地の利

以前「地産地消」の「地」は大地の地だと書いたことがある。その原稿では地産地消が閉鎖的な風潮を生み出してしまう可能性をテーマの一つにしていた。その一方で、友人の小さな豆腐屋がブームになって生産拡大して…やがて潰れてしまうという例え話を紹介したこともある。その時は小規模でその土地なりの味を持っていたものが、規模拡大、グローバリズムの波に乗ってしまい元も子もなくなるということがテーマの一つだった。振り返って見ると「地産地消」に関して、閉じこもらずに世界に開いて行こうといいつつ、世界に開いた時は危険だよと矛盾したことを書いたような気がする。でも、今でもどちらも私の信条なのだ。とはいえ、他人様から見れば一体どうすれば良いんだということになるだろうと思う。私自身もこの二つの信条を私の中で矛盾せずに両立させている「もの」は何だろうと思ってきた(他人様に読んでもらう文章を書く人間の態度としては、些か、というよりダイブ無責任な話だと思うのだが)。

 今年、ある果実に出会って「ああ、もしかしてこういうことだったのか」と思い、同時に3年程前に聞いた言葉を思い出して「そうなのかもしれない」と思い、なんだか楽しくなってしまったので、そのことを書いてみようと思う。

 出会った果実は愛媛果実試験場(愛果・果試)28号という品種の柑橘である。この28号がJAの一定の基準をクリアすると「紅マドンナ」という名前に変わる。「紅マドンナ」になると銀座千疋屋では1個1000円する…という噂がある(私は確かめたことがない)。2Lサイズの秀品であれば地元愛媛松山でも1個500円はする。ところが「紅マドンナ」になれなかったマドンナ達である28号の、それも小振りのものや、味のばらつきがあるものならば、5~6個で400円程度で売っていたりする(それでも他の柑橘よりは高いので、買うのをためらってしまうのが松山在住15年の間に染み付いた価格感覚)。味は「紅マドンナ」の方が数段上かも知れない。でもなり損なったマドンナ達でも十分美味しいし、この果実特有の甘味やゼリーのような食感はある。この28号、おそらく東京辺りでは出回っていないだろうなと思う。

 最上級は東京という大消費地、お金の集まるところに持って行かれてしまう。これも世界に開いたときの危険性の一つだ。かつての植民地が今もってモノカルチュアから抜け出せなくて苦しんでいるのも、モノカルチュアとして押し付けられた商品作物が世界で売れる商品であり続けているからだ。たとえ自分たちの主食の畑をつぶしてもモノカルチュアの作物を作り、それを仲買業者に売った方が、まだしも飢えない可能性が高いと思っているからだ(まだ農民達が自主的に行っているのならまだ良いが、政府等が強制している場合も多い。主食を輸出にまわす飢餓輸出を平然と行う政府すら世の中にはある)。けれど、地元ならではの「地の利」はやはりある。地元のスーパーには並ぶ規格外品、鮮度が落ちるのがあまりに早くて地元でしか食べられない品、収穫量が少なく大消費地には出て行かないもの、そして地元ならではの食べ方。あまりに貧しくなってしまったサブサハラ以南のアフリカでは望むべくもないだろうが、ある程度地元に余裕がある土地であれば、世界中どこにでもあるこういった品々。これは「地産地消」にしかならない品物で、B級品等々と呼ばれてしまうのだが…。ちょっと考えてみてほしい。あなたは1個1000円する柑橘を日常的に食べられる極上クラスに属しているのかどうかを。少なくとも私自身は自信と確信を持って「そうじゃない」と断言することができる。そういうごく普通のクラスの人間でも、愛媛にくればなり損ねマドンナを十分に堪能することができる(なり損ねといってしまうといかにも品質が悪そうに思えるかも知れないが、外皮の色が薄い、均一ではないとかサイズが小さい、中には農協に所属していない、農協におろしていないからという理由で紅マドンナと名のれないだけというものまである)。自分の住んでいる地域では高嶺の花、でも生産している地元へ行けば同等のものが自分の懐にあった価格で手に入る。なぜなら「地産地消」にしかならない品物だから。こういう「地産地消」があるから、観光ルートの一部に「道の駅」が組み込まれることが多いのだろう。地元ならではの安い価格で日頃なかなか買えないものを買うことができる期待を込めて。安い価格というは単純に価格が安いというだけでなく、品質の割に価格が安いというのもあるだろう。

