継承と承継

後継者問題というと何かと第1次産業がクローズアップされるが、ことは第1次産業だけではなく、第2次産業であろうと第3次産業であろうと、規模の小さなところ程後継者問題に悩む。これは別に大企業に優秀な人材が集まっていて後継者候補が数多いる…からではない(大王製紙の事例は記憶に新しいだろう)。創業一族が経営権を握っていない大企業であっても同じことだ、後継者問題どころか、誰が経営の最終責任者なのかはっきりせずに個々人が自分の利益を追求してしまうことすらある(JALの経営破綻などもその一例だろう)。むしろ大企業の方が組織形態が明瞭で抱える人的資源も物的資源も大規模なだけに、ゴーイング・コンサーンの短所である「とりあえず前例に従っていれば…」「とにかく上が言っていることだから」が働きやすく、後継者問題は後継者候補の資質や経営ビジョンではなく、人脈等々によって決まったりしやすいのかもしれない。実際に日本の中小企業を実証的に研究してきた研究者の中には、中小企業が後継者がないために会社を畳むのは当然だという人もいる。会社を畳むのであって倒産ではない。資金等外部環境によって行き詰ったからのではなく、後継者問題という内部事情が主たる理由で中小企業が会社を解散するのは、大企業であれば定年退職のようなものだという。ある事業をある個人が始めたとして、大企業であればその事業が軌道に乗っている限り「事業部」という組織として動きはじめ、その事業を始めた人間が定年退職しても組織として継続する。個人企業であれば、事業を始めた人間がそろそろ体力が限界に来たと思ったとしても、自分の子弟以外に事業を継続させようとはなかなか思えない。後継者が会社をつぶしたら創業者の自分にも被害が及ぶ場合が多いし、個人技で事業展開してきた部分も多いからだ。従って創業者自身が定年を感じると会社を畳むことを考え始める。中小企業の廃業率が高いのはこうした「定年廃業」があるのだとその研究者は述べている。

 このように後継者問題は日本の(多分世界全体の)問題であって、そのためには定年廃業ではない新しい事業継承の制度を考える必要があるのだが、どのように素晴らしい制度を作ったとしても、託す方、託される方が「何を」受け継ぐのかが不明瞭なまま組織体だけが続くとしたら、それこそ大企業と同じ問題が中小企業でも発生するだけで、「仏作って魂入れず」になってしまうだろう(「」内の慣用句の意味が分からない人は是非辞書を引いてほしい。言葉もまた継承するものだから)。

 さて、事業継承ではなく単に長年続いている、代々継承されていると言われてまず思い浮かぶ言葉は伝統だったり、伝統技能だとおもう。私はこの伝統技能の継承の仕方を言い表した言葉に継承のヒントがあると思っている。随分前にも書いたことがあるかもしれない。「師の手を見るな、師の手の先を見よ」という言葉である。能楽の世界の言葉なのだが、ようは師匠の技を見て真似て受け継ぐのではなく、師匠が手の先が目指しているところのもの(それが何かは師匠にも分からないのかもしれないのだが)を目指すのが、技を受け継ぐことであるということだ。この言葉はどのような技術や技能にもいえることだと思うが、特に後継者問題においては重要な意味合いを帯びてくる。今大企業がこぞって「経営理念」「ビジョン経営」「ミッション」「クレド」等という言葉を使うのも、実はこの「目指すところのもの」を明確化し、具体化し、文章化し、共有するためのものだ。大概コンパクトにまとめられていたり、箇条書きになっていたりして、社員全員が唱えることができるものになっている。某キャリア教育関係の大会で某有名家電メーカーの技術者に司会者が「全員が○○の教えを唱えられるそうですが、いかがですか?」と問われ、即座に全部をスラスラと唱えた。司会者は誉め称えて「皆さんよく覚えておられるのですね」。そう、ここが明確化・文章化の落とし穴である。覚えている経営理念等々は受験勉強のときに必死になって覚えた数学の公式や歴史の事件名と変わらない。覚えているけれど、何故そうなっているのかを知る必要は感じない。では体を動かす場合はどうだろう。近頃評判の朝礼や挨拶のコンテストなどがある。色々なバリエーションがあるけれども、その店なりの顧客への態度や従業員の仲間意識、その店舗の経営理念を根付かせるために行われている。腹の底から声を出す、全員の前でスピーチする、全員がそろうまで何度でも練習する…(正直全て私が苦手な「科目」が並んでいるので、評価が辛くなっていることを承知で以下を読んでほしい)。頭で覚えることとの違いは、体が勝手に動くようになることだ。元気よく顧客に挨拶することで、顧客も元気に…と覚えるのではなく、実際に毎朝元気に大声で挨拶していれば、顧客に対する挨拶も元気で大声になるだろう。でも「顧客を元気に」と「挨拶を元気にする」はどこでどう結びついているのかを考える人はいるのだろうか?と疑問にかられるときがある。

