「三方良し」の三人目

「売り手良し、買い手良し、世間良し」が近江商人の商是として有名になっている。現在の企業のあり方への批判と微妙に絡み合いながら、商行為に携わる「日本人」の理想として描かれがちである。けれど、その時「世間」は容易に実態のない「空気」へと姿を変えるように思えてならない。

 「世間」という日本語は様々な文脈で使われるけれど、世間がどこからどこまでなのかははっきりしない。「世間の目」が気になるから…というとき、大概その「世間」は自分の周囲の人たち、それも空気のようなもので有ることが多い。「世間様が許さない」なんていう大時代的な言葉も、そういう「空気」を指す場合が多い。近江商人の心意気にけちをつけるつもりは毛頭無いのだが、下手をすると「世間良し」の「世間」は、売り手と買い手を含むその社会集団になったりしかねない(○○村と揶揄される業界はその典型だろう。売り手も買い手もその周りも、既存の構造の中でいままでの慣行こそ「世間良し」だったのだ)。

 けれど元来、三方良しの「世間」は、あえて日本語の中で言葉を探すならば「お天道様」ではなかったろうか。誰が見ても、誰にとっても「良し」とされるような、ある種の普遍性を備えた「良し」。

 とすれば、「三方良し」はグローバルスタンダードになる。「えっ」という反応が返ってくると思う。けれど、普遍性は国境を越えなくてはならない。ややこしいなぁ~と思われると思うのだが、まぁ「何らの理由もなく人を殺す」ということは、おそらく全世界的に(普遍的に)「やってはならないこと」になっていると思うので、そういうものと考えて欲しい。商売に関していえば、グローバル企業が、先進諸国で禁じられているような奴隷労働を、発展途上国で黙認しているとしたら…不買運動が起こるだろう(かつてのナイキ騒動のように)。その時人を動かしているのが、こういう普遍的な規範意識だ。けれど、それはどこかで決定された「普遍的規範」。もしかすると自分の常識が通用しないかもしれない規範でもある。

 こうした普遍的な規範を常に意識するとなると、結構人間は保守的になる。なにしろ、どこで誰から文句をつけられるかわからない。となれば、冒険はしない。今まで文句をつけられなかった行動を、今まで通りにやっていくことが「良し」になる。なんだか近江商人らしくなくなってしまう…。

 実は、「世間」を普遍に拡大せず、かといって1キロ四方の狭い周囲にも閉じ込めない手法が有るような気がしている。そのヒントは、アダム・スミスにある。スミスは経済学者ではない、道徳哲学、今風にいえば行動心理学の専門家である。スミスは『道徳感情論』でこんな問いを発する。「ここに一人の女性がいる。彼女が本当に愛しているのは夫以外の男性である。そして彼女の夫は今瀕死の病に苦しんでいる。彼女は(本心はともかく)夫に献身的な看病を行っている。さて、この女性を倫理的に責める事ができるだろうか」。皆さんはどう思われただろうか。スミスの答えは「責める事はできない」である。内心はともかく、行動は正しいからだ。では「正しい」と判断しているのは誰か。スミスが持ち出してくるのは「公平な観察者」なのだが、これが実は「三方良し」と非常に似ているのである。

 あなたがいて、あなたをなじっている相手がいる。あなたは相手に対して同じように罵詈雑言で答えたい。けれど、ふと考える。一方的になじっている相手に対して、同じように罵詈雑言を返したら、他の人はいったいどう感じるだろうか…。通常人間は喧嘩から目をそらしてしまう。喧嘩だけでなく、悲しみ、死といった否定的なものからはできるだけ遠ざかろうとする。けれど、この世で暮らしている限り否定的な物事や感情に出会ってしまう。その時、当事者ではない第三者は、否定的な感情を抑制している方を是認するとスミスはいう。あなたが、第三者の是認を求めるのであれば、罵詈雑言はぐっと押さえて、冷静に対処すべきなのだ。同じ事は肯定的な事柄にもいえる。過度な喜びの表現は「嫌み」になる。こうして、人間は自らの行動を、当事者ではない第三者から是認されるように「塩梅している」のだというのが、スミスの『道徳感情論』である。

 さて、この第三者(「公平な観察者」といわれるが)は、想定された第三者である。だから、その人の生きている社会の慣習に則っている部分がある。とはいえ、どこの誰を想定するかによって、自分の周囲を超えることができる。自由自在に伸び縮みする第三者なので、ちょっと困ってしまうところもある。普遍規範と違って「ある答え」が与えられるわけではない。逆に第三者を自分の属している世間とは遠いところに想定すれば、狭い「世間様」を破壊することができる潜在力も持っている。

 このところ、世の中の常識とか今までのやり方が通用しないような事柄が発生し続けている。そんな中で、何とか自分の生活を自分なりのやり方で築き上げようとしたとき。あるいは、ふと抱いた疑問をきっかけに、何かしら行動を起こしたくなったとき。狭い「世間様」はそれを許してくれないかもしれない。普遍的な規範は「…」と無言でしか答えてくれないかもしれない(なにしろ「普遍」だから、個別の問題に適用できる答えがすぐに返ってくるとは限らないのだ)。

 そんなとき、あなたなら誰に相談するだろう。占い師や、行きつけのバーでたまたまであった人に相談を持ちかけていないだろうか。極端な例かもしれない。けれど、余りに身近でその答えが想像できる「世間様」でもなく、大上段に振りかぶってはくれるけれど、ちっとも日常には役に立たない「普遍」でもない。そんなちょうどいい塩梅に位置してくれる「第三者」に相談を持ちかけていないだろうか。彼らはある意味無責任である。一夜限りの出会いかもしれないし、あなたの詳細な事情を知っているわけではないのだから。無責任だから、気軽に「やってみれば」という場合もあれば、「それはちょっと…ね」なんて口を濁す場合もある。相談を持ちかける方も、結構無責任だ。そのアドバイスを真剣に受け取るつもりは元よりない(というより、正確に言えば「元よりないふりをしている」)。自分が納得できれば受け入れるし、拒否したとしても相手の機嫌を損ねるわけでもない。けれど何となく自分のやろうとしていることが、全くの他人からどう評価されるのかという手がかりは得られる。「やっぱりだめか…もうちょっと考えてみるか」となるときもあれば、「お、結構いけるかも」となるときもあるだろう。逆に「そんなこと言われたって、これしかないんや」と覚悟を決める場合もあるだろう。

 普遍に言われれば、人は引っ込むしかない(なにせ相手は常に正しいのだ)。世間様に言われれば、人は躊躇する(なんといっても逆らうには相当なエネルギーがいる)。しかし一夜の「第三者」の言うことを、受け入れるも逆らうも自分次第だ。けれど、それは「自分だけの決定」ではない。どこかの誰か、名前も知らない誰かの反応を知った上での「決定」だ。

 あなたの周囲はその決定を馬鹿にしたり、反対したりするかもしれない。従来の普遍は眉をひそめるかもしれない。でも、どこかの誰かは、あなたの決定を、あなたの行動を後押してくれるかもしれない。そして今、情報機器の進展でどこかの誰かと繋がることは、かつてよりも容易になっている。どこの誰とあらかじめ決定することはできないけれど、自分を後押しする「第三者」を想定するために「塩梅のいい」距離にいる第三者に話をしてみること。私がスミスから学んだ処世術はこれである。

 そして、あなたを後押ししてくれる「どこかの誰か」はきっとこの世に存在する。あなたが、他人の反応を拒否しない限り。