時代はどんどん進んでいる

 昨年の秋から日本を離れて7か月間、カンボジアの私たちの事務所にいました。コロナに振り回されて世界中でマスクをつけている日常が当たり前になっている中、私はコンポントムのプーンアジという寄宿舎に住み、地元の生徒たちとカシューナッツの収穫後に毎日のように乾燥させて袋詰めするような作業で汗を流して働いて…という生活をしていたので、何らこれまでと変わらない生活でした。敷地内の外に週1回マーケットに買い物に行ったり、銀行に出かける時以外はマスクをつけることもほとんどありませんでした。

 しかし、2月終わりくらいからカンボジアもコロナ感染者が増え始め、政府も封じ込めに乗り出しました。4月半ばのクメール正月に合わせて州間の移動禁止措置が発令され、さらにはますます広がる状況を鑑みてカンボジア中のレストランの営業が禁止になりました。

 私も昨年末から日本へ帰国する予定がどんどん持ち越され、これ以上は家族のためにも延期はできないということで、ひどくならないうちに日本に戻ることにしました。しかし、陰性証明をもらうために早めにプノンペンに着いて病院通いをするだけでなく、このロックダウン中の移動は容易ではなく、シェムリアップにある領事事務所に州間をまたぐための通行願いのレターを発行してもらうように依頼したり、いろんな手続きを踏みました。いろんな人の協力のおかげで、無事に日本まで戻ってきましたが、大阪は過去最悪の広がりを見せている時期でした。

 この帰国に際して、街中に出てみていろんな変化に気づかされました。1つはコロナに対する日本との意識の違いです。プノンペンでは早々とマスクをして外出していない人は25ドルの罰金、さらにはこのクメール新年(4月14から17日)前後にレストランの閉鎖、陽性者が現れたプノンペン最大の市場であるオルセーマーケットとさらにはオールドマーケットも閉鎖。こういうことを早々に警告を出してすぐに実行されています。しかも市場や飲食店には補償なしです。イオンなどのショッピングモール内のレストランも閉鎖。ちょうどプノンペンに着いた次の日からこのような状況になったので、静まり返ったプノンペンには驚きでした。通常クメール新年の前は民族の大移動でプノンペンから地方へ帰る人が多くてバスなどもとれない状況ですし、家族が一堂に集まり、みんなで大皿のごちそうを囲んで団欒の時間が持たれるので、その準備のためにマーケットはものすごい活気で、商売人にとっては1年のうちで1,2を争う書き入れ時です。それをカンボジア政府が封じ込めようとしているのは、やはりこのコロナ自体の感染拡大をいかに恐れているかということだと思います。それに比べると日本はかなり緩い印象を持ちます。

(私が帰国した後も大使館からお知らせが来ているのですが、プノンペン内でも移動が厳しく規制されて、ロープが張ってあって隣の地区への移動も制限され、本格的にロックダウンが始まりました。たまたまスタッフが私と入れ替えで日本から入ってくれたのですが、プノンペンで3週間ほど足止めされ、彼女のレポートによるとデリバリーサービスも近所から出ないと届けてくれないそうです)。

 また、PCR検査を受けに国立衛生研究所に行った時のこと。朝7時から施設が開いているがそれより早くに着いて並んでおいたほうがいいという情報を得て、6時20分に到着しましたが、防護服に身を包んだ200人以上の人たちがすでに長蛇の列でした。中国人の集団です。カンボジアでの広がりを恐れてすぐに祖国へ帰ろうという人たちが列をなしていたのですが、たまたま個人で並んでいた上海出身の女性が日本とのビジネスをやっていて日本語が流暢だったので、待っている間にいろいろ聞かせてもらいました。中国の検査基準はPCR以外にも血液検査もあり、2日間通わないといけないといっていました。さらには上海に着いてからすぐにホテルに2週間隔離され、物価が高いので10万円以上の滞在費がかかり、その後自宅に戻ってから7日間待機ということで、21日間も身動きが取れない状況だそうです。日本はどうなの?と聞かれ、着いてすぐのPCR検査で問題がなかったら家族に車で迎えに来てもらったら家に帰れて、家で14日間おとなしくしていればいいと伝えたら、中国と対応が全然違うんだねと彼女も驚いていました。

 そしてプノンペンに数日滞在してみて、補償もなくレストランが閉鎖されているのですが、さらにアルコール類の販売も一切禁止となりました。みんなが集まって騒ぐことを見据えていろんなことが制限されています。それでもバイクでのデリバリーサービスが定着しています。日本でいえばUberEatsみたいなサービスがこの1,2年で広がりを見せており、FoodPandaやNham24など、いろんなバイクがプノンペンの街中を駆け巡っています。ジュース1杯からでも自宅へ届けてもらっていますので、この気軽な手配の感覚はおそらく日本以上ではないかと思います。外国人が多い地区では「Take Away OK」と入口に書いて、持ち帰りだけは受け付けているカフェなどもあり、この徹底ぶりは日本で役人たちの宴会でコロナ感染というニュースとは全く違うものです。

 また、プノンペン空港でラウンジを使ったのですが、これまではビュッフェスタイルで利用者が好きな分だけ取りに行っていましたが、注文方式に変わっていました。QRコードがテーブルにあり、それを読み取るとフードとドリンクのメニューが出てきてほしいものを選び、テーブルまで届けてもらいます。これならばフードロスも防げます。

 そして飛行機(シンガポール航空)に乗ってみると、衛生キットが一人一人に配られ、席に着くと機内誌は当然なくなり、機内食は容器が紙製でスプーンなどもすべて木製でプラスティック製品が消えていました。これまでのプラスティック袋などの無駄を考えるとこれも大きな変化だし、さらには不特定多数の人が触る機内誌などはなくなって無駄なものがなくなっていく、こうやって世界は変化していくんだなというのを実感しました。日本ではなんでもスマホでやるのはどうも…という抵抗も根強いですが、どんどん世界はペーパーレス、非接触のコミュニケーション、人が集まる場所をつくらない、効率化が進んでいます。

 そうやって考えてみると日本もサービス産業を中心に全てを見直していく必要があります。街の美容院だったらどういうことができるのか、電気屋さんなら?小さなパン屋さん、ケーキ屋さんだったら?介護や保育サービスは?ライブの楽しみ方は?伝統的なお祭りの開催の仕方は?というのが1つ1つ問われていきます。スマホを使って注文できると翻訳も手間がかからないので新たに日本に住んでいて日本語があまり読めない外国人の掘り起こしにもなるか?など、いろんな可能性も秘めています。そして逆に直接顧客と対面した時にどんな付加価値をつけたらいいのだろう?これまでのサービスの質や内容が変わっていくことを考えるとわくわくします。

 世界は動いていることを実感しました。それもいい方向へ動いていく波を私たちがどう捉えていけるのか。上手にサーフィンしていく必要性を強く感じて日本に帰国しました。

追伸>帰国して5月初旬に書いた文章だったのですが、サーバーの不具合でしばらく投稿できませんでした。その後、7月初旬現在、カンボジアの感染者数は広がっており、1日500人~1000人近い感染者が毎日出ているようです。プノンペンやシェムリアップなど都市部が多いとは聞きますが、私が買い物に行っていた近くの食料マーケットでも感染者が出たと聞いています。早く収束することを願うばかりです。

判断の軸を自分が納得できるように決める

しばらく日本に帰っていないと毎日のニュースや情報番組にはさらされていないが、それでもスマホ、インターネット、YouTubeなどでいろんなものを見聞きできる。このところのオリンピックにまつわる失言や、霞が関との癒着や接待問題、そして当人が開き直ったり、記憶にないどころか無意識だと言ってみたり、何としてでも自分のポジションを守るために悪態をついているようだ。世間との感覚がずれている、高齢になってもきれいな幕引きができない、ここが日本の中枢だと思うと情けないやら悲しいやら。そんな風に思われる高齢者にはならないよう、反面教師だと思っている。

ところで、世界から見ても恥ずかしいと思うことがいつからまかり通るようになったのだろうか。かつては地元の名家といわれるところは、地域の人から尊敬を集めていた。狭い地域の中では誰もが顔を知っている。立ち振る舞いに気を付けたり、尊敬されるにはこうであらねばならないといったような行動規範を自ら持っていた。また、伝統の世界も大人が子供のころからプロとして育てる。例えば歌舞伎でもやっとセリフを覚えて4,5歳で舞台を踏めるような子供たちをおじいちゃんのような世代の人たちがお世話をしているのをテレビで舞台裏としてみたりするが、きちんと一人前になるために、人としての生き方を教える人がそばにいるからではないかと思うのだ。華道や茶道も師範がいて、憧れのその人の生き方を学ぶ。その人の子弟として師範に泥を塗ることがないよう、恥ずかしくない立ち振る舞いをしようと努める。こういう歯止めがきいていたのだ。

ところが今は「自由」という言葉をはき違えている人たちが変に権力や利権を握って、一生安泰で暮らせることしか考えていないのではないだろうか。国民年金で月6,7万円しかもらえないので月々のやりくりに悲鳴を上げている高齢者がいるというのに、1回7万円の食事をしても覚えていないと答弁する官僚がいるだなんてことがまかり通るのだろうか?!

