里山にて

  職業:大学教員。所属:経済学部。専門:経済思想史、主として19世紀イギリスのJ.S.ミルを対象とする。これが私の公式のプロフィール。大学教員だから、当然のごとく講義やゼミで学生を教える側にいる。そして、私のゼミは自称「経済学部農学科」である。なぜかって?2年前から松山市の郊外で米を作っているからだ。ちなみに作った米のほとんどは販売している。パッケージデザイン、価格の設定、販路の開拓はすべて学生が自分たちで行っている。教員はアドバイスはするが、介入はしない。「こうした活動を通じて、市場経済の仕組みを単なる机上の理論だけではなく実感として知るとともに、自ら動く力、課題を生み出し解決する力を養う」というのが、このゼミ活動の目的である…。
 というのは、全くの建前。

 本当の理由は単純明快。私自身が現地の里山里地に惚れ込んでしまったから。

 それゆえ、1年目の学生はある日突然「あ、里山でお米作ることになったから」と言い渡され「え~~っ」。その後「うん、そのかわりできたお米は自分たちで売っていいって。頑張ったら売り上げはあんたらのもんやから」とフォローにもならぬフォローが入り、再度「えぇえ~~!?」という具合。

 という訳で、1年目の去年は教員も学生も全くの手探り状態。教員学生とも米作りには全くの素人。里山に広がる棚田3畝(1畝は30坪)の先生は若きは70歳前から最長老は80云歳になんなんとする指導農家の方々。ひたすら教えを請う日々が始まる。
 まずは田植え。「3畝じゃけんの~。6人で一杯じゃ」。ちょうど間がいいというか悪いというか、お隣の田を借りていた市民の方がぎっくり腰。同じ棚田を耕すのも何かの縁とばかりに、隣の田も同時に田植え。しかしなぜ6人で一杯???謎が解けたのは、指導農家さんが田定規を持ち出した時。一本の竹の両端に長い棒と短い棒がくみ合わさったものがついている。竹には一定間隔でひもが小さく丸くついている。「ええか、この棒の端を畦の端に合わしてみぃ。ほれ、まっすぐせんかい」「ほうじゃ、ほしたら、ひものとこを目当てに苗をこう持って植えて…ほれ、そんなにたくさんうえたらあかんじゃろが…3本ほどでええんじゃ」「よっしゃ、一列終わったら、縦横の棒を植えたとこに当てて、ほれ、次の列が分かるじゃろ」。名前の通り「田」植えの「定規」。これで一件落着…とはいかないのが素人の哀しさ。棚田は曲がりくねってる。一列に植えながら下がっていくと、田定規が余ってしまう。さて…「先生。これ縦棒を直前の列じゃなくて、その前の列に当てて、横にずらしたら、次の列出来ますよ」と学生が発見。「あ、ほんま。あんた、頭ええやん」「単位は落としましたけどね…」。

 こんな調子で、新しい物事に出会いながら、夏の草刈り(太いナイロンひもを取り付けた草刈り機で草をたたくように刈っていく。ストレス解消にもなる私が一番得意とする作業)、田の中の草取り(稲と野生のヒエの見分けが難しい。田の中での作業なので、手足だけでなく顔を葉で切ってしまうことも)…。
 稲木干し用に里山から竹を切り出すこと。竹は細い部分は箒、雀よけの糸を張るため等々、余すところなく使えるので、里山には必ず竹があること。昔、換金作物として作っていた肉桂が今は野生化してしまっていること。愛媛で絶滅危惧種となっている蛙やトンボが復田とともに、里地に戻ってきていること。同時に猪や猿もやってくること(かつては里地に人が多かったのでよってこなかったのだという)。里山里地では教わることが多い。

 それは農作業にとどまらない。例えば農家の収入。単純に現金収入は昔から低いと思い込んでいた。ところが最長老曰く「わしが若かった頃は、里山で仕事して月に1万5千円、田んぼで仕事して月に1万5千円ぐらいは楽に稼いどったわ」。聞けば昭和20年代後半から30年代始めの頃。その頃4年制大学卒業の初任給は1万2千円程度。なんと、かつては大卒の倍の収入だった訳だ。(今農家の平均年収は200万円以下といわれている。昭和2,30年代の4大卒はエリートだったから、現在であれば年収600万は軽く超える層だろう)。

 指導農家さんたちは厳しく暖かい。学生を叱咤激励しつつ、うまくおだてほめて働かせる。そしてちょうど疲れた頃に「ほれ、スイカじゃ。裏の畑で作ったやつ。スーパーのよりまずいとはいわせん」と差し入れがくる。見事な人心掌握術。

 けれどもここには、見えないけれど、もっと大きな先生がいる。里山里地そのものだ。

 田植えをしている時、草刈りの時…。里山里地を訪れると自分の五官・五感がどんどん変わっていくのを感じる。足の裏、手の先のちょっとした変化をすぐに感じ取れ、そのかすかな感覚をたよりに自分の体の動きを調整するようになる。
 なにより裸足でたっていると、足の裏からすうすう「風」が入って、頭の上の方からすうすう抜けてゆく。手が入っていなかった竹林から竹を切り出した後、ふと肩に手をおかれた気がして振り返ると、風が吹き抜けてゆく。お疲れさん。そういわれたような気になる。雑草を刈っていると「刈られ往く 我が身にも名は あるものを」とつぶやきが漏れる。ふと手元を見ると、つい最前まで小さな可愛らしい花と思っていた草を、私の手が刈っている。多くの命を犠牲にして一粒の米が出来ていく。

 それだけにさやさやと揺れる穂並みは涙が出るほど美しい。多くの命を吸い上げているから。そしてそれを食べるのが私たち人間なのだ。

 里山里地は言の葉も鍛えてくれている。私は元々論理的に文章を組み立てる方ではない。どちらかというと感覚的というか、情感的に文章を書いてしまう方だ。だから専門論文であっても、何かを感じ、その感覚や思いのもとを突き止めるために文章を書く。その時、いつも突き止めたい何かを具体的なものやイメージに変換しながら、自問自答する癖がある。「う~ん。結局このところの論理と帰納は往還運動て進んでいく訳だから、尺取虫的なんだけど、もうちょっとこう…武張っているというっか」とか「ここでの社会のイメージって、おぼろ豆腐みたいにふわふわしてるけど、塊魂はしっかりしているって感じ」。

 こうした具体的なイメージがなぜ浮かんだのか、どこから浮かんだのか、そのイメージから何が言えるのか、そのイメージから何がどうつながっていくのか。その時々に思いついた文章を一気にかけるところまで、書いてしまう。そして大概3000字程度で原因も分からないまま止まってしまう。その時は、しばしば止まったままにしてしまうことが多い。そしてまた具体的なイメージに戻ってやり直す。こんな感じで先の見えないまま論文を書きだすものだから、ことごとく無駄な文章が乱立してはデスクトップのゴミ箱に突っ込まれ…ずに、別ファイルにしまい込まれる(もったいない精神ー苦笑)。

 里山里地はこうした癖のある私にたくさんの言葉やイメージをもたらしくれる。竹の音、風の色。言葉だけでしかなかったものが、私の手足を通じて入ってくる。山は本当に笑い、水音は千差万別。風は青くも赤くも変化する。草の香はむせ返るほど高いときもあれば、枯れかけて寂しく地をはうときもある。知らず知らずに私はそれを教えられている。里山にいるときに論文のことを考えている暇はない。論文を書いているときに里山のことを思い出すことはない。けれど同じ私の中で、両者はどこかで確かにつながっている。名も無い草が繁茂する風景、人間がいてこそ維持される自然と、荒れ果てた自然の寒々とした荒涼さ。

 人間ってどんなものなんだろう、他人が考えてることや感じていることなど所詮分かるはずも無いのに、なぜ人と人はつながれるのだろう。机上で考えていては堂々巡りする論議を里山の自然は目の前で断ち切ってくれる。豁然として。堂々として。根源にあるのは「生き続ける」ことなのだと。

 私だけではない。一緒に行っている若い学生たちもそれぞれに里山の教えを持ち帰っているようだ。単純に作業でほめられたことをしっかりと抱きしめる子もいる(あの子はずっと自分は何をやってもだめだといわれてきたといっていた)。販路開拓で交渉のこつを教えてもらった学生もいれば、試食販売で大声を出したおかげで面接が怖くなくなったという子もいる。就職活動の暇を縫って手伝いにくる学生もいる。里山に戻ると彼らの顔から角が取れる。それを「癒し」という今風の言葉にしてしまいたくはない。彼らは里山に教えてもらいに帰ってきているのだと思いたい。「生き続ける」ことの原点を。

何のための経済活動か?

松井 名津

 今回編集からいただいたお題は「ミルと経済成長」。実はあまりにど真ん中の直球なので、バッターとしては酷く戸惑うところがある。というのも、マルクス経済学の影響が強い日本では、ミルはずっと「生気なき折衷派」の一言で片付けられてきたのだが、70年代に一度脚光を浴びた事がある。ローマクラブが『成長の限界』の中で「資本と人口の定常状態は人類の進歩の定常状態を意味するものではない」という言葉をひいて、(経済)成長至上主義に警鐘を鳴らしたからである。これまでも何度か書いたことだが、オイルショックを受けて化石燃料、ようは自然資源の限界を世界中が痛感していた時代だった。この時は日本中が文字通り暗かった(夜間照明を必要最低限に抑えた)し、省エネルックが提唱され(非常にダサくて消えてしまった)、定時帰宅が推進された。経済成長は何のために?という議論以前に、経済成長はもはやあり得ないという風潮が蔓延した時代でもあった。その中でミルの定常状態論は、低成長もしくは0成長の中でこそ、人間的発展が可能となるという説として、あるいは経済成長ではない成長(ローマクラブの研究者はそれを「発展」と名付けたが)がありうる一つの論拠として、脚光を浴びたのである。しかし、政治的背景を持つエネルギー危機がひとまず緩和され、技術進歩により多くの油田が開発されるとともに、成長の限界は遠のき、やがてバブル経済を迎えることになった。

