遠隔講義の罪と罰

 ちょっとキザなタイトルをつけてしまって、些か照れくさい。とはいえラスコーリニコフがそうだったように、遠隔で講義をやると独善的になる。つまらなそうな顔をしながら座っている学生、後ろの方でコソコソと友達と話す学生、ごそごぞ内職する学生、スマホを眺めている・ゲームしている学生等々。この姿を目にせずに済む。

 私はzoomでライブ配信しているので、画面の片隅にチャットを表示しているのだが、このチャットで質問する学生が結構いる。通常の講義だと講義中に質問する学生は0。講義後に質問に来る学生は半期で延1〜2人。講義中に「ちょっと早すぎる」なんていう指摘も入るから、それに応じて「じゃ、ちょっと前に戻ってゆっくり目に」とスピードを落としたりできる。中には「〜のスライドをもう一度お願いします」とか「〜は…ということであっていますか?」なんて質問が来るから、ちょっといい気になる。元々心療内科の主治医から「あなたは学生の反応を気にしすぎる。それがストレスになっています」と言われているぐらいだから、無視したい学生を無視することができ、熱心な学生だけを受け付けることができる遠隔講義は、いつもの講義に比べると楽だ。

 ただ、遠隔講義は証拠が残る。それだけに事務側は「文科省のお達し」に神経質になっている。例えばライブ配信ではなく、オンデマンド型にした場合、文科省は「質疑応答に十分な時間をとること」と一言付け加えている。で、どうすれば質疑応答に十分な時間をとったことになるのか、その条件が全く示されていない(ナンダカ緊急事態宣言みたいだが)。そこで「講義時間中は学生の質問に備えてパソコンの前で待機しておく」必要があるのだそうだ(もちろん質問が0であったとしても)。学生にも「質問は講義時間中にメールで行うこと」というお達しが出ている。これってオンデマンド型なのだろうか?と思うのだが、「質疑応答に十分な時間」をとったかどうかを確証する他に良い手立てがないかららしい。また、ライブ型(同時双方向型)でもオンデマンド型でも「十分な学習時間の確保」が求められているから、いきおいネット上に多数の課題や宿題がわんさと掲載されることになる。まぁ教員なら誰しも「この本ぐらいは読んでほしい」というのが10冊くらいあるだろうから、学生にとっては地獄のようになっているだろうと拝察する。で、私はというと学生が本を短期間に読むとは期待していないから、復習・予習の小テストを作って誤魔化している。とりあえず理解度を確認できればいいぐらいのつもりでしかないし、世界史の知識を補って貰えば良いというつもりなので、難しい問題ではないと思ってはいるのだが…。

 さて、今のところ遠隔講義に関しては、小テストと講義のスライドの準備を早め早めに行うことで、対処ができている。小テストは自学自習だから成績に反映しないと3回ぐらいアナウンスしても、まだ聞いてくる学生がいるのはいつものことなので、気にならない。元々200〜300人の講義だから、よっぽどのことがない限り学生の名前と顔が一致することはないので、これも気にならない。唯一独善の罰として想定できるのは(最終試験等での不出来を除いて)学生を大学生ではなく高校生や中学生と同じ扱いをしてしまうことだ。

 お互い声だけが頼り(まぁ画面はあるけれど)なので、説明は丁寧になる。小テストを論述にするととても採点できないから、○×や多肢選択、ランダム配列といった規定の方法に従うことになる。学生は高校までと同じく「正答」がある問題に慣れ親しむことになる。それを避けたいために、5年ほど前から学生のレポートはピアレビューにしている。学生が他の学生のレポートを一定の基準に沿って評価するという方法だ。実はこれは私自身がムークと呼ばれるネット上で配信される大学の講義を受けた経験から行ったものだ。結構背景が違う学生同士が採点するためなのか、自我が強いからなのか、評価もコメントもバラバラだったし、私がコメントをつけたレポートもいろんな切り口があった。ただ日本人が行うと「予想した範囲に入る、同じようなレポート」を評価するようになる。学生同士がこれならば大丈夫だろうという答え方しかしないようになるのだ。それでもまだ、模範答案を見せるよりはマシかと思って実行している(実は論述やレポートに際しても、模範答案を用意し公開するようにというのが文科省の方針だ)。ということで、学生は高校までと同じく「正解」を狙ったレポートを多数だしてくる。私としてはせいぜい評価の項目に「感想になっている場合は評価点を下げること」「感想というのは『〜だと思う』や『社会(or問題)が〜となっていくことを望みます』というものです。論述は自分の意見を書くものなので、こうした表現が出てきたら評価点を下げてください」というような注意書きを入れるではいるのだが。

 どうも遠隔講義というのは、今まで以上に金太郎飴的学生を生み出すのではないかという予想を持っていて、これは遠隔講義という手段が教員を独善的にする一方、ネットでの一律採点が正答を予想する学生を許してしまうことからくる罰だろう。

 さて、ゼミとなると話は逆だ。私の大学では専門ゼミは2年生後半から始まる。前期の今、私が指導している2年生は、私のゼミに来るかもしれないし、来ないかもしれない学生たちだ(まぁほとんどが来ない)。最初の1回目は双方向ともビデオをオンにしたが、これは結構耐え難い。何しろ相手の顔が、30センチそこそこのところにいつもあるわけだ。どう視線を保てばいいのか、全員がなんとなく気まずいまま終わってしまった。2回目からは課題をめぐって、相互に匿名で投票し、最終的に残った2つのレポートを選んだ理由を一人一人説明してもらうことにした。こちらは、通常のゼミより声がはっきり聞こえるし、照れ臭くもないようだ(画面はオフである)。ただ、後から「自分が送ったファイルの原本と先生がまとめて一覧にしたファイルの中にある自分の文章が異なっている」というメールがきた。内容が違っているというのではない。ワードが勝手につける校正しましょう赤波線が付いているというのと、フォントが異なっているというものだった。しばし????となったのだが、どうもその学生にとっては、自分が送ったものと全く同じものが一覧ファイルでも再現されるのが「正しい」こと(機能が真っ当に動いていること)らしい。