日本ではこういうことが起きると、最初に私が書いたようにあぁ、あの人は情けない、恥ずかしいという気持ちになるが、欧米諸国では同じような状況があるとどんな心持ちになるのだろうか。個人を見てその人を恥ずかしいと批判するのではなくて、分別のある大人だったら、こんないい加減なことをする人を議員に選んでしまった自分に見る目がなかったとか、未来はどうなるのかと考えるとその企業の商品サービスは買わないとか、将来や社会に思いを馳せて自分の考えや行動を悔い改めるのではないかと想像する。何人か知っている友人たちのことを思い浮かべると、そんな風に見えるのだ。彼らは自分たちが社会の構成員であるという自覚が強いのだと思う。

日本では教育の過程で大人として成熟するための学びが少ないと思う。そして学校を卒業すれば学びとは程遠い。働いている企業の中では自分自身のスキルを成長できるかもしれないが、社会の中で自分自身をバージョンアップしていく機会が乏しい。その中で、単に誰かを批判するだけではなくて、自分の行動を決める価値観みたいなものは何か、改めて問い直してみたい。よく「みんなが安心して幸せに暮らせるまちづくり」というのは耳にする言葉で、誰もが合意できると思う。でもその「安心」とか「幸せ」というのはどうやったら得られていくのだろうか。今まで「波風立たせずにこのままでいい」という連続が失われた20年、30年につながったのではないかと考える。そうやって何もしなかったことが劇的に変化する世界から取り残されつつある状況に陥ってしまっている。

そこで私は「100年先まで残したい」というのを自分の1つの判断軸にしてみた。これは京都の女性起業家たちとイベントをやったときに出てきたキャッチコピーだが、未来を見据えたとてもいいフレーズだと気に入っている。あえてこのご時世で差別発言を記すが、社会を意識しないオジさんにはピンとこなくても、子供を育てるようなたくましい女性たちにはしっくりくるはずだ。一度事故が起きたら廃炉までにとんでもない歳月がかかる原子力発電所を100年先まで残したいかどうか、これから成長産業として伸びていく分野をどこかの企業独占するこんな風土は100年先まで残したいのかどうか、資源が少ない国で何が100年先まで残る産業なのか、日本人としての誇りがある素敵な文化を100年先まで残したいかどうか、美しい風景と棚田を100年先まで残したいかどうか、優秀な人材を100年先まで残したいかどうか、ではその人材づくりは今のままで100年先まで残るようなシステムなのか。これで仕分けていくと、何が大事に残していきたいものか、近視眼的に今は大事・必要だけど将来性はないなと思うものはあっさりカットするということができるのではないかと思う。100年というのが長すぎるならば50年でもいい。今こそ見直す時期ではないかと強く感じる。

私みたいな鈍い人間でも、日本が落ちるところまで落ちたか…という絶望感が大きい。無関心、見ぬふりをしているというのではもう済まされないところまで来ている。何をやってもどうせ変わらないという諦めで終えていいのだろうか。

それをどうにかしなきゃいけないと地方の議会に知っている女性たちがこの春2人挑戦している。どちらもカカオワークショップでお世話になった地域だ。一人は先日の投票結果が出て町会議員に初当選した。彼女はガンを患い、寝たきりに近いところからの再帰で余生を地域のために捧げたいと立候補した。もう一人は子育て真っただ中なお母さんだ。こういう人たちが増えることで、これまでの利権をむさぼる人が中心で動いていく政治が地方自治から変わっていくことを願うばかりだ。

東日本大震災10年に寄せて

 今年3月11日、東日本大震災から10年を迎える。今、カンボジアに私は移住しているが、目黒で働いていてとても大きな揺れを感じ、その夜は大勢のスタッフと一緒に事務所に泊まった。その後週末に大阪の実家にすぐに帰り、あの時もメールとスカイプを駆使して大阪でリモートワークをしていた。そうか、コロナ禍の今と働き方はあまり変わっていない。
 あの地震でいろんな被害を見るにつけて心がふさいで、10年後は日本の技術でチェルノブイリの事故よりもはるかに進んで復興して、少しは明るい未来になっているかと想像していたが、今年コロナで世界の人々の心をますますふさいでいる。どちらも見えないものにますます恐怖を感じる日々になっている。

 10年前に被災地に入って、「ソーシャルニットワークプロジェクト」を始めた。福島の会津若松、岩手の宮古、大槌、岩泉、さらには青森まで広がった。そして1年目は全国から集まった応援でストールやひざ掛け、バッグなどを届けた。心待ちにしている人のために届ける、これは被災地の人たちのやりがいにつながった。慶應義塾大学環境情報学部の故・高橋潤二郎先生も「これは被災した人たちのアイデンティティを取り戻すとても有意義なプロジェクトだね」と褒めてくださった。
 このプロジェクトはおかげさまで話題になって、新聞やテレビなどでも紹介された。また現地に一緒に入って編み物を指導してくれたニットデザイナーの三園麻絵さんもあちこちに紹介してくれて、1年後の3月11日には山本寛斎さんが呼び掛けたパリで商品を紹介、化粧品会社の銀座のビルで展示会を行ったり、さらには青山のおしゃれなお店を紹介してくれたり、さらには品川の駅ビルでクリスマスツリーのオーナメントを作るなど、普通の企業が単に売り込んだだけではできないような大きな仕事もいろいろと舞い込んできた。それだけ被災地を応援するというのは耳目を集めたことだった。
 しかし、難しかったのは実際の編み手さんの生活の再建と、仕事とのバランスだった。コンスタントに被災地で仕事をお願いするためには、こちら側はあちこちに営業して仕事をとってこようとする。ニットは夏場はあまり需要がないので繁忙期と閑散期の波が出てくる。その一方、2年、3年と経ってくると、避難所やプレハブの生活から県営住宅にも引っ越しができて、だんだんと生活を取り戻している。生活の中でやらなければいけないことも増えてくる。だんだん年齢も上がってきて、リーダーだった女性は義母の介護が深刻化してきた。このまま続けられない、そして他の人もリーダーを引き受けるほどの責任を持てない、そういうところから中心だった宮古のチームは解散することになり、現在はできる人が時々三園さんからのサンプルづくりなど、単発の仕事を請けたりしている。
 この時に学んだのは、何もなかったところから仕事を作るといっても、そこに係る人たちとともに起業マインドをどうやって醸成するか、だ。得意なことから発展した編み物だったが、やはり仕事にしていこうとなれば自分のペースだけでは進めることができないし、またきちんとした商品を納品すること、商品タグをつけるなど製品として仕上げること、やはりビジネスになったら納品ルールがある。そこを面白いと思って一緒にステップアップしていかなければいけない。負担だと思ってしまったらビジネスには程遠い。お金をもらうからには顧客のニーズに合うようにきちんと仕事をする。自分の商品をプロモートしてくれる人とも利益を分かち合う。このことをよく理解しなければ、続けることが難しい。

 ここは私もとても勉強になった。現在、カンボジアに移住して、コンポントムという町で地元の中高生と一緒に暮らしている。卒業後に海外や都市部に出稼ぎに出るのではなくて、地元で仕事を創ろうということを掲げている。今年11月に高校を卒業する女子学生が4人いる。すでに一人は覚悟を決めて、会社の社長になってくれて、ビジネスへと一歩進んだ。実務はまだこれからもっと教えていかねばならないが、どうやって誰もが参加しても清潔に保ち、間違えなくカシューナッツを詰めて船便での発送準備に取り組めるかという仕組みづくりを構築している。次に、さらに地元の素材やカシューナッツを加工して商品化するリーダーをどうやって稼げるようにするか、新しい商品化やカフェも合わせてどのように収益にするか。デザインが得意な子、ダンスが教えられる子、いろんな才能も活かしてどうやって仕事にしていくかを考えている。

 また、日本のソーシャルニットワークプロジェクトは、全国からいただいた毛糸を無償でいただいたことで原価がかからずに済んでいた。800組もの人々から集まった毛糸を有効活用させていただき、さらに4年後のネパールの被災地にも広がった。100人近い編み手さんたちが集まり、ニットだけでなくフェルトの商品も作るようになっている。現地のネパール人スタッフも日本がフェアトレードとして買ってくれることを当てにしつつ商品を作り続けてきたが、コロナで日本への輸出が難しくなったという状況が転機となり、ネパール国内に売るようにギアを入れ替えている。チラシや動画のスキルもあげて、大いに販売促進をして、少しずつ認知されるようになった。だんだんとビジネスに育ってきているのは嬉しい。

 この震災、そしてコロナはいろんなことを気づかせてくれた。立ち上げたプロジェクトを長く続けるためには、常に無理があるのでは辛いし、しかし一度つかんだお客様をどうやってリピートしてもらえるかを考えないといけないし、清潔感に対する基準が国や文化によっても違うので、輸出してトラブルがないように気を付けなくてはいけない。仕事を創ることの難しさと面白さを日々経験させてくれている。

第二近代の個人化が進んだ先

根強い安定志向

 15年ほど前にいくつかの大学で現役大学生とかかわることがあった。その際に地方の大学で特に聞かれたのが「収入のいい男子と結婚して専業主婦になること」だった。え?平成の世でもそんな古風なことをいうの?と驚きの読者も多いと思うが、意外に女子大生はコンサバだったのだ。「いやいや、何が世の中起きるかわからないのよ。結婚した相手がもしかしたらDVであなたが苦労するかもしれない。女性問題などで離婚するかもしれない。旦那さんが急に倒れて亡くなるかもしれない。夫にぶら下がるんじゃなくて自分で食べていけるように考えなきゃ」と当時は笑いながら話していたが、そのようなことは今や日本の各地で起きているだろう。

 きっとその学生たちも今や30代後半になり、子育て真っただ中の女性たちも多いと思う。どうなっているかなとふと思うこともある。

 経済成長が上向いている時代は何も考えないでもある程度は稼げる。しかし、バブルがはじけて経済成長が望めない時代に突入してからは、今までの延長線上に日本はもうない。それを身近な大人たちもあまり指摘せず、政府は景気回復ばかりを口にして、かつてのような好景気の幻想を国民が抱く。両親が享受してきたようなモデルはとうに崩れたことを自覚していない女子大生があまりに多かった。しかし、この安定志向は令和になった今でも根強く残っていることがさらに驚きだ。

最小社会単位が家族から孤に

 これも10年以上前の話だが、ある男女共同参画センターの評議員を頼まれ、そこを運営していた団体が適切に事業を行っているかを評価するという仕事の依頼が舞い込んできた。そこは全国でも有名なセンターで、会議に臨む前の事業報告書に目を通させてもらった。私は女性の起業支援事業に対してのアドバイザーだったわけだが、他の項目を見ると若い女性たちを引きこもりから脱却、起業へとお手伝いをするという内容もあった。最初に参加した若い女性たちのアンケートの集計結果があった。その中でも忘れられなかったのが「家にいても落ち着かない」と答えている女性がかなり多かったことだ。

 私たちは社会学で“家族は社会を構成する最小単位”と教わっている。しかし、そこにいることがつらい、居心地が悪いと感じている女性が多いという現実にショックを受けた。彼女たちにとっての居場所はどこになるのか?親の過干渉も目立っていた。昔であれば、親と関係性が悪くても、同居している祖父母が助けてくれたり、近所の心やすいおばちゃんがいたり、誰か身近な大人がその子の支えになれていたのだろう。しかし、今は核家族、そして隣人との付き合いもないような都会生活では、見守ってくれる大人があまりいない。ドアを開ければ小言を言われるので、親とも断絶をして自分の部屋にこもる。そういう人たちが増えているということだ。