 そして21世期を迎え、またミルの定常論を紐解くとすれば、そこから何を読み取るべきなのだろうか。定常状態はミルだけが唱えたものではない。当時の経済学では経済が成長するに従って増大する人口を支える食料の生産には限界があると考えた。食糧生産の限界に達したとき、経済成長も止まる。それ以上の経済成長を遂げるための人口を支える食料がなくなるからである。そして19世紀半ばの経済学者の多くが、この限界が目の前に迫っていると考えた。それゆえ多くの経済学者はこの限界をどうやって先に伸ばすかに注力した。リカードは自由貿易によって海外の未開拓地に食料を求め、マルサスは農業発展の限度内に工業の発展を収めることを主張した。どちらも経済発展の延命を図る点では一致していた。

 ミル自身もすべての定常状態を歓迎していたわけではない。ミルが危惧していたのはすべての土地が人間の食糧のために耕され、人間の役に立つと認められた動物、家畜しか存在が許されない、そんな定常状態である。大阪万博に代表される「明るい未来都市」もミルが危惧した定常状態の都市だ。人間の居住空間、人間の移動手段、人間の憩いとしての緑地は揃っていても、手付かずの自然、野生の自然は何一つ残っていない。人口過密として描かれるディストピアも同様だ。人口過密と格差に喘ぐーもしくは徹底的に管理されているディストピアは、全てが人間の管理下にあるという点で、定常状態の行く末を暗示しているのかもしれない。反対に何らかの戦争や災害によって地球が荒廃したという前提のディストピアは、人間の制御外にある「自然」が残存しているという点では、ミルが危惧した定常状態とはかけ離れた存在である。

 こうした定常状態は経済学の法則上必然的に訪れるものとして設定されている。そしてこうした定常状態に入る前に、経済が発展した地域は自ら選択して「別の定常状態」に入ることをミルは推奨した。それは未開発の自然を残す定常状態である。未開発の自然でミルがおそらくイメージしていたものはおそらくはフランスからスイスにかけての山岳地帯だろう。ここで青年ミルは生涯の趣味である植物採取に出会うことになる(イングランドは一度人間によってすべての森林が伐採されてしまったので、手付かずの自然は存在しない)。人を寄せ付けない峨々たる山岳の連なり。それは経済にとってはものの役に立たないどころか、経済活動を妨げる要素でしかない(だからこそ戦後日本ではトンネル工事が一大事業となり、トンネル工事やダム工事は崇高な使命を担った闘士による戦いとして描かれるー『黒部の太陽』)。しかしこうした人を寄せ付けない山岳、手付かずの自然が残っていることこそが、人間性の進展にとって必要不可欠な要素だとミルは考えた。それは定常状態論(『経済学原理』所収)だけではなく、晩年彼が立案に関わった「土地保有改革連盟」の綱領においても同様である。特にこの綱領では、未開発地やコモンズ(共有地)が人類共通の相続財産(inheritage=後に残し続けるもの)とされている。

 ではなぜこうした未開発の場所が必要なのだろう。経済発展をあるいは農業の拡大を止めてまで、未耕作地を残さなければならないのはなぜなのか。それは自然のためではない。動植物のためでもない。人間のためである。広漠で未知な存在に満ちている場所、人間に自分の存在の小ささを思い知らせるための場所、それが未開発の場所の役割である。こうした場所で孤独に自己と対峙することが、人間にとっては必要不可欠なのだとミルはいう。なぜだろうか。ミルは孤独になることで、人間は自己を振り返り、内省することができるとする。それは日常世界では経験できない内省である。日常では人は経験を蓄える。経験の中から気づきを得ることができる。しかし、日常生活に埋没してては、思索は深めることなく、浅薄に流される易くなる。特にその日常が「お互いに肘を張り、互いを押し除け、追いやろうとする」ものであれば尚更、ゆっくりと自己を見直す時間も機会もごくわずかだろう。そしてそのまま経済発展の道を進み、世界は人類の食糧のために完全に開発され、人間は孤独になることはなく、未知と出会うこともない。

 そんな世界に人間が人間として成長できる基盤が残っているだろうか。

 ミルは単純に経済発展を否定したわけではない。人間がある種の競争心を持つ限り、その競争心は何らかの形で発揮される。時にそれは獲物を争うことであったり、領地を争うことであったりする。もっとも暴力的な形で現れた場合、戦闘という形を取る。これに対して経済や貿易は人間の競争心をより穏やかな方向へと向かわせた。これがスミス以来の経済学の基本的な考え方だった。しかしミルは経済的競争が必ずしも人間性を穏やかにするものではないこと、また直接的暴力として現れないが故に、かえって歪みをもたらすことに気がついた。スミスが危惧したように工場労働者は単純作業に専念させられることによって、判断力や気力を奪われ、ただ労働する機械となる。一方で豊かな地位を得たものは、豊かであることを当然とし、たまさか「慈善」として貧困者を保護する。庇護と被庇護の関係は容易に権力関係に移行し、庇護者の自己の拡大、権力の濫用、被庇護者のへつらい、相互の妬みや嫉みを生み出す(ミル自身が『女性の隷従』で描いたように)。

 経済発展を諦め、自ら選択して定常状態に入ったとしても、こうした問題が一挙に解決されるわけではない。しかし生産量を増大するために導入された機械は、その本来の目的である人間の労力削減に使用され、一般の人々(労働者も含め)が始めて余暇を手にする。余暇を何に使うか。あるものは狐狩りに使うだろう、またあるものは熊いじめに興じるかもしれない(熊いじめとドックレースは当時の労働者に人気の娯楽だった)。そんな中で、ミルが期待したのは当時の上層労働者が始めた有料図書館(パブの2階にあることが多かった)であり、自営農家が日々行っている日常生活を彩る様々な手仕事・庭仕事だった。あるいは女性の嗜みとされていた音楽や絵画である。本に親しむことは多様なものの見方を知り、思索を深めることにつながる。手仕事や庭仕事、音楽や絵画は、理性と闘争心に偏った「男性的価値観」とは異なる価値観を感性を通じて経験することにつながる。

 人間性の陶冶といっても、あまり大きなことをミルは初手からは望んでいないと私は考える。人間が一晩で生まれ変わることなぞないということを繰り返し主張しているからだ。制度が、社会が変わったからといって、人間性もまた即座に変わると期待するのは危なっかしいと考えている。もし即座に変わると考えているのだとしたら、それは理性だけの議論で人が自分の意見を変えることができると信じているからだろう。けれど、ミル自身が論じたように理性による議論の背後には人間の感情がある。感情によって裏付けられた議論に対して理性で反論しても、相手が自分の主張を変えることはほとんどあり得ない。感性あるいは感情に理性で綱をつけることはできても、理性で感情を引っ張ることはできない。逆に感情や感性が磨かれれば、理性も血肉を纏うことができる。だからこそ、日常生活の少しの変化が必要だし、そうした変化を促すための「自然を前にした孤独」が必要となる。

 日常とは違う、余暇とも違う、空白の時間。

 何を考えるわけでもなく、ただ自然と対峙する時間。

 そう解釈するのは日本に生まれたせいかもしれない。日本では自然は人間に対して結構優しい。だから安心して自然と対峙してられる。けれど自分の命をかけなくてはならないような厳しい自然と対峙したとしても、やはり人の心は同じように反応するのではなないかと私は思っている。なぜならミルが自然と対峙する時に、人間に求めたものは己の小ささを自覚することなのだから。

「伝統」は守るべきものか

松井 名津

 今回のお題はミルと伝統である。正直この二つは相容れないのと相場がきまっている。大阪のうどんと東京のうどんのようなものだ(うん?ちょっと例えが変かも?)。まぁどちらかに肩入れすると、どちらかを貶さざるを得ないという感じに受け取って欲しい。その筆頭格がハイエクである(以前も紹介したことがある気がするが)。ハイエクは人間の理性による社会設計を嫌悪し、むしろ慣習や伝統を自生的な、自然に出来上がってきたルールとして重んじる。そんなハイエクにとって同じ個人主義であり、個人の自由を尊重しながらも功利主義者として、理性に基づいた新たなルールを求めるミルは獅子身中の虫といったところなのである。

 確かに功利主義、ことにベンサムは合理と論理によって法体系を作り直すことを目的として、功利主義を組み立てた面が強い。何しろ今でもそうだがイギリスの法体系は「体系」をなしていないばかりか(実のところ成文憲法もない)法令や判例の寄せ集めに過ぎず、原告と被告が互いに矛盾する判例の優先を言い立てる場になっていた。それゆえ判例に精通しない庶民は法律の場に出されると決まって不利益を被ることになっていたのである。したがってベンサムは過去の判例や法令等に囚われない、真っ新な法体系とそれにふさわしい言葉を作ろうとした。そして法体系の基準に「最大多数の最大幸福」という功利原理を置いた。ハイエク的に言わせれば、人間の理性に基づいて人間の生活や行動を制限しようという「理性の思い上がり」の典型例ということになろう。

 とはいえこのベンサムの欠点ー正確にいえば偏向に関して、内部から批判を展開したのがミルでもある。その批判を一言でまとめて仕舞えば、ベンサムは法律を合理化することに専念しすぎたあまり、法律を内側から支える道徳や道徳心といった感情を無視してしまったということである。さらに法律の枠外にある日常的な振る舞いに関するルール(イギリスでは伝統的に道徳理論は人間の行動原理に基づくものである)を説明することができない点にあった。現代でも良く功利主義批判に使われるのが「危機的状況で誰を優先的に助けるのが功利主義から見て最も好ましいのか」という問いかけである。一般的にはタイタニック号のように「女・子供」優先である。が、もしノーベル賞級の学者が乗っていたら?とか、世界的な音楽家が乗っていたら?のように、現在才能がある人物を助けるべきだという議論が功利主義では成立するのではないか、それは人間の自然の感情と相反するという批判である。

 実はミルと伝統というテーマは、この場面で非常に面白い展開を見せる。ミルは「道徳や全ての行為に関して、全ての人は…自らの手によってではなく、伝統的警句といった形でそれまで蓄積された知恵によって、自らを導いているのである」という。ミルは一人一人が自分の行動の全てを予見することはできないということに同意する。上の例でいえば、誰がどのような才能を持っているのかということを予見することはできないし、現在の才能を優先して未来のありうべき才能をとるべきか悩むこともできない。なぜなら人間は未来の全てを予見することができないからだ。それは何も危機的状況だけではない。常日頃の日常的な行動であっても、人間は昔からの知恵に従って生きている。今では少なくなったかもしれないが、かつては天気予報ではなく夕焼け空によって明日の天気を占うのが普通だった(それにその頃の天気予報よりは、夕焼け予報の方がより確実だった)。西風が吹く時、南風が吹く時、残雪が馬の形を取る時…農事暦に残ることわざは先人が積み重ねてきた知恵であり、農業科学の情報よりも確かなものであったりする。こうした先人の知恵が行動として守られてきたものを「伝統」と呼ぶのであれば、ミルは伝統に対して敬意を払っていたといって良いし、こうした伝統がなければ、人々は将来に向けて実践的行動を積み重ねることができないと考えていたといっていい。

