「伝統」と「変化」

タイトルを見て、「え?伝統って変わらないものでしょ?それと変化ってどう結びつくの?」と思う人が多いだろう。伝統的な技術たとえば西陣織に使う型紙が、現代の生活の合わせて洋服のプリントに使われ、海外で人気を博しているというような「伝統技術の新しい展開」を思い起こした人がいたら、アンテナ精度の高い人だろう。けれど、ここで話したいのは「伝統の新しい展開」ではなく「伝統は変化している」という一種逆説的な話である。

 伝統という言葉を英語だと普通traditionになるが、実はもう一つ日本語では通常慣習や約束事と訳するconventionという単語がある。ところがこの言葉は慣習だけでなく、伝統的な決まり事や振る舞い方、日本語では伝統と訳すだろうこともconventionという。ここでまず取り上げたいのは、こうしたconventionに当たるような日常的で、だからこそ変化しないと思われていることがらである。

 西欧系の人に接した人なら、彼らが座る事を大の苦手としている事にすぐ気がつくだろう。これに対して日本で生まれ育った人間は当然のように座る。では「座り方の礼儀作法」はどうだろう。座る文化を身体的な伝統とすれば、どの座り方がふさわしいかは文化的伝統ともいえる。そして通常私たちが伝統という場合はこの文化的伝統の方である。身体的な伝統が変化していないなら、文化的伝統も変化しないのだろうか。

 皆さん自身頭の中で座り方を、堅苦しい方から気楽な方、そして見苦しいというかだらしない方へと並べてみてほしい。おそらく「正座→胡座(女性の場合は横座り)→片膝立て→ヤンキー座り」となると思う(真ん中辺りは人によって違うかもしれない)。しかしこうした礼儀作法の順序が定まったのはおそらく江戸中期ぐらいだといわれている。大正10年出版の入江氏著『日本人の座り方』ですでに「正座」が非常に例外的な座り方(例えば受刑者や身分の高い人に対する庶民の座り方)であったという指摘がある。平安時代では男女とも「胡座」が正式な座り方であり、脇息を使う横座りが「気楽な」座り方、足をたてて座る形(片膝付き、両膝付き)は下人等貴人の近辺で各種用事を果たす「人間外」の者の座り方であり、正座はさらに稀な事(罪人等)であった。時代が下っても男性の場合は胡座が正式な座り方である事は、江戸城登城の絵図などでも分かる。また女性の場合も長らく韓半島と同じく片膝立ての座り方が正式の座り方であった(女性の胡座がなくなったのは、衣服様式の変化とともに胡座で座ると秘部が他人にさらされるからであったろうと著者の入江氏は推測している)。

 では正座はどうだろう。入江氏は江戸時代に入って庶民の座り方としての正座が普及して行ったのだろうとしている。けれどこれはどうも解せない。当時の庶民(大部分が農民。時代劇で見るような「町人」は大都市江戸・大阪と各城下町に限定される)が、恭順の印として正座していたとしても、日常的な座り方として正座を採用していたとは(素人ながら)考えにくいのだ。丁稚奉公等町方に修行をしに行っていた農村の子弟(女性も含む)が町方での作法として、目上の者に対する座り方として「正座」を普及させて行ったという事の方がありそうだ。

 いずれにしろ大正時代にすでに正座は高々200年かそこらの文化にすぎないと指摘されている事は確かである(その後も年代が下がりこそすれ、正座が後代の文化である事は変わっていない)。最後に「ヤンキー座り」は、北斎の絵でも分かるように。農村でも町中でも道ばた等腰をおろすのに適切な場所がないとき、ごく普通に採用される座り方だった。まとめると「胡座(女性では片膝たてか崩した正座・身分が高ければ横座り)→ヤンキー座り→正座」というのが長らく続いた伝統的礼儀作法になる。

 今やお茶でも何でも正統な「日本文化の伝統」の一つとされる正座も、さして歴史の古いものではなかったという事だ(これは面白い事に大正時代でも同じだったらしく、入江氏の本は彼の講演を書き起こして資料を追加したものだが、冒頭に日本独自の、古来からの座り方としての正座という言い回しが出ている)。

 「伝統的」とされているものが、案外新しい文化だというのはよくある事である。神社での神前結婚式も大正天皇の結婚のときに慌てて作られた儀式なので、未だに安定しないらしい。途中で指輪の交換(何のために?)があるし、「平和な家庭を作る事を誓います」なんて甲子園の選手宣誓みたいな誓詞を言わされる。

 いや、そんなことはない。身体的な作法とかは時代に合わせて変わるかもしれないし、冠婚葬祭には文明開化に合わせて急に作られた所があるだろうが、伝統文化として確立しているものは変わらないはずという人もいるかもしれない。では典型的な伝統文化である能楽を取り上げてみよう。

 能楽は室町時代、世阿弥によって大成された形を現代まで連綿と受け継いできたとよくいわれる。確かに現代日本語では決してない発音(「日月」を「にちがった」と読む。ちなみにこの発音はハングルと同じである)があるし、意味が全く違う言葉(「やがて」は今すぐという意味)がある。と書くとまさしく「変化しない伝統」という感じなのだが、実際に演じている能楽師に聞くと、昔と今では随分と違うのだという。現在の能楽では「強吟」と「弱吟」の二つの謡い方があって、同じ記号がついていても音のあがり方や下がり方が全く違っている。ところが、江戸時代辺りまではこうした区別はなかったのだという。現代では訳が分からなくなった記号や、統一すればいい記号が残っていたりするのも、おそらくかつては別の謡方がされていたのかもしれないとも言う。実際に地方に残っている能楽の方が古い演じ方、謡い方を残しているという話もある。

 ではなぜ能楽が変化したのか。理由は非常に単純である。「生き残るため」。そもそも世阿弥自身、ライバルの猿楽者が韓国民俗舞踏のような華麗な足技に長けていたからこそ、その逆を狙って上流階層の上品さ、静やかな身振りを取り入れたという面があるのだ。こうして出来上がった能楽は、武士の時代を経て、より強い武将ものと柔らかい女物を区別する必要にかられて、二つの謡い方を分けるに至った…のではないかというのが私の推測である。

 さて、実はこの文章の最初に出てきたconventionという英単語には、日本中ほぼ至る所にあるコンビニの元々の語が派生語としてある。convenient(コンビニエント)。どちらもその元々は「~くる、なる」という意味合いのラテン語にさかのぼる。伝統=昔からあるもので今まで残ってきたものだとすれば、今まで生き残るために、様々な変化を遂げなくてはならなかったはずだ。そう、生き残った伝統が何故生き残ったかといえば、その時代の保護者(武士階級だったり、裕福な町人だったり、成り上がりだったり)や大衆の好みに合わせて、自らを変化させたからに他ならない。ただし、コンビニのようにではない。もしコンビニのように顧客の好みに合わせて次々と店舗を作ってはつぶし、商品を時間単位で入れ替えるだけの変化をしたのであれば、今、伝統といわれて残っているもの(少なくとも後継者がいるもの)は、現代まで生き残ってはいないだろう。

 では今の顧客の好みに答えつつ、先々の(それこそ100年、200年先の)顧客の好みに合わせるという、気が遠くなる程難しい生き残り術をやったのだろうか。

 そんな事は到底人間の出来る業ではない。おそらくひどく単純な事だったに違いないと私は思う。単に「生き残るため」だから、表装だけ変えよう。ちょっと今風にしてみよか…ありゃダメだわ、やってるこっちの方がギコチナイ、それがお客にも伝わるから受けが悪い。あかん、あかん、元に戻そ。こんな試行錯誤の連続だったのではないか。

 今「変化の時代」といわれて久しい(日本では少なくとも20年間いわれ続けているような気がする)。そしてどうも「変化」というと物事の根本から考え直し、設計し直し、作り直さなくては変化ではないような、そんな風潮がある。けれどそういう変化は案外命が短い。1人の人間が考えだし、設計し直した変化には限界がある。またチョー天才が考えたチョー凄い社会設計も多くの人間に受け入れなければ意味をなさない。そして多くの人間が受け入れる根本的変化なんて、コンビニの商品棚の顔ぶれを変えるようなものにすぎなくなってしまう。とくに社会に関してはそうだ。逆に1つの根本的に異なった発想に基づく商品が、社会を変える事の方が起こりやすい(ウォークマンが音楽を自分だけのものとして携帯できるようにしたように)。とはいえ、そういう商品が次々と産まれていたら、人間の方が追いつかない(ICレコーダーがどんなに精密になろうと、未だにカセットテープは健在だ。感覚的に巻き戻しが可能だからだ)。そして、一つの商品が変えるのは社会のある一面であり、変化が社会の全てに及ぶ変化になるかどうかは未知数だ。クラウドが世界を一つにするといった所で、クラウド端末を手にする事が出来ない人にとっては、それは無縁の世界でしかない。

 変化がもてはやされるとき程、むしろ変化してこなかったものに注目すべきだと私は思う。時代を超えて変化しなかったもの、けれど今は軋みを立てて、あたかも根っこから変わらなくてはならないように見えるもの。その中には時代を超えて変化しなかった根っこと、変化しなくてはならなかったのに、変化できなかった枝葉がきっとある。その見極めがついたときこそ、本当の変化が訪れる。そう私は思うのだ。

戦国BASARA、信長がなぜうける?

