田舎は「贅沢」か?

実はこの原稿を書く前に、若い人の原稿への感想を求められて、ずいぶん厳しいことを書いてしまった。きっと今度はその子が厳しい目で読んでくれるだろうと、冷や汗半分、楽しみ半分で書き出している。

 さて、田舎暮らしがブームである。週末田舎暮らしから始まり、移住・定住ハンドブックまで種々雑多な文書やらネットサイトやらが百花繚乱である。そして異口同音に「都会にはない贅沢」な田舎暮らしを謳う。その贅沢の中身といえば「豊かな自然」「新鮮な空気と水」「ゆったりと流れる時間」「取れ立ての農作物」…。正直、やれやれと思う。なぜってこんな「贅沢」は所詮「消費者」の贅沢だからだ。田舎暮らしとは田舎で消費者になることなのかと皮肉の一つも言いたくなる。まぁそれはそれで、大人しく文句も言わず、お金を落としてくれるのであれば良いのだが、消費者意識が抜けきらないでいると、必ず文句が出てくる。曰く「何もない」「旧弊に囚われているのかどうか知らないが、いつまでたっても余所者扱い」「思ったような作物ができない」…。

 いきなり18世紀のイギリスの話に飛ぶが、ヒュームという面白い人がいる。人間は感覚器官から受け取った情報しか知らない生物だと定義して、自我同一性を否定してしまった人であり、無神論者(当時としては非人間)である。ヒュームが定義した人間は自分で自分が何者かをはっきりさせることができない。そこでお金や便利なものに慣れた人間は贅沢に活路を求める。「自分とは…」とか「自分らしさ」を考え続けていくと、何が何だかわからなくなるから、結局、自分の持っているモノで自分を表現しようとするわけだ。ところがその贅沢はトンデモナイものになる。今風にアレンジすればスマートフォンケースをブランドの特注品にしてダイヤモンドをあしらわせる…みたいな贅沢。ようは贅沢のための贅沢。そのモノがどんなに重要で高価であるかにしか、自分の存在意義や価値を見出せなくなってしまうわけだ。じゃぁ、ヒュームが贅沢は禁止!!とか贅沢は悪!と叫んだかというとトンデモナイ。ほどほどの贅沢は健康(社会の)に非常によろしいという(ま、お酒みたいなもの)。このヒュームの説のように、今言われている「田舎暮らしの贅沢」というのは、都会の人間が究極に描く虚像の贅沢だということではないだろうか。

 本当に自分が欲しいもの、必要なものは何?と言われても、さっぱり見当がつかない。でも何かが足りないような、何かが欠けているような気がして仕方がない。だから「都会にないもの」を「田舎」に求める。その代表語が「自然」というわけだ。

 私自身は田舎暮らしをしているわけではない。年に何度か里山に行って農業の真似事をするぐらいのものだ。それで田舎の贅沢を語るのは面映ゆいのだが、都会と田舎の間で中途半端に生きている人間として、都会の人間から「田舎暮らしの贅沢って何ですか」と聞かれたら、「不便さ」ですと答えるだろう。一時間に1本しかバスがなく最終は20時だとか(これは私が住んでいるところ。市内中心部から歩いて50分程度)、いやいや日に4本で…という公共交通機関のなさ=逆にだから歩いたり、自転車で移動して、「ゆっくり過ごせる贅沢」があると言いたいわけではない。ネット環境が整っていないので、年がら年中ネットに縛り付けられることから自由になることができる「贅沢」を言いたいわけではない(徳島の神山なんてIT企業が移転してくるほどネット環境が整っているが、田舎の範疇で人口減による消滅可能性大のところだ)。そういう不便さは、都会と田舎で生活が急激に変化した結果生じたもので、田舎本来が持っているものではないと思う。

 「贅沢な不便さ」が端的に現れるのは時間だ。特に農業をやっている田舎ではこれほど不便なものはない。都会の企業で働く人から見れば、自分で働く時間を決めることができるように見える。タイムレコーダーも勤務表もない。しかも旅行なんかで田舎に行くと、昼間はみんな休んでいるし、夕方も早いし、仕事のペースはのんびりしている(ように見える)。満員電車での通勤、相次ぐ残業、休憩もろくにとれない…嗚呼都会はなんてブラックなんだ!と感じる。だが、実はこれは究極のブラックラスボスである自然が、人間に強制しているものだ。夏、体温以上に外気温が上昇する都会に比べるとぐっと涼しいが、最高気温が30度近くになる屋外で日中作業する命知らずは、土・日しか作業できない「通い」の人間だけだ。暮らしている人たちは賢いから日の出前からせいぜい9時頃には朝の仕事を終えてしまう。(でお昼頃「通い」の人間のところへ労いに来てくれる)。そして夕暮れ7時前に夕刻の仕事を始める。朝と夕刻とでは仕事の内容も異なる。このスケジュールは田舎で農業をしている人間が「自分で決め」たものではない。太陽と気候に強制されたものだ。(だから世界中探せば昼間だけに仕事をするところもあると思う)。仕事のペースがのんびりしているのは、のんびりゆっくり、けれど一定のペースを保って仕事をしないと、体が持たないからだ。この「のんびり・ゆっくり・一定」に体を慣らすのは結構しんどい。朝の4時間、夕刻の3時間から4時間、毎日マラソンをしているようなものだ。

