判断の軸を自分が納得できるように決める

しばらく日本に帰っていないと毎日のニュースや情報番組にはさらされていないが、それでもスマホ、インターネット、YouTubeなどでいろんなものを見聞きできる。このところのオリンピックにまつわる失言や、霞が関との癒着や接待問題、そして当人が開き直ったり、記憶にないどころか無意識だと言ってみたり、何としてでも自分のポジションを守るために悪態をついているようだ。世間との感覚がずれている、高齢になってもきれいな幕引きができない、ここが日本の中枢だと思うと情けないやら悲しいやら。そんな風に思われる高齢者にはならないよう、反面教師だと思っている。

ところで、世界から見ても恥ずかしいと思うことがいつからまかり通るようになったのだろうか。かつては地元の名家といわれるところは、地域の人から尊敬を集めていた。狭い地域の中では誰もが顔を知っている。立ち振る舞いに気を付けたり、尊敬されるにはこうであらねばならないといったような行動規範を自ら持っていた。また、伝統の世界も大人が子供のころからプロとして育てる。例えば歌舞伎でもやっとセリフを覚えて4,5歳で舞台を踏めるような子供たちをおじいちゃんのような世代の人たちがお世話をしているのをテレビで舞台裏としてみたりするが、きちんと一人前になるために、人としての生き方を教える人がそばにいるからではないかと思うのだ。華道や茶道も師範がいて、憧れのその人の生き方を学ぶ。その人の子弟として師範に泥を塗ることがないよう、恥ずかしくない立ち振る舞いをしようと努める。こういう歯止めがきいていたのだ。

ところが今は「自由」という言葉をはき違えている人たちが変に権力や利権を握って、一生安泰で暮らせることしか考えていないのではないだろうか。国民年金で月6,7万円しかもらえないので月々のやりくりに悲鳴を上げている高齢者がいるというのに、1回7万円の食事をしても覚えていないと答弁する官僚がいるだなんてことがまかり通るのだろうか?!

日本ではこういうことが起きると、最初に私が書いたようにあぁ、あの人は情けない、恥ずかしいという気持ちになるが、欧米諸国では同じような状況があるとどんな心持ちになるのだろうか。個人を見てその人を恥ずかしいと批判するのではなくて、分別のある大人だったら、こんないい加減なことをする人を議員に選んでしまった自分に見る目がなかったとか、未来はどうなるのかと考えるとその企業の商品サービスは買わないとか、将来や社会に思いを馳せて自分の考えや行動を悔い改めるのではないかと想像する。何人か知っている友人たちのことを思い浮かべると、そんな風に見えるのだ。彼らは自分たちが社会の構成員であるという自覚が強いのだと思う。

日本では教育の過程で大人として成熟するための学びが少ないと思う。そして学校を卒業すれば学びとは程遠い。働いている企業の中では自分自身のスキルを成長できるかもしれないが、社会の中で自分自身をバージョンアップしていく機会が乏しい。その中で、単に誰かを批判するだけではなくて、自分の行動を決める価値観みたいなものは何か、改めて問い直してみたい。よく「みんなが安心して幸せに暮らせるまちづくり」というのは耳にする言葉で、誰もが合意できると思う。でもその「安心」とか「幸せ」というのはどうやったら得られていくのだろうか。今まで「波風立たせずにこのままでいい」という連続が失われた20年、30年につながったのではないかと考える。そうやって何もしなかったことが劇的に変化する世界から取り残されつつある状況に陥ってしまっている。

そこで私は「100年先まで残したい」というのを自分の1つの判断軸にしてみた。これは京都の女性起業家たちとイベントをやったときに出てきたキャッチコピーだが、未来を見据えたとてもいいフレーズだと気に入っている。あえてこのご時世で差別発言を記すが、社会を意識しないオジさんにはピンとこなくても、子供を育てるようなたくましい女性たちにはしっくりくるはずだ。一度事故が起きたら廃炉までにとんでもない歳月がかかる原子力発電所を100年先まで残したいかどうか、これから成長産業として伸びていく分野をどこかの企業独占するこんな風土は100年先まで残したいのかどうか、資源が少ない国で何が100年先まで残る産業なのか、日本人としての誇りがある素敵な文化を100年先まで残したいかどうか、美しい風景と棚田を100年先まで残したいかどうか、優秀な人材を100年先まで残したいかどうか、ではその人材づくりは今のままで100年先まで残るようなシステムなのか。これで仕分けていくと、何が大事に残していきたいものか、近視眼的に今は大事・必要だけど将来性はないなと思うものはあっさりカットするということができるのではないかと思う。100年というのが長すぎるならば50年でもいい。今こそ見直す時期ではないかと強く感じる。

私みたいな鈍い人間でも、日本が落ちるところまで落ちたか…という絶望感が大きい。無関心、見ぬふりをしているというのではもう済まされないところまで来ている。何をやってもどうせ変わらないという諦めで終えていいのだろうか。

それをどうにかしなきゃいけないと地方の議会に知っている女性たちがこの春2人挑戦している。どちらもカカオワークショップでお世話になった地域だ。一人は先日の投票結果が出て町会議員に初当選した。彼女はガンを患い、寝たきりに近いところからの再帰で余生を地域のために捧げたいと立候補した。もう一人は子育て真っただ中なお母さんだ。こういう人たちが増えることで、これまでの利権をむさぼる人が中心で動いていく政治が地方自治から変わっていくことを願うばかりだ。