 ウルリッヒ・ベックは“第二の近代”において個人化がさらに進むことを述べているが、いまや、社会の最小単位は家族ではなくて「孤」になってしまっているのではないだろうか。これは子どもや若者だけでなく、孤独死する人たちからもわかるように高齢者、さらには都会に一人暮らしをする人たちも、だ。周りの目、世間体、干渉を嫌がって田舎から都会に子どもが出たがると、ある地方の親御さんから話を聞いたことがあるが、いったんは得た“自由”がだんだんと“勝手”に変わり、他人との接点がなくなる。いい時は好きなように生きられているように感じる。しかし、いざという何かが起きた時に “孤独”へと陥る。「将来のことは少しは考えなきゃ…」と気持ちがあっても自分一人で考えることは堂々巡りで回答が出ず、対話もない。ま、いいかとスマホなどに逃避して時間はあっという間に過ぎていく。そしていよいよ大変になった時に何も打つ手がなく、情報に踊らされて右往左往する。

 昨年のコロナで「第2波で女性の自殺率が急増」という記事を何度も目にする。物理的に移動もできなくなって、“孤人化”してしまったことが女性たちを追い込んでしまった原因の1つではないかと推測する。

コロナでメンタルパンデミック

 コロナはどんどん専門家の研究が進んでいるが、ワクチンよりも何よりも、心身共に元気であることが一番のようだ。誰かが“メンタル・パンデミック”と書いていたが、コロナがきっかけで情報に右往左往して元気な人が落ち込んでいく。不安ばかりが募って何もしない状態では、免疫力も下がって、危険だ。そして日本は「こんな時期に東京からこの田舎に帰ってくるなんて許せない」というような変な正義を振りかざした同調圧力がさらに気持ちを萎えさせる。きちんと規則正しく自炊をベースとした生活にして、あまり多くの人と今は接触することを避け、変に怖がらずに平常心を持つことが大事なのではないかと思う。

 私はこの時期に日本に帰れなかったので今回は経験をしていない。カンボジアは今のところこれまでの累計で500人にもまだ満たない。巷ではマスクをしたり、銀行に入るときは検温したり、手袋や消毒液も飛ぶように売れ、価格も高騰しているが、パニックにはなっていない。徐々に結婚式シーズンで人が集まるような機会も増えつつある。一体何が違うのだろうか。気候の違いももちろんあるが、私は生活スタイルではないかと思う。交通手段がバイクが中心で遠出も少ない。国内で観光旅行をする人はまだまだ少ない。ご飯も自分たちでちゃんと1から作り、特にプーンアジでは薪を割ることから始めるわけだが、体を動かす「営み」がある。洗濯も大きなたらいいっぱいにゴシゴシ手で洗って干して…。ここにいる子たちで肥満の子はいない。なんでもボタン一つで楽ができて、時短は図れるが便利すぎることがこれらの運動を営みの中から奪い取っているからなのか。

教育の在り方-私たちの実践

 そして高度経済成長期が限界をとうに迎えていて、失われた20年、30年といわれて久しいのに、教育のシステムは旧態依然だ。今や大学もリモート授業ばかりだそうだが、先生がZoomなどをこなせないから今期はレポートだけ提出といった、生徒たちの勉強の意欲をそぐような行動を起こしている人も結構いると聞いて呆れた。また60人くらいしかいない学科でも一人ずつプレゼンをしたことがなくて、パソコンは持っていてもワードでレポートを書くのみでほとんど機能を使いこなせていないという生徒はたくさんいる。その子たちが卒業して就職して、今やもう1から研修・教育投資ができるほど企業も金銭的・時間的に余裕がない。ということは、転職組の中堅を入れたほうが仕事が回るということで、若い働く人たちの雇用機会が減る。大学4年間で何をしていたかがここで大きく分かれるのではないかと感じざるを得ない。就活の時に取り繕っているようでは手遅れだ。

 現在、プーンアジでは中学生から高校生までのカンボジア人の学生を受け入れているが、ここで私たちは将来都会や海外に出稼ぎにいかなくても、地元で自分で仕事を起こせるようなスキルを身に着けてもらうようにそれぞれに仕事を出している。生徒たちは家も経済的に裕福ではなく、町中に高等教育を受けさせるためにかかる費用を工面するのも一苦労だ。そこで我々が仕事を提供することで寝食する場所を提供し、学校以外の時間は労働力を提供するという形を採っている。親元を離れているから当然甘えられない。ご飯は自分で作らないといけないし、洗濯などもすべて自分。生活の基礎的な部分ももちろん身に着けている。そして、カシューナッツの仕事も今コミュニティで行われているような仕事からさらに発展して自ら商品開発したものを売っていくような試みや、ITの仕事なども請け負う。親はいないからちゃんと自分で起きないといけないし、スマホをやりすぎて夜更かしするというのは禁止にしているので昼夜逆転現象ということもここでは共同生活ゆえにできない。

 日本では子供を大人たちはどう捉えているのだろうか。塾に勉強に忙しいからやらせない、お母さんも仕事で忙しいから変に手伝わせると時間がかかるからやらせない、こういう光景が多いと思う。しかし、子供だから…といつまでも特別枠を設けていると、急にある年齢に達したからといってできるわけでもない。“できない”のは経験し、自信をつけるようにやらせていないことも大いにある。子供なりにできることをやって身に着けさせる場が必要であって、この能力がかなり欠落していることが、ひいては将来自分が自立することをイメージできないことへもつながりうる。生活するための基礎、今のように外に出られないときに自分で自炊をすることを楽しめたり、家でも内職できることを考えて見つけ出したり、時間があるゆえにやれることは若いうちは実は結構あるはずだ。世の中の動きを知って、これまでとは違う時代が来ていることを実感して自分の足で立っていける子供たちを育てていかなければ、いざという時に自分が自分を守るしかない。それがコロナで加速度的に近づいているような気がしてならない。政府の言うとおりにしていたら生活も保障をされて安心だということはあり得ないし、雇用を守るといいながら週休3,4日制を導入すると、食べていけない正社員も出てきそうだ。正社員=安定ではなくなる。そんなときに自分で家をベースとした副業をやるためにどんなアイディアを思いめぐらせたらいいかなど、自分で考えて事業を起こす楽しみを知らなければ、楽しく乗り切ることなんかできやしない。そろそろ日本は何でもあって素晴らしい、金持ちの国だという幻想から目が覚めないと、かなり事態は悪化している。

 最近、プーンアジでは少しうれしいことが起きた。ここのところ順調にカシューナッツの仕事が進んで、昨年よりも倍近い量を早い時期に終えることができそうだ。次の収穫までに1か月ほど時間があり、その分ここでは仕事ができない。そんな中、家への仕送りも含めてもっと稼ぎたいと、敷地内で地元の女性起業家ティーダさんが経営するドリンクカフェでパパイヤサラダを売りたいと上級生の女子たちが言い始めた。自分で少し先のことを考えて小商いにチャレンジする、とてもいいことだと私は思っている。ないなら自分で生み出す、このトレーニングをすることはとても大事だ。日本の同世代の若者たちにこの先を読んで危機意識はあるだろうか。学校で教われないならば自分でどこかからつかんでいくしかない。私はカンボジアを舞台に、日本人カンボジア人にかかわらず、こういう場を提供していきたいと思っている。

地獄元年によせてーJ.S.ミルのディストピア

松井 名津

 地獄元年という表紙のタイトルに「?!」となった人も多いだろう。私自身はといえば、地獄というよりも蟻地獄かなと思った。もがいても、もがいても引き摺り込まれていく、そういう地獄を思い浮かべてしまった。安部公房の『砂の女』ではないが大量の砂の圧力を時として感じるからだ。一粒一粒はなんということもない砂。少し大きくなったところで違和感を覚えるだけの砂。そんなものがより集まり堆積し一斉に崩れかかってこちらに向かってくる。自分の足元さえもいつの間にか不安定で、拠り所なく、力の入れようもない。今の世の中が地獄に向かっているとすれば、こんな地獄ではないかと私は思う。

 世紀の変わり目だとか、時代の潮目だとかに、人は一斉に夢を見る。19世期半ばに生きたミルもまたそうした数多くの夢を見聞きし、自らも夢見た人である。これまでも彼自身の夢(あるいは「賭」)を紹介してきたが、今回は逆に彼の悪夢を紹介しよう。一言でまとめると「予定調和の世界」がそれである。こうまとめてしまうと何やら理想郷のようにも聞こえる。全ての人があるべき姿で、あるべきところに収まるのが予定調和なのだから。ミルの時代、科学の力によって子供の能力に応じた教育を施し(あるいはあるべき姿を教育し)、適切な職業を与え導こうという動きはラディカル派、守旧派を問わず存在していた。不適切な環境や不適切な教育(無教育)こそが貧困の連鎖を引き起こし、怠惰や犯罪の原因となると考えたからである。適切な教育、適切な職業、適切な人生…これが予定調和の世界である。ラディカル派ではミルの父やベンサムを始めとする功利主義者や、ニューラナークを作ったオーウェンが、こうした考えの先頭を行っていたと目されている。守旧派ではカーライルがそうであろう(彼は奴隷制度を未開の人に文明の端緒である労働を教えるために必要な制度であると擁護していた)。

 ところがこれまでも何度も紹介してきたことだが、ミルはこうした考えを酷く非難する。その根底にはこうして作られる世界がディストピアに他ならないという考えがあったのだと私は考えている。なぜディストピアなのか。彼はこうした予定調和の世界を同時代のインドや中国と同じだと考えていたからだ。どちらも高い文明を持っていた。しかし固定的な社会制度のもとで、人々はそれぞれの社会的地位を、運命的なものとして受け入れるだけで、変化を求めない。そうミルは考えていた。「停滞する」社会である。予定調和の世界もまた、科学の知識によって決められた能力を、決められた手段によって開発し、決められた職業につき…と安定した、だが定まった人生を人は歩むことになる。それに逆らうのは非科学的なことでしかない。こうした世界を垣間見せてくれるのが漫画『地球(テラ)へ』の最終盤である。未来の地球、そこには大人しかいない。ぎっしりと大人が並んで行き来するエスカレーターですれ違う二人の男性が会話をしている。

