伝統とは

松井 名津

 伝統とJ.S.ミルは相性が悪いことになっている。個人主義で自由主義、既得権益を批判する…といった特色から当然と思われるかもしれないが、実はミルと伝統が相容れないと考えられている要因の一つに、ハイエクによる批判がある。少し専門的な話になるが伝統を考えるときに重要な要素も含んでいるので、お付き合い願いたい。

 自由主義を擁護する際にハイエクは「真の個人主義」と「偽の個人主義」という考え方を持ち出した。真の個人主義は自由主義を擁護する、あるいは自由主義を促進するのに対して、偽の個人主義は集団主義や全体主義への道を開くものだという。そして真と偽を見分けるメルクマールの一つに伝統がある。ここでいう伝統は、長年続いてきて社会で当たり前になっている物事のやり方、と考えてもらったらいいだろう。ちょっと洒落た言葉でいえば「社会インフラ」としての伝統である。真の個人主義はこうした社会インフラが存在してはじめて個人、あるいは個人の自由が成立すると考える。これに対して偽の個人主義は、合理的計算を行う個人を出発点として社会を考えるから、伝統といった社会インフラを否定し、合理的な法律体系を求める。また人間の理性が無謬の計画を設計できると考えるから、伝統や慣習によって決まっているやり方(ルール)よりも、設計された法律や体制が優れていると考える。したがって、合理的な体制が成立すれば、自由は確保されると考えがちだから、一旦体制が成立すれば体制と摩擦を起こすような自由は抑圧しても良いとする。

 以上がハイエクによる「真の個人主義と偽の個人主義」の荒っぽい要約である。そしてこの中でハイエクはミルを本来なら真の個人主義の伝統に根ざしているのに、偽の個人主義の影響を強く受けてしまった人物として描き出す。その際槍玉に挙げられるのが、既存の慣習や世論の影響を鋭く批判した『自由論』だった。このハイエクの論が非常に有名になったこと、そしてハイエクの議論と軌を一つにするバーリンの「二つの自由論」との相乗作用で、ミルには非伝統主義者というイメージが付着したのである。

 さて本当のところはどうだろう。私自身はミルと伝統は単純に対立とか親和とかではないと思っている。確かに『自由論』でも『論理学体系』でも習慣的なものの見方を疑うという姿勢は一貫している。しかしその一方で、ありとあらゆるものを分析してしまい、行動に伴う感情を失うことの恐怖を、彼自身が自分の経験として文字通り身にしみて知っている。伝統をそのまま丸呑みにすることも、伝統を分析し尽くしてその妙味を失うことも、彼は拒否していると思える。ある意味中途半端というか、折衷的な態度である(そう、ミルはいつも折衷的と批判されるのだ)。しかしこの折衷的な態度こそ、伝統に対して真っ当に向き合う際に忘れてはならない態度ではないかと思うのだ。

 「伝統」とはなんだろう。日本もイギリスも伝統の国だとよく言われる。イギリスの伝統というと何だろうか。山高帽に固く巻いた傘をもつジェントルマンだろうか(「キングスメン」という映画ではこの典型的な紳士姿のスパイが活躍したが)。しかしこのスタイルはミルの時代に確立されようとしていたところだった。イギリスといえば紅茶といわれるが、これまた18世紀以降少なくともジャマイカ等の西インド諸島を植民地としてから、イギリス全土に広がる習慣である。では日本は?日本の伝統ー茶道・華道だろうか。華道は室町時代、茶道は安土・桃山の好機に確立したから、確かに年月を経ている。しかし、どちらにも共通する「家元制度」は江戸時代の産物だといわれている。また同じ茶道であっても近年まで家元制度を採らなかった流派もある。家元とか伝統芸能に見られる一子相伝も、血縁関係によるものではない。むしろ近代特に戦後になってから一子相伝が強まったといえるかもしれない。芸能に限らず、武家も町屋も「家」「商家」を守るために、他所から養子を取ることが当たり前だった。能力が足りない後継を押し込めたり、隠居させたりして、能力のある子どもを養子として家を継がせるのは、生き残りのために必須の作戦でもあった。

