ミャンマーの若者受け入れへ

CWB 松井名津

 ミャンマーを始めとするアジアの若者を受け入れ、日本の技能を伝え、教えたい。単に「技能を教えるだけでは伝わらないと思うのだ。教わる側に事前準備が必要とか、教える方も教える内容を整理するとか、技術的な問題の前に何かを考えなくてはならない。

 それが何なのか、しばらくわからなかった。月曜会議で「大規模生産も必要だとは思う。世界人口を全て支えなくてはいけないから。でもコロナのように非常事態の場合、交通が途絶した場合、コミュニテイレベルで自活できる技術を持つことが必要だと思う。自分達が食べられる安心があれば、他も思いやることができる」と説明したが抽象的と思わざるえなかった。自分自身で言葉が上滑りしていると思った。里山に行って門屋さんと話して、少し見えてきた気がする。門屋さんは以前から「農は業ではない」と主張している。農業は他の産業と同じく効率性や生産性、収益率で比べられる存在になる。ある意味当たり前のことだ。だからこそ「儲かる農業」が提唱されたり、6次産業化が推進されてきた。だがこうした政策に容易に対応できたのは換金作物だ。主食の米は補助金を与えられ、国に価格を定められる統制の影響が長らく続いた。一般には米の保護政策といわれるが、同時に米の価格を低く安定させるためだった。以降も米価は下がったままだ。私たちはそういうものだと思い込んでいる。

 門屋さんはいつもこの点を学生たちに問う。なぜ米は安いのか。米離れ・食生活の変化…学生たちの答えは様々だ。けれどどれも本質を突いてはいない。米は食に直結している主食だ。主食が高くなれば暴動が起きる。それを防ぐための食管法で、70数年変わっていない。おそらく工業化しているどこの国でも同じことが起きている。食の生産現場から離れた私たちは、代わりに給与という形でお金を手にする。そして私たちはお金があるからいつでも食事を買えると思っている。その裏で農は疲弊していった。業としてみた時、農は儲からない・きつい職業のーつとして、敬遠されるものになった。おそらくどこの国でも工業化・現代化と同時に生じたこと(生じていること)だろう。けれど門屋さんは「食は人間の命を支えるもの、空気や水と同じだj と。中井さんも同じことをいう「食(食を作るのは)人間の基本的権利jだと。つまり農、食料を生産することは、社会全体の利益であり、社会共通資本なのだ。その農の技術、特に化石燃料や電気に容易に頼らない技術は、いつでも誰にでも使える技術としてあらゆる社会に共通な技能・技術として伝えられなくてはならない。だからこそ、私たちは伝えたいのだし、伝えなくてはならないと直感的に思うのだ。

 社会共通資本とは形や場所ではない。普通の人々が単に生きるだけではなく、生き続けるために共通に必要とする資本一資源なのだ。重要なのは人々が共通に必要とする点だ。皆が必要とするものを他人の手に委ねたままにするのはよくない。それは自分たちの首根っこを抑えられるようなものだ。それに食糧や空気、水あるいは棲家や土地を自分たちで管理し、親しんでおかなければ、非常時に戸惑うばかりだろう。社会共通資本は「みんなにとって必要Jであると共に「みんなが関心を持ち必要とするべき」という意味でもある。

 アジアからの技能研修生の受け入れは、技能を伝えるためだけではない。私たち自身が、衰えてしまった私たちの社会共通資本を見直し、場合によっては見出し、それを受け継ぎ守る機会でもある。技能は教える、でもそれだけでは足りない。私たち自身が私たちが受け渡したいものを見つけなくてはならないのだ。