 ではなぜミル=反伝統という考え方が根付いたのだろうか。それはミルの時代にこうした伝統と人間の直観あるいは人間性(人間の中の自然 human nature)を無根拠に結びつけ、絶対視し、普遍的なもの不変のものと考える人たちが多かったからである。そしてこの議論は伝統によって人を拘束し、活動を妨げる方向へと進んでいく。「女性の隷従」でも繰り返し取り上げられているように、女性は「生まれつき」「自然に」感情的で、ひ弱く、飾りのついた可愛いものが好きで、論理的思考に耐えられないものだとされてしまうからである。

 例え伝統的とされているルールや習慣であっても、社会が、時代が変われば見直しが必要になる。そういう意味では道徳的伝統は常に議論に対して「開かれている」べきものなのである。

 では、いわゆる文化的伝統はどうなのだろう?時代とともに消えゆく身体技能、舞踏や信仰に伴う儀礼、しきたり…。残念ながらミルはこれらについて直接的に言及していない。またおそらく19世紀の西洋人として西洋至上主義的な見地を持っていただろうと思う。インドのダウリーとか、夫が死ぬと妻も殺される習慣などには強く批判しただろう。が、各地の固有の文化に対してそれを拘束的と見るか、自由の表現と見るかは、見る立場によって相当異なってしまう。ユダくんが原稿に書いていたように「安全の見地から顔を隠すヴェールが禁止された」と思ったら、同じく「安全の見地から顔を隠すようなマスクの着用が義務付けられる」ようなことが起こる時代に私たちは住んでいる。全ての相対的とみなすこと、全ての文化に価値があるとみなすことは簡単で容易だが、その一方で女子の陰唇切除のように命に関わる伝統習俗を継続させても良いのかという問題は残ってしまう。

 おそらく手がかりは「議論に対して開かれているか、どうか」にあると私は思う。伝統の保持や保存を言い立てる人の中には、伝統を維持する担い手に条件をつける人たちもいる(横綱は日本人でなくては)、伝統的価値がわかるのはその地に生まれた人だけだという人もいる(所詮外国人には日本の情緒はわからないと得意顔に)。けれど、実際には外にいるからこそ、その伝統の価値を高く認め、自らの生きる道にする人たちがいる。能楽の世界にも、歌舞伎の世界にも、日本国籍を持たない人たちが集まってくる。私と同じ謡の先生について習っている女性は、オーストラリア出身だ。だからいつも謡の章句には苦労している。でも好きだから数十年、習い続けている。彼女は謡の章句を易しい日本語にして欲しいとは微塵も思っていない(日本の教育では易しい日本語にしてしまうのだが)。能楽、歌舞伎、文楽、落語といった伝統芸能でも新作が取り入れられたりする(割と失敗するが)、昔に廃れた曲が復曲されたりもする。日本語が日本人のものだというのであれば、リービ英雄さんの日本語はどうなるのだろう(『我的日本語』は是非読んで欲しい)。

 音楽の世界では古い形式を外の国の人間が保持して、現地の人に大好評を得るということがよくある。例えば日本の東京スカパラダイスオーケストラは、本場ジャマイカで「こんなスカに忠実な古式ゆかしいスカバンドがいたんだ!!」と驚かれ、デキシーランドジャスではニューオリンズラスカルズが「こんなデキシーをやるのは俺とこと君ところだけだ」大御所ジョー・ルイスに認められている。日本でも本物の演歌歌手として人気を博していたジェロがいる。韓国のパンソリを、インドのシタールを受け継ぎ演奏する日本出身の音楽人がいる。現地ではどうしても時代の流れに押され、マイナーになってしまったり、それだけでは人気が出ないからと新しい分野と混在して行かざるを得ない文化的伝統であっても、外から見れば守るべき価値があるし、外だからこそ守っていける場合もある。

 伝統だからと細々と守り続けるイメージがあるが、実は外に向かって開かれているのが伝統なのかもしれない。何世代にもわたって受け継がれてきたからこそ、そこには時代を超える何かが存在しているのだろう。確かに権力者の恩寵のおかげもあるかもしれない。けれどそれでは説明できない何かがあるからこそ、風俗が変わっても残そうとする人がいるし、みたいという人、存続を望む人がいる。世代を超えて生き残る力があるのだとしたら、その伝統は国境という人がこの100年かそこら勝手に作った線引きを軽々と超える力があるのではないだろうか?  伝統は守り継がれるべきだ。ただし生きた伝統として、常に新しい血と新しい息吹に開かれることによって。ミルならそう言いそうな気がする(ちょっとひいきの引き倒しだが)。担い手が異なっても構わない、やり方が変わって行っても構わない。いやむしろそういう変化が伝統の中にある「守るべき中核」が何かを問い続ける原動力になるのではないか。そういう問いを受け付けず単に伝統だからとあぐらをかいて、偉そうな顔をしているのに限って、底の知れた浅薄な伝統だったりするのではないかと勘ぐっている。

道標として

松井 名津

 コロナ以来(AC)多くの人がなんとなく感じている。何かが進行中だと。学校で習う歴史は「後から見た」ものだから、変化の中にいた人はここが潮目だと思っていたに違いないと考えてしまう。けれど本当は今日に続く明日があって、でもその中にマダラに昨日と違う明日が確実に忍び込んでいるものなのだろう。そして当事者にとっても、ある日突然のように急速な変化が訪れる。不可逆的なものとして、誰の目にも見えるように。

 それまではなんとなく揺れ動いている。常識だと思っていることが、崩れるかもしれない…崩れないかもしれない。この生活が変わるかもしれない…変わらないかもしれない。崩れない方が、変わらないほうが楽だと思う人は多い。人間は過去から未来を推測するしかないから、できるだけ過去の経験が通用する方が、好ましいと思うものだ。しかし何かが進行中だという感覚が、多くの人に共有されてくると、人々は時に、自分は何を拠り所として生きるのかという問いを突きつけられる。問いに目を瞑ることもできるし、問われなかったふりをして生きていくこともできる。ただ、そこに問いがあることだけは確かだ。

 何を拠り所とするか。昔は簡単だったと詠嘆するものがいる。右肩上がりの経済成長の中で「明日はきっと今日よりも良くなる」が共通した拠り所だった。昭和の価値観が輝いて見えるのはきっとこの価値観をみんなが共有している心地よさがあるからなのだろう。過去を賛美するのが年長者であるとは限らない。意外に若者ほど「輝いていた過去」に弱かったりする。なぜなら今、未来とか将来に明るさー見通しの良さが感じられないからだ。過去を美化するの容易い。知らない世代から見れば、美化された過去が本当に存在していたと思えるから、光り輝いて見えるのも、過去が拠り所になる一因だろう。

 昭和が輝いて見える、明治維新が輝いて見える。それはこの日本特有の現象かもしれない。けれど世界的に見ても「先進国」にとって20世期は輝ける時代だったし、そうした過去への回顧が一定の訴求力を持つのは確かだろう(〜again!)。では先進国に全体にとって20世期に共通した拠り所が何だったのかといえば、おそらくそれは「科学」や人間の「理性」だったのだろうと思う。科学によって自然のもたらすあらゆる「害」(災害・病・不確実性)を乗り越えることができる。理性によって全ての問題を解決することができる(たとえ合理化が首切りの別称であったとしても)。この信仰(確かに理性や科学への信頼は「信仰」という言葉がふさわしい。実際、フランス革命の時に「理性」を崇拝する祭が行われたこともある)が揺さぶられ始めたのは、オイルショックであり、スリーマイル事故だったし、決定打はチェルノブイリや日本での大震災だっただろう。そしてこの時期に新興宗教が各地で勃興したのも、科学に対する反動だったのかもしれない。

 ところで、科学万能の時代といえばその始まりはミルが生きていた19世期半ばである。この時代はまだ科学は万能とはいえないが、科学的思考により世の中の全てを解き明かすことができるという期待を込めた熱意があった。ミル自身も科学的思考を推し進めてきた人物である。社会に関しても科学的分析と総合を目指して、新しい方法論を開発しようとしていた。それゆえ当時の人は彼のことを「理性の人」と呼んだわけである。そのミルが晩年宗教に関する論文を執筆し発表したのである。当然周囲の人は科学の立場に立って宗教を否定するものを期待した。しかしミルの発表した原稿はむしろ宗教を擁護する立場に立っていたのだから、周囲は愕然としたし、失望もした。なぜ「理性の人」ミルはあえて宗教を擁護したのだろうか。

 まず誤解されるといけないので、最初に言っておくが、ミルの宗教論は宗教家としてあるいは哲学者として宗教を考えるものではない。あくまでも「科学」の立場から宗教を論じる。さらにミルは現在が「宗教あるいは信じることが弱い時代」だから宗教を論じる時だと考えている。一つにはある宗教に対して熱狂的な感情(信仰)がないからこそ、宗教を冷静に論じることができるという点がある。しかしその一方、信仰を疑いながらも信じようとする人、神の存在を疑いながらも「それを公言すると世間に波を立ててしまう、下手をすると今の道徳を壊してしまうのではないか」と心配して沈黙を守る人等、現在の道徳を疑いながらもそれを公にすることができない人が増えているという理由からだ。ここでいうミルの科学には社会に関する、個人の行動に関する科学(それぞれ社会科学・道徳科学)が入る。とはいえミルは宗教を外から眺めて分析する(その社会においてある特定の宗教が信じられる要因は何か。ある特定の社会で宗教はどのよう
な社会的機能を果たしているのか)のではなく、宗教そのものが人間の行動に及ぼす効果とその有用性を科学的に分析しようとする。したがって彼の分析は宗教を科学の俎板にのせて、論理のメスで解剖するようなものだ。下手をすると死んだ魚を解剖して生きている生態を明らかにしようとするような馬鹿げた行為になりかねない。そして通常こうした分析からは「宗教は幻想である」という結論が出る。最初の「弱まっている」からというのも少し奇妙だ。宗教心が弱まって、世俗化しているのであれば、わざわざ宗教を取り上げなくても良さそうなものだからだ。

