量だけに、決済手段の手数料や通貨返還の手数料は大きな負担になる。輸送費はロジサポで軽減できるとしても、1000円、5000円単位の商品を予約注文でとなれば、その間の通貨変動や手数料は双方にとって大きな打撃になりうる。バコンであれば、共通取引媒体(バコン)のデジタル記帳で、になる。決済手段に特化させ、CWBネットワークの中で使う分にはセキュリティも心配ないだろう。バコンは国際取引に関する国境の壁をより薄くすることになる。したがってドル通貨圏や中国の元通貨圏とは全く異なる取引圏を作り出す可能性が高い。決済手段に特化すれば、うまくいけば法定通貨(各国との通貨)を飛び越える新しい通貨システムになるかもしれない。

 CWBネットワークが日本を世界に繋げることができる。ドングレさんへのメールに金魚の糞にはなりたくないと書いたが、バコンを使うことは「アメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪をひく」といわれる経済政策的にもアメリカに追随(というかアメリカの動向で右往左往する)状況に対する先端的な挑戦と思うと楽しい。い。そう思うと私自身は爽快な気分になるのだが、読者の皆さんはどうだろうか。

 さて、次にインドのインターン生をどう活かすかである。もちろん「活かす」は双方にとって良い結果をもたらすようにという意味だ。総合的全人的教育を掲げる大学の学生だけに、通り一遍の農作業から「学べ」といっても無理がある(受け入れ側にも)。あれこれ考えてみたのだが、ふと「日本はアジアの吹き溜まりである」という言葉を思い出した。日本文化が中国や韓半島の影響を受けていることはよく知られている。しかし同時に安土桃山時代、明治以降を通じてASEAN諸国との縁も深いのである(もちろん大日本帝国植民地統治の悪縁も含めてだが)。日本人にとっては芸能の神様として親しみのある弁財天や吉祥天。このお二人はそもそもがヒンズー教出身である。弁財天はサラスバティ、ブラフマの妻であり人間の始祖を産んだとされる(ちなみにブラフマは梵天のことである)。吉祥天はラクシュミーでありヴィシュヌ神の妃である。ヒンズー教の図像と全く異なった姿形になっていると思うが、弁財天が琵琶を持物としているのと同じくサラスバティもヴィーナという琵琶に似た楽器を持つ。遠くインドヒンズー教の神々が、日本では仏教の守護神となっているわけだ。これと同じような例は結構多い。それはある文化が長い時間と長い距離を経て、どのように変化し且つその土地に受容されるに至ったかを、自分の目と足で確かめることにもなる。そうだ、文化の「道」を辿る行脚を提供しよう。

 観光客が殺到する東京、京都を避け、平和を考える広島の地から瀬戸内を渡って四国へ。松山でいろんな仏像を見た後、大洲ではスペインやヨーロッパとの交易の結果建てられた和風建築(そこには洋風の要素が取り入れられている―インドのラジャ宮殿のミニチュア版ともいえる)や南予ならではの「奇妙な崇拝対象」(狛犬ではなく狛猪や狛河童)とインドの土俗信仰の比較もできる。宇和島へ行けば、耕作放棄地を開墾しながら「仲間ない自給自足の緩やかな輪」作りの現場を見ることができる。ちょっと戻って八幡浜から船に乗り、九州へ(九州では天草も訪ねてもらえる)。そして福岡空港からインドへと帰る。そんな行脚である。移動はできるだけ旧街道を使おう。旧街道を使うことで神社仏閣の地理的位置(防衛拠点であった、地方の中核文化を担っていた)や村落との関わりもわかる。この辺りは博物館の学芸員の協力や、川を中心とした街づくりの東西比較研究を行っているスペイン人・ディエゴさん(そうだ、楠のブルーノを訪ね行くことも考えられる)の協力も得て、「みち(街道・路・川・海)」の見直しを、外からの目で行ってもらう。

 インドの学生にとっては自分たちの文化を、全く別の視点から眺めるきっかけになるだろう。文化や伝統がある形にとどまる物ではなく、流転し変容し、それでもなおその中核的なところはとどめていたりする。その現実に触れることで、自分たちの文化を見直し、新たな形に変容させるアイデアが生まれる可能性がある。それはビジネスチャンスでもある。日本側にとっても、高度成長や区画整理(街だけでなく農地も)で失われてしまった色々な「みち」に再度光を当てることにもなる。

 まだまだ荒い構想に過ぎないが、道の未知の可能性が広がると思うと、ワクワクしている。

プンアジはダンスインターンで50人をネットワークへ

CWB 奥谷京子

今回は1週間のカンボジア滞在の中でいろんなことが変化していった。その中の1つがプンアジでの私の立ち位置である。

これまでは「先生」ということで、毎回お土産を人数分持って行って、みんなでバーベキューをして…と日本から来る時々やって来ては大盤振る舞いをして親交を深めてきたのだが、今回はコンポントムに行っても日程も短く、生徒に会ったのも議論の場に通訳で必要だったスレイマウさんとたまたまカフェに居合わせたリナさん、あとはミャンマーのチームでカフェを始めてヌエヌエさんとカシューナッツバターを持ってきたムーン君。餌をくれるから慕うサチをはじめ犬たちは全員で歓迎してくれたが…。

プンアジでは生徒たちと暮らしながら公立学校が終わった放課後や休日に一緒に働いて、その中からチームワークや仕事の段取りなどを学んでいくということで進めてきたのだが、どうも今の世の中にうまくクロスしていない。私個人としてはいくら勉強ができて知識があって学歴が良くても、段取りがわからなかったり、チームワークでコミュニケーションを図って物事を進められないのでは学校を卒業した後に社会に出た時に厳しいと思っているので、若い頃から仕事やイベントを企画してチャレンジするなど、いろんな経験を積むことは大事だと今でも思っている。

だが、世界の人権保護の目から勉強すべき学生の時から働くのは児童労働だと受け取られ、役所の人が見に来るようになる。このような観点からプンアジが目指していた「学校では学べないことを働きながら学ぶ」というやり方はカンボジアにおいてもしっくりこなくなってきた。

しかし、伝統舞踊を守り、力を入れたい―これは行政も国際的にも賛同を得て、地域の人もみんな願うところなのだ。私たちとずっと協力関係にあるMr. Diもコンポントム州のあまねく学校へ訪問し、伝統舞踊をやりたい担い手を発掘することに尽力している。彼はここ数年体調を崩して入院もしており、世代交代を意識していらっしゃり、今回は4月の公演にも来日したアツのお母さん役のヴァニーさんがずっと付き添ってくれた。今回合意したのは、プンアジを伝統舞踊の中心拠点として機能させるためにも毎週末50人の若者が来るように、彼らが学びに来るガソリン代もそして食事はヌエヌエさんから提供し、プンアジで小部屋にリフォームして遠い村から来た若者たちも男女分かれて少人数で泊まれるようにしている。

そしてクイの村にもMr. Diやヴァニーさんとも一緒に訪問し、若きリーダーの一人であるミエンさんにも会ってきた。クイからもたくさん若者がダンスを学びに来て、他の村の若者たちとも切磋琢磨して、インドネシアの次はフィリピンなども考えているが、日々練習をしてうまくなることが大事だと話した。ここは大いに期待したいところだ。

言葉がなくてもダンスを通してみんなが笑顔になるというのを前回の4月の公演でも実感したばかりだ。クメール舞踊の指先まで神経を使い、体幹を鍛えたしなやかな動きもまた素晴らしい。プンアジというカルチャーセンターに集い、ここがクメール舞踊をみんなが練習できる場所としてコンポントム州だけでなく、カンボジア全土に知れ渡るようになれたらと思っている。