「なんでも昔は人間が自分で自分の職業を選んでいたんだそうですな」

「なんと野蛮な」

「今は全てマザーが適切に決めてくれますからな」

「全くです」

 ほんのワンシーンなのだが、この世界の全てを語っているシーンだと私は思っている。マザーと言われているのは人間ではない。全知全能たるAIである。人々の能力、個性に応じた趣味、仕事、配偶者を選ぶのはもちろん、全ての悩みの聞き手であり、喜びを共にする存在でもある。人々はマザーのもと安心して日々の生活専念することができる。マザーの決定は全てであり、それに逆らうことは「考えられないこと」「病気の証拠」でしかない。この漫画でこの日常生活を壊すのは、日常生活に不満や不信を抱いた普通の人間たちではない。彼らは日常生活に満足し切っている。(ではなぜこの世界は壊れるのか、それはご自身でどうぞ)。これこそが、ミルが忌避してやまなかったディストピアなのだと私は思う。

 この世界で人は自分で何かを選択するということをしない。いつも誰かによって決められた道を歩む。失敗が存在しない(科学的真理に従っているから)から、変化を求めることもない。もちろんこの世界でもほんの少しの不幸、不満はあるだろう。人と人とのすれ違いから喧嘩になることもあるだろう。しかしそれはマザーによって解消させられてしまう。戦争のない平和な社会である。けれどそれは人間が自ら選んだものとはいえない。あるいは功利主義に対する反論としてよく持ち出される睡眠機械がある。夢の中で自分の希望や欲望が全て叶えられる機械だ(これを扱った秀逸な漫画が『夢みる機械』。ここではこの機械を使って世界征服を図った当のご本人が一番先にこの機械を使っている)。この機械さえあれば人はすべての欲望を何らの代償もなく叶えることができる。功利主義でいえば「最大満足」の状態だ。で、現代の反功利主義者たちはこの事例を使ってこの状態の人間が真に生きているといえるのかと問いを突きつける。現代の功利主義者がこれにどのように反論しているかはともかくとして、ミルならばあっさりNOと答えるだろう。すべての人が夢みる機械に入ってしまった状態はミルのディストピアである。ここでも人は定まったコースを夢に見るだけで、選択をしない。不幸や失敗に出会うかもしれないが、それはストーリーを豊富にするための単なる仕掛けでしかない。機械の中の人たちは全員満足している。しかし、とミルは言うだろう。この満足は幸福ではないと。

 ミルは功利主義者である。が彼が求めたのは幸福である。彼は『自伝』の中で幸福はそれ自体を追求しても手にすることはできない。何か別の目的を追求しているとき、道端の花のようにふと発見するものであると書いている。人生で何らかの目的に向かって行動している。それが幸福の前提である。そうした幸福が疑似体験で得られるかどうか。『夢みる機械』が与えてくれる夢は何もかも不自由のない世界だが、その時本来の達成感が得られるのかどうか。これは実験しなければわからない。が、直観的に「ちょっとそれはね」という人が多いのであれば、おそらく何らかの心理的バリアーがあるのだろう。ミル自身、満足を否定しているわけではない。とはいえ「満足した豚よりも、不満足な人間のほうがよい。満足したバカよりも不満足なソクラテスのほうがよい」というのが『功利主義論』の一節にある。そしてこの一節が代表するように、彼は満足や幸福に質の違いがあると主張した。より高い質の幸福や満足を求めて、より活動的に人生を生き、自ら選択する。これがミルの求めた理想的な人間像であろう。その一方で五感が満足するものを与えられること、与えられた選択肢の中から最も満足するものを選ぶこと。貧しくもなく、飢えもせず、不自由のない生活をおくれるのであれば、考えること、選択することを放棄する。これは彼にとっては回避したい人間像であり、ミルからすれば自ら幸福を放棄していることになる。しかし、安楽で安定していて安全であれば、それで満足だというのが人間でもある。

 ミルは自分の理想と、目の前の現実世界で大多数を占めつつある安全と安楽だけを求める「大衆」的人間の間で揺れ動く。自分の理想を「あるべき姿」としてしまえば、それは絶対的真理を設定し、人間にあるモデルを押し付けることになる。それもまた人間の自由意思を否定することになる。その一方安定と安楽だけという人間をそのまま認めてしまうこともまた、自ら選択するという自由意思を窒息させる社会が実現する道を開くことになる。結局ミルは人間がきっと自由意思を選択するだろうという「賭」を提示することにした。それぞれの時代、それぞれの社会が自由を基準に社会を選択することに期待をかけた。

 それから150年以上がたった。私たちの社会、少なくともこの日本はどちらに近づいているのだろうか。学生に将来どんな生活をおくりたい?と聞くと、ほとんどが「フツ―の生活」と答える。フツ―ってどんなの?と聞いても明確なイメージを持っているわけではない。とにかく毎日無事に、パートナーがいて子供がいて、ちゃんとご飯が食べられて…。ではそういう生活がどうすれば可能なのかと聞けば、会社に入りすれば実現すると思っている。「見苦しくない私服」を考えるのが難しいから、リクルートスーツが一番だという。どこかで聞いたような主張を述べていると安全で安心だと感じている。その癖どこか息苦しいという。

 最初に蟻地獄と書いたけれど、とてつもなく大きくて自分が下に沈んでいっていることも気が付かない蟻地獄に、彼らは生きているのではないかと思ったりする。もがくこともなく、そこが地獄だということを自覚することもなく。ゆっくりとでも確実に、選択しないという不作為によって沈んでいく。そして自分たちが苦しくなったとき、多くの人は「これは自分のせいではない」と思う。当然だ。自分で選択したことがないのだから。だとしたら、始まるのは蟻地獄の中での犯人探しだ。誰が自分よりもより悪いもの、より低いものを見つけて、自分の優位を誇る。地獄には鬼の獄卒がいるというが、怖いのは地獄の囚人同士の罵り合いだろう。  今年が地獄元年となるのかどうか。たとえ小さくとも一つ一つの選択に賭けがかかっている。

国内外に商品をもっと発信するために

〇カンボジアの今

 カンボジアで華やかな産業といえば、繊維、建築、観光だそうだ。しかし、これがコロナ以降、軒並み厳しい状況になっている。まず繊維はコロナのおかげで消費が冷え切って、世界中でみんなが服を買いにショッピングに行くことが少なくなったため需要が減っている。そしてプノンペンは建築ラッシュ。ファッショナブルな商業ビルや都会的でおしゃれなマンションがバンバン建ち始めているが、これも中国人を中心とした外国人ターゲットの物件が多い。こちらも人の行き来が少なくなったおかげで現在ストップしてしまっている工事現場もあるようだ。そしてアンコールワットをはじめとする観光。シェムリアップは観光客で成り立っていたようなものなので、人が来なくなって閉まったレストランも多数ある。またSCYでチキンビジネスも展開するデン君の弟は、英語も堪能で外国人相手の日帰りツアーの案内などをやっていたが観光客が来なくなったため、好きだった仕事から転職して現在不動産業に勤めている。シェムリアップの観光はかなり打撃が大きい。

 現在、カンボジアに入国するのも簡単ではない。3か月日本にいた後、私もカンボジアに戻ったが、同乗者でコロナ陽性反応が出たためにホテルで2週間缶詰めを経験した。簡単に行き来はできなくなっている。外国人入国者からお金を預かる銀行(手数料として一律30ドル取るので)や保険会社、そして受け入れホテルは確かに儲かっているかもしれないが。

〇普段から外に出る必要のない人は田舎で生き生き

 カンボジアにいるとき、私はほとんど外に出ることがない。生徒たちが作ってくれたご飯をありがたくいただいているので、買い物も週に1回朝ご飯用の食パンを買いに行くくらいだろうか。住むのも働くのもプーンアジ内で完結している。外に出かけないから敷地内ではマスクは要らない。たぶん山口県の楠クリーン村も同じ状況だろう。外に行く必要があまりない私たちのような生活にとって、コロナが始まってもあまり生活自体は変わらない。しかし、都会に住んでいる人、働きに出かける人は消毒液を常に携帯し、毎日のようにマスクを消費しなければならない。

 ところが、プーンアジの生徒たちが公立学校へ通学する際にマスク着用が義務のようだ。去年7月にプーンアジを訪れてくれ、さらに10月のカンボジア舞踊キャラバンでも受け入れてくれたクブスリアの柴田恵子さんは家庭で不要の“アベノマスク”それから使い捨てのマスクや消毒液を集めてくれ、今回私が出国する際に託してくれた。ガーゼで洗うと小さくなるアベノマスク。日本ではかなりブーイングもあったと聞いているが、おかげでカンボジアの子供たちにはぴったりのサイズだ。この前会議でデン君にどういう理由でこれをもらったのかを説明し、柴田さんにお礼の動画を送ろうということで、みんながマスクをつけて嬉しそうにしている写真や「ありがとう!」と手を振っている動画を送ったところ、非常に喜んでくれた。寄付してくださったお客さんにもシェアしたいとおっしゃってくれた。     

〇誰もやっていない、ちょっと先のことを見つける

 話は脱線したが、カンボジアに来るまでは大変だったが、来てしまえば何ら普段と変わらない生活が送れるカンボジアで私たちはカシューナッツバターづくりをしていた。朝から晩まで、1日70個前後という少数だが、毎日作り続け、やっとパッキングもして輸出の準備が整ったところだ。

 みんなこれを仕上げたことで自信をつけ、また来年に向けて日本での販売を広めるべく頑張るためにも、カンボジア国内ですべてのものを調達できないか、プノンペンで調査もした。その際に、瓶を取り扱う会社、それからラベルシールを印刷してくれる会社に実際に作ったものを持っていって、同じようなサイズの瓶がないか、日本で頼んだのと同じようにラベルを印刷したらいくらかかるのかなど、見せながら説明したところ、この商品そのものに興味を持ってくれた。

 また、カンボジア産にこだわったヘルシーなお菓子を作っているグループがいる。月に4,5キロカシューナッツを供給できそうなルートができた。もちろんカシューナッツを供給するだけでなく、お互いのマーケットを紹介しあうような関係性が築ければ、国内販売への可能性もまた広がる。私たちのカシューナッツで輸出基準に合わないもの(小さすぎるといった規格外品)を安く提供できれば、私たちも在庫の面からも、先方も市場価格よりも安く変えてお互いハッピーな関係が生まれる。

