地獄元年によせてーJ.S.ミルのディストピア

松井 名津

 地獄元年という表紙のタイトルに「?!」となった人も多いだろう。私自身はといえば、地獄というよりも蟻地獄かなと思った。もがいても、もがいても引き摺り込まれていく、そういう地獄を思い浮かべてしまった。安部公房の『砂の女』ではないが大量の砂の圧力を時として感じるからだ。一粒一粒はなんということもない砂。少し大きくなったところで違和感を覚えるだけの砂。そんなものがより集まり堆積し一斉に崩れかかってこちらに向かってくる。自分の足元さえもいつの間にか不安定で、拠り所なく、力の入れようもない。今の世の中が地獄に向かっているとすれば、こんな地獄ではないかと私は思う。

 世紀の変わり目だとか、時代の潮目だとかに、人は一斉に夢を見る。19世期半ばに生きたミルもまたそうした数多くの夢を見聞きし、自らも夢見た人である。これまでも彼自身の夢(あるいは「賭」)を紹介してきたが、今回は逆に彼の悪夢を紹介しよう。一言でまとめると「予定調和の世界」がそれである。こうまとめてしまうと何やら理想郷のようにも聞こえる。全ての人があるべき姿で、あるべきところに収まるのが予定調和なのだから。ミルの時代、科学の力によって子供の能力に応じた教育を施し(あるいはあるべき姿を教育し)、適切な職業を与え導こうという動きはラディカル派、守旧派を問わず存在していた。不適切な環境や不適切な教育(無教育)こそが貧困の連鎖を引き起こし、怠惰や犯罪の原因となると考えたからである。適切な教育、適切な職業、適切な人生…これが予定調和の世界である。ラディカル派ではミルの父やベンサムを始めとする功利主義者や、ニューラナークを作ったオーウェンが、こうした考えの先頭を行っていたと目されている。守旧派ではカーライルがそうであろう(彼は奴隷制度を未開の人に文明の端緒である労働を教えるために必要な制度であると擁護していた)。

 ところがこれまでも何度も紹介してきたことだが、ミルはこうした考えを酷く非難する。その根底にはこうして作られる世界がディストピアに他ならないという考えがあったのだと私は考えている。なぜディストピアなのか。彼はこうした予定調和の世界を同時代のインドや中国と同じだと考えていたからだ。どちらも高い文明を持っていた。しかし固定的な社会制度のもとで、人々はそれぞれの社会的地位を、運命的なものとして受け入れるだけで、変化を求めない。そうミルは考えていた。「停滞する」社会である。予定調和の世界もまた、科学の知識によって決められた能力を、決められた手段によって開発し、決められた職業につき…と安定した、だが定まった人生を人は歩むことになる。それに逆らうのは非科学的なことでしかない。こうした世界を垣間見せてくれるのが漫画『地球(テラ)へ』の最終盤である。未来の地球、そこには大人しかいない。ぎっしりと大人が並んで行き来するエスカレーターですれ違う二人の男性が会話をしている。

「なんでも昔は人間が自分で自分の職業を選んでいたんだそうですな」

「なんと野蛮な」

「今は全てマザーが適切に決めてくれますからな」

「全くです」

 ほんのワンシーンなのだが、この世界の全てを語っているシーンだと私は思っている。マザーと言われているのは人間ではない。全知全能たるAIである。人々の能力、個性に応じた趣味、仕事、配偶者を選ぶのはもちろん、全ての悩みの聞き手であり、喜びを共にする存在でもある。人々はマザーのもと安心して日々の生活専念することができる。マザーの決定は全てであり、それに逆らうことは「考えられないこと」「病気の証拠」でしかない。この漫画でこの日常生活を壊すのは、日常生活に不満や不信を抱いた普通の人間たちではない。彼らは日常生活に満足し切っている。(ではなぜこの世界は壊れるのか、それはご自身でどうぞ)。これこそが、ミルが忌避してやまなかったディストピアなのだと私は思う。