 年のNHK大河ドラマは『軍師勘兵衛』で久方ぶりの高視聴率…らしい。面白い事に、この頃四半期13クールで変わる(私たちの頃は1年1クールだったのだが)アニメ業界も戦国物が多い。ただし真面目でお固い(?)NHKとちがって、こちらは時代考証無視、時代背景もどちら側が勝ったなども適当に無視してよいから、結構面白い。

 何しろ信長とアレキサンダー大王が巨大ロボットにのって対戦する(ちなみにアレキサンダー大王を率いて信長に敵対しているのは、かのアーサー王である。チャンと聖杯もでてくる。ものまである。「助さんや、格さんや」で始まり、20時45分になれば「この印籠が…」という台詞が決まって流れていた昔とはエライ違いである。

 今回奥谷さんから「日本の若者は何故チャレンジしないんでしょうね」と投げかけられた時、真っ先に頭に浮かんだのがこの改変された戦国もの(最初は戦国BASARA辺りらしい。バサラといえば室町時代なのだが…)の多さなのだ。で、その一瞬後「なんで改変戦国もの、特に信長の名前とチャレンジしない若者が私の中で結びついたんだろう」と自問自答し始めた。メールだったからよかったが、時々私はこういう風に自分で思いついたり、言った事の理由が分からなくて、自問自答し始める事が多い。同席している人の話には生返事するようになる。慣れている友人によると「シャットダウンして、別の世界に行ったみたい」になるのだそうだ。で、今回もその自問自答モードに入ったのだが、なかなか答えが出てこない。第一社会学者ではないから、いつ頃から増え始めたのか、一体本当に全アニメの中で「多い」と断言できる程の多さなのかはわからない。おそらくは対戦ゲームや戦略ゲームのアニメ化から始まったのだろうと推測するだけだ。少なくとも断言できるのは40年前にはなかったぞ!ということだ。ちなみに40年前のアニメといって分かる人は少ないと思うので、1979年に「機動戦士ガンダム」が放映されているとだけいっておこう。

 時代は日本の経済成長がピークを迎え、やがてバブルへと突入する10年程前。アニメが子ども向けだけでなく、中学高校生を対象として作られ始めた初期の頃である。中高生なりにアニメ世界の登場人物になったり、新たな人物としてアニメ世界に変化をもたらす(同人誌)ことは、オタクと言われない人間にとってもごく普通の脳内妄想の一つだった。

 さて、改変戦国ものに戻ると、このストーリーに「自分らしき人物」(能力や外観は違っていても自分の性格の一部を切り取った人物)を登場させる事が可能なのだろうかと思ってしまう。というのもこういったアニメには「普通の人間」がいないからだ。かつてのアニメはごく普通の人間が巻き込まれて…だった。自分とほぼ同じ年齢、外見も当初の能力も普通の人間が主人公だった(もちろん特殊能力が発現したり、特殊能力を持つためのグッズを持っていたりしても)。けれど改変戦国ものの多くは「既に異能をもった戦国武将」が溢れている。こうした「異能者」に溢れた世界では、ごく普通の人間は異能者のファンとして自分を位置づける事になるのだろう。歴女ブームがいつから始まったのか分からないのだけれど、当初彼女たちがファンになったのは「かっこ良くて爽やかな伊達政宗」であって、歴史上の伊達政宗ではなかっただろう(近頃は某航空会社の旅行案内番組に登場して、ふるう必要のない槍をふるっている)。男性であれば「侠気」だとか「漢」「義」に殉じる姿に憧れるのだろう(かつて学園紛争時代に日活ヤクザ路線の映画が流行ったように。違いは、あの時代に高倉健を見て「かわゆい~」と言う女性がいなかったぐらいじゃないかと思う。「可愛いは世界を制する」時代になったのだー余談)。

 と、ここまで自問自答モードが続いて、やっとこさ私は何故奥谷さんの質問にすぐに「戦国武将もの、信長がなぜもてる」で始めましょうかと答えたのか、何となくわかってきた。

 アニメの戦国武将の中でもダントツ出現率が高いのは信長である(悪役・主人公・脇役を問わない)。それは彼が実際に戦国時代に活躍した…からではないと思う。破壊者として従来のルールを全て破り、一方で建設者として新たな日本を創造しようとしていた。この両面性をどう描こうとも「話」になる。加えて主要な戦国武将と何らかの関係を持っているからストーリーに登場させやすいといった制作会社側の理屈だけではないと思う。歴史上も「異能」を思わせる存在感を持っており、短い人生を燃やし尽くしたと思える人物像。戦国者だけでなく幕末者でも人気があるのはこういう人物だ。

 彼らは何らかの意味で「チャレンジャー」だ。しかし普通の人間ではない。信長は元来領主の息子だし、幕末の人物であれば動乱期とはいえ武士階級か武士階級に認められた人物である。部下もいる。資金もある。アニメともなればさらに「異能」を付与されている。ファンとして仰ぎ見る存在、でも実際自分がその人生を生きられるか?と問われると元々から…?がつく存在(特に普通に生きる事が夢である若者たちにとっては)、喝采を送りながらそのアニメを楽しむかもしれないし、グッズを集めるかもしれないけれど、アニメの世界に入り込もうとはしない…のが大多数だろう。(たとえ参加するにしても登場人物となってであって、自分の分身ではないだろう)。

 日本社会で「チャレンジャーになる」、「チャレンジ」することは、いつもこんな風に「時代を変革する」「社会を変革する」大事としてイメージされていないだろうか。起業家として一世を風靡した人(ホリエモンを含めて)はマスコミに大々的に取り上げられ、彼ら彼女たちの活動がいかに日本社会を変革したかが、些か以上に大げさに風潮される。今流行りの社会起業家だって、マスコミに出てしゃべる事は「世の中を変えたかったんです」になる。彼ら彼女たち個人を攻撃しようとは思わない。むしろ問題視したいのは「取り上げ方」なのだ。あたかも「特別な」「異能を持った」人間でないとチャレンジできないような、そんな報道のされ方が、戦国アニメと二重写しになるのだ。

 かてて加えて何かを始める時のハードルは高い。屋台で食べ物を売るにも資格と許可がいる。アメリカで小学生は屋台でレモネードを売る。そんな事は日本ではあり得ない。小学生が商売をする事はできない。ボランティアだけだ。クラウドファンディングという言葉がない頃、発展途上国で商売を始めたい個人と、寄付してもいい先進国の人をつなぐサイトが、テレビで紹介された事がある。その時発展途上国で商売を始めようとする女性が必要としていたのは、資金と設備だった。資金といっても今までの倍ピーナッツを仕入れるお金であり、設備は作ったピーナッツバターを小売りするためのタッパーウェアだ。さて、日本だとどうなるだろう。自家製のピーナッツバターを売り出すとなると、まず食品衛生法をクリアするための衛生設備が必要となり、小売りのための瓶なりパッケージが必要となり、流通経路を探さなくてはならなくなり…と「教えられる」。そして大げさに「岩盤規制」といわれ、この規制をクリアするためにチャレンジャーがどのような苦労をしたかが大げさに語られる。

 若者にチャレンジ精神がないと日本の大人は言う。そういいながらチャレンジするためのハードルはこんなに高いんだぞと見せつけている。そんな中でちょっとチャレンジ精神のある若者は、まず手近な試みとして「チャレンジして成功した大人」と「やる気のある若者」の交流会を企画する(それを手助けしてもうけている企業もある)。そうすると、周囲の大人は「素晴らしい。立派な若者のだ」とほめあげる。本人は何事かを成し遂げたような気になる。周囲の若い人も「すごいよなぁ」となる。冷静に考えてみよう。当人は何事かにチャレンジした訳ではない。新たな者を作り出した訳ではない。単にコンパを企画して人を集めただけと言われても仕方がないのだ。そしてその企画に出席した若者が、刺激を受けて起業したという話も寡聞にして知らない(地域活性化に成功した中山間地域には次々と視察団が集まるが、一向に活性化の波が起こらないのと同じ構造だ)。聞くだけ、勉強しただけで…という手本を大人が見せているのだから、若者が倣ったとしても不思議はないだろう(ほら、戦国アニメのファンになるのと一緒だ)。

 ハードルは高くとても越えられそうにないけれど、ファンとしてファンの同好会を開いたら褒められるなら、そちらをとるのが人間というものだろう。

 でも、よく見てほしい。君の近所にいる個人商店の人は君と変わった「異能者」だろうか。20年以上続いている個人商店は何故続いているのだろう。特別の技術を持っているのだろうか。そしてそうした商店の親父さん、おかみさんは日々「チャレンジ」していないだろうか。(全ての商店がチャレンジしているとは言わない。でも長年商売を続けるためにはそれなりの工夫が必要なはずだ。それが単純に親父さんの好みを貫いているだけだとしても)。

 小さなチャレンジは報道される事はない。単なる日常茶飯事になる。そんな社会に日本人はいきている。そしてその社会でチャレンジとして認められるには「異能」でないといけない。

 もし、日本の若者にチャレンジ精神を求めるのなら、チャレンジが30センチの幅の溝を越える事にすぎない事だという事、どんな規制にも工夫すればチャンと抜け道があること(それも若者なりの)、味方や仲間は最初からいる者ではない事、でも続けていれば支援する人が現れる事。そういう非常に常識的な事をチャンと伝える事から始めないといけないと思うのだ。

 戦国時代の武将はかっこ良く槍を振り回しはしない。あれは敵をたたき落とすために使う。泥だらけになって、生き残るために、生き延びるために戦う。その戦いに異能はいらない。日常生活の中での工夫と運が必要なだけだ。

複数次元と場

現代物理学の超ひも理論によれば、この世界は小さな紐状のもの(ゴムバンドみたいな)で出来上がっていて、10次元(もしくはそれ以上)からなってるらしい。いきなり何の事だと思わないでほしい。先月号に書いた「多焦点性の」「アメーバー状の」アイデンティティが互い同士、対立したり共同したりしながら作り上げる世界、しかも時空間がかつてない程入り組んでいる世界はどんな様相をしているだろうと必死になって考えていたら、ふとこの現代物理学の先端理論が描き出す世界に非常に似ているのではないかと思ったのだ。

 超ひも理論のひも達は、振動の方向や振動数で姿形を変えるのだそうだ。多分共鳴もするのだろう。それが今まで多様な量子として見えていて、その量子がくみ合わさって出来ているのが原子で、原子がくみ合わさると分子で…となるらしい(非常に不正確でおおざっぱな説明だけど)。ようは多様な物質の始原をたどると「踊るひも」になるということらしい。

 前号で書いた多焦点の、アメーバーのようなアイデンティティも、その時々によって焦点を移しながら(重心を移しながら)その時々のアイデンティティを見せる。でもやはり「ある人」のアイデンティティではある。こういう所が超ひも理論のひもと類似しているような気がする。

 とはいえ、現代物理学で現代社会を論じるのは危険というよりは、人を惑わす結果になるだろう。ここで超ひも理論を持ち出したのは、様々な量子として観察される(その場その場で姿を見せる)ものが単一のものからなっていることが、現実に存在していることをより納得してもらいたいからである。先号で示唆した多焦点をもつ、アメーバ的アイデンティティは現れる場によって、その姿を変形しているかのように見えるが、やはり同一性を保っているということである。そしてこの変形しながらも同一性を保っているー保っていると感じている存在がー相互に作用を及ぼすことで、一つの世界が出来上がって行くことができるということを、現実味のあるものとして感じ取って欲しいからである。宇宙空間というかこの世界全体がそうなっているからといって、人間が作り上げる「社会」もそうなっているとは限らないわけだけれども、世の中に全く例がない話よりは、類推できる物があった方が、想像しやすいかもしれないと思ったからだ。