 ここ1,2年でカンボジアも大きく変わった。1つは輸送。ここコンポントムからプノンペンまでは170キロくらいあり、移動には片道2時間半から3時間かかるのだが、最近ビジネス用の宅配業者が郵便局よりもいいサービスを提供している。コンポントムの支店に18時ごろまでに荷物をもっていけば、翌日にはプノンペンの指定の住所まで届けてくれる。先日2.5キロくらいの重さのものを袋に入れてプノンペンの会社に送ったのだが、送料はわずか1ドルちょいだ。生きている家畜や肉などの生鮮品やにおいのきつい果物(ドリアンなど)はダメなのだそうだが、これは地域を超えて物を提供するチャンスを広げてくれる。もう一つはスマートフォンの普及が拍車をかけ、アプリの活用はある部分で日本よりも普及しているかもしれない。UberEatsのようなバイクでレストランの食事を届けてくれるサービスでFood Pandaというのがあるのだが、この1年であっという間にプノンペンで広がり、とうとうここコンポントムにも上陸。トゥクトゥクもPassAppとかGrabなどで当たり前にみんなが呼んで利用している。インターネットバンキングもアプリを使って送金手数料無料だ。都会の人たちはスマホで何か物を購入するということに抵抗感がなくなっているので、今回私たちがチャレンジするもったいないAppも普及して需要を掘り起こせば十分可能性はある。

 それを考えると、あれこれ商品開発をやってみたくなってきた。カシューナッツを使ったバジルのソース、それから「カレーの壺」のように手間をかけずに簡単に1スプーンで調理ができるような便利なソースは作れないか…など。それを先手を打って進めておけば、今後またツアー客が外国から来た時のお土産にもなる。誰もやっていないことを果敢にチャレンジすることは大事だなと改めて実感した。コロナでふさぎ込んでいる場合ではない。幸いにしてカンボジアは市中感染は話題にはなっているが、まだ大きな影響を受けていないので、今こそ準備するチャンスだと思っている。

ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と「組織」であること

松井 名津

 ブルシット・ジョブとは、と書き出してもいいのだが、詳細な定義や分析は本家[1]に任せるとして、要は「誰かのために役立っているとはとても思えないと、その仕事についている人が痛感している」仕事と考えて欲しい。一定年齢以上の人はこの言葉で「窓際族[2]」を思い出すかもしれないが、この本で書かれているのは窓際族とはいえ、何か仕事をしているフリ、忙しいフリをしなくてはならない人たちであり、またリストラの対象でもない(それどころかこの本の中に出てくる実例のほとんどが新規採用者である)。本当に全く何も仕事がない(倉庫の在庫を何度も調べ直す)場合もあれば、やってもやらなくてもどうでもいいような仕事(ワードファイルをエクセルファイルに入力し直す)の場合もある。こうした仕事が低賃金かというと左にあらず、家賃を払い日々の生活費を賄い、奨学金ローンを払ってもまだお釣りが来るほどの賃金を得ている。いってみれば「おいしい仕事」なわけだ。ところがこの「おいしい仕事」についている人のほとんどが、社会に参加していない、自分などいなくなってしまっても構わない存在だと悩み、自尊心を傷つけられ、こんな仕事を続けるぐらいなら…と「実質的(リアル)な」「他人に役立つ」が低賃金の仕事に転職していくという。

 なぜなのか?というのがこの本の根本的な疑問である。現在の生産性から考えて、通常の労働時間は週3日とか1日4時間で済むはずである。ところが「クソどうでもいい仕事」が生まれ、維持され、増殖している。しかも他人に役立つリアルな仕事は大概、家賃を払えるかどうかわからないような低賃金なのだ。こうした社会が真っ当な社会なのか、なぜこのような社会が出来上がったのか、というのがこの本の基底的問題提起である。

 「クソどうでもいい仕事」が蔓延している理由の一つ著者が挙げているのが、人間は辛くてしんどい労働をしなくてはならないという思い込みであり、仕事をしているからこそ一人前という考え方である。辛い・嫌な事が仕事であり、仕事から楽しみを得ているとすれば、それはもはや仕事ではない。ゆえに自分が楽しめる仕事、没頭できる仕事は「仕事」ではない(=無報酬もしくは低報酬)。どんな仕事であっても仕事をしていれば一人前である。だからたとえ自尊心を傷つけられるような仕事であっても、その仕事は「やって当たり前」の仕事である。人から感謝されるような仕事は、感謝という報酬を得ているのだから、金銭的に報われなくても良いはずだ。こうした考え方の背景にはカルヴァン的なキリスト教の影響があることは見てとりやすい。けれど、今や世界中に蔓延している考え方でもあるという。

 ここまで読んだとき、もしかして…日本では、あるいは少なくても私が接している学生のなかで仕事とは「クソどうでもいい仕事」であるという認識が普通になっているのではないかと思いだした。というのも彼ら、彼女たちが仕事にというか、就職で期待するのは「福利厚生」「休暇」「給与」の3点で、事務系であればなんでもいいというからだ。実際の就職活動でも、金融系=とりあえず「堅い」、流通系=大手スーパー=とりあえず検討がつく、営業系=熱苦しいからヤダ(特に女性)、窓口事務(医療系・薬剤系)=責任が軽くてよさそうと、身も蓋もない。生き甲斐とまではいわないが、その仕事をして自分が満足するかという点はあまり考慮しないらしい。どうして?と聞いてもあまり理由はなく「だってそれが普通だと思う」「ブラックじゃなかったらそれでいいし、事務系だったらどれでもいいって感じ」「大学を選ぶときと一緒」となる。

 そう。大学を選ぶときと一緒。なるべく無難な、できれば世間的に見場の良いところに入ること。仕事は「クソどうでもいい仕事」だと認識しているのではないかと私が考えるのは、実はこのところにある。学生たちが歩んできた道は、彼らにとってある意味全て「クソどうでもいい」事(勉強)を繰り返す事だったのではないか。その延長線上に就職があるとすれば、仕事もまた「クソどうでもいい」もので、自分たちの消費を支えるためであれば、つまらなかろうと、興味が湧かないものだろうと、とりあえずブラックではなく、日々無難にこなすことができれば上等だと思っている。そして実は日本企業や日本社会の実態も彼らの期待(?)を裏切らない。そう思えてきたのである。

 日本のホワイトカラーの生産性が低いことはよく知られている。と同時に過労死や自殺が絶えないこともまた周知の事実だ。というか、長時間労働をしているのに生産性が上がらないから、生産性が低いというのが妥当だろう。ということは、実は誰もが「やってもやらなくてもどうでもいい」ことを、さも忙しいそうに「仕事」にしていることなのではないか。ブルシット・ジョブの本の中で取り上げられている実例は、会社の中で「自分だけ」があるいは「自分の部署」「自分の職場(職種)」だけが「世の中から消え去っても誰一人困らない」仕事をしている。これに対して日本社会は「誰もが」勤勉に世の中から消え去っても誰一人困らない仕事を、「ある程度公平に」分担していると考えることができる。

 テレワーク推進でやっと実現の可能性が見えてきた押印廃止。日本全国どこでも書類上部にあるピラミッド構造を表す押印欄の面倒くささ、やりきれなさ、馬鹿らしさは通用する。なぜなら、日本中ほとんどどこでも「ただ上司の印をもらうだけ」で待っている時間があり、その上司がどうせ盲判を押しているのも同様だからだ。そしておそらく誰もが「押印廃止のための委員会」「同諮問会議」「同決定会議」「同理事委員会」などなどが設けられ(場合によっては『シン・ゴジラ』のように墨跡豊かな看板が掲げられ)、大量の書類と大量の印鑑と時間を費やして、延々と会議が続くであろうことを、自虐的に想像する。なぜなら誰もがその事態を経験済みであり、自分自身がその事態の当事者でもあるからだ。そしてそれが「組織の通弊」であると考えられている。

 というのも「組織」は大なり小なり命令系統があるピラミッド構造をしていて、その中で互いのパワーゲームのために、各種会議(及び根回し)があるのであって、意思決定のために会議があるわけではないからだ。そして日本の場合、意思決定は空気によって行われ、印鑑によって箔がつけられ、報告書としてきれいにラッピングされて、終了する。ラッピングを破るのはご法度だ。その間、現場ではやりくり算段で物事が進み、やりくり算段がすぎて問題が露わになれば、お定まりの謝罪を行い、誰かの首を切れば良い。この万一のための「首」要員としても「責任はありそうな名前の職務」についている人間が必要になる。そしてその責任がありそうな名前の職務についている人間が、さもパワーを持っているように見せかけるためにもブルシットな仕事(というよりは儀礼)が組織の中で必要になる。そう日本人の多くはどこかで思っている。組織人とはそういうものであり、組織で働くとはそういうものなのだと。

 どう考えても、これでは仕事は楽しくない。むしろ苦痛だろう。確かに『ブルシット』本に出てくる実例のように、単独で全てのブルシットを抱え込むよりは、日本のように組織内で広くブルシットが共有されている方が連帯感があって良いだろう。あるいは「会社のため」が生き甲斐なりやりがいを与えてくれるかもしれない。家庭や世間でどう思われようと、会社の中では一人0000の一人前の働き手なのだと思える。しかし、仕事の無意味さ、どうしようもない空虚さは、毎日薄く積み重なり、やがて肩にのしかかるものとなる。なるほどスーツの後ろ姿がどんどん傾いで行くわけだ(と私は一人で納得してしまう)。

 実際「大学」という組織らしくないところで、教員というこれまた命令系統の判然としない職についていても、年毎に煩雑になるシラバスや各種書類、申請様式に追われている。シラバスなどは「その講義で何を教えるかに関する学生との契約書」であるから、事細かに各講義ごとの内容を詳細に記述するように求められている(求めている主語は学生ではない。文科省のどこかで作られた文書だ)。講義なんて生き物だから、その時の学生のその場の雰囲気で進行状態が変わるものだと思っている。だから取り敢えず埋める。けれど一旦埋めてしまうと、シラバスが私を縛ることになる。どうにも厄介で仕方がない。黒板からスライドへの移行も同様に厄介だ(時々スライドを止めて書き直すこともある。誤字や数字の間違いを訂正するだけじゃなくて、作っていたときとは別のことを話してしまうからだ)。シラバスは生き物である講義を標本ピンで固定するようなものだと思ってしまう。ということで年々講義がやりにくい(言い訳半分)。

 こう考えてくると、先月紹介したミルの「労働が快楽になる」ことの重大さを改めて噛みしめたくなる。当時も今も「労働が快楽になる」は不評だった。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。単なる夢物語。そう片づけられる主張だった。それはまた経済学の根底を崩しかねない危うさを持っていた。けれど、『ブルシット』を読みながら、功利主義者としてのミルにとってはある意味当然の帰結だったのかもしれないと気がついた。人は快楽を求め苦痛を避ける存在である。労働者にとって働くことが苦痛である限り、労働者は労働を忌避する。忌避された労働から生まれた生産物は、何に対しても応答可能(レスポンシブル/責任を持つ)ではない。なぜならそこに労働するものの意思も配慮も含まれていないのだから。逆に労働が快楽であれば、労働するものは自分が生産するものに対して意思と配慮(ケア)を込める。それは使う人との間で応答可能性を持つものになるのではないか。