インドChanakya 大学との協働―モニ首相の「現場主義と技術の統合」は教育の未来方向として正しい

CWBアドバイザー 松井名津

Chnakya大学という新設の大学との協働プロジェクトの始まりは、CWBの理論的なメンター役でもあるスリーダラー先生の提案から始まった。この新しい大学の副学長に以前から付き合いのあるドングレ先生が就任し、社会起業研究所を設立する計画もあるという。

社会起業の実践でCWBと連携ができるのではないかと、スリーダラー先生がドングレ先生に提案されたわけだ。たまたまドングレ先生が日本に1ヶ月以上滞在する予定があり、実際に会って話をしませんかということで、5月末ドングレ先生と会うことになった。

片岡さんからのアドバイスもあって、今までのような形式、「現地の大学で講義→学生グループ作成→ビジネスプラン→現地での実践(に対するビジネス面でのアドバイスや販路の提供)」は取らないことを大前提とした。現地での実践に手を貸すというよりも、CWBネットワークの中でインターンとして実践経験を積んでもらう方向性で話をするつもりだった。というのも今までの経験上、最初の講義時や対面時は勢いがあっても時間が経つにつれ熱が冷める。学校の行事や試験が優先される。学生グループの中でのちょっとした行き違いでグループそのものが破綻する。等々。

どうしてもスカイプ等の遠隔でのコミュニケーションでは活動のモニタリングになってしまい、手間がかかる割には実践上の結果が伴わない(もちろん学生側だけに原因があるのではなく、モニタリングをしているメンターの実力不足や経験不足にも原因がある)ことが度々だったからだ。CWBネットワークの中でということは、学生にとってはインドから外国に行くことになる。さらにこれまでの経験から2〜3ヶ月の短期では効果がない。最低でも6ヶ月、できれば1年の時間が欲しい。正直いってこうした要請をドングレ先生側は渋い顔をするのではと私自身は思っていた。

しかし、話を始めると非常にスムーズに受け入れられた。むしろそれぐらいの期間が当然という感じだ。結果的に下記のような概略が定まり細部に関しては今後ということになった。

1)インターン学生の受け入れ:小規模なビジネスの実践や経験をつむ。

2)特に農業分野での6次産業化への実践場所を提供

3)各民族特有の文化保全とビジネスを結合させる実践・実験・経験
4)インターンシップの期間は最低6ヶ月から1年:学生の負担に関しては今後話し合う。
5)学生はこのインターンシップに関して大学から単位を認定されるので、学生評価に関して大学側も関わる。CWB側もJDや評価会議の結果を共有する。

6)対象となるのはChnakya大学ビジネスマネジメント学部の2年生もしくは3年生になる予定。

7)CWBでのインターンは農作業など退屈そうに見える活動が多い。がそれは現実の作業を知り、その中から新たなアイデアなり商品を生み出すことを期待してのことなので、単純作業の日々を覚悟してほしい。

話がスムーズだったのはドングレ先生がすでにCWB(とその前身)や、日本の六次産業化の試みをご存知だったことが大きい。しかしChnaka大学が2020年に制定されたインドの国家教育政策に基づいた新設大学という要素も大いに寄与しているのではないかと考えている。そこで最後にこの国家教育政策の中での高等教育の役割を紹介しておきたい(本文はhttps://www.education.gov.in/sites/upload_files/mhrd/files/NEP_Final_English_0.pdfにある)。

National Education Policy 2020は3歳から18歳までの統合的普通教育、それ以上の高等教育および生涯教育をすべて取り扱っている。序文では多方面における技術的科学的進歩により単純労働が機械に取って代わられること、逆に熟練した知的労働の必要性が高まること、特に気候変動・資源の枯渇・エネルギー問題に対しては理系・文系の枠組みを超えた教養が必要となることが述べられ、従来の正解のある知識を身につける教育から、「どのように学ぶのか」を身につける教育が必要であると謳われる。「教育は単に認知的能力―読み書きという基本的な能力からより高度な批判的考察や問題解決までーを養成するだけでなく、社会的、倫理的そして情感的な能力と姿勢を養成しなくてはならない」。こうした方針はインドの深い伝統(知識Juan・智慧Pragyaa・真理Satyaを人間の最も高度な達成目標におく)に根ざすものである(とこの辺りはモディのヒンズー第一主義を思わせるところもあるが)。したがって「教授法は経験的で、全体的、統合的、探究的かつ発見的であり、学習者中心で議論を基礎とした柔軟なそしてもちろん楽しいものでなければならない」とされる。

さて、こうした全体方針のもと、高等教育で何よりも強調されるのが「全人的(holistic)で専門蛸壺にならない(multidisciplinary) 教育」である。その方法の一つが認定された単位(credit)を貯金できるcredit bankシステムであり、このシステムを活用することで、一専門にとらわれないコースやプロジェクトの選択が可能となる。このクレディットを基礎とする教育と並んで3本柱になっているのが環境教育と価値教育である。環境教育といっても生物多様性といった生物学・化学的なものからゴミ、汚染・衛生といった社会政策的色合いのもの、森林や野生動物の保全までを含む。価値教育は人権や自由といった西洋的価値をインド伝統的価値から捉え直す(逆かもしれないが)とともに、コミュニティへの「奉仕(サービス)」に大きなウエイトを置く。そして全人的な教育の一環に地域の産業・ビジネス・アートや職人分野へのインターンシップが位置づけられている。こうしたインターンシップは「学生に自らが身につけた知識の実践的側面に現実的に従事することになる、そしてより一層職に就く機会を高めるという副産物を得られるだろう」とされる。

ここまでなら、日本の大学でもおおよそ字面的には謳われそうな事柄である。しかしこうしたインターンシップに加えて、職業教育が従来の知識型教育と同等のものとなる。職業教育が「大学に行けなかった落ちこぼれの生徒」用だとみなされているのは、日本でもインドでも変わらないようだ。が、この教育方針ではこうしたものの見方そのものが学生の選択の機会を狭めているとする。したがって4年制分野横断型の大学は自らのカリキュラムとして、あるいは産業や企業、NGOとのインターンシップのいずれかの形態で、学生に職業教育を提供しなくてはならないとされる。起業家教育もこの職業教育の一環であり、そのために各機関は研究所を設立することになっている。ようは「お客さん」のインターンシップはいらないということだ。学生の職業選択に役立つような職業教育、しかもその職業の中にはアート(ダンスがきちんと明記されている)や職人技(織物が代表に上がっている)が含まれている。 CWBの活動は、上記の環境教育、コミュニティ中心、カンボジアの伝統舞踊をはじめとする民族文化保全を含んでいる。その意味で以上の教育方針に適合的だ。しかしそれだけに一層責任も重くなる。果たして私たちの活動は、真にインターン生にとって有益な場になり得るのか。単なるちょっとした異文化体験や起業の真似事に終わるのか。これから私たちのネットワークの真価と進化(深化)が問われることになる。

変化の種⑥ インドの社会起業家の紹介

CWB 奥谷京子

先月はお休みしましたが、再びヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』からご紹介します。

前回は女性ドライバーを育成して地域で女性が安心できるバイクタクシーを増やしたり、地元の女性たちの手仕事にデザイン性を加えてIKEAのような世界市場へ応援するもの、聴覚障がい者の女性たちのドレスづくりをオンラインストアで支援するものなどバラエティに富んでいました。今回は“Transforming lives(人生を変える)”と原文のタイトルにあった3人の起業家をピックアップしたところ、3人ともやはり女性起業家でした。日本で“Social Entrepreneur”という言葉が現れる前は「生活密着型ビジネス」とWWBジャパンでは表現していました。生活の中の発想・着眼点で仕事を作り出す、地域に貢献する、人育てに力を入れる、不平等を無くすなど、それを作り出す多くの女性がいるのは世界共通です。