 では、そういうもの(世界)が現実にあるんだという事を頭に置きながら、もう少し社会とか人間の話にしてみよう。現代社会に関する理論では、国や文化が相違する二つの集団であったとき、双方が対立を回避するために相互の属性(特質や特徴)を弱め、普遍的なルールを追求するか、双方がその属性を保ったまま互いに対峙してデッドロックに乗り上げるのかの二者択一になりやすい(前者を文化普遍的、後者を文化相対主義という)。デッドロックに乗り上げるといってもいきなり戦争になる訳ではなく、それぞれの文化的特色なのだから片一方(大概は先進国)から見れば「人権」問題になるような事象であっても、その事自体だけで追求したり断罪したり、まして介入したりする事は出来ないということである。一方の普遍的なルールという方は凄く公平に見える。けれど、自動車レースのF1やフィギュアスケートの国際ルールの決まり方に何となく不信感を持つ人もいるだろう。なんだかいつも日本がうまくなるとルールが変わるんじゃないかって。でも、大会主催側からすれば「ある特定の国がいつも勝つ」ようなルールは、不公平なルールである可能性が高いという理屈になる。

 なんだかどちらも奥歯に物が挟まったような、何とも気持ちの悪い成り行きだ。一体どうしてこんな変なというか、なんだか小難しいような結果になるのだろう…。専門家はどういうか知らないが、何とも気持ち悪い両方の成り行きの根っこには、現代社会に関する理論が「変容しないアイデンティティ・文化」を置いているからではないかと思う。

 ではアメーバー的な、多焦点的なアイデンティティを持っていること、それを自覚している人たちの場合はどうだろう。かつて伝統というか風習の違う人と出会う事は非常に稀だった。でも今は机の前に座ってPCを開くだけで世界のあちらこちらを見聞し、風習を見ることが可能となった。ある時、全く偶然にネット上で見つけた場所に惚れ込んでしまう場合もあるだろう。私が岩城という場所にであったのがそうだった。単純に「役所なのにユニークなホームページ」というだけで、手紙を出し、宿を紹介してもらい…それから10数年私のアイデンティティの中に岩城はしっかりと根を下ろしている。場所だけではない、全く違う時間感覚で動いている人が同一の場所で生活している。昼夜逆転だけではない。この日本という狭い土地の中に、1秒に判断をかけるトレーダーと、10年単位で考える農家、100年単位で考える林業とが生活をしている。

 それぞれの世界は全くすれ違っているように見えて、どこかで交錯する。あらゆる所に自分の関心や偶然でアイデンティティの焦点を持った人々は、それぞれのアイデンティティの焦点に関して、現地の人よりは少し冷静に(あるいは外からの情報を持って)引いた視点で眺めるかもしれない。逆に現地の人よりもその場の文化を保守する事に原理的にこだわるかもしれない。現地の人(現地を自分の最初のアイデンティティにしている人)にとっては、ありがたいときもあれば、迷惑なときもある。何しろ日常いない癖にどかどか介入してくるからだ。時間が異なる世界でも同じだ。トレーダーが取引しているのは林業会社の株かもしれない。中山間地域では農家と林業は場所を同じにするように見えて、10年単位で考えたときと100年単位で考えたときでは、1本の木を切るにしても利害が対立する。農家や林業はデイトレーダーが動かす世界市場の動向によって壊滅的な被害を、逆に何十年とない利益を手にする事があるかもしれない。トレーダーは現地の情報がないまま数値だけを見続けた結果、林業会社の粉飾決算に巻き込まれるかもしれない。全く異なった時間感覚で動いていても、結果はどこかで絡み合わざるを得ない。それは双方にとって迷惑な事、よそからやってきた天災みたいなものなのかもしれない。けれど時間感覚が違っていても、アイデンティティが少し重なっていたとしたらどうだろう。トレーダーは秒感覚で動きながらも、特定の山にアイデンティティを持つ事で100年先を見越した山か、その時々の利益で動いているだけなのかを知る事が出来る。それは秒単位でしか動いていない短いアイデンティティを癒してくれるだろう(この頃日本に限らず中山間地域等長い年月を感じさせる場所に、事務所を置くIT産業が増えているのは、本来人間が絶える事が出来ない秒単位の判断のストレスを和らげるためではないのか)。が、その一方で頑として動かないその姿にストレスを感じるかもしれない。林業は100年単位で動かなくてはいけないからこそ、秒単位の市場動向の先を自分のアイデンティティの一部として知っておけば、今の我慢に甲斐が出てくるかもしれないし、逆に怒りを覚えるかもしれない。

 アイデンティティが多数の焦点を持つ事は対立を緩和しない。むしろ対立を助長するかも知れない。それでいいと私は思っている。言葉の上で対立するだけでアイデンティティをかけない対立は、言いっぱなしにしか終わらない。そこから産まれるのは「自分を他者より強く見せたい」虚飾だけだ。いくらかでも焦点を置いたアイデンティティに基づいて対立すると、その対立は抜き差しならぬものに発展する。そのままでは武器を取る事になるかもしれない。けれど、アイデンティティが多焦点でアメーバー状だということを、お互いが知っていれば、それぞれが問題となっている事柄に対して、どれだけの焦点を置いているかを探らなくてはならない。生死をかけているのかを計らなくてはならない。生死をかけている方が結局は強いだろう(それは現地に生きている人間とは限らない。ヨーロッパ中を流浪するロマのように「地」ではなく「血」や「文化」にアイデンティティを置いている民もいるのだから)。その生死を探る中で、それぞれが妥協できる所、融合できる所、協力できる所を初めて見いだせるのではないだろうか。

 固定化した単一のアイデンティティでは、吸収か対立かしかない(所詮人間は他者の事など分からないのだから、最初の現代社会の理論通りになるしかない)。多焦点でつかみ所もないアメーバー状のアイデンティティは、凹む事(妥協)も脹らむ事(融合)も、長くなってひも状に絡み合う事(協力)も出来る。それどころか創成する事も出来るのではないかと私は睨んでいる。睨んでいるというのは根拠のない類推でしかないからだ。類推のもとはゾウリムシの接合である。ゾウリムシは正確にはアメーバー類ではないが単細胞の原生生物だ。通常は分裂して増殖するが、異なる遺伝子を持つゾウリムシがくっついて互いの遺伝子を交換する接合を行う。接合の目的は「若返り」だ。特定の遺伝子を持ったゾウリムシの分裂回数は限定されている。接合をする事で遺伝子が混ぜ合わされ、新たな遺伝子を持ったゾウリムシになって若返り、また分裂増殖が可能になる。

 これをいきなり人間の社会だとか、文化に当てはめるのには無理があるかもしれない。けれど多焦点でアメーバー状なのが人間のアイデンティティであるとすれば、行き詰まりが生じた時、その先を目指す時、必要となってくるのは互いのアイデンティティを混ぜ合わせる事ではないだろうか。混ぜ合わさってはいるけれど、元の様相も残している状態から、新しい突破口が産まれてくるのではないかと些か楽観的な期待も込めて思っているのだ。

多焦点人格の勧め(多重人格の誤入力ではない、念のため)。

今回はやや専門的な話から始めさせてもらおうと思う。政治あるいは社会思想の中に「共同体主義」という考え方がある。共同体主義は人間は個々人が孤立して存在しているのではなく、何らかの共同体の中で自分の考え方を創り、判断をし、行動をしているのだと考えるのである。その意味では個人は個人としてだけで行動するのではなく、何らかの共同体を背景とした個人として行動する事になる。だからこそ、ある共同体に密接に関連する事柄に関して(たとえば津波被害にあった町や村が、高台移転を望むのか、それとも長大な防波堤を築く事を求めるのか)は、第一にその町村の人間が決定権を持つ事になる。小さくて、地域的なところの意思決定が優先されることになる。

 では小さな共同体が対等の立場で互いに深く交錯したら、利害対立が生じたら…。共同体主義ではこうした深い交錯や利害対立は(個々人レベルではともかく)国家のレベルで調整されると考えている(らしい)。これは日本で考えると奇妙に思えるかもしれない。しかし共同体主義の生まれ故郷は多民族国家カナダである。単にフランス語圏・イギリス語圏の対立だけでなく、イヌイットやそれ以外の多数の少数民族、中国系・韓半島系等々の移民。アメリカ合衆国以上に他民族だといわれるカナダでそれぞれの民族なり集団が、それぞれの独自文化を温存しつつ、一つの大きな社会を形成する理想的モデルとしてうまれたのが共同体主義だともいえる。

 そして共同体主義では個々人のアイデンティティは、自分のうまれた家族(核家族など血縁関係のみならず類似家族も含む)を中心として、隣近所、町内会…と同心円上に形成されているとする。

 話があまりに抽象的になったので、ちょっとした実験をしてもらえると分かりやすいかもしれない。なるべく底が平らな洗面器の一方の端に墨汁(なければ珈琲)を落とす。そしてもう一方の端に牛乳を落とす。静かに落とすとそれぞれの液は同心円上に広がっていくはずだ。十分にはなれていれば(大きな社会で利害対立が起こらない状態)両方の色は混ざっているようには見えない。けれどより近づけば近づく程、互いの形が歪み、色が混ざったり、互いの円を壊したりしてしまう。これを調整するのが洗面器(国家)で、国家は共同体同士がうまく共存できるルールを定めるという事になる。

 しかしどうだろう。私たちが個人として、あるいは一つの集団として対等に相手側と対峙し、関係を持つとき、その間の対立や交錯はより大きな社会や国家に任せるしかないのだろうか。たとえばカナダの少数民族の村を愛し、そこで一年の大多数を過ごし、日本にはほとんど在住していない日本国籍の人が、その少数民族の村に建設が予定されているカジノへの賛否を問う住民投票に参加したいといった場合、おそらく共同体主義はこの人の要求を退けるだろう。なぜなら同心円で考える限り、要求をしている日本人の最もコアなアイデンティティは日本に生まれ育ったことであり、カナダの少数民族の村で多くの日時を過ごしてきたといっても、それは後から形成された外周のアイデンティティでしかないと看做されるだろう。

 でもやはりなんだかオカシイ気がしないだろうか。

 実は私の後輩に仙台生まれ、仙台育ちの自称「似非大阪人」がいる。彼の文章も口舌もほとんど大阪人と変わらない(どころか、近頃のテレビで育った若い大阪人よりもよほど大阪弁に通じている)。心性も大阪人的である。かれは仙台にいるときから大阪に憧れ、大阪人として大阪に受け入れられるように血のにじむような努力を重ね(たかどうかは知らない。けれど仙台にいながらにして吉本新喜劇の機微に通じるには、ある種の特性と努力ー腹筋ではない腹の皮筋を鍛えるーが必要であったであろう)、立派に上阪し大阪人として9分9厘行動している。残りの1厘はベガルタ仙台の熱心なファンであり、長居であろうと千里であろうとアウェイの(?)側にいるという事だけだ。彼にアイデンティティを聞けば「大阪」と答えるだろう。「じゃあ何故セレッソじゃなくてベガルタなんだ」と聞けば「そこはゆずれん」と大阪弁で答えるだろう。彼のアイデンティティは同心円ではなく、楕円(二重の焦点を持つ円)かもしれない。