 自分が送ったものがそのまま相手の画面に表示されるのが当然、自分が送ったものは即時に相手に届いていて当然というのが、どうやらこの頃の風潮らしい。2年生後期からのゼミ募集に応募してきた学生は1時間の間に5回「届いていますか」と確認メールを送信してきた。もしかすると「既読」がつかないから心配なのかもしれない。かと思えば、募集要項に書かれている必要書類を全く無視して、応募用紙のみを送信して終わりという学生もいる。どうもネットに対する対峙の仕方が極端に違う感じがするのだ。いや、表現は極端に離れているが、根っこは同じなのかもしれない。自分が送ったものは、相手にそのまま届く。自分が送ったものは正しいはず(なぜならきちんと送信されたから)。

 3年生になると、半年の付き合いがあるから、声だけでもなんとかなってはいる。とはいえグループ活動のためにスラックを導入した。スラックでグループごとにチャットで相談してもらおうというわけだ。ゼミの時間中は私はグループチャットに口出しをしないし、見にも行かないようにしている。それでも嫌なのか、ラインチャットに切り替えるグループもある。結果がきちんと出ればいいのだが、そこが怪しいということを、この半年でこちらは学んだので、ちょくちょく尻を叩くつもりでスラックにしたのだが、ちょっと当てが外れている。もっともスラックでチャットしているグループを見ていると、ああ、なるほどね…言葉で分かった気になってるねというのがよくわかる。例えばコロナ騒ぎと何かを組み合わせてテーマにする場合。「やっぱ経済に絡めないといけないっしょ」「何がいいかね〜」としばらく続いて「俺ら、やりやすいのやっぱ観光じゃね」「あ、それそれ、それでいいんじゃない」で終わる。いや、そっから先が詰めどころでしょうなんだけど、そこはそれ漠然としたイメージで話が終わっているのが明確になるだけでも、遠隔講義はめっけものではある。  正直まだ始めて1ヶ月が経っていない。これから問題点がもっと出てくるのだと思う。だけどこれだけははっきり言える。言葉の不在が明確に問題化するだろうということだ。言葉でしかコミュニケーションできない中で、以前と同じ感覚で言葉を使っている今の段階を、どこかで突破しない限り、遠隔講義は時間が過ぎるだけ、情報を伝えるだけの装置になるだろう。そしてそちらに向かう可能性の方が非常に高いと私は考えている。

コミュニケーション?ミスコミュニケーション?

 人間のコミュニケーション全体に言葉が占める割合は、よくて1割だといわれる。けれどスカイプミーティングやズームを使った遠隔講義を担当していると、言葉をどううまく使うかという点に注意が向かわざるを得ない。読者の中にもネット会議システムのもどかしさを感じる人もおおいだろう。逆に音声と画像それにチャットと3つのチャンネルを同時に使用できることに可能性を感じている人もいるだろう。今回はこの言葉を使ったコミュニケーションに関して、少しミルをガイド役にして考えてみたい。

 ミルには『論理学体系』という大著がある。彼自身、自分の著作の中で後世まで残ると擦ればこの著作だろうと自負していたものである。けれど論理学の世界では古色蒼然、時代遅れの代物となって、顧みられることはない。しかし私はこの本は現代的な「論理学」の本というよりも、副題にあるように「推論と帰納」という人間が自分の考え方を整理し、展開していくための方法を書いたものだと思っている。で、それがなぜコミュニケーションの話になるかというと、人間はただ一人で推論を展開したり、帰納から結果を導き出しているわけではないからだ。自分の経験と他者の経験を照らし合わせたり、賛同を求めたり…と他者のコミュニケーションは自らの生命維持のための情報収集にも不可欠である。なので、この本は考え方の整理方法であるとともに、コミュニケーションのあり方、より良い意思疎通を図るための書物としても読めると考えている。

 さて前置きはこれくらいにして、ミルが人間のコミュニケーションをどう論じているのか、早速みていくことにしよう。まず第一に注意が必要なのが、人間が相互に完全に理解し合うことはないというのが大前提である点だ。どんなに愛し合う男女であろうと、親子であろうと、自分の痛みや感情は自分自身のものであり、他の人間が感じることはない。だから完全な理解は存在しない。人間は人間同士互いに決して理解し得ないという前提に立って、コミュニケーションを行う。これが基本的な立場である。ようは人間のコミュニケーションはミスコミュニケーションの連続であるということだ。そして言葉はこの状態を改善する場合もあるし、より一層深刻にする場合もある厄介な道具として考えられている。例えば二人の人間がたまたま出会って「水牛」の話をする。ただし片一方はアメリカ国籍、片一方はフィリピン国籍だ。共通の言葉は英語なので二人ともbaffaloという言葉を使う。けれどアメリカ人の方は北米大陸にかつて生息していたアメリカンバイソンを思い浮かべ、かたやフィリピン人は今も田舎で農業に使われるカラバオを思い浮かべる。この二人が「baffaloは力が強いし、なんといっても迫力がある」というような会話をしているうちは、二人とも自分自身のbaffaloのイメージを相手も共有していると思っている。ところが、アメリカ人が「でももうこの頃は絶滅危惧種で保護区でしか見ることができない」と言い出したとしたら、フィリピン人は「?」になるだろう。カラバオはフィリピンの国を象徴する動物でもあるし、今でも農家の貴重な労働力なのだから、「保護区でしか見ることができない」なんてとんでもないになる。

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