J.S.ミルと時代に流されない(普遍の)教育

松井 名津

 今回、編集局からいただいたお題は「J.S.ミルと時代に流されない(普遍の)教育」なのだが、折も折、締め切りが最後のセンターテストと重なっている。これはおそらく天の配剤だろうと、今の日本の教育を頭におきながら書いてみようと思う。

 まず注意しておかなければならないのは、ミルにはまとまった教育論がないということだ。『J.S.ミルの大学教育論』が新訳で出ているが(訳は以前よりずっと良くなった)これはセント・アンドリューズ大学名誉校長就任時の演説である。『経済学原理』等の経済・社会に関する論考で教育に触れることはある。例えば労働者が自ら有料図書室を作る動きを称賛していたり、ビジネス実務に関することは、ビジネスで学ぶと主張したりしている。そんなあれやこれやを私なりに編集して、紹介していきたい。

 さて、私が見るところミルの教育には3つの柱がある。暗記(あるいは繰り返し訓練)・感性・論理である。最初の暗記には「?!」という人も多いかもしれない。自立的・自律的思考を求めているミルなのに暗記の勧めとは?というところだろう。けれどこの最初の段階はミル自身の経験に基づいている。3歳から始まった彼の早期教育は有名だが、彼はこうした早期教育の利点として、幼い時ほど知識を容易に吸収できることを挙げている。彼自身はラテン語やギリシア語の早期教育を受けたのだが、どちらの言語も「死んだ言語」である。死んでいるだけに、文法や用法は動かない。言語だけになぜそんな変化をするのか、なぜ愛がamourなのかという問いを立てたとしても、それを探究できるのは遥か先のことだ。とりあえずは覚えなくては始まらない。同様に算数の初歩1+1=2の謎は集合論やらに踏み込むことになり、初学の段階では感覚的、経験的になんとなくわかるけど…で済ましておかないとある意味仕方がない問題である。哲学を除く全ての学問に、基礎部分であるだけに当初は覚えるしかないものがある。小さな子供にとって新しい物事を覚えるのはとても楽しい。それだけで自分の世界が広がるからだ。こういう暗記に頼る基礎部分などは、できれば小さいうちに済ませておく方が無難だろう。

 そして繰り返し訓練だが、ミルはよく思考力を筋肉の鍛錬に例える。使わない筋力は衰える。だから毎日筋肉を使う必要がある。でもうまく筋肉を使うコツを覚えるには、基礎的な運動を繰り返し行わなければならない。すごく地味で自由度も少ないが、基礎鍛錬なしに高度な技を身につけることはできない。これと同じことは思考力にもいえる。思考の基礎鍛錬が何かといわれると、ちょっと具体例に困るのだけど、試験のたびに繰り返し解いた問題集などを思い浮かべてもらえるといいかもしれない。まぁ基礎訓練というのは何であっても「つまらない」「発想の自由などない」ものだ。しかし自由で創意あふれる技を生み出すためには必要不可欠ではある。

 ここまでだとミルは「詰め込み教育」「知識偏重教育」に賛成のように見える。そして実際基礎部分に関しては知識を覚える教育に賛同していたと思う。とはいうものの、当時教会で行われていた聖書を基にした読み書き教育には、モラルの押し付けであると同時に子供の活力を奪うものと批判をしている。したがって出来るだけ子供の興味を引くような方法でとなるだろう(というものの、どうやったら九九を楽しく覚えられるか私にはわからないのだが)。何れにしても丸暗記を一概に否定していたわけではないというところが肝要だと思っている。日本の教育改革はどうも入試に目が行き過ぎるのか丸暗記に否定的だ。けれど暗記しなくてはいけないものを、あたかも暗記しなくても良いかのように扱うのは考えものだ。確かに九九や算数・数学の公式は、覚えなくても自分で考えだすことができる(特に数学の公式は)。けれどそれが易々とできるのは元来数学が得意な子供・生徒だ。二次関数の解の方程式を必死に覚える必要などない、と豪語した人物は「そんなものいつでも自分で導出できる」とのたもうた。自分で導出できないからこそ、数学が不得意な私は覚えるしかないのだ。「覚えなくても覚えているでしょ」は覚えられない人間にとっては酷な物言いだ。

 暗記に頼る基礎部分、例えば地名や年号、人物名に円周率、漢字の読み方。こういったものを暗記するのは興味がないものにとっては苦痛である。けれどこの基礎部分がないと「パリはロンドンにあります」「山茶花=やまちゃばな」などという素っ頓狂な答えを出すことになる。素っ頓狂を素っ頓狂と笑い飛ばしていられる間はいいのだが、これが大学生や社会人の答えになると社会的に相当まずい事態といわなくてはならないだろう。正しい思考の基礎には正しい知識・情報が不可欠だ。それを暗記だから、押し付けだからと悪者扱いするのはかえって教育の基礎を蔑ろにしかねない。

