第二近代の個人化が進んだ先

根強い安定志向

 15年ほど前にいくつかの大学で現役大学生とかかわることがあった。その際に地方の大学で特に聞かれたのが「収入のいい男子と結婚して専業主婦になること」だった。え?平成の世でもそんな古風なことをいうの?と驚きの読者も多いと思うが、意外に女子大生はコンサバだったのだ。「いやいや、何が世の中起きるかわからないのよ。結婚した相手がもしかしたらDVであなたが苦労するかもしれない。女性問題などで離婚するかもしれない。旦那さんが急に倒れて亡くなるかもしれない。夫にぶら下がるんじゃなくて自分で食べていけるように考えなきゃ」と当時は笑いながら話していたが、そのようなことは今や日本の各地で起きているだろう。

 きっとその学生たちも今や30代後半になり、子育て真っただ中の女性たちも多いと思う。どうなっているかなとふと思うこともある。

 経済成長が上向いている時代は何も考えないでもある程度は稼げる。しかし、バブルがはじけて経済成長が望めない時代に突入してからは、今までの延長線上に日本はもうない。それを身近な大人たちもあまり指摘せず、政府は景気回復ばかりを口にして、かつてのような好景気の幻想を国民が抱く。両親が享受してきたようなモデルはとうに崩れたことを自覚していない女子大生があまりに多かった。しかし、この安定志向は令和になった今でも根強く残っていることがさらに驚きだ。

最小社会単位が家族から孤に

 これも10年以上前の話だが、ある男女共同参画センターの評議員を頼まれ、そこを運営していた団体が適切に事業を行っているかを評価するという仕事の依頼が舞い込んできた。そこは全国でも有名なセンターで、会議に臨む前の事業報告書に目を通させてもらった。私は女性の起業支援事業に対してのアドバイザーだったわけだが、他の項目を見ると若い女性たちを引きこもりから脱却、起業へとお手伝いをするという内容もあった。最初に参加した若い女性たちのアンケートの集計結果があった。その中でも忘れられなかったのが「家にいても落ち着かない」と答えている女性がかなり多かったことだ。

 私たちは社会学で“家族は社会を構成する最小単位”と教わっている。しかし、そこにいることがつらい、居心地が悪いと感じている女性が多いという現実にショックを受けた。彼女たちにとっての居場所はどこになるのか?親の過干渉も目立っていた。昔であれば、親と関係性が悪くても、同居している祖父母が助けてくれたり、近所の心やすいおばちゃんがいたり、誰か身近な大人がその子の支えになれていたのだろう。しかし、今は核家族、そして隣人との付き合いもないような都会生活では、見守ってくれる大人があまりいない。ドアを開ければ小言を言われるので、親とも断絶をして自分の部屋にこもる。そういう人たちが増えているということだ。

 ウルリッヒ・ベックは“第二の近代”において個人化がさらに進むことを述べているが、いまや、社会の最小単位は家族ではなくて「孤」になってしまっているのではないだろうか。これは子どもや若者だけでなく、孤独死する人たちからもわかるように高齢者、さらには都会に一人暮らしをする人たちも、だ。周りの目、世間体、干渉を嫌がって田舎から都会に子どもが出たがると、ある地方の親御さんから話を聞いたことがあるが、いったんは得た“自由”がだんだんと“勝手”に変わり、他人との接点がなくなる。いい時は好きなように生きられているように感じる。しかし、いざという何かが起きた時に “孤独”へと陥る。「将来のことは少しは考えなきゃ…」と気持ちがあっても自分一人で考えることは堂々巡りで回答が出ず、対話もない。ま、いいかとスマホなどに逃避して時間はあっという間に過ぎていく。そしていよいよ大変になった時に何も打つ手がなく、情報に踊らされて右往左往する。

 昨年のコロナで「第2波で女性の自殺率が急増」という記事を何度も目にする。物理的に移動もできなくなって、“孤人化”してしまったことが女性たちを追い込んでしまった原因の1つではないかと推測する。

コロナでメンタルパンデミック

 コロナはどんどん専門家の研究が進んでいるが、ワクチンよりも何よりも、心身共に元気であることが一番のようだ。誰かが“メンタル・パンデミック”と書いていたが、コロナがきっかけで情報に右往左往して元気な人が落ち込んでいく。不安ばかりが募って何もしない状態では、免疫力も下がって、危険だ。そして日本は「こんな時期に東京からこの田舎に帰ってくるなんて許せない」というような変な正義を振りかざした同調圧力がさらに気持ちを萎えさせる。きちんと規則正しく自炊をベースとした生活にして、あまり多くの人と今は接触することを避け、変に怖がらずに平常心を持つことが大事なのではないかと思う。

