ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と「組織」であること

松井 名津

 ブルシット・ジョブとは、と書き出してもいいのだが、詳細な定義や分析は本家[1]に任せるとして、要は「誰かのために役立っているとはとても思えないと、その仕事についている人が痛感している」仕事と考えて欲しい。一定年齢以上の人はこの言葉で「窓際族[2]」を思い出すかもしれないが、この本で書かれているのは窓際族とはいえ、何か仕事をしているフリ、忙しいフリをしなくてはならない人たちであり、またリストラの対象でもない(それどころかこの本の中に出てくる実例のほとんどが新規採用者である)。本当に全く何も仕事がない(倉庫の在庫を何度も調べ直す)場合もあれば、やってもやらなくてもどうでもいいような仕事(ワードファイルをエクセルファイルに入力し直す)の場合もある。こうした仕事が低賃金かというと左にあらず、家賃を払い日々の生活費を賄い、奨学金ローンを払ってもまだお釣りが来るほどの賃金を得ている。いってみれば「おいしい仕事」なわけだ。ところがこの「おいしい仕事」についている人のほとんどが、社会に参加していない、自分などいなくなってしまっても構わない存在だと悩み、自尊心を傷つけられ、こんな仕事を続けるぐらいなら…と「実質的(リアル)な」「他人に役立つ」が低賃金の仕事に転職していくという。

 なぜなのか?というのがこの本の根本的な疑問である。現在の生産性から考えて、通常の労働時間は週3日とか1日4時間で済むはずである。ところが「クソどうでもいい仕事」が生まれ、維持され、増殖している。しかも他人に役立つリアルな仕事は大概、家賃を払えるかどうかわからないような低賃金なのだ。こうした社会が真っ当な社会なのか、なぜこのような社会が出来上がったのか、というのがこの本の基底的問題提起である。

 「クソどうでもいい仕事」が蔓延している理由の一つ著者が挙げているのが、人間は辛くてしんどい労働をしなくてはならないという思い込みであり、仕事をしているからこそ一人前という考え方である。辛い・嫌な事が仕事であり、仕事から楽しみを得ているとすれば、それはもはや仕事ではない。ゆえに自分が楽しめる仕事、没頭できる仕事は「仕事」ではない(=無報酬もしくは低報酬)。どんな仕事であっても仕事をしていれば一人前である。だからたとえ自尊心を傷つけられるような仕事であっても、その仕事は「やって当たり前」の仕事である。人から感謝されるような仕事は、感謝という報酬を得ているのだから、金銭的に報われなくても良いはずだ。こうした考え方の背景にはカルヴァン的なキリスト教の影響があることは見てとりやすい。けれど、今や世界中に蔓延している考え方でもあるという。

 ここまで読んだとき、もしかして…日本では、あるいは少なくても私が接している学生のなかで仕事とは「クソどうでもいい仕事」であるという認識が普通になっているのではないかと思いだした。というのも彼ら、彼女たちが仕事にというか、就職で期待するのは「福利厚生」「休暇」「給与」の3点で、事務系であればなんでもいいというからだ。実際の就職活動でも、金融系=とりあえず「堅い」、流通系=大手スーパー=とりあえず検討がつく、営業系=熱苦しいからヤダ(特に女性)、窓口事務(医療系・薬剤系)=責任が軽くてよさそうと、身も蓋もない。生き甲斐とまではいわないが、その仕事をして自分が満足するかという点はあまり考慮しないらしい。どうして?と聞いてもあまり理由はなく「だってそれが普通だと思う」「ブラックじゃなかったらそれでいいし、事務系だったらどれでもいいって感じ」「大学を選ぶときと一緒」となる。

 そう。大学を選ぶときと一緒。なるべく無難な、できれば世間的に見場の良いところに入ること。仕事は「クソどうでもいい仕事」だと認識しているのではないかと私が考えるのは、実はこのところにある。学生たちが歩んできた道は、彼らにとってある意味全て「クソどうでもいい」事(勉強)を繰り返す事だったのではないか。その延長線上に就職があるとすれば、仕事もまた「クソどうでもいい」もので、自分たちの消費を支えるためであれば、つまらなかろうと、興味が湧かないものだろうと、とりあえずブラックではなく、日々無難にこなすことができれば上等だと思っている。そして実は日本企業や日本社会の実態も彼らの期待(?)を裏切らない。そう思えてきたのである。

 日本のホワイトカラーの生産性が低いことはよく知られている。と同時に過労死や自殺が絶えないこともまた周知の事実だ。というか、長時間労働をしているのに生産性が上がらないから、生産性が低いというのが妥当だろう。ということは、実は誰もが「やってもやらなくてもどうでもいい」ことを、さも忙しいそうに「仕事」にしていることなのではないか。ブルシット・ジョブの本の中で取り上げられている実例は、会社の中で「自分だけ」があるいは「自分の部署」「自分の職場(職種)」だけが「世の中から消え去っても誰一人困らない」仕事をしている。これに対して日本社会は「誰もが」勤勉に世の中から消え去っても誰一人困らない仕事を、「ある程度公平に」分担していると考えることができる。

 テレワーク推進でやっと実現の可能性が見えてきた押印廃止。日本全国どこでも書類上部にあるピラミッド構造を表す押印欄の面倒くささ、やりきれなさ、馬鹿らしさは通用する。なぜなら、日本中ほとんどどこでも「ただ上司の印をもらうだけ」で待っている時間があり、その上司がどうせ盲判を押しているのも同様だからだ。そしておそらく誰もが「押印廃止のための委員会」「同諮問会議」「同決定会議」「同理事委員会」などなどが設けられ(場合によっては『シン・ゴジラ』のように墨跡豊かな看板が掲げられ)、大量の書類と大量の印鑑と時間を費やして、延々と会議が続くであろうことを、自虐的に想像する。なぜなら誰もがその事態を経験済みであり、自分自身がその事態の当事者でもあるからだ。そしてそれが「組織の通弊」であると考えられている。