 けれどミルがこの時代、わざわざ宗教を解剖しようとしているのは、実は信仰という人間の行動を規制していた原理が弱まっているからこそなのである。なぜその規制原理にしたがっているのかよくわからないが、まぁとりあえずしたがっておくほうが無難だから。自分は信じてはいないのだけど、世間一般が信じていることをこと荒立てて批判すると、信じている人まで混乱に追い込み、モラルが崩壊するのではないか。それは自分の望むことではないから黙っていよう。こうした意識が蔓延する時、人々の行為を内側から規制する原理はその力を喪い形骸化する。代替できる原理がないまま、人々はなんとなく従うが、もし誰かが「そんなもの建前だろ!本音で行こうや」「みんな内心はそんな綺麗なおままごと、信じてへんやん。頭、お花畑のめでたい奴だけやで」などという声が挙がれば、行動原理そのものが崩壊する危険性がある。そうミルは考えている。だからこそ、宗教をきちんと分析し、その有用性がどこにあるのか、それは代替可能なのかを検討する。そうして出てきたのが、彼自身の宗教である「人間性の宗教」である。

 ちょっと話を急ぎすぎた。まずはミルの議論を紹介しよう。ミルは宗教、あるいは神という概念が続いているのは、人間が持つ不可思議への畏怖と、それゆえの好奇心と想像心ゆえだとする。科学が進み、人間の知識が進んでも、世界は不可思議と神秘に満ちている。だからこそ、その不可思議を畏怖し、同時にそれを知りたいと思い、想像力を膨らませる。それは人間が何処かに向かって変化し続けるための原動力の一つでもある。その一方宗教には人々の行為を規制する役割、世俗的な意味での(とミルはいう)道徳の役割を持っている。ではこの役割は宗教と切り離すことのできないものだろうか。ミルはあっさりと否定する。人が既存の道徳律に従うのは1)権威の力2)初期教育による刷り込み3)世論の意見によるところが大きい。特に三番目の世論、周囲の人間が自分の行動をどのように評価するかによって、人は自分の行為を断念したり、実行したりする(ということで実例として挙がっているのが男女の不貞行為の差だ。一般に男性の不貞行為は容認されるので、男性の不貞行為は多い。これに対して女性の不貞行為は厳しい世間の制裁があるので、女性の不貞行為はほとんどない。という分析である。現代ではどうなのだろう)。

 ということで、宗教に含まれる不可思議への畏怖等は人間の自然な性向へ、一般的な道徳律の提供は宗教なしでも大丈夫となると、宗教の役割は消えるのだろうか。

 ミルは否という。宗教にはこれら二つを超えたもっと大きな役割がある。それはある人を「より高潔な」人になろうとする動因を作ること、社会的教師としての宗教である。そしてこれこそが宗教の本質だとする。少し長くなるが本人の言葉を引用しよう。「最高の卓越性として認識され、あらゆる利己的な欲望の対象を正当に凌駕する理想的な対象に、感情と欲望を強く真摯に向けること」が宗教の本質なのだ。なんだかわかったようなわからないような言葉なので、いらざるお世話かもしれないが、少し解説を。「個人の人生は短くとも、人間という種の生命は短くない」けれど自分が目指すところを、今の人、今の時代が受け入れてくれるとは限らない。永遠に認めてもらえず、永遠に異端者であるかもしれない。自分一人を考えるならば、この世を改革することはできないかもしれない。自分一人が目覚めていても、他が眠っているのであれば、自分もまた眠っていた方が良いかもしれない。一生かけて実現することができない理想を、誰も引き継いでくれないのではないか。大きく考えればこういうことになる。小さく考えれば「自分がこの世に残したいと思っている思いを誰が受け継いでくれるのだろうか」「私が存在したということは、数十年もすれば忘れられてしまうに違いない」ならば、なぜ今頑張らなくてはならないのか。なぜ世間に合わせてもっと楽な生き方ができないのか。そう思った時、あるいはそう思わざるを得ない状況に至った時、自分が認めてやまない、尊敬できる人が自分をきっと認めてくれるに違いないという思いに支えられたことがないだろうか。それは亡くなった親かもしれない。何十年と合わないかつての友人かもしれない。でもその人がいるから、その人がきっと認めてくれるから、そう思える人たち。架空の人物でもいい。そういう人によって「いいよ」と認められ受け入れられること。これが、人間がその時代、その社会の凡庸な基準からはみ出て、何か自分が目指す高みに向けて歩む動因になる。それこそが宗教なのだ、他に宗教にどのような役割があるというのだとミルはいう。

 そしてこういう理想のモデルに絶対的な存在、人間の能力の及ばない全知全能の存在を置くことは、かえって人々の多様な試みを型に嵌める結果になるという。ミルは明らかにキリスト教を念頭に置いて話をしている。たった一人の神が全知全能であり、その神に認められるかどうかが全てを左右しているのだとしたら、この世で頑張る必要などどこにあるだろう。いずれは神が全てを「よし」とされるのであれば、この世の悪と戦う必要がどこにあるだろう。全ての敬虔な人が救われるのだとしたら、この世で彼らを救う理由がどこにあるのだろう。一神教にはこの罠があるという。それよりも善を求めていても、その善を地上に行き渡らせるだけの力を持っていない神。人の手を必要とする神。ようはこれまで人々が崇め続けてきた人々(イエスであれ、ムハンマドであれ、ツァラストラ、ブッダ、ソクラテス等)と同じ戦列にいるのだという思いの方が、人をより高みへと導くのに適しているのではないか。そう。これがミルのいう「人間性の宗教」である。

 パンデミックの中でこの先を考える時、暗闇しか見えない人もいると思う。でも誰かが見ていると思うこと、誰かが背中を押してくれていると思うことで、一歩踏み出すことができるのではないだろうか。それは万能の神よりも、親しい人間からの方が暖かい気がするのは、多神教の世界に生きているからかもしれないが。

遠隔講義の罪と罰

 ちょっとキザなタイトルをつけてしまって、些か照れくさい。とはいえラスコーリニコフがそうだったように、遠隔で講義をやると独善的になる。つまらなそうな顔をしながら座っている学生、後ろの方でコソコソと友達と話す学生、ごそごぞ内職する学生、スマホを眺めている・ゲームしている学生等々。この姿を目にせずに済む。

 私はzoomでライブ配信しているので、画面の片隅にチャットを表示しているのだが、このチャットで質問する学生が結構いる。通常の講義だと講義中に質問する学生は0。講義後に質問に来る学生は半期で延1〜2人。講義中に「ちょっと早すぎる」なんていう指摘も入るから、それに応じて「じゃ、ちょっと前に戻ってゆっくり目に」とスピードを落としたりできる。中には「〜のスライドをもう一度お願いします」とか「〜は…ということであっていますか?」なんて質問が来るから、ちょっといい気になる。元々心療内科の主治医から「あなたは学生の反応を気にしすぎる。それがストレスになっています」と言われているぐらいだから、無視したい学生を無視することができ、熱心な学生だけを受け付けることができる遠隔講義は、いつもの講義に比べると楽だ。

 ただ、遠隔講義は証拠が残る。それだけに事務側は「文科省のお達し」に神経質になっている。例えばライブ配信ではなく、オンデマンド型にした場合、文科省は「質疑応答に十分な時間をとること」と一言付け加えている。で、どうすれば質疑応答に十分な時間をとったことになるのか、その条件が全く示されていない(ナンダカ緊急事態宣言みたいだが)。そこで「講義時間中は学生の質問に備えてパソコンの前で待機しておく」必要があるのだそうだ(もちろん質問が0であったとしても)。学生にも「質問は講義時間中にメールで行うこと」というお達しが出ている。これってオンデマンド型なのだろうか?と思うのだが、「質疑応答に十分な時間」をとったかどうかを確証する他に良い手立てがないかららしい。また、ライブ型(同時双方向型)でもオンデマンド型でも「十分な学習時間の確保」が求められているから、いきおいネット上に多数の課題や宿題がわんさと掲載されることになる。まぁ教員なら誰しも「この本ぐらいは読んでほしい」というのが10冊くらいあるだろうから、学生にとっては地獄のようになっているだろうと拝察する。で、私はというと学生が本を短期間に読むとは期待していないから、復習・予習の小テストを作って誤魔化している。とりあえず理解度を確認できればいいぐらいのつもりでしかないし、世界史の知識を補って貰えば良いというつもりなので、難しい問題ではないと思ってはいるのだが…。

 さて、今のところ遠隔講義に関しては、小テストと講義のスライドの準備を早め早めに行うことで、対処ができている。小テストは自学自習だから成績に反映しないと3回ぐらいアナウンスしても、まだ聞いてくる学生がいるのはいつものことなので、気にならない。元々200〜300人の講義だから、よっぽどのことがない限り学生の名前と顔が一致することはないので、これも気にならない。唯一独善の罰として想定できるのは(最終試験等での不出来を除いて)学生を大学生ではなく高校生や中学生と同じ扱いをしてしまうことだ。

 お互い声だけが頼り(まぁ画面はあるけれど)なので、説明は丁寧になる。小テストを論述にするととても採点できないから、○×や多肢選択、ランダム配列といった規定の方法に従うことになる。学生は高校までと同じく「正答」がある問題に慣れ親しむことになる。それを避けたいために、5年ほど前から学生のレポートはピアレビューにしている。学生が他の学生のレポートを一定の基準に沿って評価するという方法だ。実はこれは私自身がムークと呼ばれるネット上で配信される大学の講義を受けた経験から行ったものだ。結構背景が違う学生同士が採点するためなのか、自我が強いからなのか、評価もコメントもバラバラだったし、私がコメントをつけたレポートもいろんな切り口があった。ただ日本人が行うと「予想した範囲に入る、同じようなレポート」を評価するようになる。学生同士がこれならば大丈夫だろうという答え方しかしないようになるのだ。それでもまだ、模範答案を見せるよりはマシかと思って実行している(実は論述やレポートに際しても、模範答案を用意し公開するようにというのが文科省の方針だ)。ということで、学生は高校までと同じく「正解」を狙ったレポートを多数だしてくる。私としてはせいぜい評価の項目に「感想になっている場合は評価点を下げること」「感想というのは『〜だと思う』や『社会(or問題)が〜となっていくことを望みます』というものです。論述は自分の意見を書くものなので、こうした表現が出てきたら評価点を下げてください」というような注意書きを入れるではいるのだが。

