冒険

 冒険と聞くと大概危険なこと、大変だけど見返りとなる栄誉や利益がたいそう大きなものを想像する。確かにこれまでの冒険は未知への挑戦であり、何か特別なことだった。またこれまでの冒険には明確な特定の個人がいた。主人公というべきかもしれない。漫画のワンピースだったらルフィーと麦わらの一味といったところだろう。特別な能力なり先見性がある人が、通常の人がやらない事を平然と実行する。一般の人々は呆気にとられたり、その無謀をあざ笑い、嘆いたりする。けれど一旦成功すると万雷の拍手を持って迎える。そんな感じだろう。

 では渡り鳥はどうだろう。彼らが地球を股にかける冒険をしていることに異存がある人はいないだらう。しかし渡り鳥に特定のリーダー、他に秀でたリーダーがいて、すべての群れがその決定に従って渡りを始める…のではない。

 渡り鳥に限らず鳥たちが集団で移動する時、どこからともなく同種の鳥たちが集まってくる。電線の上に、木々の梢に、一羽、二羽、と見る間に群れになる。群れになってしばらくは動かない。一羽が飛び立っても全体は動かない。そのうちパラパラと飛び出しては戻ってくるのが現れ、やがていつともなく全体が一団となって移動する。渡り鳥も都会の雀やカラスも基本は同じだ。こういう集団行動の始まり方は鳥たちに限った事ではないらしい。幸島の猿で有名な猿が芋を海水で洗う行動も、子猿ー好奇心満タンで怖いもの知らずーが始め、それが集団に広がったとはいえないらしい。というのも、少なくともその付近の海に面した猿の集団で同時多発的に芋洗いが始まっているからだ。最初の行動が何かを始めるきっかけになるのではなく、初めての行動を模倣する個体が出てきて集団の行動が変わって行くのだという。

 実は人間でも同じように先駆者が一人いても変化は起こらないのだという。先駆者に続く第二の人がいるかどうかが鍵を握っている。実際に実験している動画がYouTubeにあるので検索して確認してみて欲しいのだが、スポーツ観戦中の観客が一人、いきなり服を脱いで踊りを始める。しばらくは誰も続かない。が、もう一人が同じように服を脱いで、踊りだし、一緒にやろうぜという風に手招きをすると、続いてやりだす人が増えてくるのだ。奇妙な行動、突飛な行動であっても「みんな」であれば怖くない、というわけではないのだろうが、後続者がいて変化が起きるという点が面白い。そして私は「冒険者」が現れるのも、こうした人間や鳥のような動物に共通の行動パターンが関係しているのではないかと考えている。

 冒険は一人ではできない、仲間が必要ということではない。冒険には資金がいる。時代や社会が変わっても、資金ではなく資材や人望であれ、何か突拍子もないことをやる人をバックアップしてもいいという人が必要だ。一緒に冒険する仲間ではない。率先して支持する人だ。いいねマークを押す人、すごい、かっこいいと言ってくれる人、資金等を持っている人につなぎをつけてくれる人、実際に資材や資金を出す人…等々。なんでも、どんな形でもい。理解者、味方である人たちが必要なのだ。

 しかし支持する人たちを作り出すことは不可能だ。自分の冒険への賛同者を得ることは難しいけれども可能だ。自分の熱意なり確信なりを共有するのが賛同者だ。だから確信の証拠なり、熱弁なり、人間的な魅力なりで惹きつけることはできる。けれど賛同者は賛同した時点で冒険者と同じ立ち位置になる。今まで誰も考えつかないようなアイデアを実現し、商品として売り出すこと(これもまた冒険だ)を考えてみると分かりやすいかもしれない。既存企業の中でやるにしろ、新規に立ち上げるにしろ、まずは自分のアイデアをわかってくれて、一緒にやってくれる人(=賛同者)を得ることは大切だ。だが、賛同者が集まって自分たちで資金を得て商品を開発することができたとしても、売れるかどうかは別だ。今まで誰も考えつかない訳だから、事前に「~のような商品を買いますか」と商品調査をしても、答える方も困るだろう。なにしろ「考えてもいない」商品なのだ。売れるかどうかは市場に商品を出して、「いいね」と言ってくれる人がいるか、お金を出して買ってくれる人がいるかどうかにかかっている。そして最初に飛びついた人を真似して続く人たちが必要になる。トレンドを作るというやつだ。(それでも想像しにくい場合は、スカートの下にズボンを重ね着することが「普通」になったのが何時からだったか振り返ってみてほしい)。