 これは彼だけの特性ではないと私は思う。人間のアイデンティティというのは幼児期には同心円かもしれない。けれど、後天的生活の影響からそのアイデンティティは正円ではなく、楕円のように複数の焦点を持つ円、多焦点になっていくのではないだろうか。デンマーク人で熱心な日本空手の修行者(「gutsだせ」というのが分からなくて悩んでいたらしい。だすのが「はらわた」じゃなくて、元気や根性だと分かってホッとしたらしい)。若冲に通じたプライス氏(『若冲が来てくれました』という東北3県を巡る企画展で、彼は無償でそのコレクションを提供した。彼の「多くの子供たちが親しめるように」との意図を活かし展覧会は従来とは異なって「幽霊がいるよ」とか「たくさん、たくさん」といった子供目線の展示になっていた)。逆に中南米のフォルクローレやアメリカのデキシーランドジャズを愛し、演奏を続け、ついに本場でも「本場以上に本物を残している」と認められた人たち…。こういった人たちはうまれ持ったアイデンティティ(焦点)以外にも自分で選んだアイデンティティ(焦点)を持っている事がはっきりしている人だ。けれど、それほどはっきりしなくても、普通の私たちもいろんな焦点を持っている。普通それは役割意識とか役割人格(ペルソナ)とかいわれる。確かに多くの場合職業上の立場や母や父といった家庭での立場に関わっている場合が多い。けれど多数の役割意識を持ち、日常生活を行っている時、自分がどこに焦点を当てて言動しているのかを無意識に切り替えて、多くの焦点の間を器用に渡り歩き双方を結びつけ、葛藤を解決していないだろうか。

 「今の時代」という言葉をあまり使いたくないのだけれど、でも誰でも無意識に気がついているように、私たちは今、時空間を事にする世界と容易に結びつく事が出来る(SNSや画面を通して)し、全くスピードの異なる世界が同一平面上に重なり合っている(秒単位のネットトレードと10年、100年単位の農林水産業)。私たちは、持とうと思えばネットの中でのアイデンティティ、地域社会でのアイデンティティ、企業人としてのアイデンティティ、家庭人としての…と幾らでも焦点をもって、それぞれのアイデンティティで動く事が出来る。けれど、その焦点がバラバラに存在しているのではなく、自分という1人の人間の中に同時に存在している事に意識的になる必要があるのではないかと思う。というのは多焦点には人や場所を結びつけ、葛藤を解決する利点もある、が、その逆に焦点の間を器用に渡り歩きすぎると、その度に傷つけたり、侮蔑したり、足を踏んづけた人の事を忘れ、たまにまた出会って、その事を批判されると「そんなつもりはなかったのに誤解された」と自分が被害者のように思ってしまう。逆にある焦点の代弁者として、他人を攻撃し反論を許されない立場にその人を追い込んでしまう。当事者達はそんな対立構造など望んでいなかったかもしれないのに、敵味方に分ける対立構造を外から持ち込んでしまう。そして対立が激化した頃に、しれっとした顔で対立構造を評論しているかもしれない。自分自身のアイデンティティが、多焦点性に無意識でいると、そんな落とし穴に陥ってしまう。

 多焦点性に無意識になれるのは、どこかで自分のアイデンティティは一定であり、揺るぎがなく、確固としたものだと思い込んでいるからではないだろうか。元々アイデンティティという言葉そのものが「自己同一性」なのだから、確固としたものというイメージが強い。以前も話題にしたように「本当の自分」等と言い出すと、余計にその感が強くなるし、この頃は帰属集団へのアイデンティティを強調する本が満ちあふれてきている(日本人の本質とか、○○人の~性を暴く)。経営関係の本にしてもミッションとかクレドとか、従業員がアイデンティティを持てるような核を持ち、あたかも一つの人格のように行動するだけでなく、社会市民として企業が立地している社会に貢献する事が素晴らしい事のように書かれている。そんな確固としたアイデンティティが強調されるなかで、自分という1人の中にある様々なアイデンティティの焦点は、自分という一つの確固としたアイデンティティを持った人間が、役割に応じて付け替える事の出来る仮面(ペルソナ・役割人格)として、いつでも外したりつけたりする事が出来るもののように見えてしまう。

 アイデンティティの多焦点性と役割人格が違うのは、つけたり外したりが出来るかどうかという点にあると私は考える。役割人格というのは非常に怖い。ナチスのユダヤ人虐殺を指揮したアイヒマンを裁判で見たハンナ・アーレントは、アイヒマンを普通の人間だといって非難されたけれど、彼女が言いたかったのはどんな人間も役割人格を与えられて、その役割を正当化される組織に所属し、正当な口実を与えられれば、アイヒマンのような事をいとも簡単にしてしまうという事だったのだろう。アイデンティティの多焦点性はこれを許さないものだと、いやこれを許さないからこそ、つけたり外したりしないからこそ、多焦点性であるのだと考えている。

 とはいえつけたり外したりしないけれど、多焦点性は常に揺らいでいるし、常に変化していく。その点では(先にこの原稿を読んだ片岡さんが言うように)アメーバーのようなものといった方が近いかもしれない。じゃあアメーバー的多焦点アイデンティティをもった人間同士が、それぞれの多焦点性やアメーバー性を意識しながら、どうやって出会い、交流(トランザクション)していくのだろうか。これについては号を改めて書いてみたい。(校註:実際のアメーバーは性交以外は単独行動者であるか、集団で固まって1個の生物のようにして生きているかのどちらかだという。このどちらにも人間は惹かれてきたのだけれど、悲しいかな(?)人間はアメーバーではないので、そのどちらにもなりきれないー苦笑)。

財と商品

 えらく堅苦しい題で始めましたけれど、今回も実習付きの原稿なのでご安心を。とはいえまずは少し説明をば。「財が商品になるのは暗闇の中で跳躍するようなものである」といったのはマルクスだったか、どうか判然としないのですが(何しろ19世紀、人の文章を勝手に自分の文章の中に入れても平気の平左の時期。盗作で訴えられたアレクサンドル・デュマ(父)は「確かに筋は盗んだ。だか、オレの小説の方がずっと面白い」といって裁判に勝ったとか)。とにかく財は人間全般の役に立つ物、商品はある特定の人が何らかの対価(お金でもいいし、労働でもいいし、他の財でもいい)を払って手に入れたいと思う物。この二つの間には男と女の間以上に暗くて深い溝があり、おかげで世の中の経営コンサルト業が儲かるという仕掛けになっています。つまり、どんなに美味しいミカンであっても売れなきゃゴミになるという訳です。これが今の世の中の仕組みですし、本質的には結構公平な仕組みであると私は思っています(これがないと自分勝手な押し売り状態が蔓延する訳ですよ…「○○○に優しい」から「○○さんのやり方に従った健康にいいもの」だから、高くて当然まずくても文句言うなみたいにね)。

 ということで、今回は皆さんの手元にある(あるいはこれからできる)財を商品に変えるための魔法の方法…はあり得ないので、少しでも役に立つ方法を紹介したいと思っています。ただしこれは数多ある方法の中の一つにしかすぎないこと、世の中に万能薬も万能の方法もないこと、最後は自分でやるしかないこと。この三つは忘れないでくださいね。

 さて手元にある財は財ですから、何らかの形で人の役に立っているはずです。その今の役割をまず忘れましょう。そして新しい役割はないか、いろんなアイデアを出していきましょう。といっても、なかなか難しいことですし、頭の中で考えるだけでは何のことやら見当もつかないでしょうから、紙や付箋、筆記用具のある所にいる人は、それをそろえてください。紙が貴重な所にいる人はもったいないですから、できるだけ広くて平らな場所へ行って木の枝を筆記用具代わりにしましょう。例としてこの前奥谷さんから頂いたフローレス島のカカオ豆を使います。が、別にカカオ豆でなくても自分の目の前にある財を使ってかまいませんから、そこは適当に。それと1人でやるよりも、4~5人ぐらいでやる方が面白いので、仲間と一緒にやることをお勧めします。特に日頃くだらない冗談ばかりいって、人に迷惑をかけている大阪人みたいなのがいるとなおよろしい。

 まず第一番目にすること。「カカオ豆とはどのようなものか」を確かめる。…はい、そこでWikipediaに走らないように。目の間にカカオ豆があります。少なくとも財ですから食べて毒にはならないはずです。ということで、五感のすべてを使って確かめましょう(布とか葉っぱとか木でもですよ)。味覚(なめる)嗅覚(かぐ)触覚(さわる)聴覚(豆や葉っぱや木は互いに打ち付けたり、他のものに落としたり。布だったら振ってみたり)視覚(形態だけじゃなくて、何かに似ていないかとかもね)。これが終わったら、大きな紙の真ん中に(広場の真ん中に)カカオ豆 と書きます。で、五感で分けずに(ここがポイント)、感じたことを次々回りに書いていきます。似たような言葉が出てきたら、その言葉に続けて別の表現をしましょう。

←こんな感じです:ちょっと見にくいかな?

ここで出てきたものは、五感を使って見つけたカカオ豆からでてきた「何かになりそうな何か」です。つまりラム酒のような酒になるかもしれないし、化粧品とかクリームとか、薬になるかもしれない、飲み物でも大人向けになるかもしれない、アイスクリームとかお菓子とかのトッピングやお菓子そのものになるかもしれないということです。紙と付箋があると、付箋に同じ言葉を書いて、あちらの言葉、こちらの言葉にくっつけていくことができるので、やりやすいかもしれませんが、地面でやっても原理は一緒です。地面の方が消したり、足したりしやすい分、有利かもしれません。

 2番目にすること。現地の人がどのように使っているのかを確かめる。はい、これも実際にやってみましょう。調味料として使っているならどんな組み合わせで使っているのか。評判はいいのか悪いのか、自分で食べてみて日本人の味覚としてどう思ったのか…。日本人好みにするとしたら、甘くした方がいいのか辛くした方がいいのか、それとも別の調味料とあわせるのがいいのか…を考えてみましょう。もし現地では使われず輸出されているとしたら、どういう形態で最終商品はどうなっているのかを確かめておきましょう(このあたりでコンピューターを使うのは便利です)。

 3番目にすること。実際にやってみること。奥谷さんはカカオ豆を使って現地では作られていないサーターアンダギーを作ってみて、食べてもらっています。現地ではない習慣だけど、奥谷さんの頭の中ではカカオ豆からお菓子への線が一番最初に浮かんだか、もしくはそれが一番やりやすい方法だったからでしょう。ここはトライアンドエラーの段階です。とにかくやってみるのが一番。私だったら、ついこの間フライパンで作る簡単ナンの作り方を覚えた所なので、サーターアンダギーじゃなくて、カカオナンを作るかもしれません。おせんべみたいになるかもしれないし、ちょっとパンケーキ風になるかもしれないし、逆にまずくて食べられないかもしれない。まずくて食べられなかった時。そこであきらめないこと。何故「まずかったのか」を考えましょう。もうちょっと膨らんでいたら…と思うなら、膨らませる方法を考えます(一番簡単なのはベーキングパウダーです。とくに暑い所では。卵白を泡立てて混ぜる方法もありますが、暑いと泡立てにくいし、腐りやすいです。膨らませてうまく行くようであれば、逆に日本で加工するときに卵白を使って自然材料だけでおかしにするという方法も可能ですよね)。