ウルヴァシ・サーニ博士:教育を通じて人生を変える

ウルヴァシ・サーニ博士は、インドの社会起業家精神の最前線に立つ、先見の明のあるリーダー、女性の人権活動家、教育者です。Study Hall Education Foundation (SHEF) のCEO兼創設者としての彼女の使命は明確です。それは、インドで最も恵まれない少女たちに教育へのアクセスを提供することです。

サーニ博士は30年以上にわたる献身的な活動を通じて、900以上の学校と協力し、15万人以上の女子生徒の生活に直接影響を与え、さらに27万人の女子生徒が彼女のプログラムを通じて間接的に恩恵を受けており、消えない足跡を残しています。彼女の献身と情熱により、2017年に名誉ある「社会起業家オブ・ザ・イヤー」賞を受賞しました。これは、教育とエンパワーメントの追求における彼女の無私無欲の行動が認められました。

ウルヴァシ・サーニ博士は、学校のガバナンス、カリキュラム改革、教師トレーニング、教育におけるテクノロジーの利用、特に女子教育に重点を置いた専門家として知られています。彼女の影響力は国境を越えて広がります。彼女はブルッキングス研究所のユニバーサル教育センターの非常勤研究員です。

彼女の献身は世界的に認められ、オバマ財団グローバル・ガールズ・アライアンスとクリントン財団からチェンジメーカーとして認められています。シュワブ・ジュビラント・バーティヤ財団による「インド・ソーシャル・アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」賞は、インドで最も恵まれない少女たちの教育における彼女の影響力のある取り組みをさらに強調しています。

サーニ博士の社会起業家としての旅は、1983年の女性の人権団体であるSurakushaの設立から始まりました。彼女はその後、SHEF を設立し、プルナ女子学校を含む3つの幼稚園から高校までの学校を手掛け、手頃な価格で高品質の権利を提供しました。都市のスラム街の1000人以上の少女たちに教育を提供しました。SHEFは、都市部の中産階級の子供たち、貧困地域の恵まれない少年少女、学校に通っていない子供たち、そして農村部の子供たちを含む4000人以上の生徒に直接影響を与えています。

Digital Study Hallの共同創設者兼ディレクターとして、サーニ博士はウッタル・プラデーシュ州の地方および都市部の学校に教育実践を広げ、10万人を超える生徒と教師に影響を与えています。彼女の影響は、女性に持続可能な生計を提供する社会的企業であるDiDiにまで及び、65 人のPrerana(*1)卒業生とその母親を雇用しています。

サーニ博士は、カリフォルニア大学バークレー校教育大学院で教育学の修士号と博士号を取得しています。彼女の学術的貢献は国際フォーラムや大学に及んでおり、彼女の広範な出版物は教育学への批判、教育現場における演劇学、フェミニスト教育学、児童文化、女子教育とエンパワーメントを網羅しています。

彼女の最新の著書『空に手を伸ばして:教育を通じて女の子たちのエンパワーメント』は、Prerana女子学校との14年間にわたる取り組みに基づいており、教育は、少女たちの生活に固有のニーズと課題に敬意と配慮を持って対処することで真に変革をもたらすことができると強調しています。ウルヴァシ・サーニ博士の旅は、教育と社会起業家の変革力を体現し、エンパワーメントと変化という不朽の遺産を残しました。

*1 Prerana:ナレンドラ・モディ首相が故郷グジャラート州メーサナ地区にあるヴァドナガルに最初に建設した学校は、国の若者が「変化の主人公」になるよう鼓舞する「PRERANA」というモデル学校として開発されている。文化や技術、信仰など9つのテーマが用意されている。

https://prerana.education.gov.in

SHEF  https://www.studyhallfoundation.org/

アカンクシャハザリ:m.Paaniを通じて人生を変える

アカンクシャ・ハザリは社会起業家精神の先駆者であり、自身の事業である m.Paani を通じて世界的な水危機への対処に多大な貢献をしています。ビル・クリントン大統領に認められ、100 万ドルの賞金を授与されたハザリの革新的なアプローチは、モバイルベースの報酬プログラムを通じて、十分なサービスを受けられていないコミュニティに力を与えることに重点を置いています。

ハザリの使命は、十分なサービスを受けられていない家族に、彼らの願望を達成するために不可欠なスキル、知識、ツールを提供することに重点を置いています。 m.Paaniプログラムは、支出とポジティブな行動をポイントに結びつけ、これまでアクセスできなかったコミュニティに機会を生み出します。

m.Paani のモデルの核となるのは、コミュニティ開発基金の創設です。パートナー企業は、コミュニティメンバーが製品やサービスを購入するたびに、利益の一部をこの基金に投資します。蓄積された資金は非営利パートナーを参加させるために使用され、スキル開発、教育、医療サービスなどのサービスを提供します。

報酬ポイントシステムは m.Paani の成功の中心です。コミュニティのメンバーは、ポジティブな行動や支出に対してポイントを獲得し、さまざまな機会と引き換えることができます。たとえば、経費記録を維持したり、教育クラスに参加したりするとポイントが獲得できます。

m.Paani の影響力はコミュニティの変革に明らかであり、3か月で合計最大 5,000 ルピー(9244円)の機会と報酬を提供しています。この報奨金は、飲み水が出る水道を各家庭に1台設置、各家庭にトイレを設置など、必要不可欠なニーズに応え、病気や健康関連の出費の削減につながりました。

コミュニティにおける実験の成功により、アカンクシャ・ハザリはムンバイ全土に m.Paaniの影響力を拡大することを目指しています。ユーザーベースは大幅に増加しており、このプログラムのモデルは携帯電話会社パートナーから認知、支持されています。ハザリ氏は、このシステムを拡張して、都市部のスラム街の住人が村の家族にポイントを移転できるようにし、農村地域の発展に貢献することを構想しています。

長期的には、m.Paani は消費者に関して収集したデータを活用して、企業が消費者とどのように関わるかに影響を与える可能性があります。テクノロジーとビジネス戦略の革新的な利用により、m.Paani は社会起業家精神における変革力としての地位を確立し、地域レベルと世界レベルの両方でポジティブな変化を生み出すというアカンクシャ・ハザリの取り組みを体現しています。

*TEDでのプレゼンは彼女の仕組みについてわかりやすく説明しています。実際4700世帯くらいのキアンダという地域にかつて共有の水飲み場は115か所、トイレは285か所でしたが、各世帯で年間使う携帯電話の料金160.5ドルのうち、5%をm.Paaniの水基金へ寄付するプログラムを作り、年間で37,581ドルが集まり、442か所の水飲み場やトイレを新たに設置でき、当初41世帯に1つの水飲み場が、1年目は8世帯に1つ、2年目は4世帯に1つ…5年目にして1世帯に1つという普及に成功している。このモデルはアフリカでもお手本とされていまあす。

m.Paaniが地域の零細ビジネスに技術で貢献 https://youtu.be/pXa03y7m7g0

ラジベン・ヴァンカール:

アップサイクルと起業家精神を通じて生活を変える

グジャラート州ブジのコタイ村出身の作家兼起業家であるラジベン・ヴァンカールは、自分の人生とコミュニティの他の女性の人生にポジティブな影響を与えるために、重大な課題を克服しました。逆境に直面しているにもかかわらず、ラジベンは廃棄されたプラスチックをアップサイクルして美しく持続可能な芸術品を作ることに特化した、彼女の名を冠したブランドの誇り高きリーダーです。

