悪縁・奇縁

このところ「異業種交流会」が再びはやりだしている。かつて異業種交流会といえば、その名を借りた名刺交換会だったが、この頃のは「…ソーシャル」とかカタカナがついていて、名刺ではなく名札をつけ、ソーシャルゲーム等を使ったりして、ランダムに人をまぜこぜにするのが売りになっているようだ。いろんなキャッチフレーズが使われるけれど、一言で言ってしまえば「ご縁を大切に」だろう。

 同じようなことは近頃の「元気な若者」の交流会でもそうだ。仲間内で集まるのではなく、社会人や外国籍の人との交流をうたっている。こちらも一言で言えば「異なった人との出会いを楽しもう」だろう。

 でも、不思議なことに、どちらの交流会も「近所のおっちゃんやおばちゃんが来まっせ」とはいわない。ご縁を大切にするのなら、別段読んでも不思議じゃない。異なった人との出会いをうたうのなら、まさに世代が異なった人だ。でも、呼ばない。(例外は近所のおっちゃんが、世界的に有名な中小企業の経営者だったり、近所のおばちゃんが、名高い女性起業家だったりする場合だろうーたぶん)。

 縁や出会いを大切にする。その言葉はすっごくきれいだし、すごく大切なことではある。人生の根本的なところを支えてくれているものでもある。ではあるけれど、どうもこの頃、人間は贅沢になってきたようだ。「いや、いい人に出会えました」と言うとき、大人であれば自分のビジネスのヒントになったとか、自分の生き方を見直すきっかけになりそうだという感じだろう。若者の場合は「就活の参考になった」とか「人生の先輩(ロールモデル)を得た」という感じだろう。どれも普通に言われる言葉であるし、それそのものが悪いというのではないけれど、これってどうも「役だった」と行っていることなのじゃないかと勘ぐってしまいたくなるのだ。近所のおばちゃん、おっちゃんが呼ばれないのは、おばちゃんやおっちゃんの話など「役に立つはずがない」と思われているからではないのだろうかと思ってしまうのだ。縁を大事にと言いつつ、大事にされるのは役に立つ「良縁」だけなのではないだろうかと思ってしまう。

 実はこう思いだしたのは、交流会がきっかけではない。若い人の自己向上欲求や自己実現欲求が過剰に強いのじゃないかと思い始めたからだ。といっても彼らが傲慢だというのではない。たいてい彼らは「勉強したい」「勉強させてください」と言う。自分は~を知らないから、自分には~という経験がかけているから、だから…と言う。彼らの行動には常に目的がある。そしてその目的は大概「役立つ」ということになる。(何に役立つのかは結構はっきりしなかったりする。漠然と自己実現とか、自分が成長するためにだったりするのが又不思議なのだが)。大学の講義でも今役に立つことを求められることが多い。ざっくばらんな話、私みたいに思想史なんて現代社会に無縁の科目を持っていると、何人かの元気な学生から同じ質問を受けるのだ。「先生、これって何の役に立つのですか?」私の答えは決まっている。「役に立たないよ」。その答えに学生は納得がいかないような、奇妙な顔をして立ち尽くす。まぁ理屈はつけられるし、講義を受けて何も得られないというのも何だから、わざと頭をひねってもらわないといけないような課題を出して、学生を困らせることにしている。少なくとも、頭を使って文章を書く練習として役に立つからだ。けれど、中身に関して言えば、はっきり言って「役に立たない」。近所のおっちゃんやおばちゃんと一緒なのだ。

 近所のおばちゃんやおっちゃんは、それぞれの人生を生きている。その生きてきた年数分だけ、独自の知恵を持っている。それはあまりにも独自すぎて、自分自身にとって役に立たないかもしれないし、逆に余りに平凡すぎて、既に知っている事柄に過ぎないのかもしれない。けれど「その人だけのもの」として存在している。私のやっている講義の中身も、古い昔のそれも外国の名前も知らない人の考えの解説でしかない。けれどそれはその昔の人がさんざん頭を絞って考え出した、「その人の考え」であり、古典として今まで多くの人に参照されてきた歴史を持っている。こうしたものは、即座にそして手軽に自分のものとするわけにはいかない。だから「役に立たない」。いずれどこかで役立つだろうということも考えず、できればおもしろがって聞いたり読んだりできると一番だ(退屈でもいいのだけれど、それだと余り行く通かもしれない)。