 果たして労働が快楽になるのは無理・無茶なことだろか。私はそう考えない。労働が快楽だった、少なくとも楽しみを伴うものだったといえるのではないかと思うからだ。例えば『逝きし世の面影[3]』で紹介されている幕末前後に日本を訪れた西欧人が異口同音に語る「明るい笑顔」は、「豊かさ」がもたらしたものではない。農村の労働は肉体的には決して楽なものではない。しかし、少なくとも他人に縛られて働くものはいない。天候に左右され、年貢は取られるが、日々の生活のリズムは自分たち村のものたちが作っている。祭りや神楽も自分たちの手で作り上げている。生活の厳しさはあるが、そこには楽しみと慈しみと美があったのだと(感傷かもしれないが)思う。ミルが大規模農業が盛んになろうとしていた時代に、あえて小規模自営農を擁護するのも、労働と結びついた生活の美のためだ。自分たちの、自分のリズムで仕事をし、生活を営む時、仕事は喜びを生むのではないか。

 例えば私にとって原稿や論文のため、キツいけれどガシガシと原書を読んだり他の論文を読んだりすることは労働だけど楽しい。集中していると時間を忘れる。夢中になっているからだ。誰でもそういう経験があるだろう。その代わりそのあとはダラ〜としてしまう。こんな労働を時間で測ること、時間を定めることはバカらしい。それぞれの人、それぞれの仕事に沿ってリズムがある。営業時間が決まっていたとしても、その中でリズムが生まれる。そのリズムを無視して全て一律に時間と人を割り当ててしまっているのが、今の労働なのではないか。そんなふうに考えると、近代の時計に従って働く労働が逆に特別な・例外的な事象なのではないかと思えてくる。


[1] 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』ディヴィット・グレーバー・酒井隆史(他)訳, 岩波書店, 2020年7月

[2] 出世ラインから外れて閑職につく中高年サラリーマンを揶揄する言葉[コトバンク]

[3] 『逝きし世の面影』渡辺京二, 平凡社ライブラリー,2005年

お茶という日本文化

 日本に戻ってから2か月半が経って、もう少しでカンボジアに戻ろうと、いろんなことを整理整頓し始めていました。そんな折にふと、WWBジャパンの卒業生のことも思い出しました。日本にいないと連絡の取れない方に電話をしてみようかな…と、真っ先に思い浮かんだのが京都の小泉敏子さん(お茶の先生のお名前は小泉宗敏先生)でした。

 小泉さんはとても不思議な魅力を持つ方で、いろんな提案を京都の女性起業家セミナー卒業生と共に活用させていただきました。一番思い出深いのは東京駅のイベントスペースでの1週間の出展です。もう15年以上前でしょうか。朝7時から晩の23時まで、東京駅に着物を着て、素人の私が売り子になっても飛ぶように女性起業家の商品が売れました。その代わり、小泉さんも粋な演出を考えてくださり、様々なお茶の道具などを用意してくださったり、篠笛の奏者を呼んでくださったり…。その場で手描き友禅を披露するなど、私たちが100年先まで残したいという手仕事を東京駅の中で縦横無尽に行きかう人たちに見ていただきました。おかげさまでこれから京都に行くというのにすでにお土産を買い求めてくださった方、東北から東京に来て京都とは関係ないけれども手作りのものは素晴らしいと喜んで買ってくださった人など、小さくてもきらりと光る女性起業家たちの商品を見ていただく晴れ舞台となりました。京都という場所で女性起業家セミナーをやらせていただいていろんな方と知り合えたことは私にとっても大きな財産でした。

 もう20年近いお付き合いになると思うのですが、小泉さんは何かというと気にかけてお声をかけてくださいます。彼女が開くお茶会は京都でも有名な大徳寺や京都御所の中だったり、普通の人が借りられないような空間で、さらにはその時代考証を経てこのように献茶が行われたのではないかという形を現代に蘇らせたり、皇居で演奏する雅楽の方を招いて名前の演奏をバックにお茶をたてたりと、その演出がまた壮大なスケールです。その時間はまるで夢か現か、日ごろの喧騒を一瞬にしてかき消してタイムスリップしてしまうような気分になります。粋とは何か、雅な遊びとはどういうものか、古典で習うのではない、目の前で味わう得も言われぬ体験はこの先も二度とないものだと思っています。

 小泉さんは京都大学医学部茶道部の立ち上げからほぼ40年近く携わっており、その代々のOB・OG(第一線で活躍するお医者さんたち)からも大変慕われており、このようなお茶会などに集まる方々もそうそうたる顔ぶれであることは間違いありません。しかし、そこに私のようなサラリーマン家庭で生まれた凡人であっても受け入れてくださる懐の深さがあります。私は茶道の心得は全くありません。しかし、お茶会では精通していらっしゃる方もたくさんいて、もちろんその方たちには最高の演出を提供され、選んだ掛け軸や床の間のお花など設えに関してはもちろん、お道具も身を包むお着物も超一流です。そんな最高潮に緊迫する中でもやさしく誘導してくださり、お茶席でお隣の人の見よう見まねで体験させていただきます。どんな世界においても、どんなレベルの人に対してもきちんと対応できるというのが真の指導者なんだなというのを実感させられるのです。

 現在、小泉さんも70歳を超えられ、今年いっぱいで京大医学部茶道部での指導は退官されるということで、自分しかできないことを残りの人生でやっていかなければいけないとおっしゃっていました。その1つが「茶の湯外交」です。お茶席という日本独特の文化を通じて世界と親睦を深める。このような外交手段がほかの文化にあるでしょうか。お酒の入った食事を共にすることもあります。ただ、お酒の入った席なので素面ではありません。ダンスや古典芸能をみんなで鑑賞することもあります。しかし、お茶の席がさらにすごいところは今の時代に寄り添えるメッセージが伝えられます。掛け軸に込めた想いで何かを表現したり、今あるお花を生けることでその季節を切り取り、客人は周りの人々と一緒に自分が能動的に動いて空間を作り上げます。一期一会でその時に集まった人々でしか醸し出せない雰囲気なのです。さらには教養の高い茶人が客人をはっとさせるような言葉を伝えることが気づきにもなる、とても知的なゲーム性をも含んでもいます。そしてこの飲むお茶が混ざりものなしで農家が丹精に作りあげたものであれば、一服飲むごとに味わいが深まり、もともとは薬と同じような効能であったゆえに元気がもらえる。戦国武将が茶人を寵愛していた理由もなんとなくわかります。

人生最後の集大成として、小泉さんはさらに「相手のことを想うお茶」を掲げています。私も含めて一般の人々はお茶の世界は敷居が高いと思いがちです。しかし、上に紹介したような世界平和や外交にも一役買えるようなお茶という文化を一部の人たちだけがやるものではなく、誰もが親しみをもって触れる機会を作り、さらに深めたい人は道に入るという導入部分(彼女は“序の茶”と表現しています)を作りたい、というのです。小泉さんのお宅にお邪魔すると必ずお茶室で私のような素人でもお茶を点てさせてくださるのですが、そのコツの伝授の仕方がとても上手で、初心者や外国人が初めて体験しても難しいと頭をひねらず、自分でもできたという達成感や喜びを実感できます。

「表とか裏とかいう流派でお茶碗の回し方が違ったりいろいろあるけれども、根っこは同じ。特に茶の湯外交の時ははっきり言ってどうでもいいことなんです。なぜお茶碗を回すか。自分のほうに美しい柄があると“もったいない”と思うからそれを避けるという日本人の美意識、ただそれだけのこと。だから回しすぎて再び絵柄が自分の手元に来てもいけない。もしかしたら外国人からしたら、自分のほうに美しい絵柄があったほうが喜ぶかもしれないし…」と相手の立場を慮ってお茶を考えると先生はこういう解釈になるわけです。

この“序の茶”の喜びがなければ広がらない、そのためには初めての人でも点てやすいような環境をまずは整えることが大事だという思いに至った小泉先生は、地元の有名な陶芸作家に駆け寄って、点てやすい器の開発まで始めています。だいたいお茶碗にどのくらいのお湯の量を入れたらちょうどいいか(私が点てたときはポットのお湯です)を一目でわかるような内側に絵付けを頼み、形も丸ではなくて楕円型。この方が茶筅を動かしやすいのだそうです。それをお弟子さんたちが忠実に再現し、特注することで若手作家たちの仕事づくりにつなげたいとおっしゃっています。この器と小泉さんの厳選したお抹茶と茶筅をセットにして、外国人でも自宅で楽しめるようなキットにして少しずつ広げていきたいと考えていらっしゃいます。

また、小泉先生の使うお抹茶は、宇治の生産者で、かつて神社仏閣に奉納する以外に、他のどこにも出していない門外不出の幻のお茶です。26年前に、このお茶をいただいたときに、小泉先生が6歳でお茶を始めようと決意したときに初めて口にしたお茶と同じ味がしたのに感動して、それ以来ずっとその農家に契約栽培をお願いしています。一般的にお茶は宇治、静岡など有名な産地が表記されていますが、多くの場合はその地域のものがある程度の割合で入っていれば名乗ってよいという決まりごとがあるそうです。宇治茶も近隣の関西地方で採れたお茶と配合されて、時には添加物なども配合されて出されているものもあるのだとか。コーヒーでも同じですが、どうしても自然相手の農作物はいい出来と悪い出来の年があります。毎年同じ味・品質を安定させるためにも輸出される港で混ぜられ、均一化させるという方法が長らくとられてきました。しかし、最近中南米の国々ではコーヒーの品質向上を推進し、ワインのようにどの産地、さらにはどの農園の味かといった産地別、農園別といった細かい区分のスペシャリティコーヒーなども登場しています。もともとお茶も戦国時代などは金の延べ棒かそれ以上の価値があったもので、庶民にも飲まれるように手に入りやすくなったことはもちろん大事ですが、小泉さんはコーヒーの今の状況と同じようにちゃんと農家に頑張った分だけの見返りがあるように作ってもらいたいと、代替わりしてもこの契約栽培農家を応援し続けています。また小泉さんの息子さんがつい先日脱サラして、この宇治の茶畑を一緒に守り、推進する手伝いに回ることになりました。