 では毎日毎年このゆっくリズムで仕事ができるかというと農繁期(田植えや稲刈り)は朝から晩まで、台風が来ようものなら一日中が仕事だし、逆に雨が続けば仕事がやりたくてもやれない。長雨で倒伏し、刈り取りもできず…結局未成熟のまま収穫して堆肥や藁灰にしなくてはならない。たった5~6日の出来事が一年の仕事の全てを台無しにする場合もある。逆に農閑期には農作業ができないから、道具の手入れだとか、手間仕事だとかをして不意の出費や不作の備えを蓄えながら、次の春を待つ。

 こんな不便で、しんどくて、実りの少ない仕事だから、農家は自分の子供を都会に出してきたわけだ。

 だが私はこの時間の不便さこそ「田舎の贅沢」だと言いたい(というと、実際に田舎で生活を営んでいる人からは絶対に文句を言われると思うが)。なぜ「贅沢」か。それは今まで負の側面として切り捨てられてきた「待つ」「耐える」「あるもので何とかやりくりする」が、自然と身につくからだ。便利さと効率性を追求してきた近代というシステムの中で、時間はまさに「タイムイズマネー」で効率的に無駄なく使わなくてはならず(新幹線の運行計画なんて秒単位で動いている)、不便に耐えるよりは便利なものを買って楽をするのがいいことであり、あるものでやりくりするのではなく、ないものは買ってどんどん豊かに消費していくのが当然だった。だから私たちはそれに慣れきっている。そしていつの間にか「待つ・耐える・あるもので自分でなんとかやりくりする」ことから、自分で悦びを生み出す術を失ってしまった。それこそ新幹線のダイヤグラムではないが、1分でも1秒でも「暇」な時間があってはならないと、スマホの画面を眺めて空き時間を殺している。何かにチャレンジするのは好きだけれど、成果が出るまで耐えるのではなくて、その場その場の成功を求めてしまう。何が足りないのかを考えることなく突っ走り、その場になってないものを買い足しに走る(学園祭でよく見かける風景)。

 田舎ではこういう無駄はゆるされない。雨が降って農作業ができないとき、それは道具の手入れに使われる。収穫が終わった後は土壌の手入れに藁をなう。民芸品のためではない。藁草履も筵も実用品だった。今この藁をなう技術が消滅寸前なのだが、藁はロープになり、敷物や雨具・靴になり…と万能である。そして藁を使いこなす技術(もやい結びと同じくロープに負担をかけず、キチンと留めて解くのも簡単)。雨であっても「暇」ではない。そしてそこで身につける技術は農作業だけでなく、色々な場所で役に立つ(ナイロンロープも藁と同じようにねじって縄れているから、基本は一緒なのだ)。促成栽培できる作物は土壌の養分を奪うことを知っているから、土壌を作る時間を耐えなくてはならない。でもそれは先の楽しみを待つことでもある。何かをするときは、先々の算段を考えておくけれど、お天道様はままならないから、突然の事態には手持ちの材料でなんとかする方法を考えなくてはならない。

 農業で説明してしまったけれど、田舎の日々というのはこうした算段と工夫で出来上がっているのだと思う。そしてこれほどある人の能力を鍛錬し、特徴付け、自分の役割を形成できる「贅沢」な環境はないのではないかと思う。不便だからこそ、自分であるいは他の人と一緒になって「なんとかしなきゃ」ならない。その環境はそのまま自分でも知らなかった自分の能力を、そして気がつかなかった他人の能力を見いだすことができる「贅沢」な環境だと思う。もちろん、今の田舎の生活はかつてとは違う。先に行ったように藁をなう技術も消滅寸前だし、最先端技術を展開することも可能だ。遊子の段畑という山の下から上まで15センチ幅の段々畑がある。ここの猪除けの電柵は太陽光パネルの電力を使用している。でも石垣の隙間がコーラ瓶で埋められていたり、漁猟用ロープが土押さえになっていたりする。

 田舎の贅沢とは、人の能力をどこまでも引っ張り出すことができるという「贅沢」なのだと私は思っている。