 最後に絶対に考えてみてほしいこと。自分たちが作って売り出す商品は「誰が買うのか」。日本人向けなのか、現地の人向けなのか。それだけで味も違うし、価格も違ってきます。見た目の良さがものをいう社会と、それよりも安いのが一番という社会もあります。甘いの大好き!もあれば、ダイエットやら健康への効能やらを気にする社会もあります。誰によって商品の売り込み方、見た目、価格、全部違ってきますよ。高い方が売れる社会もあるってことも忘れずに。

 そして最終的にもう一度最初に戻って考えてほしいこと。自分たちが作った商品になれなかった財を商品にできないかです。奥谷さんからフローレス島では焙煎した後、さらに形の悪いもの、焦げたもの等々を除くピッキングをしていると聞きました。そのとき私の頭に浮かんだのが「文香」です。この頃ちょっと流行っている手紙に入れる良い香りのする紙が「文香」。飲料やお菓子の材料にならなくても香りさえ高ければ、そしてある程度の粉になるなら、フィリピンの手透き紙に漉き込んで「カカオの香り」の紙が作れないか。分厚くても文香なら問題ないし、大きくしか透けないのなら「一言カード」にしてしまえばいい。カカオの香り=チョコレート=元気が出るというのが定着しつつあるから、「元気出してね」とか「もうひと頑張り」「おつかれさま」なんて一言を添えて会社や学校で使うと良いんじゃないかな?なんて妄想です。そうそう、愛媛では選定したり、伐採しなくてはならないミカンの木をつかった「ミカンの器」があるんですよ。廃業するミカン農家さんの山にあるミカンの木を有効活用した商品です。うっすらとミカンの香りがいつまでもします。そういえばミカンの葉っぱも、揉むとミカンの香りが出ますよね…お湯につけたらどうなるのかしら??捨てるもの、用のないもの、むしろ邪魔になるもの(果物だったら摘果した小さなやつとか)。それをもう一度活かしてあげる道を考えてみましょう。自分たちの場所だけだったらできないことは沢山あると思います。でも、皆さんの強みはいろんな場所に仲間がいること。さっきの私の妄想ではフィリピンとフローレスが繋がりました。日本の中で、日本と日本の外で、日本の外同士で、皆さんのネットワークは広がっています。お互いが繋がったら、捨てるものが財に、そして商品になるかもしれません。そのための環境はチャンと用意されていますよね、昔と違ってインターネットという環境があるし、安い費用で移動することもできます(最後はものを見ないと分かりませんからね)。アイデアを交換して、ものを交換して、お互いの試行錯誤の結果を交換して、そうやって一杯一杯失敗してください。失敗する程、人は賢くなります(利口にはなりませんけど)。賢いというのは「何かをうまくやる」のではなく、「これから何ができるだろう」といつもワクワク考えていられるということだと私は思っています。そのためにも頭はなるべく柔らか~くしておきましょうね。若くても固い人、結構いますよ。

 ということで最後はゲーム。5×5の升目を作ります。升目の真ん中にお題を出す人が言葉を一つ書き込みます。その言葉から連想する言葉を制限時間(10分ぐらいかな)でいくつかけるかを競争!

簡単ナンのレシピ

強力粉300グラム

薄力粉300グラム

ベーキングパウダー大さじ1/2程度(やや多めでも可。要は膨らみ具合なので好みの膨らみ具合を見つけてください)

砂糖と塩を小さじ1程度

全部ふるってボールに入れる。

ボールの真ん中にぬるま湯(300cc)を入れて、粉とよく混ぜて練る(全部が一塊になるまで。なかなかまとまらないようならここでぬるま湯を少しず追加する)

6~8にわけて、麺棒等で均一にのばして、オリーブオイルを塗ったフライパンで5分、ひっくり返して3分。

8個が適量のレシピなので、半分量でやってみてもいいと思いますよ。発酵させないので、気軽にアバウトに作っても結構大丈夫です。

適応と対応

 今回は「適応と対応」をテーマに現場で活動している若者達が各地での自分たちの経験を描くのだという。で、それをまとめるようなものをと言われた訳なのだが、正直言って困っている。例えば「ネコ」を説明しろと言われたときに、自分の知っているネコを説明することはできるが、シャムやペルシア、マンクスにアビシニアンと色とりどり、しっぽの長さもとりどり異なるネコをまとめてなんと説明するのかというような話だからだ(もちろんネコの場合は学名を挙げてフェリス・シルヴェストリス・カトゥスに属する動物といって、相手を煙に巻くという最終手段はあるが…)。

 ということで、今回は適応とか対応という言葉より姿勢の話をしたい。だから以下の話は自分の体を実際に動かしながら読んでほしい(ただし各人無理のない範囲でお願いする)。足下に1本の細い紐を置く(外だったら地面に1本の線を引く)。まず自分のいる側を外、紐や線の向こうを内と考えて、紐のギリギリに足を置き、利き足を半歩内側へ踏み込んでみよう。そのとき重心のかかり具合はどちらにあるだろうか?よほど不自然な体重の掛け方をしていない限り、重心は自分の真ん中かやや内よりになっているはずだ。この姿勢が適応である。重心は外側の自分にも、内側の自分にもかかっていて、容易に体制が崩れることはない。安心して立っていられるはずである。ではその姿勢のまま、右や左に体を動かしてみてほしい。くれぐれも半歩先の姿勢を崩さずに。どうだろう。意外と難しいと感じたのではないだろうか。体全体をゆっくりとねじるように動かさないと動けないはずだ。では次に(この後の動作は本当に無理のない範囲でお願いしたい)半歩踏み出した姿勢のまま、ゆっくりと体を下げていってほしい。利き足でない方のかかとがあがるのはかまわないが、半歩先の姿勢は崩してはいけない。筋力に自信のある人(たとえばマラソンの練習をしているとか)ならともかく、通常は途中で自分の体のバランスが崩れてしまうと思う(もしくは半歩先に出した利き足のかかとも挙げてバランスを取ろうとするはずだ)。 

 こんな風に適応の姿勢は立っている分には良いが、自分が入ろうとしている所の様々な側面を眺めようとしたり、深く入り込もうとした途端、自分の姿勢そのものが障害になってしまう。

 では次にもとのように紐や線の所に戻って、利き足を大きく一歩内側に踏み込んでほしい。このとき重心は6割がた利き足にかかることになる。その体制で右や左に体を動かしてほしい。今度は非常に容易く動くはずだ。同じように深くかがみ込むことも簡単にできるだろう。この体制が対応である。内側に踏み込んでいるからこそ、左右色々な場面を見ることができる。相手と深く関わることもできるだろう。ただしこの体制には欠点がある。深く入り込む、つまり利き足に体重をかければかけるほど、ちょっとしたことで倒れてしまいそうになる(バランス能力に自信のある人は誰か他の人に8割利き足に重心をかけた所で、不意に押してもらえば実感できると思う。ただしバランスを崩して倒れてしまうことが多いので、普通の方にはこの実験はお勧めしない)。そう、対応の姿勢は文字通り「足をすくわれる」可能性が大きくなる、適応の姿勢よりもリスクが大きいのだ。

 ではどちらの姿勢が良いのか。これは時と場合、そしてその場所の文化のあり方によって変わるし、同じ場所であっても何に向かい合っているかによって変わってくるだろう。

 よく冗談半分まじめ半分に、京都で先の戦争で家が焼けましてといえば、室町の最後の戦乱で焼けたということだといい、室町以降に京都に住んだ人は新参者でしかないと言われる。室町は行き過ぎかもしれないが、歴史の古い場所、人の出入りの少ない場所は得てして、よそ者に対するガードが高い。こういう所でいきなり「対応」の姿勢で臨めば、排除される可能性が高い。その場所に長年すんでいる人に取っては「当たり前」のことでも、外から来た人間に取っては「おかしい、変だ、不公平だ」と思われることは多々ある。田舎暮らしに憧れて田舎に転居したけれど、本格的な農業をする訳でもない人が、村落の水路掃除にかり出されたり(あるいは水路掃除代を請求されたり)すれば、「なぜ使いもしない水路の掃除を負担しなくてはならないのか」という対応になるだろう。けれど、その村落にとって水路は村落共同体全体のものであり、利用するか利用しないかとは別のものだという意識があったとしたら、「使いもしないのに…」と文句を言う「よそ者」は出て行ってもらった方がマシな存在になってしまいかねない。適応であれば、まぁとりあえず格好だけでもと水路掃除に行き、無駄話に花を咲かせ、皆さんお元気ですねとお世辞の一つも言いして、徐々に関係性を作っていくことになる。不条理であり、不合理である風習にも一定の理屈が隠れている場合がある。その理屈をその風習を守っている人たち自身も忘れ去っているかもしれない。あるいは用意には教えてくれないのかもしれない。けれど、古くからの条理にはある程度適応で向かうべきだろう。

 けれども、適応ではすまない場合もある。その場を大きく変えたいとき、あるいは変えなくてはその場やその歴史そのものが消滅してしまう危険性があるとき、人生や命がかかっているときなどがそうだろう。それは内側から外へ踏み出す場合もあるだろうし、外側から内側へと踏み込む場合もあるだろう。適応ではないから足をすくわれる危険性は高い。その代わり、先ほどの姿勢と同じようにその場だけでなく左右を見渡す広い視野を持てるし、身軽に動くこともできる。その一歩がすべてを変えてしまう場合だってありうるだろう。あるいはその一歩を待っていた人がいるかもしれない。その一歩で見方を変える人、自分たちの生活を見直す人、自信を持つことができる人も出てくるかもしれない。リスクは高いが、うまく行けば大きな成果を上げることができるだろう。

 適応と対応、どちらがより良いかは一概にはいえない。けれども、どちらの場合でも忘れてはいけないことがある。屈むことだ。屈むというのは、その場の人と同じ視線に立つこと、その場の人を同じ人間として尊重する姿勢を意味している。対応と適応では、じつは適応の方がこの姿勢を取るのが難しい(先ほどの実験を思い出してほしい)。上辺だけ取り繕って「どうせ田舎だから…」「どうせ遅れた国だから…」「仕方が無いからあわせておいてやるか」と内心で思ってしまったりする(そうしてこういう内心は意外とすぐにばれる)。対応だと屈みやすい。なぜかといえば必ず喧嘩になるからだ。喧嘩をしてもあきらめなければ、少なくとも互いを「喧嘩相手」として見なすことができる。喧嘩を重ねることは、相手の本音を引き出すことでもある。そして、こちらの本音をさらけ出すことでもある。屈みやすいだけにひっくり返されやすいが、屈んでいればもう一度同じように喧嘩することもできるだろう。適応のように屈みにくい姿勢で喧嘩をすると、二度と喧嘩ができない深手を負う可能性も出てくる。

