自活と自給自足ー「人」と「組織」をめぐってー(亡きR氏に)

自分たちで自分たちが食べるものを、安全で安心な生活を確保しよう!自然と共に、自然の中で、自分たちだけで自活しよう!おそらくこうした動きは1970年代のオイル・ショック前後から脈々と続いてきたものだろう。それは消費者と生産者が作る生活協同組合運動(いわゆる「生協」だけではない)の一部を支えていたし、なかには実際に「自分たちの村」を作るものもあった。そしてこうした意識なり、活動は「フクシマ」を契機にして一層活発になってきているし、新しい動きも始まり、注目を集めている。

 けれど「自給自足」ってなんだろう?自分たちで「自活」するってなんだろう?

まずは「自給自足」を考えてみよう。たった一人で自給自足する生活の代表選手はロビンソン・クルーソーだろう。離れ小島に漂着した彼が自分の才覚を頼りに、サバイバルを遂げるのは児童書でもよく知られた話である。けれど見過ごされがちなのは、彼は最終的には「救助」されることであり、またフライデーと彼が勝手に名付けた現地住民を従者として使用していることである。救助の見込みや従者がいない状態では、おそらく28年近い生活は不可能だったろう(その場合は小説も成り立たないけれどー笑)。実際的に考えても、たった一人の人間が自給自足生活を行うのには相当な無理がある。それゆえ実際に考案され、実行に移される自給自足は、一定の規模の人数をもった共同体単位である。たとえばロバート・オーウェンの「ラナーク」、アーミッシュの村が思い浮かぶだろう。さて、こうした自給自足共同体にはある特徴がある。それは「他から孤立して存在している」ということ、そして「ある共通の理念によって結集している」ことである。

 理念を共有している共同体は文字上は非常に美しいが、時として悲惨な結果が生じることもある。また、非常に成功したとしても、理念を共有しない「異邦人」に対しては排他的である。こうした共同体での自給自足は原則自己完結的である(例外的に外部との取引はあるとしても)。

 こうした自己完結的自給自足共同体が無数に存在する世界を考えてみよう。可能かどうかは問わない。また、共同体への加入・脱退は自由意志に基づくと仮定してみよう。おそらくこうした世界は持続可能だろう。ただし、どのような変化もない、静態的な世界においてという条件付きで。そしてこの世界では取引(transaction)や市場の役割は極小化される。協働体感の人々の交流(transaction)もごく希だろう。こうした世界はSFに見えるかもしれない。が、擬似的な自己完結的自給自足共同体は現実世界に無数に存在する。「組織」のほとんどがそうだ。何らかの理念(経営理念でもいいし、利益至上主義でもいい、もちろん使命でもかまわない)のもと、多くの人が割り当てられた「仕事」を果たし、その共同体内での評価が、その人にとって重要な意味を持つ。何らかの理由で一時的にせよその共同体を離れる(育休等)と、それはマイナス要因、へたをすると裏切り行為に見なされる。どうだろう、心当たりはないだろうか。

 いや、我々が求めているのは「組織」ではなく、単純に自分たちが安心できる食べ物や、生活するためのエネルギーを、どこかの誰かに頼るのではなく、自分たちの手で確保することなのだと反論されることだろう。では、こう問い返そう。あなた方はそのために、何らかの「組織」を作ろうとはしていないだろうかと。ここで私が言う「組織」は理念「共同体」であり、排他的要素を持つような「仲間」の「絆」で結ばれ、その中でだけで通用する一定の原理を持つ、そういうものだ。私たちは、余りに長い間こうした「組織」に生きてきたのではないだろうか?そしてそうした「組織」が、自分たちにとって都合の良い情報だけを提供してきたこと(きていること)が、現在の不安感、自給自足を求める感情の基盤を作っているのではないのだろうか?だとしたら、その不安感、どこの誰かはわからない(顔の見えない)「組織」に依存することへの不信感を解消するために、また別の「組織」を作ったとしても、事態は余り好転しないのではないかと私は思う。

 では、お前には代替案があるのか。そもそも何かを多人数で継続的に行うときに「組織」無くして実行できる訳がないだろうと反論されそうだ。ちょっと迂遠だが、この反論に答えるためのキーワードとして私は自活をあげたい。

 自活といっても、辞典的な意味での自活つまり自分自身で生計を立てることではない(それも含むのだが)。この漢字二字の熟語を「自らを活かす、自らが活かされている」と読みたいのだ。あえて楽天的に楽観的に断言したい。この世の中に活かすべき才能や技能を持たない人間など一人も存在しないのだと。ただ、現在の仕組みでは、その技能や才能は「市場(しじょう)」の場で評価されずに埋もれ去ってしまう。典型的な例がアウトサイダー・アートだろう。障碍者の手すさび、あるいは単なるリハビリの一環と見なされていたものが、その人独自の世界を現すアートとして評価される(そしてその途端に市場価格とやらがついていく)。別段、その人が変わったわけでも、作品が変わったわけでもない。単純に世の中の仕組みが変わっただけだ。(今「人生ここにあり」というイタリア映画が公開されているが、その映画も是非見て欲しい)。どんな人にでも、その人独自の何かがある。それを活かすこと。それが自活の一つ目の意味。もう一つの意味は、そうした独自の何かは決して一人では見いだすことも、活用することもできないということだ。自分のことほど自分にはわからない。他人の方が良く知っている場合もある。自分の技能や能力を見いだすためには、他人の評価や意見は必要だし、それは身近な人のものに限定する必要はない。そしてどう活用するかも、一人ではできない。周囲やもしかすると見知らぬ他人の必要性に応じて、その人の持っている能力が引き出されていく場合も良くあることだ。それは割り当てられた「仕事」、あてがいぶちの「仕事」では起こらないだろう。けれども、他人と自分の必要性の交差するところ、人と人とが対等に向き合い、それぞれの持てる力を引き出そうと真摯に対峙する場では、日常的に生じることだと思う。私の考える自活は漢字の字面と異なって、自分だけでは存立し得ない自活である。

 前号の記事で自らの核を持つというようなことを書いたが、自活はこの核を見いだし活用することに他ならない。そしてそのためには、他人との協働は必要だ。けれど、それは旧来的な「組織」を作ることではないと私は考えている。組織の英語はorganizationだが、これは生物組織organと同じ語源の言葉だ。私が漠然と思い考えているものは、organizationではなく、organと表現するのが一番手っ取り早いかもしれない。organである限り、つまり生物体である限り、一定の形態を保っているように見える。けれどその細胞(つまり一人一人の個人)は、別段何かの命令系統に従って動いているわけではないし、離れていくモノもあれば、入ってくるモノもある。いや、生物体だって神経系統があって、脳からの指令が、DNAが…という人は是非、団まりな氏の著作を読んで欲しい。細胞は一つ一つ意志と知性を持っているというのが彼女の主張だ(もちろん人間的な意味での意志や知性ではないけれども)。第一、人間が理性的で脳の意志によって行動しているというモデルは脳科学や心理学によって崩されつつある。私の身体も行動も意志や感情も、バラバラだけれども、この私の身体という場を共有している細胞たちによって形成されているだけなのだ。

