信頼と縁

ある著名な(でもやたらめったら難しい言葉を駆使する)ドイツの社会学者にいわせると、信頼は「複雑性の縮減」なのだそうだ。これだけだと何のことやらさっぱりだけど、ようは「世の中先のことはわからんけど、とりあえず明日も今日とあんまりかわらんやろうとおもといて、ええんやろう」ということらしい(私流の解釈)。対人関係に敷衍すれば「この人は〇〇な人やから、お金を貸しても大丈夫やろう」ということになる。

 「貸金が返済される」かどうかには、いろいろな要因が絡まってくる。借りる人がまじめな人であっても、勤めていた会社が急に倒産したり、本人が大事故にあったりすれば、返済に支障を来すだろう。借りる人がまじめな人かどうかという判断もまた難しい。待ち合わせ時間を厳守するからといって、返済期間を厳守するかどうかはわからない。まじめに見せかけているだけかもしれない。…と種々の要因を考えると、決断を下すことはできない。だから、その時代その社会で(あるいは一人一人が)「○○」にあてはまる標識を設定しておいて、そこで複雑な要因を十把一絡げにして(つまり縮減して)、決断できるようにしておく。これが信頼の原理だというわけだ。

 そういわれてみると確かそうで、何事かを判断したり決断したりするとき、訳が分からないところを「まぁ今までこうやったから」と状況や制度を「信頼」している場合が多い。先ほどの貸金の例でいけば、かつては土地神話といわれるほど土地(地価の上昇)への信頼が大きく、「土地を持っていれば」お金が借りられるという状況があった。本来であれば、借り手の事業の内容、将来の見通し、本人の経営技量等々に加えて、予想もつかない将来の景気動向も勘案して、融資を判断するはずなのだが(理論的には)、そうしたデータは収集するのに膨大なコストがかかるし、中には手に入らないデータもある(経営者本人がどれだけ経営に熱意を持っているかなど、本人にもわからないデータだ)。だからこそ、地価が右肩上がりの状況が継続していた時代では、土地を持っているということが、こうした複雑な事柄を十把一絡げにしてくれる良い判断基準だった訳である。

 けれども昨今、こうした「従来のやり方」への信頼が大きく揺らぐ事件が立て続けに起きている。まぁ土地神話が崩壊してからもう20年以上がたつ訳だから、若い人には関係ないだろうが、食の安全性や突発的な自然災害、安全といわれ続けてきた原子力発電所の「事故」(これは福島だけのことを指しているのではない。原子力船「むつ」をはじめとして、ずいぶんといろんな事故や事件が起こったのだけど、今回のことがとどめだったとはいえる)を思い浮かべてもらえれば良い。いずれも「従来は安全」「今までだったら無事だったはず」のものが崩壊した事例といえる(そういう意味では「想定外」は本心から出た、そしてまさに端的な言葉だったのだと思う)。そしてどの場合にも不思議なことに、一般的な反応(あるいはマスコミが求めている反応)は責任のある誰かを糾弾するという他罰的なものになっている。

 そこでふっと考え込んでしまうのだ。もしかして、今私たちは「信頼」を「他人任せ」の同義語にしているのではないだろうかと。

 森巣博という人がある本でこんなエピソードを披露している(以下は私のうろ覚えの記憶に基づく記述なので、細部では異なっていると思う)。転居の際、転居先の家具の手配等一切合切をある人に任せた。もちろん大金をつけて。そして転居してみると、森巣氏好みの家具がそろえてあるばかりでなく、冷蔵庫には1週間分ほどの食料が入っていた。さらにテーブルの上には、すべての領収書と残金が残っていた。通常ならば「感謝感激」で終わるエピソードなのだが、森巣氏は相手の有能さに感心し、感激しながらも、領収書を残していることに憤激する。彼は信頼した以上、そのお金がどのように使われていようがかまわないのだと考えている。逆に言えば、持ち逃げされたとしても、それは信頼した自分の落ち度なのだと。だから領収書の存在に自分の信頼が甘く見られたと怒るのである。

 池波正太郎氏はエッセイの中で、昔は10万程度(今の金額に直して)を常に現金で用意をしており、困った親戚や知り合いが自分を頼ってくれば、何も言わずに貸していたものだという話を、郷愁と昨今の世知辛さへの批判を込めて語っている。