 確かに高度に情報化された先進諸国では、トレンドセッターといわれる一群の人たちがいる。彼ら・彼女たちに対して商品をプロモートしてトレンドを「作る」ことは可能なように思える。けれどもそうして作られたトレンドは小さなもの、長続きしないものであることが多い(陳腐化するともいう。ようは飽きられやすいということだ)。これに対して世の中を変えた商品は最初は「誰が買うんだ?」といわれ、ごくわずかな人が買い、それを真似る人がでて…と小さな流れが大きなうねりになるように広がる。こうした大きなうねりを人工的に作り出そうと様々な仕掛けがなされるが、うまくいった試しがない。本来のトレンドは作ることはできない。だた「ある」。いわゆる「時代の空気」というやつだ。この時代の空気がなければ、どんな冒険も帆を張ることができない。コロンブスはイスパニアの援助で世界一周を成し遂げた。その前に彼はベネチアに援助を断られている。コロンブスが説いたこと、彼自身は変わらない。変わったのはイスパニアとベネチアという違った「時代の空気」を持つ土地だ。

 さて、現在はどうだろう。冒険が認められる空気があるだろうか。少なくとも日本には「ない」という答えが返ってくるだろう。その答えは半分正しく、半分間違っている。正しいというのは、かつてのような「勝者総取り」「一攫千金」の冒険が認められ、賛同され、支持される余地はなくなりつつあるからだ。これは日本だけではない、世界的にそうだ。金融バブルを期待するなら別だが「画期的」なものが産まれる余地を見いだすのは難しい。技術が高度化し開発に多額の資金がいる分野が多すぎるからだ。じゃあ、全く冒険の余地がないのか、ずっと毎日同じ生活を続けていくしかないのか。確かにそういう閉塞感はある。が、逆に閉塞を感じる(息苦しいと感じる)ということは、余地を求めている人が多いということだ。もし、少しでいいから「余地」が見えたら、自分では余地を作れないと感じている人たちは猛反発するか、熱く支持するかのどちらかになる。「極論」と同じ構造だ。針の触れやすい時代状況だ。風は滞留している。風穴が開くのを待っている。 

 かつての近代であれば、ここから極論の時代へは一飛びだった。なぜなら冒険が大きな冒険、一攫千金の冒険だけしかなかったからだ。今は違う。少なくとも主婦や学生の「小さな冒険」が社会的に紹介されるようになったというだけでも違う。確かに報道のされからは大げさだ。たった一つの成功例がすべての解決策であるかのように紹介され、冒険せずに形だけを模倣しようという動きの方が大きい。そして形だけの模倣がうまくいかなければ、成功例は特殊な人の特殊例であるかのようにみなされ、閉塞感が加速する。だけども小さな一歩を踏み出す人は着実に増えている。冒険とは当人自身も思っていないかもしれない。従来のやり方と異なったやり方、異なった生き方を選ぶ、あるいは選ばざるを得ないことで、人とは異なった生き方自体が命をかけた冒険だった(である)時代(土地)がある。今は異なることに対して非寛容だ。しかし非寛容さの前に、異なること(生き方)が「ある」事実がある。本当に「みんなが同じ」ならバッシングも排除の余地もない。日常的なちょっとしたことが非寛容につながる時代は、逆に非寛容さを招き寄せる多様性が棲息し広がり続けている時代でもあると私は考えたい。

 ようは、時代の風があるといいたいのだ。ちょっとした冒険に尻込みするほどの逆風が吹く時もあるかもしれない。けれど騒ぎ立てている人は、本当は恐怖に駆られて騒ぎ立てている場合が多い。ちょっと引いて、あるいは逆に近寄って、「怖がらなくていい」と言ってあげる。そんな余裕を持ってもいいのだ。目くじらを立て、バッシングをする人たちの反対側には、何も言えずあるいは何も言わない沈黙の大多数がいる。この沈黙した人たちがどちらかの支持者になるとすれば、それは「余裕を見せた方」だ。自分を支持する人が少なくても、淡々と自分がやることをする。多数者は変化を恐れるが、変わったことをする人が淡々としているとそれは変化に見えない。変化に見えなければ、後続者が出やすい。形だけの真似であっても実行する人が多ければ、なんだか普通に見えるものだ。先のスカートの下のズボン。私は慣れるのに3年かかった(ファッションに関しては保守的なのだ)。未だに自分ではやる気にならない。でも「アリかな」といつの間にか思っている。

 淡々と堂々と冒険しよう。それがごく当たり前で誰もができることだと心の底から信じてやってみせよう。引きながらも、遠巻きであっても「なんだかいいかも」と思う人が多数いると信じよう。それが余裕を生み、支持者を増やしてくれるはずだ。ちなみに、変わることだけが冒険ではない。止まることも冒険の一つ。変化が多い世の中で、今まで通りの生き方を続けるのも冒険なのだ。渡り鳥の中にも渡りをしない渡り鳥がいる。留鳥となって厳しい季節を耐え忍ぶのだという。