 えっと…それのどこが現実の協働と関係があるの?そう思われることだろう。では、こう言い直そう。組織体には入れ物がある。それは工場かもしれない、店舗かもしれない。けれど、それがどんな工場なのか、どんな店舗なのかは、その場を構成している個々人が作っていく。その作り上げる過程がorganなのであり、私の考える協働の場でもある。この協働の場は、場を構成している個々人が変わるにつれて変転する(紡績工場が化学工場になるかもしれない。趣味人が集うカフェが大衆食堂になることも良くあること)。場は理念によって結ばれているかもしれないが、その理念すら場を構成する個人によって読み替えられていく。

 そして、もし自給自足という言葉をこうした場で使うとすれば、それは自活する個人が、自分を活用し自分が活用されることによって、何事かをその場に供給し、そして自分に不足しているモノを受容(需要)することだ。そしてこうした場は、一人に一つとは限らない。一人の人間が複数の場を持ち、複数の能力を活用し、複数の自給自足をしていいのではないか。閉鎖的でtransaction(取引であり交流であるところの、そして「しじょう」ではなく「いちば」であるところの)の無い世界での自給自足よりも、transactionと場の変転と、自らの変化に満ちた世界の自給自足の方が、私には魅力的に思えるのだが、果たしてあなたにとってはどうだろうか。

第二近代と個人の生き方

 「第二の近代」という言葉には特別の意味合いが込められているのだろう。20年ほど前、近代の終焉が喧伝され「ポスト・モダニズム」が一世を風靡した。しかしそれは近代を前提として近代を逃れるものでしかなかった。「第二の近代」という言葉には軽薄な流行に終始してしまったポスト・モダニズムへの深い反省と、近代を正面から受け止めなくてはならないという決意が秘められているのだと思う。

 さて、上のような推測が的を得ているかどうかはさておき、ここでは私なりに考えた「第二の近代」と、個人の生き方や行動の仕方の変化を述べていきたいと思う。

 「第二の近代」。この言葉は「第一の近代」がもはや崩れ去っているという認識と同時に、「第一の近代」の正と負の両方を背負って「第二の近代」があるという認識を持っている。では「第二の近代」が背負わなくてはならない、そして超えていかなくてはならない「第一の近代」の特色は何だろうか。個人のあり方や行動の仕方に焦点を当てて考えてみたい。

 みなさんは「100000年後の未来」という映画をご覧になっただろうか。原子力発電所から出るいわゆる核のゴミが半減期を迎えるのが10万年後。その10万年後までいかに安全に核のゴミを埋蔵隔離するかという問題を、多方面の科学者達が真剣に考え、プロジェクトを立案し、実現にむけて実際に埋蔵用の穴を掘り進めている様子を撮影したドキュメンタリー映画である。こう紹介すると、福島の事故以来、原子力発電とそれに伴うリスクを全く考えていなかったことを痛感させられた日本人としては、これこそ「第二の近代」を代表する行動様式と思いたくなる。確かに、原子力発電所を建設するのであれば、ゴミの処理まで考慮にいれなくてはならないという彼らの主張は首肯できるものだし、そうあるべきだったのだろうと思う。

 しかし私は、このプロジェクト自体が「第一の近代」の極北に思えて仕方が無い。なぜなら科学者達は10万年後の未来のあらゆる状況を想定可能であり、対処可能だと真剣に信じているからだ。「第一の近代」の特色はここにある。科学や人間の英知を持ってすれば、どのように遠い未来のことであれ、予測可能であり制御可能である。人間とその知識は時に過ちを犯すことはあれ、最終的には真実に達する。人間は正しく強いのだという前提だ。言葉を換えれば、人間は強くなくてはならない、強くない人間は劣っているという意識、これが「第一の近代」に通底しているものである。自らの意見を人前で堂々と発表する、自分の欲求や要求をはっきり示す。目標をたて適切な手段を選び、ぶれずに達成する。明確なアイデンティティを持っている。こういう人間が集まって、おのおのの個性をぶつけながら、能力に応じた役割分担、指揮命令系統ができあがる。これが「第一の近代」の理想の主体像であり組織形態であろう(アメリカの人気テレビシリーズ「スタートレック」のように)。悩み惑い続け前に進めない人、意見を求めるばかりで発言することが少ない人、時により目標が変わる人。こういった人は意志が弱く、自ら努力して意志を鍛えなくてはならないとされるであろう。

 しかし3月11日以来、私たちは核廃棄物の後始末という事態に否が応でもつきあわざる得なくなった。そして自然エネルギーへの転換や、人間と自然の共生、自然に優しくが喧伝されている。こうした方向性もまた、新しい生き方として提唱されていることだろう。しかし「自然に優しく」というとき、人間は「自然に優しく」できるほど強い存在なのだと無意識に考えてはいないだろうか?

 あの大津波を前にして、「自然に優しく「自然と共生」できると言い得るだろうか。自然は人間に容赦なく牙をむく。

 森林のえさ不足で住宅地に出てきた野生熊に対して、自然保護・動物保護の立場からドングリを撒く人たちもいる。しかしそれは同時に熊の餌付けやその森林の生態系の破壊に繋がる場合がある。人間の英知や人間の自然への配慮など自然の前ではたかがしれているのだ。

 もう二度と物事が人間の英知の「想定内」に収まると100%断言することはできない。反原発の立場をとろうと、原発推進の立場をとろうと、それは変わらない。原発への賛成反対の対立軸は、原発のリスクをどうとらえるのか、それはどこまでのリスクなのか、どのリスクを優先するのかでしかない。そしてそのリスクは制御不能であり、予測不能である要素を多分に含むばかりではなく、リスクが現実化すれば旧に復することは不可能という欠如を突きつけるものである。

 こういう何が起こるか分からない、何を起こすか分からない、そして人の生活に大きな欠如をもたらす、そういうものとつきあう術(すべ)を我々は築いていかなくてはならない。それが「第二の近代」を特徴付ける行動様式になるのではないかと私は考えている。

 ではそれはどのような行動様式なのか問われれば、私は「弱くあること」「弱いということを受容し認めること」だと答えたい。私たちは他人や環境を全面的に制御できるほど強くもないし、その行動や変化を確実に予想できるほどの能力も持ち合わせていない。そういう「弱さ」をすべての人が共通にもっている。起こりうる事態を確実に想定し、それに備えて身構え、起こったことに耐えきる強固さを、私たち自身も、私たち自身が作るものも持ち得ないのだ。むしろこれから必要なのは、どのようなことが起こるにしてもそれを柔軟に受け入れ、つきあう術を持つ柔らかさであろう。それは「強さ」からは生まれない。強いものは柔らかくなれないから(言葉遊びでいうのではない。強くあろうとすると、人の心は固く決心をしなくてはならない。そういう固い決心、一途な決意はともすれば「固い信念」になり、柔軟性を失いやすい)。