 この世界で人は自分で何かを選択するということをしない。いつも誰かによって決められた道を歩む。失敗が存在しない(科学的真理に従っているから)から、変化を求めることもない。もちろんこの世界でもほんの少しの不幸、不満はあるだろう。人と人とのすれ違いから喧嘩になることもあるだろう。しかしそれはマザーによって解消させられてしまう。戦争のない平和な社会である。けれどそれは人間が自ら選んだものとはいえない。あるいは功利主義に対する反論としてよく持ち出される睡眠機械がある。夢の中で自分の希望や欲望が全て叶えられる機械だ(これを扱った秀逸な漫画が『夢みる機械』。ここではこの機械を使って世界征服を図った当のご本人が一番先にこの機械を使っている)。この機械さえあれば人はすべての欲望を何らの代償もなく叶えることができる。功利主義でいえば「最大満足」の状態だ。で、現代の反功利主義者たちはこの事例を使ってこの状態の人間が真に生きているといえるのかと問いを突きつける。現代の功利主義者がこれにどのように反論しているかはともかくとして、ミルならばあっさりNOと答えるだろう。すべての人が夢みる機械に入ってしまった状態はミルのディストピアである。ここでも人は定まったコースを夢に見るだけで、選択をしない。不幸や失敗に出会うかもしれないが、それはストーリーを豊富にするための単なる仕掛けでしかない。機械の中の人たちは全員満足している。しかし、とミルは言うだろう。この満足は幸福ではないと。

 ミルは功利主義者である。が彼が求めたのは幸福である。彼は『自伝』の中で幸福はそれ自体を追求しても手にすることはできない。何か別の目的を追求しているとき、道端の花のようにふと発見するものであると書いている。人生で何らかの目的に向かって行動している。それが幸福の前提である。そうした幸福が疑似体験で得られるかどうか。『夢みる機械』が与えてくれる夢は何もかも不自由のない世界だが、その時本来の達成感が得られるのかどうか。これは実験しなければわからない。が、直観的に「ちょっとそれはね」という人が多いのであれば、おそらく何らかの心理的バリアーがあるのだろう。ミル自身、満足を否定しているわけではない。とはいえ「満足した豚よりも、不満足な人間のほうがよい。満足したバカよりも不満足なソクラテスのほうがよい」というのが『功利主義論』の一節にある。そしてこの一節が代表するように、彼は満足や幸福に質の違いがあると主張した。より高い質の幸福や満足を求めて、より活動的に人生を生き、自ら選択する。これがミルの求めた理想的な人間像であろう。その一方で五感が満足するものを与えられること、与えられた選択肢の中から最も満足するものを選ぶこと。貧しくもなく、飢えもせず、不自由のない生活をおくれるのであれば、考えること、選択することを放棄する。これは彼にとっては回避したい人間像であり、ミルからすれば自ら幸福を放棄していることになる。しかし、安楽で安定していて安全であれば、それで満足だというのが人間でもある。

 ミルは自分の理想と、目の前の現実世界で大多数を占めつつある安全と安楽だけを求める「大衆」的人間の間で揺れ動く。自分の理想を「あるべき姿」としてしまえば、それは絶対的真理を設定し、人間にあるモデルを押し付けることになる。それもまた人間の自由意思を否定することになる。その一方安定と安楽だけという人間をそのまま認めてしまうこともまた、自ら選択するという自由意思を窒息させる社会が実現する道を開くことになる。結局ミルは人間がきっと自由意思を選択するだろうという「賭」を提示することにした。それぞれの時代、それぞれの社会が自由を基準に社会を選択することに期待をかけた。

 それから150年以上がたった。私たちの社会、少なくともこの日本はどちらに近づいているのだろうか。学生に将来どんな生活をおくりたい?と聞くと、ほとんどが「フツ―の生活」と答える。フツ―ってどんなの?と聞いても明確なイメージを持っているわけではない。とにかく毎日無事に、パートナーがいて子供がいて、ちゃんとご飯が食べられて…。ではそういう生活がどうすれば可能なのかと聞けば、会社に入りすれば実現すると思っている。「見苦しくない私服」を考えるのが難しいから、リクルートスーツが一番だという。どこかで聞いたような主張を述べていると安全で安心だと感じている。その癖どこか息苦しいという。

 最初に蟻地獄と書いたけれど、とてつもなく大きくて自分が下に沈んでいっていることも気が付かない蟻地獄に、彼らは生きているのではないかと思ったりする。もがくこともなく、そこが地獄だということを自覚することもなく。ゆっくりとでも確実に、選択しないという不作為によって沈んでいく。そして自分たちが苦しくなったとき、多くの人は「これは自分のせいではない」と思う。当然だ。自分で選択したことがないのだから。だとしたら、始まるのは蟻地獄の中での犯人探しだ。誰が自分よりもより悪いもの、より低いものを見つけて、自分の優位を誇る。地獄には鬼の獄卒がいるというが、怖いのは地獄の囚人同士の罵り合いだろう。  今年が地獄元年となるのかどうか。たとえ小さくとも一つ一つの選択に賭けがかかっている。