ラジベンは、わずか2年間しか学校に通っておらず、限られた教育を受けながら始まりました。しかし、正式な教育を受けていないことが、学び、家族の幸福に貢献するという彼女の決意を妨げるものではありませんでした。6人の姉妹と1人の男の子の家族で育った彼女は、父親が女性の教育の必要性を否定していたために、性差別に直面していました。ラジベンはめげずにこっそり学校に通ったものの、家族の反対に遭いました。困難にもかかわらず、彼女は秘密裏に手紡ぎ手織り綿の伝統的な形式であるカディを織る技術を開発しました。

4年間続いた干ばつを乗り越える間にラジベンの人生は予期せぬ方向に進み、代わりの収入源を探すことを余儀なくされました。最終的に、彼女は公然とカディを織ることを学び、家族の生計に貢献しました。18歳での結婚により新たな困難が生じ、夫の早すぎる死により、彼女は3人の子供を養わなければならない弱い立場に置かれました。

2009年に、工芸品、遺産、文化生態学を専門とする NGO であるカミールとつながりを持ったとき、ラジベンの人生は好転しました。この極めて重要な瞬間が、彼女のアップサイクルプラスチック成功の始まりとなりました。カミールの支援とヘタルという協力者による革新的なデザインに触れたことで、ラジベンは廃棄されたプラスチックを実用製品に変えるというアイデアに至りました。

2019 年、ラジベンはプラスチックのアップサイクルとその過程における女性のエンパワーメントに焦点を当てたブランドを設立することを決意しました。自助グループのサキ・マンダルから当初反対にもかかわらず、ラジベンは粘り強く、村や近隣地域から捨てられたビニール袋を集め始めました。カーリガークリニック(ビジネスインキュベーション)のニレッシュ・プリヤダルシとヌープール・クマリの助けを借りて、彼女は自社製品のブランド確立や、デザイン、マーケティング戦略を開発しました。

ラジベンの仲間は約70人の女性で構成され、10台の織機とミシンを稼働させ、さまざまなアップサイクル プラスチック製品を生産しています。フルーツバスケット、買い物袋、トレイ、クラッチ、財布、ハンドバッグなどのこれらの製品は、カーリガー医院が運営するWebサイトpabiben.comで紹介されています。それぞれの製品には、その創作に携わった女性作家のストーリーがあり、製品と作り手とのつながりを育みます。

ラジベンのブランドは目覚ましい成長を遂げ、昨年度の売上高は1700万ルピー(3153万円)に達しました。このブランドの成功を受けて、米国やヨーロッパの大手ブランドとのコラボレーションの可能性についての話し合いが行われています。ラジベンのビジョンは彼女自身の成功を超えて広がっています。彼女は自分のモデルを他の村でも再現し、より多くの女性に力を与え、環境の持続可能性に貢献したいと考えています。彼女の目標は、アップサイクルを通じて最大1000人の女性を訓練し、雇用の機会を創出し、環境を保護することです。彼女はまた、ブランドの影響力をさらに高めるためにデザイナーを雇用することも構想しています。

ラジベンの物語は、恵まれないコミュニティの女性に持続可能な生計を築く上でのアップサイクルの回復力、決意、そして変革をもたらす力を例証しています。https://www.pabiben.com/products/rajiben/

*どのような作り方なのかはこちらのページがわかりやすいです

https://artisanscentre.com/blogs/meet-the-makers/meet-the-maker-rajiben-vankar

インドネシアでの「銃のない平和を!」公演に向けて

CWB 奥谷京子

4月の日本での公演で10か所回って、「Peace without Guns―武器のない平和を」という脚本でYikeを披露したのですが、次はインドネシアのバリ島で開催することが決まったのは先月号でお知らせしたとおりです。これをどうやって開催するのか、日本公演で使ったデータをもとに、手伝ってくれた学生インターンの羽成優花さんがいろいろとインドネシア語にチェンジをしてくれています。

1つはインドネシアも楽団を呼べないので事前収録した音声を使うのですが、日本では幕間に解説を入れていました。それもインドネシア語に変えなければなりません。まずは英語にして、それをインドネシア語にGoogle翻訳をしてみて、実際ネイティブの人が読んだ時におかしくないかをチェックしてもらい、それでなるべく読み上げるスピードも日本語バージョンと同じくらいにしてもらい、録音を繋ぎ合わせています。今回私が行って、実際にヴァニー先生にその音声を届けることができました。これで彼女らの練習もタイミングを見ながらうまく進めることができるようになると思います。

2つ目にパンフレット。12ページあるものを8ページに短縮するのですが、インドネシアに行くメンバーは入れ替わるので、その人たちの紹介文章や日本語で書かれた中田厚仁さんの歴史などこういうものもすべて英語にした後にインドネシア語に直しています。なぜ日本語から直接インドネシア語ではなく、英語を経由しているかというと、日本語というのは結構曖昧な言語なので、そのまま翻訳にかけると主語と動詞がうまく結びつかなかったりすることがあります。それが直接インドネシア語になってしまうと私たちもそれがあっているのかどうかの判断ができません。そして今後ほかの地域に行く時も英語にしておくとフィリピンやインドにも使えますし、何かと便利だからです。日本語で言わんとしていることを敢えて説明を加えるなどしながら英語にして、それをインドネシア語にして、またネイティブチェックをもらって問題なさそうだということでそれを編集に回すといった具合です。

 3つ目にMr. Diのインタビュー。これもクメール語なので、インタビューのスクリプトをもらって、それを英語にして、さらにインドネシア語に翻訳するといった過程が必要です。そして字幕付きに編集しなおしてくれるところまで羽成さんにやってもらっているので、私は本当に助かっています。

そして最後にもう1つ、日本公演での改善案として、やはり劇中のクメール語での会話が何を言っているのかがわからなかったというお声も頂戴しました。もちろん物語の解説はパンフレットに入れていますし、誰がどの役かも説明をしているのですが、じっくり読んでから公演に臨む人は大多数ではありません。ヴァニー先生をはじめとして白熱した演技で心を動かされますが、話している内容がもっとわかれば…ということで、映画の字幕のように投影されたスクリーンに映し出せないかという改善案が出てきて、これが次なるチャレンジです。字幕を出すタイミングも演じている人たちに合わせないといけないので、どれくらいうまくいくのか未知数なのですが、多少会話の店舗がずれたとしても、全くないよりも理解する助けになるだろうということでやってみようと思っています。 これらのことを準備し、インドネシア公演へ臨もうと思っています。アジアの国で開催することで、カンボジアでは当たり前に用意できることが海外ではできなかったり、言葉の壁をどうやって超えられるかなど、いろんなことを乗り越えて、いいパフォーマンスができるように進めていきたいと考えています。

国際チーム(ミャンマー・カンボジア・日本人+ヤナイ君)でフェアへの出展準備進む

CWB 奥谷京子

ベトナムやタイは日本と同じように展示会場で世界中のバイヤーと生産者が集まるようなメッセや展示会というのがたくさんあり、私もかつてホワイエの花卉を探すのに通訳としてスタッフの皆さんと一緒に回ったことがあります。中国の広州に行ったときには3日早朝から閉館の時間まで回っても回り切れないほどの広い会場でした。

それに比べて、カンボジアでは展示会で商品を見て、取引の商談をするような慣習がほぼなく、若い人たちが「グリーンフェア」を企画して今年で3回目。会場となるエリアも緑に囲まれた、メコン川の中州にある交通量の多い場所で7月5~7日に開催されます。

この企画にChnai Marketの場所をもともと紹介してくれたソペアックさん(通称ソペさん)が共同代表としてかかわっており、ここにホワイエのリースやポリカといった商品やフィリピンのSHAPIIの紙製品、そして手作り水耕栽培キットなどを作って実際に展示をする計画で動き始めました。