 そして全員が「弱くある」からこそ、お互いの弱さを活かす試みを互いに考え、いろいろな試みにチャレンジすることを繰り返すことになるだろう。当初設定した目標は相互のやりとりの中で、どんどん変化していくかもしれない。「弱くあること」はともすれば、甘えやもたれ合い、依存に繋がるかもしれない。しかし互いに弱ければ、もたれられ、依存され、甘えられることは、弱いものの中に強者を作り出すことになる(頼られる人が強者になるとは限らない。何もかも押しつけられる一番の弱いものになる可能性もある)。全員が弱くあるためには、甘えやもたれ合いは禁物なのだ。私たち一人一人は一本の弱い糸のようなものだ。その糸が縁と思いを頼りにより合わさって織物が織られていく。あらかじめ模様が決められている織物を織るのではない。途中で途切れたままになる模様もあるだろう(織り手が、糸がいなくなってしまって)。地色が変化するかもしれない。新しい模様が織り出されるかもしれない。けれども、その時々に集う糸は同じ織物を織っているのだ。弱い自分だけでは絶対に完成できないものを、誰かが引き続けてくれることを信じて。

 さて、もう精神論はこれまでにしよう。今何より求められているのは弱くあることを試してみることだ。それは難しいことではない。たとえば電力。なぜ今まで巨大な発電所から送電していたのだろう?送電ロスが大きいのに。実際広大なモンゴル平原では、パオに太陽光発電と蓄電池を設置する試みがある。発電所を作るよりずっと安上がりだからだ。一つ一つのパオの電力はその家族の分だけしかまかなえない。でもそれで充分なのだ。スマートグリッドだから最新鋭の仕組みだとは限らない。

 自然の前の弱さを味わいたかったら、近くの里山へ出かけて、下草刈りに精を出してみよう。次の週にいったらきっと前のところに同じように草が生えている。でも毎週続けると草はだんだん少なくなる。その時初めて里山は、里山の魅力を見せてくれるだろう。私たちの周りの自然も実は弱いのだ。人間と営みをともにしながら私たちの周りの自然は生きている。人間の手が入らない自然は荒廃し、風雨にさらされやがて崩壊するのだ。

 人を支援することもまた「弱くある」事を試すための第一歩になる。弱い私の思いを、誰かに届けたい。思いを固めて巨大にして、いつ誰に渡るか分からない方式に寄付して…。なんだか、それって違うような気がするのは私だけだろうか。ちょっとだけ、顔の見えるところを選んでみよう。一つ一つは小さな営みで、決して大きくなく、たくさんの人に分配されるものではないだろう。でも確実に糸(意図)は繋がる。一緒に織物を織っているという実感をもてるだろう。

 織物を織ることは一人では、一本の糸ではできない。糸を丸めて巨大な玉にしても織物にはならない。一本一本が互いにいろんなところで絡み合いながら、あちらこちらで色々な織物を紡ぎ続けていくこと。これが私の「第二の近代」である。

組織のあり方を考える

 1995年の阪神大震災は後に「ボランティア元年」と呼ばれることになった。金銭関係ではなく、志で集まる人々に始めて注目が集まった。その後NPO法人の族生、グラミンバンクのユヌス氏へのノーベル賞の授与、社会起業やプロボノといった言葉がマスコミで取り上げられることが多くなった。

 そして今回の震災。マスコミは「がんばろう」という標語を掲げたが、むしろ「絆」という言葉が多く使われている。多くの人が、安全な場所から「がんばろう」と声をかけることよりも、時と空間が隔たっていても何らかの絆を結びたいと感じている。そしてこうした動きと全く無関係に見えるかもしれないが、今回の震災を契機として、多くの企業が拠点の分散化、現場への権限や判断の委譲を計っている。人と人との関係のあり方、そして組織のあり方が根底から考え直される時代が来ているようだ。

 現在の組織形態の多くがモデルとしている株式会社は20世紀の産物である。それも第1次世界大戦を契機として広まったという側面が大きい。意外に思う人も多いかもしれない。20世紀的社会の始まりである産業革命は、18世紀後半おそくとも19世紀には始動し、それとともに大規模工場制も始まったと思われているからだ。しかしこの時代、中心となっていたのは個人所有の工場であり、その多くは大資産を所有する特権階級のものであった。確かに当時も「株式会社」という形態は存在していた。しかし現在と違って株主は無限責任を負わなくてはならなかった。

 労働者は(今もそうだが)資本家が所有する「大組織」に雇用され、自分たちの生活形態まで決定されていた。この当時の労働者は主として肉体労働者であり、1日18時間に及ぶ長時間労働も普通であった。彼らの生活水準のひどさや教育不足は社会問題として取り上げられ、なかには労働者の生活改善運動に乗り出す資本家も多くいた。労働者のために住宅を敷地内に建設したり、教育を施していたりした。今風にいえば福利厚生施設の充実であり、その代わりに雇用主である資本家は労働者の「勤勉さ」と「命令系統への秩だった服従」を獲得しようとしたのである。

 しかしこうした労働形態や組織のあり方そのものに根本的な疑問を投げかけ、新たな組織形態を提唱するものたちもいた。今回は、J.S.ミルの議論を中心としながら当時「アソシエーション」と呼ばれたこの組織形態を紹介していきたい。

 アソシエーションを日本語にするのは難しい。通常は「団体」や「協会」と訳されるが、「結社」「おつきあい」といった訳語も出てくる。まずは「志を同じする個人の集合体」という広い意味で受け取っておいほしい。19世紀初めから半ば、このアソシエーションという言葉はちょうど現在の社会起業と同じように一種のはやり言葉であるとともに、社会の将来像を指し示す用語として、色々な人々によって使われていた。たとえばサン・シモンに始まるサン・シモン派は、アソシエーションの根本を連帯感情とし、連帯感情に基づいた協同性を信条に据えた。彼らは当時(1820年代から30年代)の状況を「愛情のあらゆる絆が打ち砕かれ…不振と憎悪、まやかしと術策とが全体に関わる関係の中で大きな役割を演じ」ているとしている。こうした中で新たな「絆」を宗教という形態を通じて、人々の愛情と秩序を通じて結び直そうとしたのがサン・シモン教のアソシエーションであるといえるだろう(参考 佐藤茂行「サン・シモン教について:サン・シモン主義と宗教的社会主義」経済学研究,35巻4号,1986年)。彼らは最終的に宗教団体という形態をとるのだが、現実の労働者・生産者の身体的、精神的、道徳的境遇の改善を旗印としていた。ただ、「秩序」を強調するあまりにかテクノクラート的な側面が強いアソシエーションでもあった。