 そう、伝統は今ある形のまま伝わってきたのではない。継続させるための努力があって、残ってきているものである。残すためには養子を取るだけではなく、様々な変更を加え続けている。能楽は室町時代の言葉をそのまま現代に残しているとして、ユネスコ世界遺産になった。しかし節回しは大きく変わっている。かつては一つの節回ししかなかったが、江戸の頃に二つ(強と弱)に別れたらしい。失われた曲も多いー演目が人気がなかったとか、作り物が多くお金がかかるとかー、仕舞としてはよく上演されるけど、全曲上演がほとんどない曲はそれ以上に多い。舞い方もちょっとずつ変化するー実際に舞台で演じられるのと、教本として描かれているのにズレがあったりする。そんな時私の師匠は「う〜ん、これは自分もやったことがないですね。これだと舞台でうまく合わないですよ…どうしますかね〜」などと言って、最初は教本通りに教えようとするのだが、やっぱり自分のやり方で教えてくれる。教本が間違っているのではなく、教本がまとめられた時と現在(30年程度)とでは、囃子方や謡の速さや間の取り方が異なっているのだ。もちろん歌舞伎のようにアニメや他国の伝統芸(マハーバラータ)を新演目として取り入れる場合もある。華道では洋物といわれる西洋花を使うことはもう当たり前のことになった。茶道でも椅子席を使った手前が開発され続けている。伝統が博物館の展示物にならないためには、伝統を生かし続ける人々と、その人々を経済的に支える装置(演技場しかり、観客しかり)が必要なのだ。

 この関連する人たちが生かし続ける伝統とは若干異なる伝統というものもある。「礼節を重んじるのは日本が世界に誇る伝統である」とか「日本の伝統でもある謙虚さを世界にアピールする」といった風に語られる伝統である。その多くがいわゆる道徳律である。古いところだと「大和魂」などがある。いつの間にか武士道と一緒くたになってしまっているが、歴史は浅くて明治期以降に流布されたものである。江戸時代の武士道は支配官僚としての武士階層の倫理として確立したという側面が強いから、非常に儒学的で理想主義的で教条的なものがある。実際に武士が戦いに従事していた頃には「7度主君を変えてこそ武士」だとか「卑怯といわれようと臆病といわれようと生き延びることこそが大事」というのちの武士道から見れば、トンデモナイ発言が武将の格言ー自家が生き延びるための手段ーとして残っている。

 さて大和魂に話を戻そう。大和魂といえば本居宣長の「敷島のやまと心を人とわば朝日に匂う山桜花」から取られたとされている。そして大和魂といえば「武士として潔く散る」である。ところがここで歌われているのは山桜である。山桜は柔らかい若芽と蕾が一緒に出てくる。決して一気に咲く花ではない。また散り落ちる時ははらはらとこぼれるように舞い散る花だ。とてもとても一気に咲いて一気に散る花ではない。第一、本居宣長といえば漢学(儒教)に対して「やまと心」を訴えた人ではあるけれど、彼が賞揚したのは『源氏物語』に典型的に現れている「もののあはれ」である。確かに山野の広葉樹林のなかにチラホラと混じる山桜の花が朝日に照らされている風情は、潔さよりも「色気」「艶」という言葉がよく似合う。生来のプレイボーイ光源氏にはよく似合いそうだ。ところがどういうわけか、山桜はソメイヨシノになり、もののあはれは武士道や儒教になってしまった。その転換点はどうやら日露戦後の日本にあるらしい。漱石の『我輩は猫である』の一節に「東郷大将が大和魂を持っている。魚屋の銀さんも大和魂を持っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている」「誰も口にせぬものはないが、誰も見たものはいない。誰も聞いたことがあるが、誰も逢ったものはない。大和魂はそれ天狗の類か」と皮肉満点な部分がある。どうやら日露戦争の戦勝に酔って、上から下まで大和魂が掛け声になったのが始まりのようだ。

 とすれば、この伝統は結構眉唾物だといえる。人々の生活の中、あるいは上層階層の文化の中から出てきたものでもなく、守り伝えようと努めたがゆえに現代まで生き続けているものでもなく、ある時代の風潮の上に出来上がり、あたかも古くから存在したかのような顔をしているわけである。しかしそれが「伝統」という顔をしてまかり通るのは、それ相応の時代の風潮とその時代が去った後もこれを「伝統」として振りかざすことが利益になる人たちがいるからである(日露戦争の戦費のために政府が宣長の歌から名前をとったタバコを作ったりしている)。

 ミルが伝統に対して、是々非々とでもいうべき折衷的な態度をとったのは、伝統という言葉で本来は伝統ではないものまで、伝統と呼ばれかねないからだ。それは19世紀半ば「イギリスといえばジェントルマン」の伝統が目の前で作り上げられようとしていた時代に生きていたゆえかもしれない。あるいはまた、戦時の意気軒高に酔いしれて「イギリス一番!!」と気勢を揚げる時代に生きていたからかもしれない。ともあれ、ハイエクが主張したように伝統を重んじるから真の個人主義で、自由主義を守れるのだと、そう簡単にはいかないことは、この20年の日本やアメリカを見ていると痛感することでもある。

 最後にミルだったらいいそうなことを付け加えて終わりにしよう。「伝統とは何か。それは他の伝統と比較した時に初めて分かる何かである」。