ちょうど私もカンボジアに1週間滞在していましたので、その時にソペさんと直接どういう展示をしたらいいか、事前に案を共有して実際の場所についてのすり合わせをし、長机1台のスペースに棚を持ち込んでいろいろと見せようという話をしました。その後、ブースのイメージ図を手描きし、これまでホワイエで展示会に出たときの写真もいくつか見せながら、単に机に並べるではなくて、小さな箱の上に布をかけて高さをつけながら飾るなど工夫をして、限られたスペースだけれどもほかに負けない目を引くブースにしようと、帰国前にもう1度ディスカッションの場を設けました。

今回一緒に進めているメンバーはミャンマーから避難してきたノノ君、タタ君が中心で、ノノ君は持病の問題からミャンマーに戻ることが決まり、タタ君はアサさんのお兄さんでいずれアメリカに行くことが決まっているので、「Beyond Border Team」と名付けて、日本にいる私とバラバラのところで働くチームが結成されました。さらにはチュナイマーケットでクッキーを作って販売しているカンボジア人のスレイリャックも加わり、このフェアに向けて動くことになりました。

まずは水耕栽培用のポンプをネットの情報から探し当てて自分たちで手作りしたものを完成させました。言葉が通じない国でネットで調べながら材料を買って作っていくというのはかなり試行錯誤だったと思いますが、ノノ君は手作りすることがパソコンに向かって何か仕事をするよりも好きなようです。

 そして棚をどうやって魅力的に作るか棚に網を張って、そこにリースをかけられるようにして、背後からも商品が見えるようにしたらいねというので、棚をどうやって作るのか、素材をパイプにしたら組み立て可能じゃないか、メジャーで大体どれくらいの大きさ、高さにしようかというのを議論しました。

 最後に話をしたのは、この展示会に出展することがゴールではなくて、そこで出会ったお客さんに次を投げかけるために知ってもらうことが一番の目的だよ、と。そこで100人の情報を集めよう。本来ここがSocial Entrepreneur Instituteであることから、起業の話をしたり、展示即売会をこの場所で行ったり、そうすればスレイリャックのクッキーやスムージーを知ってくれる人がいる、そうやって徐々にここを知ってもらう、訪れてもらう人が増えるためなんだよと伝え、それを遠隔でもサポートするチームにしよう、と。私もどう魅力的な場所として紹介できるか、チラシ作りに力を注ぎたいと思います。

変化の種⑦ インドの社会起業家の紹介

CWB 奥谷京子

今回もヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』からご紹介します。私は産業能率大学で年に1回「ビジネスマインドと発想法」という講座を担当しています。どういうアイディアと動機で人々が事業を始めるのかという紹介を日本の女性起業家だけでなく、今年度はこちらのインド社会起業家シリーズからも紹介したのですが、改めて目の付け所、社会に対する問題意識など、大事な要素がちりばめられているように感じます。

今回は地方の村の仕事づくりや若者の育成ということに焦点を当て、3人の社会起業家を紹介します。

〇ニヴェディタ・バネルジ:クンバヤのプロデューサーを通じて女性に力を与える株式会社

1994年、ニヴェディタ・バネルジは、マディヤ・プラデーシュ州デワス地区のニームケダという人里離れた村に縫製センターとしてクンバヤを設立しました。現在、クンバヤ・プロデューサー・カンパニーリミテッドは、疎外されたコミュニティの 100 人以上の女性に年間300日の雇用を保証する、繁栄したベンチャー企業に成長しました。

1980年代、ニヴェディタ・バネルジは、デリー大学とジャワハルラール・ネルー大学 (JNU)で学びながら、基本的な社会問題に根ざしたフェミニスト運動や草の根活動に積極的に参加しました。1990年、ソーシャルワーカーのババ アムテの指導のもと、彼女はマディヤ・プラデーシュ州の農村部で水の保全、生活の安全、金融アクセスに焦点を当てた重要な草の根の取り組みであるサマジ プラガティ・サハヨグ(SPS)を共同設立しました。

SPS内で、クンバヤはアパレル、パッチワーク、ホームリネン、アクセサリーのブランドとして誕生し、縫製技術を通じて女性や障がいのある人に力を与えました。ニームケダの小さな村から始まり、バネルジはそこで部族コミュニティの地方統治における女性の存在が目に見えないことに気づきました。この認識が彼女にインスピレーションを与え、スキル構築の取り組みと女性の権利についての意識を高める手段の両方として刺繍を導入しました。

限られた資源や地元男性の反対などの課題に直面し、バネルジは当初、借りた機械で女性たちを教えました。国立農村開発銀行(NABARD)の融資を受けてミシンを調達し、女性たちは寄付された布切れを使って縫製を始めました。挫折にもかかわらず、パッチワークに感銘を受けた卸売業者が米国への輸出を開始したことで、この事業は再び再生し勢いを得ました。クンバヤは女性に生計を立てる機会となり、経済的自立をもたらしました。縫製センターの焼失などの困難にも関わらず、この事業は継続しました。タタ・トラストからの支援により、事業を拡大することができました。現在では、疎外されたコミュニティの出身の100人以上の女性が同社の株主となっています。

クンバヤはスキル開発に重点を置き、80の村の2500人以上の女性に縫製を教えてきました。このベンチャーは衣料品のデザインに取り組み、世界的なデザイナーと協力し、世界中のブランドと提携しています。新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって引き起こされた挫折にも関わらず、クンバヤは循環的な実践を通じて持続可能なファッションとデザインを生み出すという使命に引き続き取り組んでいます。

ニヴェディタ・バネルジとクンバヤの物語は、スキル開発と持続可能な起業家精神を通じて女性とコミュニティに力を与え、草の根の取り組みが変革をもたらす力を実証しています。https://www.kumbaya.co.in/

〇サントシュ・パルレカール: Pipal Treeを通して希望と力を育む  

インドの起業家精神の広大な風景の中で、サントシュ・パルレカールは希望の光、インドの田舎の失業中の若者の生活に変化をもたらす触媒として現れています。「Pipal Tree」の先見の明のある創設者として、パルレカールは、エンパワーメントに対する情熱を、スキルを授けるだけでなく、尊厳ある雇用の機会への扉を開くプラットフォームに変えました。

2007年に設立されたPipal Treeは、安定した仕事を確保する上で農村部の若者が直面する課題に対処するというパルレカールの揺るぎない取り組みを表しています。これらの人々の未開発の可能性と才能を認識し、スキルの習得と就職の間のギャップを埋めることを使命としてPipal Treeを設立しました。

Pipal Treeの核心は、従来のトレーニング・プログラムを超えています。若者が全国の企業にとって貴重な人材となるための正式な教育とスキルを提供しています。パルレカールは、田舎の若者が適切な指導と訓練を受けて障壁を乗り越え、労働力に有意義に貢献できる未来を思い描いています。

Pipal Treeの影響は大きく、革新的なトレーニングを受けた1500人以上の労働者の生活に影響を与えています。新たに獲得したスキルを武器に、これらの人々は自信と能力を持って雇用市場に参入し、失業のサイクルを断ち切り、より明るい未来への道を切り開きます。

パルレカールの物語は、社会起業家の本質、つまり差し迫った問題を解決するための揺るぎない取り組みを体現しています。Pipal Treeの成功は、システム内のギャップを特定し、それに対処する革新的なソリューションを作成する彼の能力の証です。