 同じくフランス人としてサン・シモンと並び称されるのがフーリエである。彼は自らのアソシエーションに「ファランジュ」という名前をつけている。そして人々の色々な情念を4つに分類し、それぞれの情念の間には(重力のような)引力と斥力があるとした。ファランジュはこうした情念の系列に沿って、人類や動植物の潜在的な能力を最大限引き出すための共同生活を行う場である。フーリエおよびフーリエの後継者たちは、ファランジュでこそ「富と正義が一致する共同社会」が実現するとしている。このファランジュの仕組みは非常にユニーク(労働者は1日のうちに複数の活動に従事する=1種類の労働に専念してはいけない。子供はある年齢に達すると自分の親を複数選択し、その元で暮らしながら仕事を覚える等々)なのだか、そのいちいちを紹介していると紙数が尽きるので、興味ある方は『産業的協同的新世界』や『四運動の世界』を実際に手に取ってみてほしい。ただ一つ強調しておきたいのは、フーリエがファランジュでは「労働が苦痛ではなく快楽になる」と主張していたことである。

 こうした初期の動きの影響を受けて、19世紀の半ばにJ.S.ミルは『経済学原理』で、「雇用関係の廃棄(disuse使わなくなること)」を打ち出す。そして彼なりのアソシエーション論を展開する。それは労働者自身が自らの資本を持ち寄って形成する企業体である。そのため通常ミルのアソシエーション論は「労働者協同組合」といった解釈をされている。しかし私はミルのアソシエーション論の特質は、アソシエーションに参画する個々人の平等なパートナーシップであり、志を中心とした入退出自由な組織体であることだと考えている。まずは志を中心にしているという点から説明していこう。そのためにはミルが有限会社と有限会社に対する投資をどう考えていたのかから説明していきたい。

 当時イギリスではフランスで認可されていた有限会社形態を法的に認めるかどうかが議会で議論されていた。議会証人として呼ばれたミルは有限会社を少額の貯蓄しか持たない労働者が新規事業を始めるための唯一の方法として推奨する。先程も述べたように、当時は無限責任が唯一の形態であった。そのため会社を興すのに十分な資金を持たず、社会的地位も低い労働者は、資金の借り入れも投資も受けられない状態であった。有限責任であれば、出資者は出資金の範囲で責任を負えばよいことになる。見所のある事業、これまで信頼していた仲間に対する出資がしやすくなり、労働者自身が自らの手で事業を興しやすくなるとミルは訴える。さらにこうした会社形態が個人所有の会社に対して持つ利点として、多くの出資者に対して事業内容や事業収支を明確化しなくてはならず、そのことが事業の透明性を高める点を挙げる。そしてそもそも投資とは事業内容すなわち事業を興すものの志への投資であるとする(この点は現在のように株式市場が整備され巨大化した現代との大きな違いだろう)。この点はアソシエーションに関しても同様で、当初志を同じくし、資金を出し合った仲間であったとしても、志が異なってくれば直ちに脱退可能である。

 このように投資にしろアソシエーションの結成にしろ、「いかに儲けるのか」ではなく「それで何をしたいのか」という意志がまず最初にある。意志に集う仲間が形成するのがアソシエーションなのである。しかしアソシエーションといえども、組織形態である限り役割分担や命令系統は必要となってくる。その点をミルはどのように考えていたのだろうか。

 彼の議論が面白いのは、アソシエーション論と男女の夫婦関係論とが同じ「イコールパートナーシップ」という言葉で表現され、類比されながら考えられていることである(ちなみに夫婦関係の方が子供を育てなくてはならない分、継続性が重んじられる)。そしてどちらにおいても、役割の固定化は自明の理ではない。ただ、アソシエーションの場合、異なった才能や能力により、それぞれの得意分野が次第に固定される傾向があること、さらに対外的な(他社との交渉等)必要性から、ある程度の固定が望ましいことが主張されはする。しかし、リーダーシップをとる人間も、その指示に従う人間も、同じアソシエーション内の個人としては「イコール」である。その分評価も厳しくなるだろう。逆に個人の状況に合わせた働き方を認容する余地も出てくるだろう。だからこそ、ミルはアソシエーションは旧来の企業形態よりも遥かに高い生産性をおさめると主張したのである。それは単純に、同じ立場のものが集まって意気盛んだからという理由だけでは無いだろう。志を同じくする仲間と厳しいながらも同一の目的に向かっているとき、そして仲間が互いの弱点も長所も十二分に開示し、信頼し合っているとき、「労働は快楽」になるとミルは考えたのではないか。なぜなら、ミルは19世紀初期の様々なアソシエーションの内、フーリエ派を最も高く評価しており、その理由がフーリエにおいては「労働が快楽になる」という点だったからである。

 現代社会でも「労働が快楽」というと新興宗教かと言われるだろう。しかし、本当に労働は苦痛なだけなのだろうか。そして、投資や消費は単純に利益と利便性のためだけに行われているのだろうか。今回の震災が私たちに見直しを迫っているのは、今までの組織内での労働とお金の使い方そのものではないだろうか。

どこで学ぶか

松井 名津

 先月号でJ.S.ミルの教育論について概略を紹介したのだが、編集局の方から「働き・学ぶ」は難しいですかね?との注文がついた。先月号はどちらかというと教育の中身で、それも知識中心に書いてしまったので、ミルの教育が「学校の中」のものだと思われたのだと思う。

 時代的な背景もあって、ミルの中で働くことと学ぶことはちょっと微妙な関係になっている。1833年の工場法で9歳以下の児童労働は禁止されたものの、児童労働と青年・成年労働が一体化していた繊維工場などでは、児童の年齢確認をごまかすなどの逸脱行為が慢性化していた。またこの工場法は13歳未満の児童に対して工場主に教育義務を課すものでもあった。したがって「働き・学ぶ」といった場合、こうした既存の法制度に基づいた教育制度を指すことになっただろう。特に幼少者(13歳未満)に対して「ハーフタイム制度」(午前6時間、午後6時間の2シフトで労働する)を設け、労働時間の前後に教育の時間を確保しようという運動が展開されていたから、尚更である。ミル自身も児童への教育機会を確保するこうした運動を肯定していたし、称揚していた。しかし、彼自身が求めていたのは「基礎的な知識」「感性」「論理」からなる教育である。こうした教育が何のために提唱されていたのだろうか。

 ここでミルが「経験論者」だったことを思い出してほしい。ここでいう経験論はとても単純なものだ。人間はその五官から得た情報に基づいて、それのみで数々の判断をする存在である。そしてその五官からの情報に基づく判断は過誤の可能性を含むものである。それゆえ常に検証が欠かせない。こんな人間がその感覚を鈍らせたらどうなるだろう??原始時代であれば生き延びられない(だから感覚器官は研ぎ澄まされている)。しかし文明が進展するにつれて、人間は自分の身体能力を拡大する道具や機械を作り出していった。また国家や法を整備し、暴力から自分を守る装置を作り上げた。結果的に生活の利便性は増したが、感覚器官の鋭さは衰えていった。その上、機械性工場が登場すると労働者の労働は単調で繰り返しが多いものとなった。こうした労働の単調さが人間の知性を鈍らせるという危機感は実は経済学の始まり(アダム・スミス)から存在し、ミルもそれを受け継いでいた。文明の進化とともに弱まる感覚器官の鋭敏さに加え、単調な労働がもたらす知性の鈍麻。この二つに対抗するためにスミスも教育が必要だと考え、そう書き記してはいた。そしてミルの時代。保守的な立場からも急進的な立場からも、労働者や労働者児童への教育が喫急の課題だと考えられていた。