 これだけでは「地産地消」の地元は「お金にならなかったかも知れないものが意外に売れてよかった」で終わってしまう。では加工して第6次産業化して…という道もあるかもしれない。でも案外それはどこでも考えているから、日本全国とはいわないが、多くの道の駅に「いちじくジャム」が列んでいる後継が繰り広げられるのではないかとにらんでいる(いちじくは移動によって痛みやすいので未だに長距離輸送には向かないからなのだけれど)。

 けれど、どんなに高価格をつけられた特級品であっても、地元産にはかなわない領域が一つだけある。「鮮度」。私が松山に着任した直後、私と夫の実家に伊予柑を送ったことがある。双方とも「こんなに美味しい伊予柑を食べたことがない」とびっくりした。特級品を送った訳ではない。ごく普通の家庭向けの不揃いの品を送っただけだ。鮮度が高いだけでそれほどの違いが出るのだ。これはおそらくどんな食料品でもいえるだろうし、場合によっては工芸品にすらいえるかもしれない。あえて東京向けや先進国向けに作っていないからこそ「面白い」品物。かつて利休が韓半島の雑器を名茶器とし、近年では柳宗悦が日常雑器に見いだした美。美に対して明確な基準を持っている利休あたりならともかく、凡人の私たちがそういう美に出会おうと思ったら現地に行くしかないだろう。自分が現地でであって美しいと思った美は「地産」の美であろう。地元へ行かないと出会えない味、出会えない美が認められること。それは価格の安さに頼る「地産」ではない新しい「地産」の魅力を生み出す可能性がある。そのためには「地産地消」は他へと開いていなくてはいけない、常に新しい要求や欲求に敏感でなくてはならない。今まで作ったことのない形や色を要求されるかもしれない。けれどそれにチャレンジしてみることが必要となるだろう。

 けれどその一方で「地産」は「地消」を忘れてはいけないとも思う。3年程前ある地元の蔵元を学生たちと訪ねたことがある。学生の最後の質問は「自分の蔵のお酒で一押しのお酒はなんですか?」だった。学生はもちろん私自身も吟醸酒やその蔵独自の製法を誇る特別な酒の名が帰ってくるだろうと思った。でもその若い蔵元はちょっと照れたようにしてこう言った。「やっぱ普通酒かな。」普通酒はその名の通り一般的な製法で作られる、どの蔵でも普及品として位置づけられるお酒である。蔵元は続けた「技術はまだまだやと思うけん、吟醸酒には力入れます。おんなじ愛媛の若い蔵元と競争して愛媛の酒を高めていけたらと思う。けど、吟醸酒を毎日飲む人は地元にはおらんけん。うちとこは地元に育ててもろて、地元と一緒にやってる蔵やけん。祭りとか祝いの時に気軽にみんなで飲んでもらえる普通酒を『美味しい』っていうてもらえるのが一番嬉しい。」その蔵のブログでは毎月変わる地元の観光センターのギャラリー紹介をしている。地元の観光コースの一環にもなっていて、観光客に蔵の酒造りの様子を説明したり試飲もできるようにしている。別の蔵では一時期東京向けの味の酒を造っていたが、試行錯誤した結果、地元が美味しいというお酒に落ち着いて評価を高めている。東京とか世界は気まぐれだ。新鮮な切れ味を求めたかと思えば、まろやかな豊かな味を求めたりする。それにいちいち応えていればやがて自分の味が分からなくなる。工芸品も一緒だ。ファッション関係になればもっと流行り廃りは大きい。振り回されてばかりではやがて自分独自のもの、自分独自の特質を忘れ、中央からも地元からも見捨てられてしまう。地元で培って来た芯、地元と一緒に育ってきたもの、自分の根っこのようなもの。これを失ってしまうと気まぐれな多数の客は瞬く間に他の産品へと好みを移す。それは酒であろうと農産物であろうと工芸品であろうと、観光であろうと、全て同じことがいえるのだと思う。自分たちが大切にしてきたもの。他には譲れないもの。それは墨守しなくてはならない。ただし墨子が主張したように墨守は墨攻でもある(興味のある人は酒見堅一『墨攻』をどうぞ)。守るためには常に時代の好みの変化を見つめ、新しさをふまえ、自らも変わりながら、それでもなおかつ「変わらない」といわせなくてはならない。だからこそ「地消」として自分が根を下ろす土地の変化に敏感でいなくてはならない。古くから続くように見えて地元はどんどん変化する。新しい人やものが入ってくる。好みもいつの間にか変わる。その中で「変わらぬ地元の…」といわれるためには、閉じているように見えて、実は開いている必要がある。

 こんな風に考えてきてやっと私は自分自身の中の「地産地消」の両義性に納得することができたのだけれど、読んでいただいた皆さん方はどうだろうか。感想などを頂ければ嬉しいのだが。