 お茶を点てるくらいで何がそんなに違うのかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私がたった1~2時間教わって、自分でやっただけでも大きな違いを実感できます。まずは抹茶のお粉。濃茶は苦くて甘いお菓子がないと飲めないかというと、何回も味わうごとにおいしさを感じられます(そもそもお茶席で何杯もお茶をおかわりすることはありませんよね)。品質のいいお茶だと分量も少なくてもちゃんと点てられます。そして点て方が上手になると味わいが全く変わってきます。茶筅の持ち方、意識の向け方、点てている時の音のコツを教わっただけで変わります。そしてこのようなお茶の歴史や所作がどのようにしたらきれいに見えるかというポイント、さらには今の世の中のことなどを話しているうちに、文化教養に触れて日本人としてのアイデンティティを感じ、メンターから生き方を学ぶ人格形成の場でもあり、そしておしゃべりというヒーリングなんだなぁ…と。小泉さんに会って家に帰るときには気持ちも晴れ晴れ、頭もすっきり、いろんなことを吸収したという満足感で満たされていました。お茶やお花を学びに行くのは憧れの大人たちから生き方を学んで大人になっていくという意味でもあったのかも、と。私はまだカンボジアでも日本でも若い人たちに対して、私が得てきたような学びだったり、気持ちの面で鍛錬されるような時間や場というのを提供できていないと改めて気づかされました。

今回、久しぶりに小泉さんにお目にかかることができて、文化というのは国境を越えてつながれるものだと再確認させていただけるいいチャンスをいただきました。現在、カンボジアで文化を守るということも私たちの活動の柱の1つです。私たちの生徒が昨年日本各地で踊ったことで自分たちのアイデンティティを呼び覚まし、自信をつけたことに私もとても誇りを感じています。現在はノーという女子学生がこのダンスを教えることで生計を立てられるようにするにはどうしたらいいか、スマホを使ってダンス出前サービスやオンラインでダンスを教えることなど、少しずつ形にしていこうという動きが出始めました。

そしてもう1つ、“カシューナッツを文化にしていくには?”という着想を得ました。お茶もそもそもは中国由来のもの。日本でさらに加工法、味わい方が長い歳月をかけて発展して独特の文化になったのだと思います。カンボジアのカシューナッツもルーツをたどれば肥沃ではない土地に何か作物をと40年ほど前に外から取り込まれたものです。まだまだ歴史の浅いものではありますが、それをインドやスリランカでもアフリカでもない、カンボジアだからこそというものにしていくにはどうしたらいいのか、日本のお茶会ではないですが、カシューナッツを味わい尽くす懐石料理的なものなのか、何か他の人がやっていないけれどもこれは面白い!と思うことを産地から発信していくことができるのかなと思い始めています。昨日たまたまプノンペンでカシューナッツバターをもって瓶探しやラベルを印刷してくれる会社を探していたところ、そのスタッフたちがこの商品についてとても興味を持ってくれました。国内の掘り起こしは可能性を秘めているなと手ごたえを感じました。以前のインドネシアのフローレス島でカカオの経験でもそうでしたが、生産している地域では換金作物は収入源としか見ておらず、自分たちで味わう習慣がないと自分の作った作物が美味しいと誇りを持てることが「次世代に残そう」につなげられないのではないかと思っていました。コンポントムという小さな町ですが、プーンアジの位置は産地の畑からは町中で、外国人だけでなく、カンボジア国内の人をも呼び寄せられるところです。カフェのティーダさんとも協力して、こういう話題と人を呼び、お土産を買って帰ってもらう仕掛けができたら面白いかなと少しワクワクしてきました。

何のための経済活動か?

松井 名津

 今回編集からいただいたお題は「ミルと経済成長」。実はあまりにど真ん中の直球なので、バッターとしては酷く戸惑うところがある。というのも、マルクス経済学の影響が強い日本では、ミルはずっと「生気なき折衷派」の一言で片付けられてきたのだが、70年代に一度脚光を浴びた事がある。ローマクラブが『成長の限界』の中で「資本と人口の定常状態は人類の進歩の定常状態を意味するものではない」という言葉をひいて、(経済)成長至上主義に警鐘を鳴らしたからである。これまでも何度か書いたことだが、オイルショックを受けて化石燃料、ようは自然資源の限界を世界中が痛感していた時代だった。この時は日本中が文字通り暗かった(夜間照明を必要最低限に抑えた)し、省エネルックが提唱され(非常にダサくて消えてしまった)、定時帰宅が推進された。経済成長は何のために?という議論以前に、経済成長はもはやあり得ないという風潮が蔓延した時代でもあった。その中でミルの定常状態論は、低成長もしくは0成長の中でこそ、人間的発展が可能となるという説として、あるいは経済成長ではない成長(ローマクラブの研究者はそれを「発展」と名付けたが)がありうる一つの論拠として、脚光を浴びたのである。しかし、政治的背景を持つエネルギー危機がひとまず緩和され、技術進歩により多くの油田が開発されるとともに、成長の限界は遠のき、やがてバブル経済を迎えることになった。

 そして21世期を迎え、またミルの定常論を紐解くとすれば、そこから何を読み取るべきなのだろうか。定常状態はミルだけが唱えたものではない。当時の経済学では経済が成長するに従って増大する人口を支える食料の生産には限界があると考えた。食糧生産の限界に達したとき、経済成長も止まる。それ以上の経済成長を遂げるための人口を支える食料がなくなるからである。そして19世紀半ばの経済学者の多くが、この限界が目の前に迫っていると考えた。それゆえ多くの経済学者はこの限界をどうやって先に伸ばすかに注力した。リカードは自由貿易によって海外の未開拓地に食料を求め、マルサスは農業発展の限度内に工業の発展を収めることを主張した。どちらも経済発展の延命を図る点では一致していた。

 ミル自身もすべての定常状態を歓迎していたわけではない。ミルが危惧していたのはすべての土地が人間の食糧のために耕され、人間の役に立つと認められた動物、家畜しか存在が許されない、そんな定常状態である。大阪万博に代表される「明るい未来都市」もミルが危惧した定常状態の都市だ。人間の居住空間、人間の移動手段、人間の憩いとしての緑地は揃っていても、手付かずの自然、野生の自然は何一つ残っていない。人口過密として描かれるディストピアも同様だ。人口過密と格差に喘ぐーもしくは徹底的に管理されているディストピアは、全てが人間の管理下にあるという点で、定常状態の行く末を暗示しているのかもしれない。反対に何らかの戦争や災害によって地球が荒廃したという前提のディストピアは、人間の制御外にある「自然」が残存しているという点では、ミルが危惧した定常状態とはかけ離れた存在である。

 こうした定常状態は経済学の法則上必然的に訪れるものとして設定されている。そしてこうした定常状態に入る前に、経済が発展した地域は自ら選択して「別の定常状態」に入ることをミルは推奨した。それは未開発の自然を残す定常状態である。未開発の自然でミルがおそらくイメージしていたものはおそらくはフランスからスイスにかけての山岳地帯だろう。ここで青年ミルは生涯の趣味である植物採取に出会うことになる(イングランドは一度人間によってすべての森林が伐採されてしまったので、手付かずの自然は存在しない)。人を寄せ付けない峨々たる山岳の連なり。それは経済にとってはものの役に立たないどころか、経済活動を妨げる要素でしかない(だからこそ戦後日本ではトンネル工事が一大事業となり、トンネル工事やダム工事は崇高な使命を担った闘士による戦いとして描かれるー『黒部の太陽』)。しかしこうした人を寄せ付けない山岳、手付かずの自然が残っていることこそが、人間性の進展にとって必要不可欠な要素だとミルは考えた。それは定常状態論(『経済学原理』所収)だけではなく、晩年彼が立案に関わった「土地保有改革連盟」の綱領においても同様である。特にこの綱領では、未開発地やコモンズ(共有地)が人類共通の相続財産(inheritage=後に残し続けるもの)とされている。

 ではなぜこうした未開発の場所が必要なのだろう。経済発展をあるいは農業の拡大を止めてまで、未耕作地を残さなければならないのはなぜなのか。それは自然のためではない。動植物のためでもない。人間のためである。広漠で未知な存在に満ちている場所、人間に自分の存在の小ささを思い知らせるための場所、それが未開発の場所の役割である。こうした場所で孤独に自己と対峙することが、人間にとっては必要不可欠なのだとミルはいう。なぜだろうか。ミルは孤独になることで、人間は自己を振り返り、内省することができるとする。それは日常世界では経験できない内省である。日常では人は経験を蓄える。経験の中から気づきを得ることができる。しかし、日常生活に埋没してては、思索は深めることなく、浅薄に流される易くなる。特にその日常が「お互いに肘を張り、互いを押し除け、追いやろうとする」ものであれば尚更、ゆっくりと自己を見直す時間も機会もごくわずかだろう。そしてそのまま経済発展の道を進み、世界は人類の食糧のために完全に開発され、人間は孤独になることはなく、未知と出会うこともない。

 そんな世界に人間が人間として成長できる基盤が残っているだろうか。

 ミルは単純に経済発展を否定したわけではない。人間がある種の競争心を持つ限り、その競争心は何らかの形で発揮される。時にそれは獲物を争うことであったり、領地を争うことであったりする。もっとも暴力的な形で現れた場合、戦闘という形を取る。これに対して経済や貿易は人間の競争心をより穏やかな方向へと向かわせた。これがスミス以来の経済学の基本的な考え方だった。しかしミルは経済的競争が必ずしも人間性を穏やかにするものではないこと、また直接的暴力として現れないが故に、かえって歪みをもたらすことに気がついた。スミスが危惧したように工場労働者は単純作業に専念させられることによって、判断力や気力を奪われ、ただ労働する機械となる。一方で豊かな地位を得たものは、豊かであることを当然とし、たまさか「慈善」として貧困者を保護する。庇護と被庇護の関係は容易に権力関係に移行し、庇護者の自己の拡大、権力の濫用、被庇護者のへつらい、相互の妬みや嫉みを生み出す(ミル自身が『女性の隷従』で描いたように)。

 経済発展を諦め、自ら選択して定常状態に入ったとしても、こうした問題が一挙に解決されるわけではない。しかし生産量を増大するために導入された機械は、その本来の目的である人間の労力削減に使用され、一般の人々(労働者も含め)が始めて余暇を手にする。余暇を何に使うか。あるものは狐狩りに使うだろう、またあるものは熊いじめに興じるかもしれない(熊いじめとドックレースは当時の労働者に人気の娯楽だった)。そんな中で、ミルが期待したのは当時の上層労働者が始めた有料図書館(パブの2階にあることが多かった)であり、自営農家が日々行っている日常生活を彩る様々な手仕事・庭仕事だった。あるいは女性の嗜みとされていた音楽や絵画である。本に親しむことは多様なものの見方を知り、思索を深めることにつながる。手仕事や庭仕事、音楽や絵画は、理性と闘争心に偏った「男性的価値観」とは異なる価値観を感性を通じて経験することにつながる。