 保守と急進が対立するのは、教育の方法と内容をめぐってである。保守的な立場からは教会の日曜学校制度をモデルとした「キリスト教的基礎教育」が、急進的な立場からは宗教から中立的で、実物や画像を使う「経験的な基礎教育」「体を動かすことによって健康な身体の発達を促す」内容を伴うものが提唱されていた。さて、ミルはどうか。以前書いたことではあるが、ざっくりまとめていうと、彼は急進的な立場をとっていたが、急進的な立場が唱導する「生徒による生徒の監督・教育」には反対だった。と、ここで話を終わっても良いのだが、少し想像を膨らませてみたい。

 ミルが子供の教育について著作の一部で触れたり、手紙の中で言及している時、そこには彼自身の早期教育と、家庭内教育が色濃く反映されている。子供に早くから論理の材料となる基礎的知識を教えるべきだという主張も彼自身の体験を反映してのものだ。そして家庭内での教育に感性や情緒を求めるのは、彼自身が家庭内で感情に触れることがほとんどなかったからだ。そして彼自身が自分の幼少期に決定的に欠けていると思っていたのが、同年代の子供との触れ合いであり、実際的で実践的な活動だった。ミルの父が英才教育としてたたき込んだのは「知性」を磨くものだった。そのためになおざりにされたのは感性や情緒だけでなく、日常生活もまたそうだった。彼は後年自分自身で靴紐一つ満足に結べないと自嘲しているが、まぁ昨今でいえばネクタイ一つ満足に結べないというところだろう。だからこそ逆に「手足」を使う教育には大きな関心を払っている。ただしそれは手足を使うことが、感性や知性を発達させる場合に限る。カーライルが奴隷労働を、怠惰な奴隷に手足を勤勉に使って労働する大切さを教育するものであると論じたのに対して、そんな「勤勉」よりも「怠惰」の方がより美徳だと厳しく批判するのも、奴隷労働が感性にも知性にも結びつきようがない労働だからだ(奴隷に知性や感性がないというのではない。ある人間に奴隷労働を強いることは、その人間の知性や感性に対して破壊的な影響をもたらすことが多いという意味である)。

 さて、ここでやっと本題に入ることになる。「働きながら学ぶ」という言葉は多様な「働き、学ぶ」を含んでいる。日本の高度成長期に紡績工場の担い手となった(そして「東洋の魔女」としてオリンピック・女子バレーで金メダルをとった)女性たちの多くは、中山間地域農村出身だった。彼女たちが紡績工場に憧れ就職したのは、給与の高さとともに茶道や華道などの「花嫁修行」を工場敷地内で学べるからだった。夜間中学、夜間高校が盛んだったのは、働きながらより高い学歴を目指すことができるからだった。どちらも「働き、学ぶ」だけれども、労働と学びの内容は結びついていない。むしろ日常のモノトーンな作業や貧しい生活から抜け出すための「学び」だった。誰もが快適で便利な暮らしを求めていた時代に、より高い学歴、より多くの収入を求めることは、自分の生活に直結していた。だからこそ人々は競って「学歴」を求めた。けれどそれは往々にして既存のレールに沿って、既存社会の中でもう一つ上を目指すことでもあった。

 ミルが目指していたのは、おそらくこういう形の学びではないと思う。彼は労働者が会費制の図書室を作り、自費で本を集めて回覧するという運動を高く評価している。そしてそうした運動のためにもと、自著『経済学原理』の廉価版を出版している。鉄道と新聞が国中の隅々に普及する時代に、労働者が無知蒙昧の状態で満足することはあり得ないのだと(期待を込めて)語る。労働者が労働者として教養を積むこと、自分達が属している経済社会について知識を持つこと。しかし、それだけが学びではない。労働者にとって自分たちが持ち寄った資本によって、アソシエーションを組織し、市場で自分たちの力量を試すこと。これが労働者の「教育」に最も大きな力を持つとミルは考えていた。日常的に市場の動向に敏感になり、自分たちの賃金や物の価格がどのように決まっているのかを実感する。その実体験の上で経済学の書物は意味をもってくる。その一方でいわゆる実務教育は「仕事の中で」身に付ける物だとする。社会の一員として求められる教育は、専門技術ではなく一市民として自力で考え、自力で判断するためのものなのだ。

 では、社会に出る前の教育はどうだろう。手と足を使い、経験を豊富にするための教育。それは確かに「働く」ことと結びつく。任された仕事をどうすれば上手く効率的に仕上げることができるのか、誰が一番うまく場を仕切る人で、誰が一番うまく仕事ができる人なのか。どうすれば先輩に追いつけるのか。こういう事柄は現代の日本ではスポーツクラブや習い事で身につくと期待されているものだろう。なぜスポーツクラブ(将棋や囲碁、競技かるたでもいいのだが)で身につくと期待されているかといえば、「結果」が目に見えるからだと思う。競技であれば負けることもあるし、勝つこともある。どちらにしろ自分がやってきたことが一つの結果として残る。その結果が次の行動を促す。それが諦めることであったにしてもである。だとすれば、働くことの方がもっと有効ではないだろうか。お手伝いの枠を超えてきちんと働く。かつて自営業の子供であれば誰しもが体験したであろうことだ。働くとすぐに結果が見える。失敗すれば全体にどういう影響が出るかもすぐにわかる。一緒に働くのが大人であれば尚更、ごく身近に「こうなりたいモデル」が存在するーー私の場合はホールを仕切っていた30歳前後の女性だった。親よりも怖い先輩として、そして信頼でき一流の仕事をする大人として、彼女のようになりたいと小学校高学年から中学を卒業するまで、彼女のやり方を真似ようとしていた。

 その時に学んだことは、知識ではなく論理だと思っている。論理と日本語にすると、何やら小難しい理屈のように思えるが、英語ではreasoning、筋道が通っていること、理にかなっていることである。どうやって仕事を組み立てるか、どうすればうまく体を動かすことができるようになるか。それは単純に人真似では身につかない(自分と他人とでは体格も運動神経も異なっている)。試行錯誤の中で自分なりのやり方を見つけることが、ここでの論理だ。これは現在の学校のように一律に同じことを同じように教える場で身につけるのはなかなか難しいのではないかと思う。自分の体と頭で試行錯誤しなくてはならないことと、学校の勉強のように予め設定されている正解にどれだけ早く辿り着くかということは、全く別のカテゴリーに属していると思うからだ。ただし、やはりこれは「働く」が自分の意思を伴って行われているからこそだと思う。もし単調な仕事をただ稼ぎのためだけにやらされるのであれば、その仕事で何かを学ぼうとも、誰かから学ぼうとも思わないだろう。