 ただし適応でもきちんと屈んでいれば、滅多なことではひっくり返らない。実は能の屈んだ姿勢がこれだ。修練を重ねたプロは3キロ以上もある衣装を着てこの姿勢を30分以上保つことができる。「居グセ」という一番の見せ所でもある。同じ姿勢のまま何一つ変えることなく心情を観客に伝える場面である。表面だけではない芯からの適応はこの強さを持つ。適応を重ねるうちにその場で最も大切にされている核に迫ることができるからだ。

 逆に表面的で短時間の対応は薄っぺらい友情を生み出すだけに終わる。ある雑誌のコラムでこんな話があった。ドイツ人のホームステイを受け入れた数家族が最後の別れをする場面である。他の家族は皆にぎやかに片言で分かれの挨拶をしたり、写真を撮ったり、泣きながら抱擁を繰り返したりしている。でも筆者と筆者の家にホームステイした相手は、単に握手をして分かれる。筆者はドイツ語が堪能だったから、怒る時は真剣に怒り、嫌いな所はビシッと指摘した。きちんと直面し対応したからこそ、淡々とした別離になった。筆者以外の家族はドイツ語ができず、精々片言の英語ができるだけでドイツ人のホームステイを受け入れた。困った行動も「所詮言葉が通じないから」で受け入れ側は許してしまう。だからこそ「楽しい」思い出が残る。そして大騒ぎの別離になる。けれど、どちらの場合が付き合いが長続きするだろう、あるいは思い出が長続きするだろう。答えは明かだと思う。踏み込んだつもりが、全然踏み込めていないのだ。短時間のと書いたが、たとえ短時間であっても「許せないもの、だめなもの」をはっきりと相手に伝えるのと、「所詮短時間だから」と許してしまうのとでは対応の深さが違う。他人が日常的に生活を一緒にするのであれば、摩擦が起きて当たり前のはずである。それをスルーしてしまうような対応は対応であって対応ではない。相手と真剣に向き合っていない、つまり屈み込んでいないのだ。

 屈み込む姿勢は対応であろうと適応であろうと、立っているよりずっとしんどい姿勢だ。けれど屈み込むことなしには何も生まれてこないのではないだろうかと私は思っている。

社会的な何か

宇沢弘文さんが亡くなったということが新聞で報じられていた。といっても、若い人にとっては全く知らない名前なのは当然だろうと思う。もしかすると現代社会の教科書で自動車公害に関連して本文の欄外に名前が載っていたかもしれないし、白い髭が長い写真に見覚えがある人があるかもしれない。実はかくいう私も宇沢さんの数理経済学分野での成果はよくわからない。けれど『自動車の社会的費用』という岩波新書が話題になり、変わった学者先生がいると思った覚えがある。「変わった」というのは、現実に問題が発生してから批評はするけれど、現実に問題になる前に、問題点を指摘したり取り組んだりしないと思っていたのだ。

 『自動車の社会的問題』にそんな感じを持ったのは、自動車の排ガス(当時問題に成りつつあった)問題だけじゃなく、歩道橋を渡らなければならなくなった人の労力、道路が建設されることによって失われる緑を楽しむこと…そういう普通は「費用」という金銭的な言葉で考えないものを、社会的費用として問題化したからだと思う。宇沢さん自身も意識していたと思うのだが、現実の政策形成に経済学が関わる時は、政策を行った時の費用と便益を計算するという形になる。ただし、経済学の費用は元々金銭的なものだけではないのだが、やはり現実面では金銭に換算しやすいものを費用として計上することになってしまう。「緑を楽しめなくなる費用」は確かに経済学上の費用だけれど、それを定式化する方法がなかったわけだ。そこから宇沢さんは、社会全体で守っていかなくてはならないものを社会的財産とか社会的共通資本という言葉で表していくことになる(興味のある人は、実際に本を読んでみてほしい)。

 ところがその一方で、宇沢さんの問題提起受けて誕生したといってもいい公共経済学では、社会資本(社会的共通資本と呼ばれることもあるが)は主としてインフラストラクチャを意味することになった。例えば道路の整備状況が経済発展や生産性の向上にどのような影響を与えるかといった研究や、公共政策の効率性を考察する経済学になったのである。こうした社会資本は英語ではソーシャルインフラストラクチュアと呼ばれるのだが、日本では定着せず、通常経済学で社会資本といえば、インフラストラクチュアであって、宇沢さんが主張したような緑を楽しむ費用などは入ってこない。というか、入ってこないことが多い。多いというのは、公共経済学の実証研究では、研究者によって費用をどこまで考えるのかが異なっているからである。確かに保育所があることで、「昼間の騒音が増えて落ち着いた生活ができない」と感じる人(どうやらこのごろ増えているらしい。少子化社会らしいことだ。大勢の子供の声を聞いたことがなければ確かに騒音かもしれない)もいれば、「まぁ賑やかで嬉しい事」と感じる人もいるわけだから、実証研究にとってはできるだけ客観的に捉えられる費用を、費用にしておいた方が「中立的」分析になるだろう。

 さてその一方で社会学や政治学の方で「社会的共通資本」という言葉が1980年代後半から90年代にかけて、社会学や政治学の部門で提唱されるようになってきた。原語はsocial capitalなので、当初は「社会資本」と訳されていたりしたのだが、今では「社会的共通資本」とか「ソーシャルキャピタル」と書かれるのが普通である。こちらの社会的共通資本は、「物」ではなく人間関係を指している。例えば一人暮らしのワンルームマンションがあったとする。通常は隣近所の付き合いなどない。大地震が起こった時に「誰がまだそのマンションに残っているのか」という生命を左右する情報は、こういったワンルームマンションで提供されることはない。ところが同じ一人暮らしでも隣近所との関係が緊密であれば(それが都会のマンションであったとしても)、「誰それさんがいない、どうした?!」という声が上がり、それが救出につながることがあり得る。ちょっとした例にすぎないけれど、前者と後者では「物」ではない何かが異なっていることはわかると思う。この違っているものを「ソーシャルキャピタル」というわけだ(多分この連載でも詳しく書いたことがあると思うので、古いのを引きずり出してほしい)。

 そしてもう一つ、ここで紹介しておきたいのが『コモンズ』である。近頃とみにアニメの無断配信で話題になっている「著作権」だが、この著作権や発明や特許に関する権利が本当に個人のものなのか?という問題提起をしている本である。著者のレッシグは著作者や製作者の権利を否定するわけではない。けれどLinuxというOSが当初の開発者がネット上にそのソースを公開したために、ありとあらゆるプログラマーが集い改善したように、ソース(資源とか元々の原本)に手を加えることを許容することで、様々な創造性が生まれるとする。「いや~それってネット上の話でしょ」という人は、政府が推進している「クールジャパン」ってそもそも何なのかを考えてほしい。アニメの主人公の格好をするためには、その服装や髪型を創造した著作者(等)の許認可がいるーディズニーランド以外のところで公式のミッキーマウスを見た人は少ないはずだー。けれど日本アニメやその原作者はその権利を行使しなかった。それどころかファンジン(ファンによる雑誌)として始まった2次創作を公的に認めている作家もいる(もちろん厳しく拒否する人もいる)。レッシグが提起しているのは、一元的に「著者固有のもの」と取り締まるのではなく、それぞれの著者や発明者が望む範囲で共有化して良い新たな権利である。そしてそうした緩やかな権利で創造が行われる場をクリエイティブコモンズと呼んでいる。

 宇沢さんの社会的費用から始まって、こうして「社会的ななにか」を見てくると、どうも「私有財産制」という近代的な制度そのものが妨げになっているところがある。実は私自身結構切実に痛感させられるいる。いつも学生と米を作っている田圃のほぼ真下にポツンと一つ耕作放棄地がある。葛や雑草が茂り放題。猪の遊び場になっている。周囲からすればせめて草刈りだけでも…なのだが、どこかにいる所有者がガンとして許さない。そして日本の法律上、私有財産の土地に「無断で立ち入る」ことは刑法上の犯罪となる。一度も現地に来たことがない所有者の権利が、常日頃周囲の土地を耕している人々の作物を猪の被害に晒している。

 かつて私有財産は、公の権力(=公的暴力)を握っている支配者層から「自分のもの」を守るために設定された。この「自分のもの」には財産だけでなく生命も入っていた。だからこそ私有財産制は人々の自由を保証するものと考えられていた。これに対して「公(国家)」は私有財産を持たない(持てない)人々の保護や、私有財産制度では実現不可能な(あるいは実現しても不効率になるだけの)インフラを整備するために、仕方なく必要なものであった。けれど現在自由の根幹だったはずの私有財産制度が、人々の自由や生命を制限してしまう場面が出現している。ではかつて私有財産が諸悪の根源であると主張した共産主義を再検討すべきなのだろうか。私はそうは思わない。「私有対共有」という対立図式そのものが過去の遺産に過ぎないからだ。今、問い直さなくてはならないのは、私有財産制度の在り方そのものだろう。果たして現在の私有財産制度が今の社会にもっともフィットしたものなのか、他の私有財産制の可能性はないのか。宇沢さん流にいえば「私有財産の社会的費用」が問われているのだと考える。「車の社会的費用」が唱えられた時、車の排ガス問題は「誰がこの費用を負担すべきなのか」「果たして社会に車は必要なものなのか」「どのような車ならば許容できるのか」を人々を考えさせるきっかけだった。結果的に車はなくならなかった。だが厳しい排ガス規制をクリアする新型車が出現した。宇沢さんが「車の社会的費用」で提起した問題が全て解決したわけではない。けれどその時その社会にとって必要だった解決手段はなんとか生み出された。

 同じことが再び起こることをどこかで私は信じている。今回ブレイクスルーを産むのは技術ではないだろうし、社会工学でもないだろう。都市計画や建築家といった専門家が議論をリードする場面はあるかもしれない。けれど、今回の私有財産の社会的費用をめぐる問題は、それこそコモン(=普通)である私たちが解決する問題だと思っている。車は大量生産できる。でもソーシャルキャピタルは量産できないし、他の場所の真似で作ることもできない。だからこそ「今、ここの、普通の」私たちが作るしかないのだと思う。難しい?そんなことはない。かつて日本人は入会地を自分たちで管理していた。河川沿いに田畑が並ぶ村では決まった時期になると土地の取り替えが行われた。河川にもっとも近い田畑は水害に遭いやすい。そのリスクを均等化する工夫だった。その土地に合ったコモンルールが存在し、暗黙裡に守られ伝えられていた。今現在の社会では暗黙裡に…とはいかないかもしれない。けれど、コモンルールを設定しようと試みることはできる。そしてその試みそのものが、コモンを設定することなのだと私は思っている。