 けれど、私は存外こうした役に立たないものの方が、今自分に役立つ人脈や交流あるいは知識や情報よりも、大切なのではないかと思う。

 先ほどの縁という言葉をここで使うとしたら、良縁ではなく、悪縁や奇縁の方が大切なのではないかということだ。

 悪縁といっても、わざわざ騙されろとか、悪人とつきあえという意味ではない(念のため)。腐れ縁といってもいい。あいつとつきあったらいつもなんか損したていうか、めんどくさい羽目になるんだよな~。でも、あいつに頼まれたら、何となく引き受けてしまうんだよね~…なんて思える人がいたら、その人との縁が「悪縁」。奇縁は偶然に出会ってしまって、自分の意志はどこへやら、気がついたら巻き込まれてしまっていた…というやつ。これはごくごく珍しくて、出会うことが希だ。この二つの縁を私は大切にして欲しいと思う。

 というのは「良縁」は「今現在」の自分にとって役に立つ縁だからだ。今現在の自分にとって役立つ縁が、5年後、10年後の自分にとっても役に立つ縁かどうかはわからない。もし良縁ばかりを求め続けるのならば、良縁が良縁でなくなったら、つまり自分にとって役に立たない関係になったら、その人やその場所との関係を切断することになるだろう。良縁は続かないのだ。続かない縁(えにし)は積もっていくことはない。縁と縁が積み重なり結ばれ逢うことがない。ここでの「むすび」はひもを結ぶほうではなく、おにぎりを結ぶほうだ。一つ一つの縁(米粒)がちゃんと形を保ちながらも、積み重なりあって美味しいものを作り上げていく。そんな「むすび」だ。その時々に役立つことで結ばれた良縁は、こうした結びを作ることができないのではないかと思う。

 では、悪縁はどうか。悪縁をもたらす人や場所の周りには、その被害にあった人たちがたくさんいる。被害者同盟ができるほどいる。なぜってみんな「しゃ~ないな~」と思いながら、その縁(えにし)を断ち切れずにつきあっている人たちだからだ。長年のつきあいの人も居れば、つい最近悪縁に連なったという人もいるだろう。なにせ被害者だから、悪いことややこしいことがあって当たり前。性懲りもなく悪縁につきあっている仲間同士という機運がどこかにあって、なんとなく悪縁をもたらす人や場所を種にして、互いに結ばれあっていく。積み重なる縁が出来上がっていく。

 奇縁となるとこれは出会うのが希なので、なおさら貴重だ(今の日本では絶滅危惧種に指定してもいいぐらい)。「えっ」という声を上げるまもなく、事態がなにやらわからぬまま、巻き込まれてしまった当事者同士。いったいどないしたんやろと、隣の人に聞いても、隣の人も「さぁ~またとんでもないこととちゃいます?」。何が目的で何が出てくるのやらわからないまま事態が進み、はっと気がついたら自分が責任者になっていたりする。「うわっえらいもんに出会うてしもた!」と思っても後の祭りというやつ。これはもうあきらめるしかないのだが、こういう奇縁をもたらす人の周りには、絶対同じぐらい奇縁を持った人がいて、次から次へと奇縁に巻き込まれることになる。そうなったらしめたもの。しんどくて、苦労もして、傷つくことも多いだろうが、退屈とは無縁の時間を過ごすことができる。そしてそこで出会った同じ巻き込まれ被害者は、苦労をともにしたかけがえのない仲間になることだろう。事のついでにいうと、奇縁の苦労話は暗くならない。なにせ奇妙なのだから、腹を抱えて笑ってしまうことになる場合が多い。世にも珍しい(と当事者たちは思っている)経験を共にしたという点では、秘境探検団みたいな奇妙な連帯感を持った仲間の輪の中にあなたはいるだろう。変わり種おむすびのようなものかもしれない(食べるのに勇気がいるところも)。

 悪縁も奇縁も、今のあなたには役に立たない。それどころか、逆に損や苦労をもたらすことの方が多いかもしれない。でも、それを面白がれるかどうか。自分を磨きたいと思う人は、それが試金石だと思ってみてはどうだろう。役に立つことはいずれは陳腐になる。今役に立つことで自分を磨いたとしてもたかがしれている。げぇ~と叫びたくなる経験に出会って、はじめてあなたは、今まで自分が出会えなかったあなたの中の新しいあなたに出会えるのだと私は思っている。