パルレカールは、利益だけに焦点を当てるのではなく、個人とコミュニティを向上させる持続可能なソリューションの作成を優先しています。

サントシュ・パルレカールの物語は、田舎の若者の可能性を信じる人々にインスピレーションを与えます。彼の起業家としての歩みは、ビジネスが社会変革の手段となり、最も必要とする人々に成功と尊厳への道を生み出すことができることを私たちに思い出させてくれます。彼はPipal Treeを通じて変革の種をまき、インドの農村部の労働力に明るい未来を育んできました。パルレカールの遺産は単なる起業家精神ではありません。それはエンパワーメントと前向きな変化の遺産であり、一人の個人がコミュニティやそれを超えて大きな影響を与えることができることの証です。

https://pipaltreeventures.com

◯ラディカ・メノン、プリヤ・ディーパック: ヴィレッジ・フェアの健康的な調理器具革命

テフロン加工の鍋が主流の現代のキッチンの賑やかな世界の中で、コチ出身のラディカ・メノンとプリヤ・ディーパックは、鋳鉄や陶器を使ったより健康的な料理の伝統を思い返すことにしました。彼女らのベンチャーであるヴィレッジ・フェア(The Village Fair Natural Cookware)は単なるビジネスではありません。それは、毒素を含まない天然の道具を使って料理をするという、昔ながらの習慣を復活させる物語です。

「ヴィレッジ・フェア」のアイデアは、鍋に加えると鉄欠乏症に対処できる鋳鉄製の魚について論じた Facebook の投稿がきっかけでした。この反応に興味を持ったラディカは、鋳鉄製のカダイ (中華鍋) の写真を共有し、より健康的な調理器具を導入したいと願う人々からの問い合わせが殺到しました。この啓示は、自然の調理器具を入手しやすくし、鍋やフライパンの味付けに携わる女性に経済的自立を提供するという使命を持ったヴィレッジ・フェアの発足につながりました。

このベンチャー企業は、女性の自助グループによって慎重に調達され、味付けされた、さまざまな天然調理器具を提供しています。テフロンが独占する市場において、ヴィレッジ・フェアは、より安全で健康的な代替品を提供することで、常識を打ち破ることを目指しています。包括性に重点を置き、チームは 5人の中核業務グループと、調理器具の工夫に携わる自助グループの女性18人で構成されています。 

送料を除く価格が600ルピーから6000ルピーの鋳鉄や粘土の容器を含む製品は、健康上の利点だけでなく、製造過程での人間味によって人気を集めています。チームは近々石器製品を導入し、その製品を拡大する予定です。

ヴィレッジ・フェアは、堅牢なサプライチェーン過程と戦略的な市場開拓アプローチに基づいて運営されています。Facebookを実験場としてスタートし、その後ウェブサイトとEショップを立ち上げました。実践的な体験を好む人のために、ヴィレッジ・フェアはオーガニックで健康的な生活を推進する地下鉄にある店舗と提携しています。

チームは、このモデルを段階的に世界的に複製することを構想しています。自己資金で運営され、販売ごとに40~50%のマージンをとって運営されている ヴィレッジ・フェアは、年間400万ルピー近くの売上高を誇り、毎日約50個を国内外の顧客に出荷しています。ビジネスの成功以外にも、このベンチャー企業は恩返しも行っており、売り上げの5%が精神障がい者向けの医薬品のための Mehac Foundation を支援しています。ヴィレッジ・フェアは、伝統と革新を融合させ、すべての人により健康的なライフスタイルを促進する可能性を証明するものです。

「インターンも旅の仲間」 移民コープとモンドラゴン

CWBアドバイザー 松井名津

ブルーノさんが毎回紹介してくれているラテン・アメリカ諸国のコーポラティブでは、国家とコーポラティブの関係が一つの焦点となっていた。今回のモンドラゴンの新しい動きは、増え続ける移民に対してコーポラティブが「支援」に当たるというものである。

通常移民への支援は国家の仕事と考えられている。移民先の社会に馴染むための言葉や慣習の習得、正規の職業に就くための訓練などの費用を、移民から徴収するわけにはいかない。各個別の企業が負担金を出すというのも、移民を労働力として活用するかどうか未決定な企業にとっては、納得できる話ではない。しかし移民が社会に馴染まないまま、正規の職につけないまま地域社会に滞留することは、社会全体に不安と不安定をもたらす。したがって国家が税金を使って(国家の安全のために)移民に対する支援を行うというのが一つの理屈である。これはラテン・アメリカ諸国のコーポラティブに国家が支援を行っていた理由と重なる。社会の周縁部に存在せざるを得ない人々を、社会の中心部に同化するための支援ともいえる。

これに対してモンドラゴンの新しい動きで紹介された方策は、移民自身が起業家となるためのコーポラティブプログラムである。インタビューによれば目的は「コーポラティブが移民が自分自身の仕事を計画し人生の見通しを改善する」ことにあるという。

特に多くの移民が自分たちのコミュニティから切り離され、相互扶助や相互支援の輪の外に放り出された状態であることから、彼ら自身の困難や必要性を表明できるネットワークを作り出すことが鍵になるとされている。したがってモンドラゴンの役割はコーポラティブの概念や組織化の方法、トレーニングといった側面支援にとどまる。事実インタビューの中で「私たちのような恵まれた立場から移民にアプローチすることは、とても難しいのです。それゆえ移民たちとすでに関係がある団体や場所と協働する事が肝要になっています」「私たちは旅の仲間にとどまるべきなのです」と述べられている。

この二つの対照的なアプローチを読んで、私が想起したのは日本の障がい者運動や近年の高齢者介護で使われる「当事者主権」という言葉である。この言葉はある種の曲解を伴って使われる場合がある。健常者として長年障がい者の介助に従事する立場から、介護の問題に迫っている渡邉氏の言葉を借りれば【本人の思いは、もっともらしい装いを纏って家族や介護職員の思いへと普通にすりかえられる。「こういう状態になったんでしたら、〇〇するのが、ご本人にとって一番いいんです」-「当事者主権は耳触りが良いだけに、その言葉が都合よく曲解されることに対して、ぼくたちは重々に気をつけなければならない(渡邉琢『障害者の傷、介助者の痛み』青土社2018年)」。この記述をあらためて読んだのは、私自身の母が難病の診断を受けた上に大腿骨骨折で入院し、退院後の生活をどうするかという話し合いをケアマネージャーとしているところだった。そして私自身も「母にとって一番いいんです」という罠に陥っていることにあらためて気付かされたのだった。

一人暮らしを望む母、一人暮らしを継続してもらいたい私。その一方日々一緒に生活していく中で「一人暮らしして大丈夫だろうか?」という心配を持つ私。ケアマネージャーからは「一人暮らしをするための支援」と「施設で生活する」という二つの選択肢を示されている状況。その中でともすれば「母にとって…」という言葉で本人の意向を無視しがちになっている自分。まさしく「都合よく曲解」する状況が生まれつつあった。そしてこの曲解は、高齢者に対してだけでなく、さまざまな障がい者、移民、マイノリティと言われる人々に対して、そうではないマジョリティが陥ってしまう罠でもあると痛感した。特に国が関与している場合、いわゆる「健常者」は自分たちの税金が使用されているというただその一点を持って優越的立場に立てる。そして自分たちの意向を無意識のうちに「本人のためだから」と曲解して押し付ける。そしてその意向からはみ出していく人たちに対して「〜の癖に贅沢な、わがままな」主張をする人間だと排斥する。

日本の障がい者運動はこうした社会的規範に対する抵抗であり、社会的規範を変更するための運動だった[1]。なぜ脳性麻痺者が「外出する自由」を持てないのか―具体的にはなぜ車椅子でのバス乗車が拒否されるのか。障がいのある子供が生まれることが出生前診断でわかった時、堕胎する権利は女性だけのものなのか―それは社会から障がい者を消し去ることを意味しないか。障がい者にも性欲がある。障がいがありながら家族を持つこと、子供を持つことは「贅沢」「我儘」なのか。障がい者=当事者の欲求・要求は「健常者」にとって当たり前のことであるのに、障がいを持つから制限されなくてはならないのか。障がい者が地域で「当たり前の生活」を営むのは当然のことではないのか。当事者主権は本来こうした文脈で使われるものだった。