 人間性の陶冶といっても、あまり大きなことをミルは初手からは望んでいないと私は考える。人間が一晩で生まれ変わることなぞないということを繰り返し主張しているからだ。制度が、社会が変わったからといって、人間性もまた即座に変わると期待するのは危なっかしいと考えている。もし即座に変わると考えているのだとしたら、それは理性だけの議論で人が自分の意見を変えることができると信じているからだろう。けれど、ミル自身が論じたように理性による議論の背後には人間の感情がある。感情によって裏付けられた議論に対して理性で反論しても、相手が自分の主張を変えることはほとんどあり得ない。感性あるいは感情に理性で綱をつけることはできても、理性で感情を引っ張ることはできない。逆に感情や感性が磨かれれば、理性も血肉を纏うことができる。だからこそ、日常生活の少しの変化が必要だし、そうした変化を促すための「自然を前にした孤独」が必要となる。

 日常とは違う、余暇とも違う、空白の時間。

 何を考えるわけでもなく、ただ自然と対峙する時間。

 そう解釈するのは日本に生まれたせいかもしれない。日本では自然は人間に対して結構優しい。だから安心して自然と対峙してられる。けれど自分の命をかけなくてはならないような厳しい自然と対峙したとしても、やはり人の心は同じように反応するのではなないかと私は思っている。なぜならミルが自然と対峙する時に、人間に求めたものは己の小ささを自覚することなのだから。

「伝統」は守るべきものか

松井 名津

 今回のお題はミルと伝統である。正直この二つは相容れないのと相場がきまっている。大阪のうどんと東京のうどんのようなものだ(うん?ちょっと例えが変かも?)。まぁどちらかに肩入れすると、どちらかを貶さざるを得ないという感じに受け取って欲しい。その筆頭格がハイエクである(以前も紹介したことがある気がするが)。ハイエクは人間の理性による社会設計を嫌悪し、むしろ慣習や伝統を自生的な、自然に出来上がってきたルールとして重んじる。そんなハイエクにとって同じ個人主義であり、個人の自由を尊重しながらも功利主義者として、理性に基づいた新たなルールを求めるミルは獅子身中の虫といったところなのである。

 確かに功利主義、ことにベンサムは合理と論理によって法体系を作り直すことを目的として、功利主義を組み立てた面が強い。何しろ今でもそうだがイギリスの法体系は「体系」をなしていないばかりか(実のところ成文憲法もない)法令や判例の寄せ集めに過ぎず、原告と被告が互いに矛盾する判例の優先を言い立てる場になっていた。それゆえ判例に精通しない庶民は法律の場に出されると決まって不利益を被ることになっていたのである。したがってベンサムは過去の判例や法令等に囚われない、真っ新な法体系とそれにふさわしい言葉を作ろうとした。そして法体系の基準に「最大多数の最大幸福」という功利原理を置いた。ハイエク的に言わせれば、人間の理性に基づいて人間の生活や行動を制限しようという「理性の思い上がり」の典型例ということになろう。

 とはいえこのベンサムの欠点ー正確にいえば偏向に関して、内部から批判を展開したのがミルでもある。その批判を一言でまとめて仕舞えば、ベンサムは法律を合理化することに専念しすぎたあまり、法律を内側から支える道徳や道徳心といった感情を無視してしまったということである。さらに法律の枠外にある日常的な振る舞いに関するルール(イギリスでは伝統的に道徳理論は人間の行動原理に基づくものである)を説明することができない点にあった。現代でも良く功利主義批判に使われるのが「危機的状況で誰を優先的に助けるのが功利主義から見て最も好ましいのか」という問いかけである。一般的にはタイタニック号のように「女・子供」優先である。が、もしノーベル賞級の学者が乗っていたら?とか、世界的な音楽家が乗っていたら?のように、現在才能がある人物を助けるべきだという議論が功利主義では成立するのではないか、それは人間の自然の感情と相反するという批判である。

 実はミルと伝統というテーマは、この場面で非常に面白い展開を見せる。ミルは「道徳や全ての行為に関して、全ての人は…自らの手によってではなく、伝統的警句といった形でそれまで蓄積された知恵によって、自らを導いているのである」という。ミルは一人一人が自分の行動の全てを予見することはできないということに同意する。上の例でいえば、誰がどのような才能を持っているのかということを予見することはできないし、現在の才能を優先して未来のありうべき才能をとるべきか悩むこともできない。なぜなら人間は未来の全てを予見することができないからだ。それは何も危機的状況だけではない。常日頃の日常的な行動であっても、人間は昔からの知恵に従って生きている。今では少なくなったかもしれないが、かつては天気予報ではなく夕焼け空によって明日の天気を占うのが普通だった(それにその頃の天気予報よりは、夕焼け予報の方がより確実だった)。西風が吹く時、南風が吹く時、残雪が馬の形を取る時…農事暦に残ることわざは先人が積み重ねてきた知恵であり、農業科学の情報よりも確かなものであったりする。こうした先人の知恵が行動として守られてきたものを「伝統」と呼ぶのであれば、ミルは伝統に対して敬意を払っていたといって良いし、こうした伝統がなければ、人々は将来に向けて実践的行動を積み重ねることができないと考えていたといっていい。

 ではなぜミル=反伝統という考え方が根付いたのだろうか。それはミルの時代にこうした伝統と人間の直観あるいは人間性(人間の中の自然 human nature)を無根拠に結びつけ、絶対視し、普遍的なもの不変のものと考える人たちが多かったからである。そしてこの議論は伝統によって人を拘束し、活動を妨げる方向へと進んでいく。「女性の隷従」でも繰り返し取り上げられているように、女性は「生まれつき」「自然に」感情的で、ひ弱く、飾りのついた可愛いものが好きで、論理的思考に耐えられないものだとされてしまうからである。

 例え伝統的とされているルールや習慣であっても、社会が、時代が変われば見直しが必要になる。そういう意味では道徳的伝統は常に議論に対して「開かれている」べきものなのである。

 では、いわゆる文化的伝統はどうなのだろう?時代とともに消えゆく身体技能、舞踏や信仰に伴う儀礼、しきたり…。残念ながらミルはこれらについて直接的に言及していない。またおそらく19世紀の西洋人として西洋至上主義的な見地を持っていただろうと思う。インドのダウリーとか、夫が死ぬと妻も殺される習慣などには強く批判しただろう。が、各地の固有の文化に対してそれを拘束的と見るか、自由の表現と見るかは、見る立場によって相当異なってしまう。ユダくんが原稿に書いていたように「安全の見地から顔を隠すヴェールが禁止された」と思ったら、同じく「安全の見地から顔を隠すようなマスクの着用が義務付けられる」ようなことが起こる時代に私たちは住んでいる。全ての相対的とみなすこと、全ての文化に価値があるとみなすことは簡単で容易だが、その一方で女子の陰唇切除のように命に関わる伝統習俗を継続させても良いのかという問題は残ってしまう。

 おそらく手がかりは「議論に対して開かれているか、どうか」にあると私は思う。伝統の保持や保存を言い立てる人の中には、伝統を維持する担い手に条件をつける人たちもいる(横綱は日本人でなくては)、伝統的価値がわかるのはその地に生まれた人だけだという人もいる(所詮外国人には日本の情緒はわからないと得意顔に)。けれど、実際には外にいるからこそ、その伝統の価値を高く認め、自らの生きる道にする人たちがいる。能楽の世界にも、歌舞伎の世界にも、日本国籍を持たない人たちが集まってくる。私と同じ謡の先生について習っている女性は、オーストラリア出身だ。だからいつも謡の章句には苦労している。でも好きだから数十年、習い続けている。彼女は謡の章句を易しい日本語にして欲しいとは微塵も思っていない(日本の教育では易しい日本語にしてしまうのだが)。能楽、歌舞伎、文楽、落語といった伝統芸能でも新作が取り入れられたりする(割と失敗するが)、昔に廃れた曲が復曲されたりもする。日本語が日本人のものだというのであれば、リービ英雄さんの日本語はどうなるのだろう(『我的日本語』は是非読んで欲しい)。

 音楽の世界では古い形式を外の国の人間が保持して、現地の人に大好評を得るということがよくある。例えば日本の東京スカパラダイスオーケストラは、本場ジャマイカで「こんなスカに忠実な古式ゆかしいスカバンドがいたんだ!!」と驚かれ、デキシーランドジャスではニューオリンズラスカルズが「こんなデキシーをやるのは俺とこと君ところだけだ」大御所ジョー・ルイスに認められている。日本でも本物の演歌歌手として人気を博していたジェロがいる。韓国のパンソリを、インドのシタールを受け継ぎ演奏する日本出身の音楽人がいる。現地ではどうしても時代の流れに押され、マイナーになってしまったり、それだけでは人気が出ないからと新しい分野と混在して行かざるを得ない文化的伝統であっても、外から見れば守るべき価値があるし、外だからこそ守っていける場合もある。

 伝統だからと細々と守り続けるイメージがあるが、実は外に向かって開かれているのが伝統なのかもしれない。何世代にもわたって受け継がれてきたからこそ、そこには時代を超える何かが存在しているのだろう。確かに権力者の恩寵のおかげもあるかもしれない。けれどそれでは説明できない何かがあるからこそ、風俗が変わっても残そうとする人がいるし、みたいという人、存続を望む人がいる。世代を超えて生き残る力があるのだとしたら、その伝統は国境という人がこの100年かそこら勝手に作った線引きを軽々と超える力があるのではないだろうか?  伝統は守り継がれるべきだ。ただし生きた伝統として、常に新しい血と新しい息吹に開かれることによって。ミルならそう言いそうな気がする(ちょっとひいきの引き倒しだが)。担い手が異なっても構わない、やり方が変わって行っても構わない。いやむしろそういう変化が伝統の中にある「守るべき中核」が何かを問い続ける原動力になるのではないか。そういう問いを受け付けず単に伝統だからとあぐらをかいて、偉そうな顔をしているのに限って、底の知れた浅薄な伝統だったりするのではないかと勘ぐっている。