 ミルの時代の児童労働は主として炭鉱での運搬、織物工場での糸繋ぎなど子供の小さな体格とすばしっこさに目をつけた単純労働だった。だからこそ彼は児童労働に反対するし、子供には教育を受ける権利がある、学校に通わせるべきだという。けれどそれは彼が「学校教育」のみを絶対視していたことではないと考えている。それよりも、子供をより広い場所に連れ出すこと、新たな経験を積ませることに主眼がったのではないか。彼自身が、父親の手元を離れ初めて欧州大陸で過ごした時に、山々の風景に、同じ年頃の子供との交わりに、それまで経験したことのない世界が存在することを痛感したように、親の拘束が強ければ強いほど、親の世界から離れて子供が生活し、学べる場が必要なのだ。

 今の大学生を相手にしていると、彼らが自分の周囲の世界からなかなか出ようとしないことを痛感する。そして親の言いつけに反抗しない「良いこ」であろうとすることも痛感する。そして親の方は「子供の自由に」と放置しながら、「普通の人生を歩んでほしい」と口にしている感じがする。真綿で包まれて育ち、真綿に包まれたまま、息ができないとは思わず、でも浅くてしんどい呼吸を続けているのが常態になっているのじゃないか。そんな気がしてならない。自由で豊かに見えながら、どこかとてもしんどく、表情が乏しい彼ら・彼女らを見るとき、何を言っていいのかわからないけれど、とりあえず何かを懸命に追いかけてみないかと声をかけたくなる。包まれた世界から一歩踏み出すのは、冬の朝に暖かい布団から出る以上に勇気がいることだ。でも暖かい布団から出てみれば、意外と手足が動くものだ。決められているように見えるレールを外れることは、勇気がいるように見えるかもしれない。けれどよくみればそのレールはあちこちでガタがきているのだ。

J.S.ミルと時代に流されない(普遍の)教育

松井 名津

 今回、編集局からいただいたお題は「J.S.ミルと時代に流されない(普遍の)教育」なのだが、折も折、締め切りが最後のセンターテストと重なっている。これはおそらく天の配剤だろうと、今の日本の教育を頭におきながら書いてみようと思う。

 まず注意しておかなければならないのは、ミルにはまとまった教育論がないということだ。『J.S.ミルの大学教育論』が新訳で出ているが(訳は以前よりずっと良くなった)これはセント・アンドリューズ大学名誉校長就任時の演説である。『経済学原理』等の経済・社会に関する論考で教育に触れることはある。例えば労働者が自ら有料図書室を作る動きを称賛していたり、ビジネス実務に関することは、ビジネスで学ぶと主張したりしている。そんなあれやこれやを私なりに編集して、紹介していきたい。

 さて、私が見るところミルの教育には3つの柱がある。暗記(あるいは繰り返し訓練)・感性・論理である。最初の暗記には「?!」という人も多いかもしれない。自立的・自律的思考を求めているミルなのに暗記の勧めとは?というところだろう。けれどこの最初の段階はミル自身の経験に基づいている。3歳から始まった彼の早期教育は有名だが、彼はこうした早期教育の利点として、幼い時ほど知識を容易に吸収できることを挙げている。彼自身はラテン語やギリシア語の早期教育を受けたのだが、どちらの言語も「死んだ言語」である。死んでいるだけに、文法や用法は動かない。言語だけになぜそんな変化をするのか、なぜ愛がamourなのかという問いを立てたとしても、それを探究できるのは遥か先のことだ。とりあえずは覚えなくては始まらない。同様に算数の初歩1+1=2の謎は集合論やらに踏み込むことになり、初学の段階では感覚的、経験的になんとなくわかるけど…で済ましておかないとある意味仕方がない問題である。哲学を除く全ての学問に、基礎部分であるだけに当初は覚えるしかないものがある。小さな子供にとって新しい物事を覚えるのはとても楽しい。それだけで自分の世界が広がるからだ。こういう暗記に頼る基礎部分などは、できれば小さいうちに済ませておく方が無難だろう。

 そして繰り返し訓練だが、ミルはよく思考力を筋肉の鍛錬に例える。使わない筋力は衰える。だから毎日筋肉を使う必要がある。でもうまく筋肉を使うコツを覚えるには、基礎的な運動を繰り返し行わなければならない。すごく地味で自由度も少ないが、基礎鍛錬なしに高度な技を身につけることはできない。これと同じことは思考力にもいえる。思考の基礎鍛錬が何かといわれると、ちょっと具体例に困るのだけど、試験のたびに繰り返し解いた問題集などを思い浮かべてもらえるといいかもしれない。まぁ基礎訓練というのは何であっても「つまらない」「発想の自由などない」ものだ。しかし自由で創意あふれる技を生み出すためには必要不可欠ではある。

 ここまでだとミルは「詰め込み教育」「知識偏重教育」に賛成のように見える。そして実際基礎部分に関しては知識を覚える教育に賛同していたと思う。とはいうものの、当時教会で行われていた聖書を基にした読み書き教育には、モラルの押し付けであると同時に子供の活力を奪うものと批判をしている。したがって出来るだけ子供の興味を引くような方法でとなるだろう(というものの、どうやったら九九を楽しく覚えられるか私にはわからないのだが)。何れにしても丸暗記を一概に否定していたわけではないというところが肝要だと思っている。日本の教育改革はどうも入試に目が行き過ぎるのか丸暗記に否定的だ。けれど暗記しなくてはいけないものを、あたかも暗記しなくても良いかのように扱うのは考えものだ。確かに九九や算数・数学の公式は、覚えなくても自分で考えだすことができる(特に数学の公式は)。けれどそれが易々とできるのは元来数学が得意な子供・生徒だ。二次関数の解の方程式を必死に覚える必要などない、と豪語した人物は「そんなものいつでも自分で導出できる」とのたもうた。自分で導出できないからこそ、数学が不得意な私は覚えるしかないのだ。「覚えなくても覚えているでしょ」は覚えられない人間にとっては酷な物言いだ。

 暗記に頼る基礎部分、例えば地名や年号、人物名に円周率、漢字の読み方。こういったものを暗記するのは興味がないものにとっては苦痛である。けれどこの基礎部分がないと「パリはロンドンにあります」「山茶花=やまちゃばな」などという素っ頓狂な答えを出すことになる。素っ頓狂を素っ頓狂と笑い飛ばしていられる間はいいのだが、これが大学生や社会人の答えになると社会的に相当まずい事態といわなくてはならないだろう。正しい思考の基礎には正しい知識・情報が不可欠だ。それを暗記だから、押し付けだからと悪者扱いするのはかえって教育の基礎を蔑ろにしかねない。