本の読み方あれこれ

本の読み方というタイトルを見て、なんだか難しそう、敷居が高い、縁がない、読む気になれないという人も結構多いと思う。そもそも本をわざわざ読む必要があるのだろうかという疑問を持つ人もいると思う。今はネットで検索すればありとあらゆる情報が万単位で画面に現れる。無料だし早い。それに比べれば本は有料だし自分が知りたい情報がすぐに手に入る訳ではない。でも検索は万能だろうか。「ニューアムステルダム」という言葉は酒(ジン)であったり、ニューヨークの古い名称だったり、劇場の名前だったり…と色々な意味を持つ。どの意味を選択するかを決定しているのは検索する側だ。どの意味を選択すべきかに関する適切な情報や知識がないと、誤った検索結果を覚え込んでしまうことになる(さすがにジンとニューヨークは間違えないとは思うが)。選択する際に必要な情報や知識という背景があって初めて適切な検索ができる。通常こうした背景情報は検索する側が持っている。先ほどの例でいけば、たまたまその名前のジンを見たのだけれど、どんなものなのか知りたいなどにあたる。さてニューアムステルダムジンがどこで造られるお酒か、名前の由来がわかったとして、それでジンの歴史を知ったことになるだろうか。ジンの歴史を知るためにまた検索をしてみると、ジンを初めて作った人の名前が3種類でてくる。さらに連続蒸留だのオレニエ公ウィレムだの訳のわからない言葉が羅列されている。大学のレポートならばわからない言葉であってもコピペすれば良いかもしれないが、コピペの知識を自分の知識だと思う人はいないだろう。検索で情報を得るのと「知識がある」というのの間には結構な溝がある。

 この溝を埋めるのに役に立つのが本だといってもいいかもしれない。情報の背景を深堀する時、文字面を知っているだけではなくその意味合いも知りたいと思うとき、断片的な情報が詰まっているネットの海を検索エンジンを使って渡る方法はお勧めできない。単純に無駄が多いからだ。「情報を得た」から「知識がある」に進むには、体系が不可欠だ。体系といっても小難しい理屈ではなく、情報がまとまって入っているお弁当だと思ってもらえば良い。数々のお惣菜をあれこれと詰め込んでもなんだか統一のとれないものが出来上がってしまう。幕の内だとか、○○名物だとかの名前がついて売っているお弁当はそれなりに色目がそろっているし、味の統一感もある。本を読むというのはお弁当を購入するものだと思うと良い。手軽に主食と副菜のバランスがとれた食事がとれるのと同じように、手軽に体系だったひとまとめの情報を入手できるし、バランスよく情報が配置されている。とはいえ、このお弁当は食べるのにコツがいる(と思う)。まぁ所詮お弁当の食べ方だから作法というよりも個人的な好みの範疇だとは思うのだが、私のコツを紹介しておこう。

 1)目次と索引は活用しよう。

 大抵の本には目次がある。索引はついていない本が多いがちょっと専門的な本ならばついている。さて、この目次と索引はお弁当の包みと名前のようなもの。どんな内容の情報が入っているのか見当をつけるためにすごく役に立つ。とくに何か特定の情報を背景付きで探りたいときに役立つのが索引だ。自分が求めているキーワードがあるかどうか、あるのなら何頁分の分量になっているのかが一目で分かるのが索引である。索引でキーワードがあって1頁以上の分量があれば、まずそこを覗いてみる。わかりやすそうかどうか、自分が知らない事柄が載っているかどうかを点検する。求めている情報がありそうだとわかったら、その頁が属している章など一定のまとまりをなしている部分を読めば良い。本だからといって、最初から最後まで読み通す必要はない。ところが索引は便利なのだが、ついている本が少ない。なので通常は索引の代わりに目次を使う。目次の場合はキーワードがそのままというわけにはいかないが、それでも似たような言葉が載っていたら、まずその部分に目を通せばいい。当たりかどうかがわかる。さらに目次を読めば、その本の雰囲気とか取り扱っている題材がわかってくる。自分が読もうとする本が適切な情報を含んでいるかどうかを見定めてから、本を読む方が効率的だし、読む気も起きるだろう。ちなみに目次で内容や雰囲気をつかむという方法は情報を探したり知識を得たりするだけじゃなくて、楽しみのために本を読む場合にも役に立つ。私は推理小説が好きだけど、新しい作家の小説を買うときは、目次を見て興味をそそられるかどうか食指が動くかどうかで選んでいたりする。

 2)前書き(はじめに)後書き(おわりに)は概略を示してくれる。

 前書きとか後書きとか、解説とか、本には本文の前や後ろにいろんなものがついている。これだけを読むという方法もある。前書きなどはその本を書いた作者の動機や問題意識が書かれてある。後書きなどは、書き手が作者の場合はその後の課題だったり、書いた後の感想だったりするし、他人だったらその本の意義だとか面白さが書かれていたりする。前書きと後書きを読めばその本の概略が何となくわかると思っていい。それに作家が書いた場合は、その前書き等の文体が合わないと、本文を読むのが辛いだけになる。だから着いていたら目を通すべきだ(一部ネタバレ注意もあるけど)。楽しみのためだけでなく知識を求める場合でも、その本が初心者向けか専門家向けかを判断するためにも前書きは肝心だ。前書きに書かれているのがやたらと細かい情報で、言葉も難しいようなら、その本を読むのはやめて、別の本を探した方が良いだろう。また何となく「合わないな…」と感じる文体で書く人もいる(専門書であっても)。これは私の悪い癖でもあるのだけれど、でも個人的には文体的が合わない人の本を読むのは(仕事などでどうしてもという場合を除いて)お勧めしない。精神衛生上悪いからだ。どんなに有益な情報であっても読んでいてどうにも合わない文体で書かれていると、決して自分の中に入ってはこない。むしろ感情的な反発や嫌悪感が先に立つ場合があるので、注意が必要だ。だからなんだか合わないと感じたときは、その本をおいて、別の人が書いたその分野の本を探した方が良いと思う。

 3)斜め読み、飛ばし読みの勧め。

 斜め読みや飛ばし読みは悪いことではない。小説はそうはいかないが、知識を得るための本であれば、目次を見て良さそうだと思った中で、特にここが面白そうというところから読むのは良いことだと思う。もちろん本は体系だっているから、途中から読み始めるとわからないことが多くなる。けれど、はじめから読んで疲れるよりは、つまみ食いも良いものだ(まぁ幕の内弁当の中の好きなおかずから食べるようなもの)。分からない言葉が出てきたり、前後の脈略がよくわからないと思ってから、最初に戻って読むのは案外苦にならない。なぜって「知りたい」という思いがあるからだ。

 4)多読の勧め。

 図書館でも大型書店でも良い。とにかくたくさん本のあるところで目次読み、前書き等の概略読み、斜め読み、飛ばし読みをたくさん試してみること。そのうちに相性が分かってくる。まぁマッチングパーティーとか合同説明会みたいなものだ。それだけではない。ある特定の分野(図書館でも書店でも同じところに集まっている)でこの読み方をし続けると、なんとな~くだけど知っている事柄が増えてくる。あの本のこの情報と、こちらの本のこの情報って似ているとか、なんか結びつきそうとか、え~嘘!違ってるじゃんなんてことが感覚的につかめてくる。そうなるとシメタもの。それは自分なりに自分のお弁当を作る腕ができてきたということだ。本は他人が作ったお弁当だから、味が濃すぎたり、好きじゃないおかずが入っていたり、逆に食べたいものが入っていなかったりする。ある程度数をこなすと自分の好みもはっきりしてくるし、役に立ち身になる情報とそうではない情報の区別もできるようになる。なにより情報の中身に精通してくるので、材料となっている情報の善し悪しが判別できるようになる。また調理の方法(文体とかね)もよく分かってきて、腕の善し悪しも分かってくる。複数の本の中から特定の情報をうまく取り出して、自分なりに調理することもできるようになる。たとえば北欧の福祉国家の実態を知るために専門書を読むのは有益だし必要だけど、社会派の推理小説を読むのもお勧めなのだ。小説のほうがその社会を切実に鮮明に捉えていたりして興味や関心が湧いたりする。本を読むときに何より大事なのは知識欲だと思う。知識欲を持つきっかけは何だっていい。本を読む究極のコツは好奇心を失わないことだと思う。

曖昧な日本の…

日本の若者には元気がない、覇気がない、やる気がない、よくいわれている。内向き志向、縮み志向といった言葉も日本の若者の同じような生態を表す言葉だろう。これに対して、何事にもどん欲で、上昇志向で、目的意識が強く、活気にあふれ、外へとどんどん出て行くのがアジアの若者。エネルギッシュだ。日本の若者はどうも分が悪い。そしてグローバル時代の今、若者がこんなざまで日本は(あるいは日本人は)どうなるのか!と危機が叫ばれる。私はこの危機のすべてを否定するつもりはない。けれどその危機を日本特有のものとしたり、危機対処策として若者を厳しく鍛え直す必要性が叫ばれたりすると、ちょっとした違和感を覚える。

 歴史上、隆盛を誇った国や体制がピークを過ぎた頃。「近頃の若者は軟弱だ」「何を考えているのか」「豊かな生活に甘えてダレきっている」といわれる。右肩上がりの成長を続けた勃興期、社会変化を受けた変革期に比べ、自分の生活中心で社会のことを考えなくなっているとも批判される。そう、今の日本の若者に投げかけられる言葉の60%ぐらいがいつも繰り返されている言葉だ。共通の表現の根っこには共通の要因が潜んでいると思ってよいだろう。私が考える共通要因は共通目的の喪失だ。共通といっても意識して共有されているとは限らない。時代の風とか時代の精神とか、日本的にいえば「世間の常識」といったものとして、無意識の裡にしっかりと人々の生活や行動、思考様式に根を下ろしているものだ。高度成長期の日本でいうと「明日は良くなる」という考え方になるだろう。今のアジアの若者たちもそう考えているのかもしれないが、高度成長期の日本の若者たちは、自分が努力すれば明日は(近い将来は)きっと良くなる、良い生活(良い給料、良い家、良い…)が得られると思っていた。