 2番目の感性の教育。ミルの時代、こんなものを教育の対象にするという考え方はなかった。もちろんミルも学校という制度で教育するものとして挙げているわけではない(ミル自身は家庭での感性教育に期待を寄せていた)。しかし、彼は感性が磨かれなければモラルも市民性も育まれないと考えている。美を感じ取る感性は、同時に人の行為に共感したり、より良いものを求める動機を作り出すものだ。現代でもこれは学校という制度には馴染まない。学校の科目としての音楽や芸術を否定するつもりはない。音符の読み方を知っている方が便利だろうし、印象派とピカソの絵が違うことを知っている方が世の中何かとスムーズだろう。けれどそれ以上の「鑑賞の答え」を求めるのは、感性を封じ込めることになるだろう。感性の教育に関して学校に何か役割があるとすれば、せいぜい生徒を美術館や博物館に連れて行くことだろう。説明は専門家に任せた方が良い。学芸員といわれる専門家はそれぞれの年齢に応じた展示や説明の方法を知り尽くしたプロである。図書館も同様だ。本や情報への専門家として司書がいる。ところが日本には学芸員や司書を置かない博物館や美術館、図書館が多い。学校図書館などその際たるものだ。読書を導く専門家がいなくて、読書好きの子供を作ろうなんて土台無理なことを堂々とやっている。説明する専門家、展示のための専門家がいなければ博物館や美術館はただの倉庫に過ぎない。たまにイベント的に大衆受けする展示、それも巡回展示をするだけの施設になってしまう。

 1番目の基礎知識を土台に、2番目の感性という支えを得て、社会をより良いものにするために必要なのが論理の教育である。ミルのいう論理は形式論理ではない。むしろ日常言語でどうやって理屈と道理に基づいて、互いに主張を交わし合うための基礎となるものだ。日常言語を使うから、同じ言葉でも異なるものを思い浮かべることになる。すれ違いが生じ、誤解や誤謬が生じる。そんな危うい道具をどうやって安全にかつ効果的に使うか。それを教えるのが論理学だ。ミル自身が早期に教え込まれたラテン語やギリシア語は、実はこうした論理や修辞の力を養う基礎でもあった。日本の例に当てはめれば、明治時代の文人知識人のほとんどすべてが漢学の素養を持っていたのと同じだろう。古代ギリシア・ローマ時代の演説が手本とされていたというだけでなく、死んだ言語(書くだけ・読むだけ)だけに、きちんとしたルールに則って書かなければ意味の通る文章を作ることができないというメリットがあったのだと思う。しかし当時すでにこうした古典語の教育に対して、時代に合わない古臭い教育であり、実社会に適さないと批判が投げかけられていた。これに対してミルはこうした古典語の教育こそ、高等教育に必須の科目だと主張している。論理を身につけるためであると同時に、年月を超えて生き残った「よい文章」を原語で味わえるからだ。古典的なよい文章(それは時代を経ているから古臭い言い回しで満ちているのだが)を原語で味わうというのは、文章を書く上では必要不可欠、とまではいかないかもしれないが、重要要素だと考えている。日本語の場合は、古文や漢文がそれにあたるだろうけれど、大学入試ではどんどん分量が減らされている分野でもある。また、実際日本語教育を考えたときに、現場でどれほどの力を費やせるかといえば、非常に難しいだろうとはわかっている。(第一義務化してしまうと、日本語を母語としない学習者にとっては非常な重荷になるだろう。ただ日本語を母語としない学習者は、「正しい」日本語を学んでくるので、日本語を母語とする学習者よりもきちんとした日本語を書くことができる確率が上昇するのではないかと私は思っている)。

 けれど、こうした古くからの言葉に触れる機会が減少した結果、文章力が衰えているのではないかと懸念している。大学教員を長年やっていると、学生の文章力が衰えてきていることは痛感する。論理的な文章を書けないというレベルではない。論理的な文章、ざっとした言葉でいえば「筋の通った文章」が何かということが、わからないのではないかと思うことが多い。というのも、接続詞の使い方が酷くバラバラだからだ。「しかし」が「ところで」とほぼ同じ感覚で使われていたり、全てが「が」で繋がれていたりする。話し言葉をそのままに、形式だけを無理に書き言葉に移している感がある。

 おそらく長い文章を書くのが苦手だというのは、私自身の時代からおそらく変わっていない。大きく変わったことは、日本語の言い回しを使えなくなったことではないかと思う。『フィネガンズウェイク』を個人訳した柳瀬尚紀氏が『日本語は天才である』という本を上梓している。カタカナに平仮名、横文字に振り仮名と自由自在な日本語の天才ぶりに感嘆している本なのだが、こうした日本語の自由さに気がつかないまま、不自由でぎこちない手つきで日本語を綴っている。まるで体に合わないお仕着せの背広を無理やり着せられているようだ。では若い人の話し言葉が豊かになっているかというと、どうもそうではないような気がする。「ヤバイ」に代表される若者言葉ばかりを聞いているせいかもしれない。が、いろんな感情を一つの言葉に押し込めているような気がするのだ。古文や漢文の文法を教えるかどうかはともかくとして、古文や漢文を読むことは、文章表現の幅を広げる上では効果があったのではと考えてみたりする。まぁ実際にどう役に立っているかと尋ねられると、自分自身もはっきりしないのだが、古文の柔らかな手触り、漢文の岩山のような様相と漢字がもたらす多様な色彩に影響を受けたのは確かだ。個人的な感想だから、全員に通じるとは思わない。けれど、言葉の豊かさの中から自分の言葉を紡ぎ出すことが、自分なりの筋が通った文章を生み出すのだとしたら、論理力を鍛えるためにはまず言葉を豊かにすることから始めなくてはならないと考えている。