 どうも遠隔講義というのは、今まで以上に金太郎飴的学生を生み出すのではないかという予想を持っていて、これは遠隔講義という手段が教員を独善的にする一方、ネットでの一律採点が正答を予想する学生を許してしまうことからくる罰だろう。

 さて、ゼミとなると話は逆だ。私の大学では専門ゼミは2年生後半から始まる。前期の今、私が指導している2年生は、私のゼミに来るかもしれないし、来ないかもしれない学生たちだ(まぁほとんどが来ない)。最初の1回目は双方向ともビデオをオンにしたが、これは結構耐え難い。何しろ相手の顔が、30センチそこそこのところにいつもあるわけだ。どう視線を保てばいいのか、全員がなんとなく気まずいまま終わってしまった。2回目からは課題をめぐって、相互に匿名で投票し、最終的に残った2つのレポートを選んだ理由を一人一人説明してもらうことにした。こちらは、通常のゼミより声がはっきり聞こえるし、照れ臭くもないようだ(画面はオフである)。ただ、後から「自分が送ったファイルの原本と先生がまとめて一覧にしたファイルの中にある自分の文章が異なっている」というメールがきた。内容が違っているというのではない。ワードが勝手につける校正しましょう赤波線が付いているというのと、フォントが異なっているというものだった。しばし????となったのだが、どうもその学生にとっては、自分が送ったものと全く同じものが一覧ファイルでも再現されるのが「正しい」こと(機能が真っ当に動いていること)らしい。

 自分が送ったものがそのまま相手の画面に表示されるのが当然、自分が送ったものは即時に相手に届いていて当然というのが、どうやらこの頃の風潮らしい。2年生後期からのゼミ募集に応募してきた学生は1時間の間に5回「届いていますか」と確認メールを送信してきた。もしかすると「既読」がつかないから心配なのかもしれない。かと思えば、募集要項に書かれている必要書類を全く無視して、応募用紙のみを送信して終わりという学生もいる。どうもネットに対する対峙の仕方が極端に違う感じがするのだ。いや、表現は極端に離れているが、根っこは同じなのかもしれない。自分が送ったものは、相手にそのまま届く。自分が送ったものは正しいはず(なぜならきちんと送信されたから)。

 3年生になると、半年の付き合いがあるから、声だけでもなんとかなってはいる。とはいえグループ活動のためにスラックを導入した。スラックでグループごとにチャットで相談してもらおうというわけだ。ゼミの時間中は私はグループチャットに口出しをしないし、見にも行かないようにしている。それでも嫌なのか、ラインチャットに切り替えるグループもある。結果がきちんと出ればいいのだが、そこが怪しいということを、この半年でこちらは学んだので、ちょくちょく尻を叩くつもりでスラックにしたのだが、ちょっと当てが外れている。もっともスラックでチャットしているグループを見ていると、ああ、なるほどね…言葉で分かった気になってるねというのがよくわかる。例えばコロナ騒ぎと何かを組み合わせてテーマにする場合。「やっぱ経済に絡めないといけないっしょ」「何がいいかね〜」としばらく続いて「俺ら、やりやすいのやっぱ観光じゃね」「あ、それそれ、それでいいんじゃない」で終わる。いや、そっから先が詰めどころでしょうなんだけど、そこはそれ漠然としたイメージで話が終わっているのが明確になるだけでも、遠隔講義はめっけものではある。  正直まだ始めて1ヶ月が経っていない。これから問題点がもっと出てくるのだと思う。だけどこれだけははっきり言える。言葉の不在が明確に問題化するだろうということだ。言葉でしかコミュニケーションできない中で、以前と同じ感覚で言葉を使っている今の段階を、どこかで突破しない限り、遠隔講義は時間が過ぎるだけ、情報を伝えるだけの装置になるだろう。そしてそちらに向かう可能性の方が非常に高いと私は考えている。

コミュニケーション?ミスコミュニケーション?

 人間のコミュニケーション全体に言葉が占める割合は、よくて1割だといわれる。けれどスカイプミーティングやズームを使った遠隔講義を担当していると、言葉をどううまく使うかという点に注意が向かわざるを得ない。読者の中にもネット会議システムのもどかしさを感じる人もおおいだろう。逆に音声と画像それにチャットと3つのチャンネルを同時に使用できることに可能性を感じている人もいるだろう。今回はこの言葉を使ったコミュニケーションに関して、少しミルをガイド役にして考えてみたい。

 ミルには『論理学体系』という大著がある。彼自身、自分の著作の中で後世まで残ると擦ればこの著作だろうと自負していたものである。けれど論理学の世界では古色蒼然、時代遅れの代物となって、顧みられることはない。しかし私はこの本は現代的な「論理学」の本というよりも、副題にあるように「推論と帰納」という人間が自分の考え方を整理し、展開していくための方法を書いたものだと思っている。で、それがなぜコミュニケーションの話になるかというと、人間はただ一人で推論を展開したり、帰納から結果を導き出しているわけではないからだ。自分の経験と他者の経験を照らし合わせたり、賛同を求めたり…と他者のコミュニケーションは自らの生命維持のための情報収集にも不可欠である。なので、この本は考え方の整理方法であるとともに、コミュニケーションのあり方、より良い意思疎通を図るための書物としても読めると考えている。

 さて前置きはこれくらいにして、ミルが人間のコミュニケーションをどう論じているのか、早速みていくことにしよう。まず第一に注意が必要なのが、人間が相互に完全に理解し合うことはないというのが大前提である点だ。どんなに愛し合う男女であろうと、親子であろうと、自分の痛みや感情は自分自身のものであり、他の人間が感じることはない。だから完全な理解は存在しない。人間は人間同士互いに決して理解し得ないという前提に立って、コミュニケーションを行う。これが基本的な立場である。ようは人間のコミュニケーションはミスコミュニケーションの連続であるということだ。そして言葉はこの状態を改善する場合もあるし、より一層深刻にする場合もある厄介な道具として考えられている。例えば二人の人間がたまたま出会って「水牛」の話をする。ただし片一方はアメリカ国籍、片一方はフィリピン国籍だ。共通の言葉は英語なので二人ともbaffaloという言葉を使う。けれどアメリカ人の方は北米大陸にかつて生息していたアメリカンバイソンを思い浮かべ、かたやフィリピン人は今も田舎で農業に使われるカラバオを思い浮かべる。この二人が「baffaloは力が強いし、なんといっても迫力がある」というような会話をしているうちは、二人とも自分自身のbaffaloのイメージを相手も共有していると思っている。ところが、アメリカ人が「でももうこの頃は絶滅危惧種で保護区でしか見ることができない」と言い出したとしたら、フィリピン人は「?」になるだろう。カラバオはフィリピンの国を象徴する動物でもあるし、今でも農家の貴重な労働力なのだから、「保護区でしか見ることができない」なんてとんでもないになる。

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急進的保守主義

 日本語の間違い???と思った人は感性の鋭い人かも。この用語は一般的には流通していません。なぜなら矛盾したものを引っ付けているから。急進的といえば、革新とか革命とかとにかく今の体制を破壊しよう!となりますし、保守主義といえば、守旧といわれる如く存在するものを守ろうとなります。この言葉を英語に訳したとしても、ラディカル(=根本的に変革しよう)とコンザーバティブ(保存しよう)なので、これまた言語矛盾に陥ります。けれどこの言葉、私が大学時代にイギリスのある一派の別称として紹介された言葉なのです。その一派とは「哲学的急進派」。ベンサムとかミル親子が属していた政治的かつ哲学的一団です。

 背景をちょっと説明しましょう。1688年にカソリックの王様を追い出して、その娘と娘婿を王位につけた出来事を名誉革命といいます。この名誉革命体制を正統として守り抜こうというのが、18世期から19世紀を通じてイギリスの保守主義の屋台骨になります。これに対して元の王政を正当とするのが、王党派(トーリー)です。保守主義である名誉体制派(ホィッグ)よりもさらに保守主義ともいえますが、一方で宗教的にはカソリックよりですし、元の王政を求めるわけですから、体制変革を求めるという意味では急進的ともいえます。この二派を中心として18世紀は動いていくのですが、その中から名誉革命体制が矛盾に満ちており、これを改革しなくてはいけないという一派が出てきます。アメリカ独立革命で有名になるトマス・ペイン等の急進派で、フランスで革命が起こるとこの動きを擁護します。これに対して従来の体制を擁護したのがバークで…。とここまではいいでしょうか。ちょっと図式化するとトーリー<ホィッグ<急進派となりますが、トーリーも急進派も体制変革を求める点では同一です。

 ところがフランス革命が急進化し、ルイ16世が処刑されるようになると、イギリス国内における急進派の勢力が衰え始めます(まぁそうですよね、王様がいますから)。その後ナポレオンが政権を握ると、イギリスは大陸封鎖の憂き目にあい、ナポレオンと徹底抗戦することになります。(大体イギリスがフランスを嫌うのは、ジャンヌダルクとナポレオンの為だとか)。ではナポレオン戦争が終了したら、体制は万々歳かというと、戦費の償還、大陸封鎖によって上昇していた穀物価格、貧民(単に貧しいだけでなく一ヶ所に定住しない人たち)問題と社会問題が山のように湧き出てきます。

 この状況の中で、名誉革命体制が不合理に満ちたものであり、理に適った政体に変化させるべきであると主張し始めたのが哲学的急進派です。しかしベンサムをはじめとして誰一人、王政を倒せとか、政府を打倒せよという主張は一切しません。政治改革や司法改革、それもダメなら言論を通じて選挙権者に訴える。フランス革命の主義主張が普遍的理性や自然法・自然権に基づいていたのに対し、哲学的急進派の思想は功利主義ですから、多くの幸福をもたらす政体であれば良いと考えます。フランス革命でも普通選挙による民主主義が唱えられましたが、それはあくまでも普遍的理性を持つ市民の権利としてでした(なのでこの市民に女性は入っていません。女性は理性を持たない存在とされていましたので)。一方功利主義はといえば、どのような支配体制であれ支配階級は自分の幸福を最大化すると考えます。ですからより多くの人の幸福を実現するためには、多くの人が支配階級となる(なれる可能性のある)民主主義が最も適切であろうと考えるわけです。なので多くの人が犠牲になるような暴力的手段は退けます。目的は手段を合理化しないのです。