ところが、70年代に始まった障がい者の運動、障がい者の自立生活運動に対抗したのは労働者であった[2]。実際の現場で介助や補助にあたる病院や施設の労働者、交通機関の労働者にとって、障がい者の要求は自分たちの労働強化として受け取られ、ともに問題を解決しようという姿勢が見られなかった。90年代になると介護補償制度が各自治体で制度的に認められるにつれて、障がい者の地域生活基盤整備が進んでいく。それは障がい者に対する24時間介護補償が実現する=障がい者が地域で自分で生活していくことでもあったが、同時に福祉介護部門における非正規労働者の増大を伴うものであった。非正規労働者の増大というと負の側面が強調されるが、障がい者介護の現場ではそれまで9時~5時、週18時間という正規ヘルパー派遣以外の部分は、ボランティアによって担われていた。重労働でもある障がい者介護(介助)を無償で、しかも深夜であっても対応するボランティアを確保することは非常に難しい。したがって時給が払われ、かつ24時間誰かが対応してくれる形での非正規労働者の存在は、障がい者が地域で自立生活を営む上で必要でもあった。一方で非正規労働者の増大は、多くの人の生活基盤を切り崩すことになった。また90年代に始まった「自由化」「市場化」の動きが、社会のセーフティーネットを弱めた。その動きは同時に障がい者の介助者の給与が減少していく動きと連動していた。これはちょうどフリーターという言葉が「自由でカッコいい」働き方から「底辺労働」へと意味を変容させ、ニートが社会問題になった時期と重なる。そして介助者の報酬が切り下げられてしまうことは、障がい者の地域生活基盤を切り崩すことにつながる。

ここで長々と日本の障がい者と労働者の問題を取り上げたのは、問題が障がい者の自立と労働者に限定されないと考えるからだ。障がい者の部分を高齢者に変換すれば、現代の高齢者社会における介護問題に、移民に置き換えれば近い将来の移民と労働者の問題に通用するだろう。それゆえ、以下の引用は心に刻むべき指摘であり、モンドラゴンのインタビューと共鳴している。

「相手との対等な関係ということは、弱者と関わるとき、誰しもがみな思うことですが、こういう思いそのものが、白々しく、関わる人のうぬぼれなのです。たとえば脳性マヒ者は、障害による緊張で顔の筋肉が強ばって、どう見ても普通の人とは見られないし、また、トイレも好きな時に行けません。対等というより、そこでは、両者の立場の違いを、はっきりと双方が自覚した上で、そこは、両者の思いやりのなかで、深く理解しあっていくしかないのです。…対等な関係というのは、双方の関係の中で詰めあっていく努力をして、それぞれの立場の違いを自覚した上で、双方がお互いの生活を見あっていくという関係が無いかぎり、お互いに認め合った関係とは言えないのです」。

さて、その上でもう一度モンドラゴンの試みを考えてみよう。先に引用したようにモンドラゴンは移民に自分たち自身で起業家・コーポラティブを結成することを促すための手段、機会あるいは教育を与える立場だと表明している。さらにスペインでの事例として介護職の移民女性たちがアソシエーションを創り始め、この分野で無視できない存在になりつつあるという。日本の経験から敷衍してみるに、彼女たちは低賃金・低待遇に置かれていたのだろう。その待遇改善とともに自分たちの人生を自分たちで組み立て、尊厳を守るために、彼女たちは集団として組織を創設したのだろう。しかし、単純にコーポラティブを結成することが最終解決になると述べられているわけではない。むしろこうした動きが気づき(awareness)をもたらし、理論から実践へと実験を促すことにつながるとされる。さらに受益者は移民にとどまるものではなく、草の根からの経済を築くものすべてが受益者になりうるし、そうなるものとしてプログラムが存在すると述べられている。とすれば、これは上記の引用にある「双方の関係の中で詰めあっていく努力」を担保する試みであるといえよう。

とはいえ、モンドラゴンの試みをなぞるだけでは何も生まれないと思う。私たちが目指すべきなのはモンドラゴンを超える(というと言い過ぎかもしれない)こと、コーポラティブが1つのコーポラティブとして閉じてしまわないことではないか。唐突な言葉のように聞こえると思う。けれどこれは日本の障がい者運動が労働者や労働組合と対抗関係に陥ってしまったことを踏まえての考えなのだ。当事者は当事者だけで存在できない。障がい者であっても、高齢者であっても、移民であっても、その周囲には支える労働を担う人がいる。さらに当事者が住む地域社会の住民がいる。こうした周囲の人々もまたそれぞれの当事者としての利害を持っている。ちょうどさまざまな中心を持った円が重なり合うように、それぞれの利害は特有の焦点を持つとともに重なり合う部分がある。その重なり合った部分で、それぞれが当事者としての利益に拘泥すると、対抗関係に陥る。利益に拘泥しやすいのは、それぞれが組織の立場を重んじる時ではないかと私自身は考えている。「個人的にはわかるのですが…」というやつだ。コーポラティブも組織体である以上、組織の立場は生じてしまう。だからコーポラティブを閉じてしまわないことが必要になる。

「閉じてしまわない」とは具体的にはどのようなことを指すのか。これに対する答えは抽象的なものになってしまう。組織の構成メンバーが組織への帰属意識と同時に個人としての判断を手放さないこと。逆に組織体は組織に属するメンバーが、個人として判断し異論や意見を発議したとき、その発議を拒否しないこと。さらにメンバーが個人の判断を優先させ、組織を離れることを敢えて促進すること、つまりいつでも独立していけるように個人の能力を育成し続けること。そんな組織は組織体として成立しない、維持し続けられないといわれるかもしれない。しかし、私自身はこれぐらい「閉じない」組織でないと、将来的に組織として存立し得ないのではないかという予感を持っている。


[1] 日本の先駆的な運動としては「青い芝の会」が挙げられる。青い芝の会の歴史や主な文献をまとめているのが、
http://www.arsvi.com/o/a01.htmである。

 

社会システムが崩壊する足音が聞こえるが…

CWB 奥谷京子

2023年新年号として「フェアトレードからコミュニティワークへ」という冊子にして読者の皆さんにお届けした。アジアを助けるから、アジアから助けられる国にと潮目が変わったと朝日新聞の永井記者も当時記事として紹介してくれた。

その本の中に、かつてフィリピンの看護士を福岡の介護施設で受け入れた時に私が英語の通訳で入った時のエピソードを紹介した。フィリピンで看護士の資格があると半年カナダで働けば永住権が得られる、ドバイのほうが稼ぎがいい、日本は英語で上司が話してくれないし、お給料がいいわけでもないし、魅力を感じないと20年以上前に言われたのだ。

そこから現在は介護の現場はミャンマーやネパールが中心で、ミャンマーは徴兵のために国外へ男性は出られなくなった。つい最近、ネパール人で看護コースを専攻し、その経験を生かして現在技能実習で地方の特別養護老人ホームに3年勤めている女性から話を聞いた。彼女の仕事ぶりは評判がよく、意地悪もなく、いいスタッフに恵まれているという。だが、驚いたのは時間を埋め合わせる作業員でしかない現状だ。