 2番目の感性の教育。ミルの時代、こんなものを教育の対象にするという考え方はなかった。もちろんミルも学校という制度で教育するものとして挙げているわけではない(ミル自身は家庭での感性教育に期待を寄せていた)。しかし、彼は感性が磨かれなければモラルも市民性も育まれないと考えている。美を感じ取る感性は、同時に人の行為に共感したり、より良いものを求める動機を作り出すものだ。現代でもこれは学校という制度には馴染まない。学校の科目としての音楽や芸術を否定するつもりはない。音符の読み方を知っている方が便利だろうし、印象派とピカソの絵が違うことを知っている方が世の中何かとスムーズだろう。けれどそれ以上の「鑑賞の答え」を求めるのは、感性を封じ込めることになるだろう。感性の教育に関して学校に何か役割があるとすれば、せいぜい生徒を美術館や博物館に連れて行くことだろう。説明は専門家に任せた方が良い。学芸員といわれる専門家はそれぞれの年齢に応じた展示や説明の方法を知り尽くしたプロである。図書館も同様だ。本や情報への専門家として司書がいる。ところが日本には学芸員や司書を置かない博物館や美術館、図書館が多い。学校図書館などその際たるものだ。読書を導く専門家がいなくて、読書好きの子供を作ろうなんて土台無理なことを堂々とやっている。説明する専門家、展示のための専門家がいなければ博物館や美術館はただの倉庫に過ぎない。たまにイベント的に大衆受けする展示、それも巡回展示をするだけの施設になってしまう。

 1番目の基礎知識を土台に、2番目の感性という支えを得て、社会をより良いものにするために必要なのが論理の教育である。ミルのいう論理は形式論理ではない。むしろ日常言語でどうやって理屈と道理に基づいて、互いに主張を交わし合うための基礎となるものだ。日常言語を使うから、同じ言葉でも異なるものを思い浮かべることになる。すれ違いが生じ、誤解や誤謬が生じる。そんな危うい道具をどうやって安全にかつ効果的に使うか。それを教えるのが論理学だ。ミル自身が早期に教え込まれたラテン語やギリシア語は、実はこうした論理や修辞の力を養う基礎でもあった。日本の例に当てはめれば、明治時代の文人知識人のほとんどすべてが漢学の素養を持っていたのと同じだろう。古代ギリシア・ローマ時代の演説が手本とされていたというだけでなく、死んだ言語(書くだけ・読むだけ)だけに、きちんとしたルールに則って書かなければ意味の通る文章を作ることができないというメリットがあったのだと思う。しかし当時すでにこうした古典語の教育に対して、時代に合わない古臭い教育であり、実社会に適さないと批判が投げかけられていた。これに対してミルはこうした古典語の教育こそ、高等教育に必須の科目だと主張している。論理を身につけるためであると同時に、年月を超えて生き残った「よい文章」を原語で味わえるからだ。古典的なよい文章(それは時代を経ているから古臭い言い回しで満ちているのだが)を原語で味わうというのは、文章を書く上では必要不可欠、とまではいかないかもしれないが、重要要素だと考えている。日本語の場合は、古文や漢文がそれにあたるだろうけれど、大学入試ではどんどん分量が減らされている分野でもある。また、実際日本語教育を考えたときに、現場でどれほどの力を費やせるかといえば、非常に難しいだろうとはわかっている。(第一義務化してしまうと、日本語を母語としない学習者にとっては非常な重荷になるだろう。ただ日本語を母語としない学習者は、「正しい」日本語を学んでくるので、日本語を母語とする学習者よりもきちんとした日本語を書くことができる確率が上昇するのではないかと私は思っている)。

 けれど、こうした古くからの言葉に触れる機会が減少した結果、文章力が衰えているのではないかと懸念している。大学教員を長年やっていると、学生の文章力が衰えてきていることは痛感する。論理的な文章を書けないというレベルではない。論理的な文章、ざっとした言葉でいえば「筋の通った文章」が何かということが、わからないのではないかと思うことが多い。というのも、接続詞の使い方が酷くバラバラだからだ。「しかし」が「ところで」とほぼ同じ感覚で使われていたり、全てが「が」で繋がれていたりする。話し言葉をそのままに、形式だけを無理に書き言葉に移している感がある。

 おそらく長い文章を書くのが苦手だというのは、私自身の時代からおそらく変わっていない。大きく変わったことは、日本語の言い回しを使えなくなったことではないかと思う。『フィネガンズウェイク』を個人訳した柳瀬尚紀氏が『日本語は天才である』という本を上梓している。カタカナに平仮名、横文字に振り仮名と自由自在な日本語の天才ぶりに感嘆している本なのだが、こうした日本語の自由さに気がつかないまま、不自由でぎこちない手つきで日本語を綴っている。まるで体に合わないお仕着せの背広を無理やり着せられているようだ。では若い人の話し言葉が豊かになっているかというと、どうもそうではないような気がする。「ヤバイ」に代表される若者言葉ばかりを聞いているせいかもしれない。が、いろんな感情を一つの言葉に押し込めているような気がするのだ。古文や漢文の文法を教えるかどうかはともかくとして、古文や漢文を読むことは、文章表現の幅を広げる上では効果があったのではと考えてみたりする。まぁ実際にどう役に立っているかと尋ねられると、自分自身もはっきりしないのだが、古文の柔らかな手触り、漢文の岩山のような様相と漢字がもたらす多様な色彩に影響を受けたのは確かだ。個人的な感想だから、全員に通じるとは思わない。けれど、言葉の豊かさの中から自分の言葉を紡ぎ出すことが、自分なりの筋が通った文章を生み出すのだとしたら、論理力を鍛えるためにはまず言葉を豊かにすることから始めなくてはならないと考えている。

地獄元年によせてーJ.S.ミルのディストピア

松井 名津

 地獄元年という表紙のタイトルに「?!」となった人も多いだろう。私自身はといえば、地獄というよりも蟻地獄かなと思った。もがいても、もがいても引き摺り込まれていく、そういう地獄を思い浮かべてしまった。安部公房の『砂の女』ではないが大量の砂の圧力を時として感じるからだ。一粒一粒はなんということもない砂。少し大きくなったところで違和感を覚えるだけの砂。そんなものがより集まり堆積し一斉に崩れかかってこちらに向かってくる。自分の足元さえもいつの間にか不安定で、拠り所なく、力の入れようもない。今の世の中が地獄に向かっているとすれば、こんな地獄ではないかと私は思う。

 世紀の変わり目だとか、時代の潮目だとかに、人は一斉に夢を見る。19世期半ばに生きたミルもまたそうした数多くの夢を見聞きし、自らも夢見た人である。これまでも彼自身の夢(あるいは「賭」)を紹介してきたが、今回は逆に彼の悪夢を紹介しよう。一言でまとめると「予定調和の世界」がそれである。こうまとめてしまうと何やら理想郷のようにも聞こえる。全ての人があるべき姿で、あるべきところに収まるのが予定調和なのだから。ミルの時代、科学の力によって子供の能力に応じた教育を施し(あるいはあるべき姿を教育し)、適切な職業を与え導こうという動きはラディカル派、守旧派を問わず存在していた。不適切な環境や不適切な教育(無教育)こそが貧困の連鎖を引き起こし、怠惰や犯罪の原因となると考えたからである。適切な教育、適切な職業、適切な人生…これが予定調和の世界である。ラディカル派ではミルの父やベンサムを始めとする功利主義者や、ニューラナークを作ったオーウェンが、こうした考えの先頭を行っていたと目されている。守旧派ではカーライルがそうであろう(彼は奴隷制度を未開の人に文明の端緒である労働を教えるために必要な制度であると擁護していた)。