 私はこの時期に日本に帰れなかったので今回は経験をしていない。カンボジアは今のところこれまでの累計で500人にもまだ満たない。巷ではマスクをしたり、銀行に入るときは検温したり、手袋や消毒液も飛ぶように売れ、価格も高騰しているが、パニックにはなっていない。徐々に結婚式シーズンで人が集まるような機会も増えつつある。一体何が違うのだろうか。気候の違いももちろんあるが、私は生活スタイルではないかと思う。交通手段がバイクが中心で遠出も少ない。国内で観光旅行をする人はまだまだ少ない。ご飯も自分たちでちゃんと1から作り、特にプーンアジでは薪を割ることから始めるわけだが、体を動かす「営み」がある。洗濯も大きなたらいいっぱいにゴシゴシ手で洗って干して…。ここにいる子たちで肥満の子はいない。なんでもボタン一つで楽ができて、時短は図れるが便利すぎることがこれらの運動を営みの中から奪い取っているからなのか。

教育の在り方-私たちの実践

 そして高度経済成長期が限界をとうに迎えていて、失われた20年、30年といわれて久しいのに、教育のシステムは旧態依然だ。今や大学もリモート授業ばかりだそうだが、先生がZoomなどをこなせないから今期はレポートだけ提出といった、生徒たちの勉強の意欲をそぐような行動を起こしている人も結構いると聞いて呆れた。また60人くらいしかいない学科でも一人ずつプレゼンをしたことがなくて、パソコンは持っていてもワードでレポートを書くのみでほとんど機能を使いこなせていないという生徒はたくさんいる。その子たちが卒業して就職して、今やもう1から研修・教育投資ができるほど企業も金銭的・時間的に余裕がない。ということは、転職組の中堅を入れたほうが仕事が回るということで、若い働く人たちの雇用機会が減る。大学4年間で何をしていたかがここで大きく分かれるのではないかと感じざるを得ない。就活の時に取り繕っているようでは手遅れだ。

 現在、プーンアジでは中学生から高校生までのカンボジア人の学生を受け入れているが、ここで私たちは将来都会や海外に出稼ぎにいかなくても、地元で自分で仕事を起こせるようなスキルを身に着けてもらうようにそれぞれに仕事を出している。生徒たちは家も経済的に裕福ではなく、町中に高等教育を受けさせるためにかかる費用を工面するのも一苦労だ。そこで我々が仕事を提供することで寝食する場所を提供し、学校以外の時間は労働力を提供するという形を採っている。親元を離れているから当然甘えられない。ご飯は自分で作らないといけないし、洗濯などもすべて自分。生活の基礎的な部分ももちろん身に着けている。そして、カシューナッツの仕事も今コミュニティで行われているような仕事からさらに発展して自ら商品開発したものを売っていくような試みや、ITの仕事なども請け負う。親はいないからちゃんと自分で起きないといけないし、スマホをやりすぎて夜更かしするというのは禁止にしているので昼夜逆転現象ということもここでは共同生活ゆえにできない。

 日本では子供を大人たちはどう捉えているのだろうか。塾に勉強に忙しいからやらせない、お母さんも仕事で忙しいから変に手伝わせると時間がかかるからやらせない、こういう光景が多いと思う。しかし、子供だから…といつまでも特別枠を設けていると、急にある年齢に達したからといってできるわけでもない。“できない”のは経験し、自信をつけるようにやらせていないことも大いにある。子供なりにできることをやって身に着けさせる場が必要であって、この能力がかなり欠落していることが、ひいては将来自分が自立することをイメージできないことへもつながりうる。生活するための基礎、今のように外に出られないときに自分で自炊をすることを楽しめたり、家でも内職できることを考えて見つけ出したり、時間があるゆえにやれることは若いうちは実は結構あるはずだ。世の中の動きを知って、これまでとは違う時代が来ていることを実感して自分の足で立っていける子供たちを育てていかなければ、いざという時に自分が自分を守るしかない。それがコロナで加速度的に近づいているような気がしてならない。政府の言うとおりにしていたら生活も保障をされて安心だということはあり得ないし、雇用を守るといいながら週休3,4日制を導入すると、食べていけない正社員も出てきそうだ。正社員=安定ではなくなる。そんなときに自分で家をベースとした副業をやるためにどんなアイディアを思いめぐらせたらいいかなど、自分で考えて事業を起こす楽しみを知らなければ、楽しく乗り切ることなんかできやしない。そろそろ日本は何でもあって素晴らしい、金持ちの国だという幻想から目が覚めないと、かなり事態は悪化している。

 最近、プーンアジでは少しうれしいことが起きた。ここのところ順調にカシューナッツの仕事が進んで、昨年よりも倍近い量を早い時期に終えることができそうだ。次の収穫までに1か月ほど時間があり、その分ここでは仕事ができない。そんな中、家への仕送りも含めてもっと稼ぎたいと、敷地内で地元の女性起業家ティーダさんが経営するドリンクカフェでパパイヤサラダを売りたいと上級生の女子たちが言い始めた。自分で少し先のことを考えて小商いにチャレンジする、とてもいいことだと私は思っている。ないなら自分で生み出す、このトレーニングをすることはとても大事だ。日本の同世代の若者たちにこの先を読んで危機意識はあるだろうか。学校で教われないならば自分でどこかからつかんでいくしかない。私はカンボジアを舞台に、日本人カンボジア人にかかわらず、こういう場を提供していきたいと思っている。