 体制変革を求める急進主義ではありますが、革命ではなく漸進的手段を取り、体制内変革もしくは、議会外での活動や世論によって政治や体制を変革しようという点では保守的です。ということで、私の大学時代の教員は「急進的保守主義」という変な用語を作ったわけです。

 ところでベンサムや父ミルの場合は民主主義が適切で良かったのですが、息子のミルの場合は民主主義の中身を問題とするようになります。普通選挙(息子のミルの場合は女性も含みますが)で民主主義的に選ばれた政府であったとしても、少数者を弾圧する(あるいは無視する)政府になり得ます。いやむしろ多数派が政権を取るシステムだけに、正面切っての弾圧ではなく無言の圧制になる可能性が高い。ミルの関心はここにあります。

 政治体制が変わっても人の心が変化しなかったとしたら…。どんな政治体制も経済のシステムも実際に動かしているのは抽象的な「体制」でも「市場」でもなく、一人一人の人間です。ミルが「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会主義を理想の体制と認めながら、果たしてその体制にふさわしい人間性を今の人間は有しているのかと危惧を突きつけたのも、この観点からです。人間性が変わるには一定の時間が必要です。政治体制が変わったから、社会経済の仕組みが変わったから、突如として人間性が変わるわけではない。先に変わらなくてはいけないのは、人間性そのものだ。だからこそ個人個人が、自分自身の中に存在する可能性を磨くために競争は必要なのだ。金銭をめぐる競争は醜い。けれど現実にこれが人を前へと駆動する力なのだとしたら、せめて金銭をめぐる競争の出発点は同じにすべきだ。ここからミルはラディカルな相続権の制限を主張します。そして面白いことに、遺産を残す権利は認めるのです。人間誰しも自分の子供の行く末は心配になるものだし、私有財産制だから自分の財産を自由に処分する権利は認める。ただし、相続する側の権利を一定限度(余裕を持って一生が暮らせるくらい)に制限するというわけです。ラディカルな割には、なんとも中途半端な感じがします。なんだか現実に譲歩している感じがあります。なので一般的にミルは「折衷主義」といわれるのですが…。でも私はこれを譲歩とは考えません。むしろ政府などの手によって全てが規制されるよりも、もっと厳しい仕組みを提唱しているのだと考えます。自分の子供に巨額の財産を残したとしても、子供の手に入るのは一定額だけ。だとしたら残余をどうすればいいだろう。子供たちが「あんなゴウツクバリな親の子供やから…」と後ろ指を刺されないようにするには。子孫が周囲から「あの人の子孫やから」と好意的に見てもらえるためには。自分の財産をどのように残すのが最も良い方法なのか。その問いをこの仕組みは突きつけていると考えるからです。ラディカルで保守的。折衷かもしれません。しかし人間は何かと何かの間で生きている存在なのではないかと思うのです。

 今、コロナウィルスをきっかけとした危機の中で、日本では政府から「新しい生活習慣」をといわれ、自宅での自粛生活が推奨されています。アジアの各国ではさらに厳しく「制御」されています。そんな中で私たちが目指すのは体制の変革でしょうか?経済の仕組みを変えることでしょうか?誰にも譲れない自分の生き方を探ることでしょうか?それとも…。選択肢は一人一人にあります。

感覚を使う教育を求めて

 先月号でミルに引き付けて流言飛語と言論の自由について書いたら、編集局から「じゃあ実際にどう対処したらいいんでしょう。実践的な教育として何か書いてください」との要望がきた。さて、どうしよう…。こういう時ミルって意地悪だなと痛感する。いつも方法は書いてくれるし、方向を指し示してはくれるが、実践になると「自分で考えなさい」と冷たいのだ。理想社会が社会主義になるのか資本主義になるのかすら、未来の人たちが考えるだろうとあっさりと突き放してしまう人なのだから仕方がない。ここは一番、ない知恵をひねくり回すことにする。

 で、題材だが困ったことに昨今のコロナ騒ぎで事欠かない有様である。流言飛語どころか詐欺も流行している。何を取り上げようか…と思った時、BBC放送に行き当たった。面白いのは、マスクに関するBBCの態度だ。当初(3月初め)、WHOの公式見解を受けて、保健科学省や感染症の専門家を招いて「マスクは感染予防に役立たない」という論調だった。そしてこの基本的論調は今でも変わっていない。しかしつい最近、アジアと欧州でのマスク文化の違いを報じている記事の中で、以下のように報じられていた。「現在専門家の間で、コロナの感染拡大抑制に対するマスクの有用性が議論されている」。さては天下のBBCも右顧左眄か?というと、左にあらず。マスクが感染予防に役立たないのは、マスクが外からのウィルスを防ぐことができないからーここは変わっていない。しかし今回のウィルスの特徴として不顕性感染者が非常に多いことが推定されるようになった。そこで「潜在的に保菌者である人が大勢いる事態」を想定するとすれば、「感染者が感染を広げる=内から外へウィルスを撒き散らす」のを防ぐために、マスクは有用である可能性が出てきたということなのだ。(蛇足になるがアジア各国でマスクは制服と同様「儀式的」な意味を持っている。マスクを着用することが他の感染予防策への意識づけになっているという行動心理学者の意見も報じられていたー写真は明らかに日本笑)。

 一方で、日本に帰国してから私がずっと感じてきた違和感がある。それはマスクに関する報道が非常に多いのに、「手洗いの励行」に関する報道や告知がほとんどないという点だ。感染予防の基本として、多くの報道機関がまず第一番に紹介し、ネットの自社サイトに「正しい手洗いの仕方」を置いているというのに、なぜか日本では手洗いの仕方がマスクに比べて軽いような気がしてならないのだ。そしてマスクに関しては種々様々に報道されている。どこそこで騒動が起きた、医療現場を優先しなくてはならない、手作りマスクの型紙…。

 さて、この二つから何が導き出せるだろう。まずは報道する側が人々の知性に信頼を置いているかどうかという違いだ。BBCの報道は一見ややこしい。マスクが有用なのかどうか、という質問に対して間違っているが正しいと言っているようなものだ。何のためにマスクを使うのか、どのような場合に、どんな目的でマスクを使うのか。周囲の状況や条件が明示されない限り、マスクが有用であるかどうかという質問に対する答えは出てこない。見る側・読む側が、それぞれ報道の中にある状況を読み解くことを求めている。ということは逆に見る側・読む側がそうした能力を持っていると想定しているということでもある[1]

 日本の場合はどうだろう。マスクが品切れになっている、スーパー等でマスクを買おうと行列ができている。この事実から「マスクが足りない状況」を導き出すのは簡単だ。でもその状況がなぜ起きているのか、その状況は「新型コロナウィルス」に対する方策として有効なのかどうか。これは検証されているとは思えない。出てくる報道の多くは「マスク増産がどこまで可能か」とか「日本で生産されているマスクは必要量全体の**%に過ぎない」とか、とりあえずマスクを取り上げておこうという風情を感じてしまう。そこにはどこか「あなた方が求めているのはこんな情報でしょう。はい、お好みの情報をお届けしましたよ」「それが真実とか事実とかって。いやいやあなた方が求めているのはこの程度のものでしょう」という姿勢すら感じてしまうのだ。

 どちらの社会で育つ方が「自分で考える」習慣を身につけるだろう。

 そう、ミルが最も重要視したのが「社会が教育機関だ」ということだ。どんなに学校で「自分自身の判断で行動しましょう」と教えていても、「政府から通達が来たから」で右に倣えになるなら、子供は「大人になるということは、自分で判断せずに、無難に上のいうこと聞くこと」なのだと思ってしまうだろう。小・中・高とどんなに「自主的に判断する子ども」を育てようとしても、社会が「自主的に判断」しない大人ばかりなら、子供は自主的に判断するのは危険だと学習してしまう。「自分の言動に責任をとりましょう」「言葉は大事にしましょう」と教えたとしても「募集と募るは別です」という大人がまかり通るようでは無駄だ。とはいえ、こうした社会に流されるばかりが人間ではない、人には変わる力がある…はずというのがミルの希望でもある。ではその希望を実現するにはどうすればいいのか。社会全体の流れとは異なるー抗するではなくとも、異質な、別の教育はどうすれば実現できるのだろう。

 ミルは「経験」にそれを求めた。労働者のアソシエーションも労働者自身が社会の自然法則である(とミルが考えた需要と供給に基づく)市場法則を、経験に基づいて認識する教育装置でもあった(だからこそ失敗しても価値が高い試みなのだ)。経験から認識を得ること、そのためには経験に敏感にならなくてはならないし、その経験が自分自身のものでなくてはならない。経験が自分自身のもの、というのは少し説明が必要だろう。他人に命じられて嫌々事をなすとき、その結果に意を払うだろうか?何にしろ嫌だから、とにかくやればいいと思う、時間が経つのがすごく鈍い。にも関わらずやらなくてはならない。とすればやったという事実が残ればいい。結果の質などはどうでもいい。こうならないだろうか。これが経験が自分自身のものではないという事だ。今現在の教育で一番難しいのがここだろう。嫌々…とはいわないまでも、なぜ勉強しなくてはいけないのかはよくわからないし、勉強して本当に役に立つのかわからない。でも親がいうから、みんながしているから勉強するし、試験があるからやらなきゃいけないし。高校だけじゃ良い職業につけないから、大学入った方がいいし。ざっくりまとめるとこういう感じではないだろうか。だからこそ試験の点数という事実さえ手に入ればいいと思い、点数という事実が評価されるのであれば、それに合わせた「勉強」をすればいいと考える。こうした行動を私は無理ないものだと思うし、状況に最も適合しようとしてとった戦略としては評価する。が、結果的に人頼み、周囲を慮る行動を取ろうとする心性を育みことになる。一方で「なぜ」「何のために」という問いに対する答えは「良い学校」「良い会社」「良い給料」としてある一定の行動パタンを取る方向へと誘導されている。こうした制度の中で「経験から学ぶ」教科や科目があったとしても、生徒はあらかじめ用意されているだろう正解を言い当てようと知恵を巡らすだけになる。