 この二つのエピソードの共通しているのは、信頼する側の責任あるいは覚悟だと私は思う。信頼には「裏切り」が伴う。いや、元々信頼できるかどうかわからないものを、あえて「信じる」のであるから、信頼はその根本からしてリスクの高い行為だといえる。しかしこの信頼がないと、人間社会は成立し得ない。

 契約を締結すればいいのではないかという人もいるだろう。が、契約を交わしたとしても、その契約を守るという契約がなくては確実ではない。そしてさらにまたその契約を守るという契約を守るという契約…と無限後退が生じる(はずだ。理論的には)。しかし現実には契約は1度で終わる。それは互いに契約は守られるものと信頼しているからだ。契約と法体系に支えられている市場取引も、根底には法は遵守されるはずという信頼がある。この信頼も本来は根拠がない信頼だ。とはいえ現代でこうしたリスクを日常感じることはない。法や制度、さらにその制度を実行する主体である政府が、信頼を担保していると思っている。信頼につきものの複雑なリスクを政府や制度によって縮減していると思っていると言い換えてもいい。

 そして今、私たちは縮減したはずのリスクが、縮減されるどころか増大したかのような事態に直面している。だからこそ、リスクを縮減していたはずの制度や政府の中に、責任を追及し処罰できる他者を見つけ、その他者を処罰することによって、事態を安定化させリスクを抑制したように思い込もうとしているのではないだろうか。けれど他者を処罰したからといって、信頼が回復する訳でも、信頼に伴うリスクが軽減される訳でもない。単に私たちが思い込んでいた信頼の担保が幻にすぎなかった、信頼することに伴う覚悟がなかったのだということが露わになるだけだ。

 私たちはもう一度私たち自身で、信頼することのリスクを引き受ける覚悟を決めなくてはいけない時代にさしかかっている。とはいえ、それは羅針盤がないまま大海を航海するような、そんな頼りない、寄る辺のない時代ではない。「縁」という言葉がある。私は昔の人が信頼と信頼に伴うリスクを、この言葉で表現していたのではないかと思う。縁には良・悪がある。奇縁・因縁など偶然性の高いものもあれば、地縁・血縁など固着性の高いものもある。縁は誰かに担保してもらうものではなく、自分で判断し、自分で紡いで、自分で育てていかなくてはならないものである。そしてそれでもなお、前世の因縁などといわれるように、身に覚えのない悪縁に巡り会うこともある。それもまた「縁」として引き受ける。そういう覚悟が詰まった言葉なのだと思う。自分の現在の利益のために結ぶ縁もあってよいと思う(現今のSNSもこれかもしれない)。が、「縁は異なもの粋なもの」。奇縁に身を任せ、縁に引き寄せられるまま、客観的には損になるような出来事に身を投じるのも、縁の活かし方である。

 縁は制度や法律よりもはかなく壊れやすい。常時手入れが必要なものだ。だが大きなものによるリスクの縮減を信じないのであれば、自ら信頼のリスクを背負うのであれば、縁を結ぶこと、縁を築き上げること、縁を育てること、そしてあえて縁を切ることを恐れないことが必要なのだと思う。

 信頼と信頼のリスクを感知しつづけ、その上でなお縁を結び続けることが、他人任せではない、自分なりの信頼の基準を作り上げることにつながるのではないかと思う。どこかの誰かがいったから無農薬野菜が良い、天然物が良いと信頼して裏切られた場合と、縁でつながって信頼している人が無農薬がいいよといって裏切られた場合と、一時的な精神的ダメージは後者の方が大きいだろう。けれども前者の場合は、誰か見も知らない他人の責任でしかない。声が大きかったから、マスコミに出ていたから信じた。悪いのは自分ではないと思うことができる。だからきっとまた同じことを繰り返すだろう。自分は悪くないのだから、裏切られたことから学ぶ必要はない。後者の場合は、縁をつなげて信頼した自分の責任が出てくる。同じことを繰り返さないために、何らかの工夫、作法を身につけなくてはならないと思うことだろう。本当に信頼できる縁を結ぶための作法を。この作法が信頼性の基準点になるのだと私は思っている。他人任せではない、自分自身の中で築いた、でも縁に基づいて築いているから融通無碍な基準点である。そういう基準点を羅針盤にしていれば、何を信頼して良いのかわからない不確実な…といわれる世の中も、案外簡単に航海できるのではないかと思っている。