 というのも「組織」は大なり小なり命令系統があるピラミッド構造をしていて、その中で互いのパワーゲームのために、各種会議(及び根回し)があるのであって、意思決定のために会議があるわけではないからだ。そして日本の場合、意思決定は空気によって行われ、印鑑によって箔がつけられ、報告書としてきれいにラッピングされて、終了する。ラッピングを破るのはご法度だ。その間、現場ではやりくり算段で物事が進み、やりくり算段がすぎて問題が露わになれば、お定まりの謝罪を行い、誰かの首を切れば良い。この万一のための「首」要員としても「責任はありそうな名前の職務」についている人間が必要になる。そしてその責任がありそうな名前の職務についている人間が、さもパワーを持っているように見せかけるためにもブルシットな仕事(というよりは儀礼)が組織の中で必要になる。そう日本人の多くはどこかで思っている。組織人とはそういうものであり、組織で働くとはそういうものなのだと。

 どう考えても、これでは仕事は楽しくない。むしろ苦痛だろう。確かに『ブルシット』本に出てくる実例のように、単独で全てのブルシットを抱え込むよりは、日本のように組織内で広くブルシットが共有されている方が連帯感があって良いだろう。あるいは「会社のため」が生き甲斐なりやりがいを与えてくれるかもしれない。家庭や世間でどう思われようと、会社の中では一人0000の一人前の働き手なのだと思える。しかし、仕事の無意味さ、どうしようもない空虚さは、毎日薄く積み重なり、やがて肩にのしかかるものとなる。なるほどスーツの後ろ姿がどんどん傾いで行くわけだ(と私は一人で納得してしまう)。

 実際「大学」という組織らしくないところで、教員というこれまた命令系統の判然としない職についていても、年毎に煩雑になるシラバスや各種書類、申請様式に追われている。シラバスなどは「その講義で何を教えるかに関する学生との契約書」であるから、事細かに各講義ごとの内容を詳細に記述するように求められている(求めている主語は学生ではない。文科省のどこかで作られた文書だ)。講義なんて生き物だから、その時の学生のその場の雰囲気で進行状態が変わるものだと思っている。だから取り敢えず埋める。けれど一旦埋めてしまうと、シラバスが私を縛ることになる。どうにも厄介で仕方がない。黒板からスライドへの移行も同様に厄介だ(時々スライドを止めて書き直すこともある。誤字や数字の間違いを訂正するだけじゃなくて、作っていたときとは別のことを話してしまうからだ)。シラバスは生き物である講義を標本ピンで固定するようなものだと思ってしまう。ということで年々講義がやりにくい(言い訳半分)。

 こう考えてくると、先月紹介したミルの「労働が快楽になる」ことの重大さを改めて噛みしめたくなる。当時も今も「労働が快楽になる」は不評だった。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。単なる夢物語。そう片づけられる主張だった。それはまた経済学の根底を崩しかねない危うさを持っていた。けれど、『ブルシット』を読みながら、功利主義者としてのミルにとってはある意味当然の帰結だったのかもしれないと気がついた。人は快楽を求め苦痛を避ける存在である。労働者にとって働くことが苦痛である限り、労働者は労働を忌避する。忌避された労働から生まれた生産物は、何に対しても応答可能(レスポンシブル/責任を持つ)ではない。なぜならそこに労働するものの意思も配慮も含まれていないのだから。逆に労働が快楽であれば、労働するものは自分が生産するものに対して意思と配慮(ケア)を込める。それは使う人との間で応答可能性を持つものになるのではないか。

 果たして労働が快楽になるのは無理・無茶なことだろか。私はそう考えない。労働が快楽だった、少なくとも楽しみを伴うものだったといえるのではないかと思うからだ。例えば『逝きし世の面影[3]』で紹介されている幕末前後に日本を訪れた西欧人が異口同音に語る「明るい笑顔」は、「豊かさ」がもたらしたものではない。農村の労働は肉体的には決して楽なものではない。しかし、少なくとも他人に縛られて働くものはいない。天候に左右され、年貢は取られるが、日々の生活のリズムは自分たち村のものたちが作っている。祭りや神楽も自分たちの手で作り上げている。生活の厳しさはあるが、そこには楽しみと慈しみと美があったのだと(感傷かもしれないが)思う。ミルが大規模農業が盛んになろうとしていた時代に、あえて小規模自営農を擁護するのも、労働と結びついた生活の美のためだ。自分たちの、自分のリズムで仕事をし、生活を営む時、仕事は喜びを生むのではないか。

 例えば私にとって原稿や論文のため、キツいけれどガシガシと原書を読んだり他の論文を読んだりすることは労働だけど楽しい。集中していると時間を忘れる。夢中になっているからだ。誰でもそういう経験があるだろう。その代わりそのあとはダラ〜としてしまう。こんな労働を時間で測ること、時間を定めることはバカらしい。それぞれの人、それぞれの仕事に沿ってリズムがある。営業時間が決まっていたとしても、その中でリズムが生まれる。そのリズムを無視して全て一律に時間と人を割り当ててしまっているのが、今の労働なのではないか。そんなふうに考えると、近代の時計に従って働く労働が逆に特別な・例外的な事象なのではないかと思えてくる。


[1] 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』ディヴィット・グレーバー・酒井隆史(他)訳, 岩波書店, 2020年7月

[2] 出世ラインから外れて閑職につく中高年サラリーマンを揶揄する言葉[コトバンク]

[3] 『逝きし世の面影』渡辺京二, 平凡社ライブラリー,2005年