 では、このような状況の中で、どうすれば経験から学ぶことができるだろう。第一に正解がないことを徹底すること。したがって教員は必要ない。必要なのは先達としての経験者である。先達は自分の経験を披露するが、それがあらゆる場合に正しいとは限らないことを知っている人でもある。第二に自分の行動結果が目に見えて帰ってくることが必要である。簡単なところでは草取りである。どれだけ丁寧に行ったかは比較すれば一目瞭然となる。それだけではない。個々人の性格や癖もわかってくる。丁寧だが丁寧すぎて効率が悪いもの、目立つ草をとって先に進むもの、順序立てて作業するのが好きなもの、あちらこちらと転戦しては、また戻りと一見不効率のように見えて、最後に帳尻を合わせるもの…。どのやり方が正解でもなく、それぞれのやり方があるということもわかりやすい。誰かが評価しなくても互いに評価できる、自分の中で評価が納得できる。それが結果が目に見えて帰ってくることである。第三に自分だけでは何事もできないことが明瞭なものであること。要はチームが必要なことを実感することなのだが、これが中々難しい。一緒になって仕事をするというだけで、情報どころか話をしないものもいる。この壁を打ち破るのが、言葉が違うもの同士がチームを組むことだ。とりあえずの共通語である英語を使いつつ、なんとか話をしないと何も始まらないことが明らかだからだ。とはいうものの、これは忍耐が試される。遅々として進まないグループ活動に嫌気を差すものも出てくる。特に机上のプロジェクトだと動機の継続が難しい。こうやって条件を上げていくと、農作業にはこの全てが含まれていると痛感する。いや農作業に限らず、物を生産すること加工すること、要は手や体という感覚器官を総動員する仕事には全ての仕事に通じるエッセンスが込められていると痛感する。
 さらに自然だとか天然素材を相手に仕事をすると、理不尽さに直面する。天候の変化、まさに天災である水害や台風。人間がどれほど努力しようとも一瞬にその努力を無効にしてしまう自然の理不尽さ。その理不尽さの中でも誠意を尽くさなくては何も実現できない無力さと同時に、同じ無力さの中で足掻いている仲間としての他人への共感感覚。おそらくミルが求めていた教育のエッセンスはこの他人への共感感覚育むことだったのではと考えている。


[1] ただしイギリスでBBC放送を視聴しているのはごく一部の層に過ぎないことも確かだ。彼の国では近代が始まって以来ずっと国の中にある階層の分断で悩み続けている。まぁ階層社会の業病だ。

デマと言論の自由

松井 名津

 さて、今回のコロナウィルスなのだが…海外にいて「トイレットペーパーが買い占められている」というニュースを聞いて「え、また?!」という思いになった。つい先日、オイルショックの時のことを絡めて原稿を書いたのもあって、余計その感が強いのかもしれない。ついでにコメントしておけば、オイルショックの時より今回の方が買い占めに至る因果関係はちょっとわかる気はする。(オイルショックの時は何がどういう理屈でトイレットペーパーに至るのか、さっぱり訳がわからなかった)。その他にも「〜を飲めばコロナウィルスを撃退できる」とか、「〜では…がもう手に入らないから、早めに買っておくべき」というような話は結構蔓延しているらしい(FBのタイムライン上で、これはデマですと回ってくるニュースを見る限りだけれど)。

 デマというと、悪意があって間違った情報を広めると考えがちだが、実は善意に基づく誤った情報がデマを引き起こす可能性の方が高い。「善意」なので情報を出している人は「正しい」と確信している。だからその正しさを疑うことがない。そういう人が出した情報に対して、「間違っていませんか?」と疑うような意見を呈すると、酷く躍起になって疑う人を攻撃したりする。周囲の人も、その人が善意で行動していると知っているので、なんとなくその人の味方になったりする…。と、善意で行動する人が出す誤った情報ほど拡散しやすいし、否定されにくい。これは一般人に限らず、専門家といわれる人もそうだ。専門家とはいえ、これほど専門が細分化していると、つい隣の分野のことであっても門外漢である場合が多い。だから慎重な専門家は性急なコメントを控える。積極的に発言する人は自分が科学的に正しい判断をしており、一般にその判断を知らしめ、啓蒙しなくてはならないと考え行動している。ただ、現実は複雑で理論通りではない場合が多い。理論上最善の対応も、現実を考えれば費用がかかりすぎて実質上不可能という場合もありうる。けれど理論的には最善だから、現実にできないのはおかしい、という発言をしてしまうことがある。こうした善意による発言に対して慎重になった方がいいとか、不安を煽るような発言は控えた方が良いという真っ当な意見を呈すると、時に「言論の自由」を迫害する行動だという反応が返ってくる。

 であるならば、ここは一番「言論の自由」を真っ正面に据えたミルに登場してもらうことにしよう。ミルは『自由論』の中で、数ある自由のうちでも言論の自由を幅広く認めている。しかしこの言論の自由にも制約がある。それは他者の利益に損害を与える場合(harm principleともいわれる)である。言論、まぁざっくりいえば公に意見をいうことと考えよう。単に言葉を言うだけなのに、他人に損害を与える場合があるだろうか。すぐに思い浮かぶのは言葉による暴力としての「いじめ」だろう。これは別に子供のうちに限らない。日本語でハラスメントといわれている事態のほとんどは、「いじめ」と訳してしまった方がいいと私は思っているのだが、セクシャルハラスメントにしろ、パワーハラスメントにしろ、何にしろ、その人の人格を否定する表現を使う、その人の個性や能力をある特定の視点(女性である、同性愛者である、部下である…)だけを用いて表現する。このような発言はその人の人格を否定するという点で、その人の必須の利益を害している。例え憲法に良心の自由や言論の自由が謳われているとしても、こうした発言を公にした場合は、何らかの罰が課せられるべきである。

 では善意から発した誤った情報の場合はどうだろう。特に上で指摘したような発言者が特定の影響力を持つ人だった場合や、周囲が不安に駆られている場合に、人々を社会全体にとって不利益をもたらす行為に導きかねない発言を公にする。これは言論の自由で保護されるのだろうか?それともharm principleによって制限を加える(もしくは社会的に罰を与える)べきなのだろうか?実はミル自身がこの問いに答えを出している。食糧不足で人々の間に不満が高まっているときに、パン屋や商社の前で「食糧不足の原因は一部業者の買い占めによるものである」という主旨の発言をした場合、この発言を制止するべきだとミルは述べているのである。

 実はこの一条はミル研究者の間でも評価が分かれるポイントにもなっている。制約が加えられるべきなのは、不安な社会状況の中で暴動やパニックを引き起こしかねない発言や、一定の個人(あるいはグループ)に対する暴力を引き起こしかねない発言とまとめたとする。では誰が「不安な社会状況」にあると判断するのか、誰が「暴力を引き起こしかねない発言」と認めるのかという問題が生じる。もし政府が…と簡単にいってしまうと、それこそちょっとした自然災害だとか、連続傷害事件が発生した途端、戒厳令のように言論の自由を取り締まることができる根拠を与えてしまうことになる。また「暴力を引き起こしかねない発言」の場合も、当事者で意見が分かれることがあるだろう。この一条を認めることによって、言論の自由が大幅に制約される、いや結局骨抜きになってしまう。こう考える学者もいる。その一部に理のあることを認めつつも、私は判断はやはり「最も立場の弱いもの」の側から行われるべきだと彼は考えていたのだと主張したい。なぜなら言論の自由そのものが、社会で異端として抑圧されやすい少数派の意見を多数派から保護するために主張されているからだ。そしてまた、パニックや暴力を引き起こす発言を抑制する・制止する必要性があるとミルが考えたことは正当だと考えている。ただし、抑制するのは政府ではなく、個々人であり、発言に責務を負う人々(ジャーナリストやマスコミ、もちろん政治家もその中にいる)だと考えている。

 というのもチェルノブイリ事故の直後にヨーロッパに旅行したことがあるからだ。テレビでは連日天気予報のように放射能の拡散状況が放送されていた。天気予報のようにと書いたが、実際報じられているニュースの様子は毎日の天気予報とほとんど変わらない。低気圧の雲の代わりに放射能を帯びた雲や風が表示されている。アナウンサーは「明日は〜地方にはソビエト方面からの風が強く吹き付けるとともに、強い雨が降ります。不要な用事のない方、特に幼い子供は家の中で過ごす方が良いでしょう」と淡々と語る。まぁ私が滞在していたのはイギリスで、BBC放送だからだったのかもしれない。でもロンドンも(ずっと小雨が降ったり止んだりだったが)賑わってもいない代わりに、閑散ともしていないというロンドンらしさで、相変わらず傘を持っているのに傘をさしていない人が歩き、コートの襟を立てて薄ら寒そうに人が行き交っていた。ホームステイ先は北海に面していたが、別に避難するという話もなく、雨の中でクリケットをしたり、近くの川縁に生えているクレソンでスープを作ってくれたりしていた。

 ヨーロッパでは核の悲劇は日本ほど理解されていないのだ、そう言ってしまえばそれで終わるかもしれない。けれどそのとき私が痛感したのは、中学生の時に遭遇したオイルショックの日本との違いだった。連日のようにテレビからは激昂したような声が響き、一般紙までがスポーツ紙のような大見出しをつける。スーパーの店頭からは物が消えていく。そんな風景を思春期特有の皮肉な目で見ていた自分を思い浮かべながら、もしこれが日本の近くで起こっていたらこんな風な日常はありえないだろうなと思ったことを鮮明に覚えている。

 別にヨーロッパだから偉いというのではないのかもしれない。ヨーロッパは大陸も島国のイギリスも含め、13世紀以降の十字軍、16世紀から17世紀の宗教改革の中で、流言飛語によって多くの人が虐殺された歴史を持つ。同じキリスト教徒であっても、いや同じキリスト教徒だからこそ「異端」を殺すことは神の御心にかなったこととされた。アルビジョア派を殲滅した十字軍、プロテスタントを虐殺したサン・バルテルミ、逆にカソリック教徒の殲滅を目指したクロムウェルの鉄騎隊。そして近代になれば記憶に新しいナチスとそのシンパによるユダヤ人の虐殺(虐殺されたのはユダヤ人だけではない。ロマの人々、同性愛者などなど)。こうした数々の虐殺を招く豊かな土壌が、自分たち自身の中にあったことを、多分彼らは日本人より見に染みているのだろう。(最もこのところ、そうした記憶が薄れてしまったのか、経済状況が悪いからか、ヨーロッパでも流言飛語と付和雷同が増えているようだが)。