 ではどのように受け継ぐのか?正答はないと思う。否定的に述べた上記の方法もうまく働くときは非常にうまくいくのだ。ただ個人的な答えとしては継承よりも承継を考えることだと思っている。継はつなぐこと、つづけること。承はうなずくこと、うけたまわること。この感じの意味を単純につなげると、継承は「続けることをうけたまわること」、承継は「うけたまわってつづけること」になる。言葉遊びだと思わないでほしい。「承る」という言葉は上からの命令や言いつけを受け入れるという意味があるが、その前にその命令や言いつけなりを「聴く」という行為が含まれる。自分がその後を継ぎたいから、この場所を残したいから、この空気を雰囲気を守りたいから…今、何かの後継者となろうとしている人、特に血縁関係ではなくて後継者となろうとしている人は、それぞれに継ぎたいもの、残したいものを持っているだろう。意気に感じて、あるいはやむを得ない事情から血縁関係にない人に託そうという人も、それぞれに残してほしいもの、継いでもらいたいものがあるだろう。この両者が出会った時、どんな話が行われるか。それが後継の正否を握っているのではないかと思う。少数の人の関係だからこそ「継承」ではなく「承継」ができるはずなのに、マスコミで「後継者問題」として報道されているようなたぐいの情報がより具体的に語られるに終わっていないだろうか。何人の若者が出て行った、どこそこが耕作放棄地になっている、かつてこの辺り一帯に工場があって…。語る方も聞く方もどこかで聞いた話を話し、どこかで聞いた話を聞くだけになっていないだろうか。それは形式化した経営理念を聞くのと同じことになってしまう。承継で承らなくてはならないのは、これまでそこにいきてきた人や人たちがどのようにいきてきたのか、その生き様だ。何を思って始めたのか、どんな失敗をしたのか、誰に何に助けられたのか、どんな悔しいことがあったのか、悲しいことがあったのか、嬉しいことは何だったのか。事業の話に限らない。過程の出来事、地域の出来事、全てをひっくるめて、その人やその人の祖先がその地でその業で示してきた生き様のすべてを承らなくてはならない。何が中心かとか何がポイントがとか考える必要もない。もっとこうすれば…などと評価をしてもいけない。ただひたすら傾聴するだけ。それが「承る」だ。そうした上で、今度は継ぐ側が同じことをする。生まれてきてからその場に来るまで。なぜ継ぎたいかを語るのではなくて、自分のすべてを語ろうと試みる。今度は託す側がひたすら傾聴する番だ。どちらに取ってもなかなか言葉にできないことが沢山あるだろう。身振りや雰囲気、言葉と言葉の間、そういった言語以外のコミュニケーションによって伝わるものもあるだろう。だからこの方法は組織ではできない。個と個の間でしか(あるいは少数の人間の間でしか)成立しない方法だ。けれど「承継」では伝えられないものが伝わる可能性が増大する。伝えられないものとは言語化できないものだ。言語化できないけれども「あるもの」として託したいもの。それが託す側にはきっとある。自分自身ができなかったこと、自分でも気がついていないけれど目指していた方向、失敗として語られている成功。それを言語化するのはあまりにも難しい。どんなに言葉を費やしたとしても言葉の先から逃げて行ってしまう。けれどもそれが伝わらないと、なぜか肝心なものが伝わらないような気がして仕方がないのだ。

 師の手の先が示すところ。師はそれを言葉で示すことはできない。自分の手が示しているところは語れても、その先が示しているところは自分にも分からないからだ。師の手の先が示すところ。それは受け継ぐものにも分からない。けれど両者が稽古を重ねる中で、朧げに感得するものなのだという。事業の後継、とくに地に足をつけた事業の後継にもやはりこうした「朧げな何か」を共有することが大事なのではないだろうか。それを私は「承継」と名付けたい。そしてこの承継にたどり着いて始めて、託す側も託される側も何かが腑に落ちて安心して「後継」できるのではないだろうか。

『JOJOの奇妙な冒険』シリーズを知っている人は空条承太郎と東方丈助のそれぞれの能力へのスタンスの違いを思い出してもらえるとこの話がより分かりやすくなるかもしれない。一方は能力の出現やコントロールが分からず祖父の話を聞いてやっと分かる、一方はもって生まれたものとして疑問を抱かず日常的に利用している。両者の性格も対照的。承太郎に「承」という漢字が当てられているのはこの辺りを意識してではないかというのが勝手な憶測ー笑。