 ところがこれまでも何度も紹介してきたことだが、ミルはこうした考えを酷く非難する。その根底にはこうして作られる世界がディストピアに他ならないという考えがあったのだと私は考えている。なぜディストピアなのか。彼はこうした予定調和の世界を同時代のインドや中国と同じだと考えていたからだ。どちらも高い文明を持っていた。しかし固定的な社会制度のもとで、人々はそれぞれの社会的地位を、運命的なものとして受け入れるだけで、変化を求めない。そうミルは考えていた。「停滞する」社会である。予定調和の世界もまた、科学の知識によって決められた能力を、決められた手段によって開発し、決められた職業につき…と安定した、だが定まった人生を人は歩むことになる。それに逆らうのは非科学的なことでしかない。こうした世界を垣間見せてくれるのが漫画『地球(テラ)へ』の最終盤である。未来の地球、そこには大人しかいない。ぎっしりと大人が並んで行き来するエスカレーターですれ違う二人の男性が会話をしている。

「なんでも昔は人間が自分で自分の職業を選んでいたんだそうですな」

「なんと野蛮な」

「今は全てマザーが適切に決めてくれますからな」

「全くです」

 ほんのワンシーンなのだが、この世界の全てを語っているシーンだと私は思っている。マザーと言われているのは人間ではない。全知全能たるAIである。人々の能力、個性に応じた趣味、仕事、配偶者を選ぶのはもちろん、全ての悩みの聞き手であり、喜びを共にする存在でもある。人々はマザーのもと安心して日々の生活専念することができる。マザーの決定は全てであり、それに逆らうことは「考えられないこと」「病気の証拠」でしかない。この漫画でこの日常生活を壊すのは、日常生活に不満や不信を抱いた普通の人間たちではない。彼らは日常生活に満足し切っている。(ではなぜこの世界は壊れるのか、それはご自身でどうぞ)。これこそが、ミルが忌避してやまなかったディストピアなのだと私は思う。

 この世界で人は自分で何かを選択するということをしない。いつも誰かによって決められた道を歩む。失敗が存在しない(科学的真理に従っているから)から、変化を求めることもない。もちろんこの世界でもほんの少しの不幸、不満はあるだろう。人と人とのすれ違いから喧嘩になることもあるだろう。しかしそれはマザーによって解消させられてしまう。戦争のない平和な社会である。けれどそれは人間が自ら選んだものとはいえない。あるいは功利主義に対する反論としてよく持ち出される睡眠機械がある。夢の中で自分の希望や欲望が全て叶えられる機械だ(これを扱った秀逸な漫画が『夢みる機械』。ここではこの機械を使って世界征服を図った当のご本人が一番先にこの機械を使っている)。この機械さえあれば人はすべての欲望を何らの代償もなく叶えることができる。功利主義でいえば「最大満足」の状態だ。で、現代の反功利主義者たちはこの事例を使ってこの状態の人間が真に生きているといえるのかと問いを突きつける。現代の功利主義者がこれにどのように反論しているかはともかくとして、ミルならばあっさりNOと答えるだろう。すべての人が夢みる機械に入ってしまった状態はミルのディストピアである。ここでも人は定まったコースを夢に見るだけで、選択をしない。不幸や失敗に出会うかもしれないが、それはストーリーを豊富にするための単なる仕掛けでしかない。機械の中の人たちは全員満足している。しかし、とミルは言うだろう。この満足は幸福ではないと。

 ミルは功利主義者である。が彼が求めたのは幸福である。彼は『自伝』の中で幸福はそれ自体を追求しても手にすることはできない。何か別の目的を追求しているとき、道端の花のようにふと発見するものであると書いている。人生で何らかの目的に向かって行動している。それが幸福の前提である。そうした幸福が疑似体験で得られるかどうか。『夢みる機械』が与えてくれる夢は何もかも不自由のない世界だが、その時本来の達成感が得られるのかどうか。これは実験しなければわからない。が、直観的に「ちょっとそれはね」という人が多いのであれば、おそらく何らかの心理的バリアーがあるのだろう。ミル自身、満足を否定しているわけではない。とはいえ「満足した豚よりも、不満足な人間のほうがよい。満足したバカよりも不満足なソクラテスのほうがよい」というのが『功利主義論』の一節にある。そしてこの一節が代表するように、彼は満足や幸福に質の違いがあると主張した。より高い質の幸福や満足を求めて、より活動的に人生を生き、自ら選択する。これがミルの求めた理想的な人間像であろう。その一方で五感が満足するものを与えられること、与えられた選択肢の中から最も満足するものを選ぶこと。貧しくもなく、飢えもせず、不自由のない生活をおくれるのであれば、考えること、選択することを放棄する。これは彼にとっては回避したい人間像であり、ミルからすれば自ら幸福を放棄していることになる。しかし、安楽で安定していて安全であれば、それで満足だというのが人間でもある。

 ミルは自分の理想と、目の前の現実世界で大多数を占めつつある安全と安楽だけを求める「大衆」的人間の間で揺れ動く。自分の理想を「あるべき姿」としてしまえば、それは絶対的真理を設定し、人間にあるモデルを押し付けることになる。それもまた人間の自由意思を否定することになる。その一方安定と安楽だけという人間をそのまま認めてしまうこともまた、自ら選択するという自由意思を窒息させる社会が実現する道を開くことになる。結局ミルは人間がきっと自由意思を選択するだろうという「賭」を提示することにした。それぞれの時代、それぞれの社会が自由を基準に社会を選択することに期待をかけた。

 それから150年以上がたった。私たちの社会、少なくともこの日本はどちらに近づいているのだろうか。学生に将来どんな生活をおくりたい?と聞くと、ほとんどが「フツ―の生活」と答える。フツ―ってどんなの?と聞いても明確なイメージを持っているわけではない。とにかく毎日無事に、パートナーがいて子供がいて、ちゃんとご飯が食べられて…。ではそういう生活がどうすれば可能なのかと聞けば、会社に入りすれば実現すると思っている。「見苦しくない私服」を考えるのが難しいから、リクルートスーツが一番だという。どこかで聞いたような主張を述べていると安全で安心だと感じている。その癖どこか息苦しいという。

 最初に蟻地獄と書いたけれど、とてつもなく大きくて自分が下に沈んでいっていることも気が付かない蟻地獄に、彼らは生きているのではないかと思ったりする。もがくこともなく、そこが地獄だということを自覚することもなく。ゆっくりとでも確実に、選択しないという不作為によって沈んでいく。そして自分たちが苦しくなったとき、多くの人は「これは自分のせいではない」と思う。当然だ。自分で選択したことがないのだから。だとしたら、始まるのは蟻地獄の中での犯人探しだ。誰が自分よりもより悪いもの、より低いものを見つけて、自分の優位を誇る。地獄には鬼の獄卒がいるというが、怖いのは地獄の囚人同士の罵り合いだろう。

 今年が地獄元年となるのかどうか。たとえ小さくとも一つ一つの選択に賭けがかかっている。