 人間は「目に見えない恐怖」に弱い。放射能、新型ウィルス、ペスト…目に見えない恐怖に社会が覆われたとき、多くの人がよりわかりやすい解決法、目に見える敵を求める。今・ここにある恐怖をなるべく早く打ち消すための本能的な反応なのかもしれない。動物も食糧不足などどうしようもない危機の際にパニック状況になる。そして人間の場合も動物の場合も、行き着く先は同じだ。「共食い」。最も弱い物が殺される。人間はずるいから実際には手を下さないかもしれない。100人が1人に向けて石を投げれば、その1人は死ぬだろう。石を投げた100人は自分が投げた石が殺したとは思わないかもしれない。でもやはりそれは「共食い」なのだ。そして人が人を追い込むとき、人には動物にはない武器がある。「言葉」という強力な武器が。そして本来、武器を持つものは武器の真の怖さを知っていなくてはならないのだ。

 SNSによって人々の言葉はいろんなところに拡散する。それだけ私たちの言葉は強くなった。強い武器を持つ以上、私たちはその怖さも十分認識しなくてはならない。

追記:カミュといえば『異邦人』が有名だが、今ぜひ読んで欲しいのが『ペスト』だ。紹介文には「極限状態における人間の連帯」などと軽い言葉が踊っているが、絶望的な状況の中で絶望しながらも、そこに踏みとどまる人間を描いている小説だと私は思っている。

節目どき

「人間五十年、下天の内に比ぶれば…」とは信長で有名になった一節。もっとも人間の寿命が50年という意味ではなく、人間界の50年も天界では夢幻のようだという意味らしい。とはいえ、信長当時からつい70年ほど前まで、日本人の平均寿命は50歳以下、50歳を越えだしたのは1947年ごろ。まして70歳など文字通り「古稀(昔からこのかた稀な)」だった。ところが近年は70、80は当たり前。平均寿命をシフトさせると、今の50歳代は1950年代ごろの30歳代と同じになる。

 しかし、どうも感覚的に納得できない。1950年代の初婚年齢は概算で男性27歳、女性23歳。高度経済成長が始まる頃、自分の子供が育っていくのと同時に、社会も経済も拡大してくといった感じである。あれもしなければ、これもしなければ…と自分自身と家族の今と近い未来に眼差しは向いていたことだろう。高度経済成長期を迎えるとともに食生活も向上し、体力気力も一昔前である1940年の30歳代とは大きく違ったはずだ。上り坂の時代とともに、ともかくも前に、より大きく、より新しくを追求する傾向を持っていたといってもいいかもしれない。

 これに対して、今の50歳代の初婚年齢は男女ともに20歳代後半だから、子供はすでに成人している。高度成長がはっきりと目に見え始めた頃に生まれ、濃淡の差はあれ貧しさも、豊かさも知っているといってもいいかもしれない。私自身が今年の末で55歳になるから、ちょうどこの世代の中間だ。世代論はあまり好きではないから、個人的な話になるが、生まれたのは大阪ミナミの真ん中。乞食や浮浪者(死語?今だとホームレスになるのだろうか)が竹籠を背負って、器用にタバコや雑紙、瓶を集めていた。その傍らで野球のナイター(とかつては言っていた)照明が明るく輝いていた。チョコレートやケーキは年に一度か二度頂く特別なお菓子だったが、都会の真ん中で育った子供の遊び場は百貨店でだった。路地の端は小便の香りが香ばしく、タバコやチューングガムに混じって痰が吐き捨てられていた。3歳になって引っ越した郊外の新興住宅地は田んぼの真ん中。春にはレンゲの真ん中で寝転がり、冬になればセイタカアキノキリンソウの枯れたのを弓矢に戦争ごっこに興じる毎日。スカンポ(スイバ)を齧ったり、たまに「野壺(人糞を貯めておく壺)」にハマってからかわれたり、蛇に追いかけられて怖い目にあったりしたのが小学校時代。そして中学時代。日本がはまり込んだのがオイルショックが引き金になった低成長時代。核戦争の危機が真剣に叫ばれ、人間の未来が急速に暗く思えた時代だった(ある意味今と似ている。核爆弾は人間が自ら作った制御できない化け物だったし、来たるべき世界戦争に備えて日本も再武装すべきだという議論と世界平和を堅持すべきだという議論が互いに平行線ですれ違った)。「スモールイズビューティフル」「ゆっくり行こうよ」が合言葉の時代が続いた。その時代がいつの間にか、本当にいつの間にか、ハッと気がついたら、バブル。空気は180度手のひらを返し「おいしい生活」、自分らしい消費を楽しむ、世界の頂点に立つ日本になった。(まぁ私自身は実家でジャガイモと玉ねぎを剥いていたのだが、大阪の衛星都市堺で1万円の生演奏つきディナーパーティーが可能だったのも、バブルだったからだろう)。そして頂点から真っ逆さま。立ち退き地上げをめぐる暴力団騒動、政治家の賄賂やスキャンダルを経て、失われた10年、20年…。

 こうして振り返ると今の50歳代は「売り家とお家流で書く三代目」なのかも知れない。幼い頃から若い頃にかけて、贅沢にだんだんと慣らされ、子育てが終わって自分の生活をと思った途端、年金問題やら少子高齢化で先行き不透明時代に突入。そんな50歳代に向けて金融機関等々は「年金不足に備えて」「老後の一人暮らしの…」と甘い誘いをかけてくる。そんな誘いが気になりながら、どこか醒めた目で見ている。さすがにバブルの経験は効いてるのだ。国有企業があっという間に民営化し、潰れないはずの大手証券会社が一夜にして倒産した。会社勤務を続けて入るけれど、定年まで無事安泰と決め込んで済ましているわけにもいかない。なにせ自分の周りに転職・失職・非正規雇用者がいるのだ。

 そんな状況を悲観的に見ているのか。そうでもない気がする。どこかで見た風景だなと思っている。自分自身は決定的に貧しい生活を経験していないかも知れないけれど、自分自身は会社に雇われて生きる生活を選んだのだけど、今の自分とは全く違う生き方、生活の仕方をまだ身近で見てきた。小学校の友達のお母さんが内職をしていたり、一人で留守番をしていたりした。中学から高校に進む段階で、高校を卒業したら働くもの、進学するものが明確に分けられた。個人商店主や中小の工場が隣近所にあった。いつの間にか会社勤めが主流になった世の中に生きていて、自分の子供にもそれを勧めながらも、ひと時代前だったら違う道もあったんだけどなと思う自分がいる。では別の道、違う世の中、少しでも望ましい社会を目指して、市民運動やボランティアに邁進することにも醒めていたりする。「みんなで何か」に醒めているのかもしれない。私の周囲にいる人間が特殊だということは大いにあり得るけれど、それでも団塊の世代と団塊ジュニアにサンドイッチされて、「一緒に何か」するにはボリューム不足だということもある。

 だけども、だからこそ、今の50歳代は面白いことができる可能性がある(と自分が信じたい)。正確にいえば50歳の10年間をかけて、60歳からの20年を楽しむ準備ができる、そういう意味でも可能性の時期なのだ。確かに1950年代の30歳に比べれば、体力は落ちている。世間的には将来を楽観できる時代ではない。社会とともに自分の生活が良くなるなんて希望をもてるほど初心でもない。大きなマスとして人が動くと、とんでもない騒ぎになることを実感してきたはずでもある(オイルショックの時のトイレットペーパー騒ぎといい、バブルの浮かれ騒ぎといい)。逆にたった一人のほんの少しの行動が、連鎖的にいろんな人に伝わることをどこかで感じとってもいる。パンチシートとして、データがコンピューターから吐き出される時代から、家のパソコンで世界とつながる時代まで体感してきた。その中で変わったコミュニケーションもあれば、案外変わらないコミュニケーションもあることを肌触りとして知っている。上下を見回してみれば、結構経験豊かで、辛口で、シャイで、斜め目線の人間になっていることが多い。大阪弁の「ほんまにそうなん?」を口癖にしている、けれどなかなか行動にはでれない。でも本当は行動したい。

 ならば10年かけていいじゃないか。10年かかっても余命は20年ある。自分なりに面白い余生を送る準備を始めよう。子供のことはもう放っておくに限る。兎にも角にも20歳あたりまで育てたのなら、そろそろ子離れしよう。頼りないように見えても、案外一人で立てるはずだ。ヨロヨロしても放っておけば、そのうち一人でなんとかするようになる。(むしろ子供の方が親が自由になることを望んでいるのじゃないだろうか)。お金がそんなに役に立たないことは、バブルを見てきてわかっているはずだ。会社人脈が頼りにならないことも、先輩や周りを見て痛感しているはずだ。先に退職を迎えた男性が「濡れ落ち葉」といわれ、専業主婦が図々しい「オバタリアン」呼ばわりされたのを見てきた世代だ。付け焼き刃の格好よさが、いかに儚いかも実感しているんじゃないか?(LEONのちょいワルおやじを気取っても、所詮、足の長さは変わらない。美魔女なんていわれても、首筋は年齢を隠せない)。「自分らしく」という言葉の虚しさも知っているはずだ(「~行きます!」といったかと思えば「父親にも殴られたことがないのに」と目にうっすら涙を浮かべる男の子に肩入れしてきた世代だし)。「何か」になろうとすることにも、「何か」を掲げて大声を上げることにも、どこか疑問を覚えてきたのなら、「何か」をすることを楽しむために準備を始めないか。今までどこかで漠然と感じてきた違和感が「何なのか」確かめること、確かめるための準備を始めないか。
 定年は日本独特の人為的制度だから、定年を超えても元気なのだから働きましょう、老後が大変ですよ…なんていわれるけど、私は定年って案外いい制度だと思う。60歳=還暦。暦が一巡りしたのだから、生まれ変わっていいじゃないか。生まれてくる前に、準備段階があったのかなかったのか、生まれる前だからわからないけれど、暦が一回りして生まれ変わるときは、準備ができる。新人類と(たぶん初めて)呼ばれた世代だから、本当に新人類になってみないか。別段特別なことではなく、単純に「今自分がしたいけど、今の自分ではできないこと」が何かを確かめるだけ。そして本当にしたいことだったら、それができるように準備を整えていくだけ。1年後といわれるとキツイけれど10年後なら準備期間はたっぷりある。ゆっくり確実に、自分と周りを整えていけばいい。たぶん10年はいらない。準備しているうちに機会の方がやってくる。思ったより早く。思ったよりもスムーズに。一歩踏み出すことは怖いことではない。なぜってどうせ残された時間の方が少ないんだ。手にすることよりも手放すことの方が多くなっていく。50歳代はどう転んでもそういう時期なのだから。