月に8、9回くらい夜勤があり、2時間ごと日本人スタッフと交代し、40人近い介護度3以上の高齢者をたった一人で夜間見ているという。同じグループ内の別の施設にいた時は週1回スタッフ全員が集まるミーティングもあったが、今はそういう機会もなく、任された時間で大きな事故や容体の急変がないように祈りながら担当するという。20代後半だが、顔にある吹き出物がその大変さを物語る。50キロくらいのお年寄りを一人で体を動かしたりしなくてはいけなくて最初はコツもわからず、腰も痛めたそうだ。日本で働く前は介護というのはお年寄りに寄り添って、お庭で一緒に土いじりをしたり、やりたいことをお手伝いするというようなイメージだったが、かなり大きな施設ということもあり、その施設のスタッフの時間に入居者が合わせるという状況で、朝7時からご飯を食べてもらうために眠くても5時から起こし、食べる時も一人ひとりで、入居者同士で談話などもない。介護スタッフは5人の面倒を見て、食べ終わったら寝かせるという状態だという。すべての介護施設がそうではないとは思うと言っておられたが、弱っていく高齢者をみていくのがつらいと漏らしているのだ。日本という場所に憧れたが、施設が立派じゃなくても大家族で身内のお年寄りを見るネパールのほうがいいと感じていそうだ。

これではネパールからもそのうち人が来なくなり、次は経済危機に陥った国を探し、どこもなくなるという道をたどるのだろうか。現在技能実習制度も見直しが図られて、技術を学んでもらって国際貢献の名目から育成にシフトするそうだが、現場の感覚とは乖離している。ネパールにいる彼女の友達で今看護の勉強を始めた人もいるようだが、オーストラリアの給与がいいので(時給は2倍強)、そこを目指しているという。ミャンマーは国の事情でもう若者も出国できなくなり、ネパールの人も1,2年で来なくなると、さらなる人手不足。そしてたまたま介護が自分の天職だと思って20年働いていた日本人女性もこの7月に介護現場から足を洗ってエステの仕事に転職をすることを決めたと聞いた。この仕事が好きだと思っていたけれども、どんどん現場の人がやめていき、彼女も鬱状態になってしまったという。また旦那さんが事業に失敗して蒸発し、4人の子どもを抱えていたシングルマザーも、一番下の子がもうすぐ高校を卒業したらほかの職種にチャレンジしたいといっている。

たまたま介護の例ではあるが、いろんなところで日本のシステムの崩壊がある。農業の人手不足は深刻だとか、学校の先生を目指す人が少なくなったとか、2024年問題で建築現場や運輸業はどうなるかなど、ニュースで聴く話題だけではない。これだけ複雑な要因が絡み合う社会なので簡単には解が見つからない。さらに円がこれだけ安くなると、輸入もいよいよ危うい。輸入食品を扱う街中のお店でも品切れと書かれている表示も見かける。数日経っても慢性的に物が入ってこなくなることも起きてくると、今後一般のお店の運営方法もおそらく変わってくるだろう。

負のスパイラルになった時に、そこから逃げ出していく人たちはたくさんいる。ただ安全と思しき所に移るためにも、自分にスキルなど役立つものがなければ実力が試される場であるほど定着などできるわけがない。お先真っ暗なシナリオを並べても気分が沈むだけだ。以前、片岡が起業スクールでよく言っていたが、「お金のあるところに人が集まり、情報が集まるという時代から、情報化の時代は面白い情報が集まるところに人が集まり、お金が後からやってくる」と。日本も機材は進歩・充実しているけれども、それを扱う人たちがいまだ古い体質から抜け出せなかったのか、周回遅れでやっと情報化にシフトする時が来たのか、と気づかされる。既存の枠組みで限界を論じ、解も見いだせず唸ってばかりいても何も変わらない。

以前、ある地方の障がい施設の話を聞いたことがあるのだが、予算が削られて毎日お風呂が入れなくなったが、近くの山で薪拾いをして燃料を入居者自身が集め、森の中を歩くおかげで幻聴・妄想も減り、さらに運動するので汗をかいて毎日お風呂に入ってぐっすり寝るのでおねしょも減るという一石三鳥くらいの効果が出た、という。

今さらながら「面白がる」心で「やってみる」、それぞれの人が自分の媒体で「楽しい」を発信できること、実験すること、他にやっていないことをやってみることだ。その時に、余裕や遊びの部分があることは重要だ。自給できる食料があることと、今私たちが力を注いでいる自らの文化に誇りをもって守っていくこと、そしてニュースに踊らされて不安がってばかりいずに自分で何かアクションを起こすことなのではないだろうか。ニュースは読むものではなくて、作るもの。それが時代に刺さり連鎖する時の面白さを感じられる自分であり続けたい。

ご縁が実を結ぶ、「銃のない平和!」全国公演

CWB  奥谷京子

今年はラッキーなことに桜が遅かったおかげで、プンアジダンサーたちが名古屋に到着した時に満開になりました。劇中にもアツ(中田厚仁さん)を偲んで村に桜を植えるというシーンがあるのですが、成長し咲き誇るとどれだけ美しいかを間近に感じられた彼女たちはより演技に力が入ります。

今回、愛知県は3か所+高校の訪問を果たすことができました。1か所目はソーネOZONEで公演後には運営スタッフのお母様がカンボジアのメンバーに浴衣を着つけてくれたり、三味線と小唄・日本舞踊の披露や日本の歌を歌ったりと、盛りだくさんな内容でした。2か所目はオルタナティブスクールのあいち惟の森。ここではお昼ご飯の豚汁の具材を一緒に切って、日本の大根やネギの大きさに感激したり、近い年齢の若者たちとスレイマウがホワイトボードでクメール文字を教えました。そして3か所目の南知多では仏教のお寺に訪問ができてそれにも興奮していたメンバーたち。移動はかなりきつくて、バスや電車に乗るたび頭が痛いと寝てばかりですが、毎日違う環境で刺激を受けているようです。

今回の企画を名古屋で引き受けて下さったのは顔の見えるフェアトレード風”sの六鹿晶子さん。フェアトレードタウンを推進した土井ゆき子さんの風”sで経験を積んで、土井さんが田舎へ引っ越された後も名古屋の中心街でその精神を受け継いで活動しています。彼女が2020年2月に新婚旅行でカンボジアを選んで訪れ、プンアジに宿泊しました。その際にカシューナッツのパウダーを入れたケーキ生地にバナナを挟み、生クリームをコーティングした小さなケーキをプンアジの生徒が作り、サプライズでプレゼントしてお祝いしました。それから六鹿さんはより身近にカンボジアを感じてくれ、今回もいち早く来日公演に手を挙げてくれました。

土井さんもソーネOZONEの会場に参加してくれ、「30年近いお付き合いになるけど、ボリビアからの楽団を受け入れた頃、懐かしいわ」とコメントしていました。そして参加者からも「学生時代にフェアトレードのサークルで、第3世界ショップは泥臭くていいなと思っていて、ここで会えてびっくりです!」という声も頂きました。第3世界ショップを特徴づけるのは単なる商品の販売ではない、コミュニティを作る、文化を守るためにイベントを継続しているという点です。利益の3分の1は後世に残したいもの、社会に必要とされることに採算は二の次でお金を活かそうという創立以来のスピリットが受け継がれています。すでにあいち惟の森の校長先生もフィールドワークで中学生5人を海外に連れていきたいと、今回出会ったプンアジの学生たちを訪問してくれる可能性が出てきました。こういうご縁が次のアクションへと繋がっていくのが面白いところでもあります。

今回は全編クメール語での上演なので日本で耐えうるかが心配でしたが、アツ村出身のコムジエンが主人公を演じるというストーリー性で新聞でも取り上げられ、言葉を越えたヴァニー先生の演技の迫力、指のしなやかさなどクメール舞踊の動きに魅了され、参加者全員でココナツダンスを通じて交流ができて楽しんでいただけたようでほっとしています。準備で頑張った中原さん、安藤さん、そして学生インターンの皆さんの努力の賜物です。前半の1週間が終わったところですが、残りの公演でも様々な出逢いとご縁が広がりそうで、楽しみです。