 今の日本はどうだろう。時代の風とか精神というと不透明・不確実・想定外という言葉が浮かんでくるのだが、この原稿の読者であるあなたは何を思い浮かべるだろうか。物質的には豊かになった、確かに今日の食べ物はあるかもしれない。でもこの先どうなるのかよくわからない。今はなんとか職についているけれど、来月は、来週はどうなるかわからない。自分は運良く職に就けたけど、先輩は、後輩は…(本当は自分だって運が悪かったら…)。努力と成果が直結していると素直に信じきることができない時代にいるのではないだろうか。逆説的にだからこそ、一部の若者の間で自己責任が叫ばれ、保護を受けている人たち(彼らからみれば努力せずに報酬を受け取っている人たち)に対するバッシングが流行しているのではないか。「あいつ」たちが失業しているのは、惨めな思いをしているのは、保護を受けなくてはならないのは、怠けていたからだ。努力している自分は決してそんな目に遭うとことはないのだと信じたいがために、自己責任を叫び立てているのではないだろうか。全てが自己責任ならがんばっている自分は報いられるはずなのだから。

 話がそれてしまったが(とはいえ結構同根だと思っているのだけれど)要は豊かだけれど、あるいは豊だからこそ、先の見通しがつかなくなっているのではといいたいのだ。別段不況で就職難で雇用不安だからというだけではない(もちろんそれも大きな要因だが)。かつてのように収入が増えれば「良い」生活が得られると考えられない。なぜって「良い」生活の良さがいろいろあるんだといわれているから。目的を持って生きろといわれるけれど、じゃあ目的って何ですかというと、自分で見つけれろ甘えるなといわれる。でもそういっている側はどうかといえば、自分で目的が明確にあった訳ではなく、やはり何となく生きてきただけだったりする。それでも目的があるようにいえたのは、時代の風が目的を設定してくれていたからだ。まずは「豊かになろう」と。でも豊かさって「何の」豊かさなんだろう(お金の?人付き合いの?丁寧に生きるって?貧しくても豊かだって??)。「良い」も「豊かさ」もかつてのような共通のイメージを呼び起こさない。だから自分で考えろといわれる。そしてそれこそが自立なのだといわれる。

 自分で考えること、自分で問うことが大事なのは言うまでもない。でも自分で考えるためには何かしら基盤が必要だ。考え、疑問を呈し、ぶつかるための強固な基盤。ところが、そんなものは「ない」というのが世間の常識だ(本当にないのかどうかはこの際どっちでもいい。ないということになっているのが重要なのだ)。更地から考えること、更地から何かを打ち立てることはしんどい。それよりは目的なしといわれようと、何を考えているんだかといわれようと、「ある」ようにみえるレールに従ったまま、これまで通りに生活を続けて行く方が随分と楽だ。前ではなく下を向いて(そうすれば躓かずにすむ)、決して高望みせず(そうすれば失望せずにすむ)、失敗しても悔しがらず(そうすれば失敗の傷を小さく思うことができる)あるいは失敗を受け入れて(本当は受け入れていないけれど、「わかりました」といっておけば二度とは追求されない)…。

 人間は何時いかなる時代でも、東西を問わずどこでも、一般に(つまり普通なら)辛いよりも楽な方を好むし、何かをして傷つくよりは何もしないことを好む。だから今の状況で日本の若者に冒険的であれ、どん欲であれと望むのは身勝手な話だ。ピークを迎えて嗜好や価値観や生き方が多様だということが建前上であれ「常識」の社会では、若者は未来に賭けることができない。賭けるものが大きいからではない、賭けの報酬が曖昧だからだ(何円あたるかわからない宝くじを誰が買うだろう)。タイトルを「曖昧な」としたのはこのことだ。

 さて、ではこの曖昧な状況の中でそのまま座してひたすら黄昏れていくべきなのだろうか。その道も「有り」だと思う。ただその道はリスクが高い。黄昏れるということは、いわゆるグローバルな競争から降りるということだ。競争から降りた結果、追い抜かれて、馬鹿にされて…でも淡々と生きることができる人はごく少数だと思う。追い抜かれ相手が自分のことをせせら笑っていると思っらコンチクショウと怒る。怒っても自分に実力が伴わない時人間は卑怯になる。自分に実力がないことを泰然自若と受け入れることができずに、相手の揚げ足を取ったり姑息な手段に訴えて相手をおとしめたりしがちだ。そう、黄昏れるという道をとるならば、日本の若者は真剣に自分の品性を磨かなくてはいけない。グローバルな競争という一元的な価値観に決して振り回されることなく、相手を貶めることなく、かといって自分を卑下することなく、淡々と生きることができるための確固とした何かを自分のうちに築き上げなくてはならない。それは結構大変なことだ。

 黄昏れることが難しいならどうすればいいのだろうか。曖昧な状況の中で、共通の目的もなく、黄昏れることもできず、いわゆるグローバル競争で勝ち残るだけの気力や意欲も持てない。きわめて中途半端、まさに曖昧そのものだ。今の若者の姿とどこかだぶって見える。そして私はこの曖昧さの中で曖昧さともがき続けることが、日本の若者の道なのではないかと思っている。もしかすると日本の若者にしかできないことなのかもしれないとさえ思っている。なにしろノーベル文学賞受賞記念講演のタイトルが「曖昧な日本の私」、水墨画にしろ洋画にしろ日本に来ると湿度に満ちた曖昧風となり、白と黒の淡いに百匹の鼠(色)を見いだす。そういう風土と文化に育ってきた日本の若者(国籍ではない、この土地と風土で育っているとどうしてもそうなってしまうのだ)。共通の目的を喪失し曖昧な状況に陥るということが、繁栄のピークを過ぎた「成熟社会」の共通特質だとしたら、曖昧な風土に育った日本の若者はその曖昧さを活かして曖昧な中で生き続ける新しいモデルを作るという道があるのではないだろうか。一見熱のない、ちゃらんぽらんな生き方と区別がつかない道でもある。でも常に留保条件を付け別のやり方や道を意識する曖昧さとちゃらんぽらんな生き方との差は確かにある。それは「自分で決めた」という意識を捨てないことだ。たとえそれが本当は単なる偶然にすぎなく、一時の気まぐれだったりしても、「なんだかんだいっても自分が決めたんだし」と自分自身に対してちゃんといえるかどうかだ。ちゃらんぽらんな生き方にはこれがない。逆に「親がいったから」「会社の命令だから」「いやその時はそれが正解だって風潮だったし」という他人の決定がある。そこさえわきまえていれば、道は千差万別きわめて曖昧。だけどその曖昧さを楽しむ知恵は日本の風土と歴史と知恵の中に埋もれていると思うのだ。

その事実、本当に事実ですか?ー数字って意外に嘘つき

なんだか今回はキャチコピーのようなタイトルになってしまったけれど、3.11以来、数字のマジックというものをつくづく考えさせられてしまうことが多いのだ。数字のマジックといっても、数字自体が間違っているというのは論外。というよりむしろ質がいいのかもしれない。事実ではないということが調べればすぐにわかるからだ。このごろ増加しているのが「数字は間違いではないが伝え方によって意味合いや印象が異なってしまう」という例だ。

 「死因順位別にみると、第1位は悪性新生物(ガンのこと)…全死亡者のおよそ3人に1人は悪性新生物で死亡したことになる」。この文章は厚生労働省の統計から引用したものだ。さてこの数字やこの文章がガン保険の宣伝に使われていたら、どう感じるだろう。ガンで死ぬ人は3人に1人なのだから、自分もガンになるかもしれない、今のうちに保険に入っておかないと…という不安にかられないだろうか。これがいわゆる数字のマジックである。マジックの種は「全死亡者」にある。「全死亡者」というような、日頃自分が使っていない言葉を前にすると人間は、それを自分にとってなじみのある言葉や概念に置き換えてしまう傾向があるという。この場合「全死亡者」は「全ての人」に置き換えられやすい。全ての人は必ず死ぬ訳のだからといって、そう置き換えて…は「いけない」。全死亡者はその年に死んだ人全員である。この文章は平成20年の統計のものなので、全死亡者数は114万2467人、ガン死亡者数は34万2849人(30%)。これに対して同年の全人口は1億2769万2000人。ということはガンで死ぬ人は全人口比だと2%強。さぁどうだろう。先ほどと数字から受ける印象は随分違っていると思う。

 もう一つ古典的な例としてはグラフの縦軸の比率を変えるといったグラフのマジックもあるが、このマジックを文章で説明するのは難しいので、似たような例としてある心理実験をあげておこう。アイスクリームがカップに入っている写真を想像してほしい。一枚目は250ml入りのカップにアイスクリームがあふれんばかりに入っている(カップの大きさは250mlと書いてある)。二枚目ではアイスクリームはカップにちょっきり収まっている(カップの大きさは300mlだ)。二枚の写真を順番に見た被験者のほとんどが一枚目のアイスクリームを選択するという。見た目「山盛りで多そう」だからだ。逆に二枚の写真を一度に見せられた被験者のほとんどは二枚目を選んだ。比較対象があることで冷静に二つを比べ数字を確かめたからだ。心理学や行動経済学の近年の実験や観察から、人間は山盛りの外見に惹かれやすいーわかりやすい指標に飛びついて判断しがちだということがわかってきている。

 さてさて、このところの報道やネットの記事等々で「見やすく」「わかりやすく」「違いが際立つ」文章やグラフを見かけなかっただろうか。そして何となく数字があるから、データがあるから、きっとこれは確かな事実なんだと思いがちではないだろうか(といっている私も実は数字には極端に弱い。だから数字やグラフがあると詳細に検討せず、鵜呑みにしがちである)。「事実」と思えるように、嘘とはいわないまでも微妙に誤解を招くような文脈で語られていることに気がつかないまま、なんとなく見出しや字幕やコメントを見聞きして、なんとなくそれが事実だと思って、なんとなく不安感や不信感を持ったり、なんとなく「悪いのは…だ」と思ったり…というようなことが、近頃多いような気がする。なによりこのごろ世の中には悪いニュースが満ちている。災いをいち早く知らせることがニュースの語源だと聞いたことはあるけれど、それにしてもちょっと遣り過ぎ何じゃないかというぐらい、新聞各社の見出しは不安と不信と危機の連続だ。就職危機に雇用危機、子供は貧困に陥り、放射能や農薬その他諸々で国土は汚染され、農林水産業は衰退の一途で食料不足が起きる可能性が大、エネルギー不足は目に見えており、近隣諸国からは常に武力で圧力をかけられ、同盟国も頼りになるのかならぬのか、政治は機能麻痺で、政財界は汚職まみれとマスコミ各社の見出しは疲れ知らずだ。本当にこの日本のことなのかと疑ってみたくなる。その報道が全く嘘だとはいわない。日本が順風満帆だともいわない。けれどなんだか危機や不安が喧伝されっぱなしで、耳目を集める「事実」だけが消費されていっている気がする。

 だからマスコミはと批判したいのではない。マスコミとて商売だから「売れる情報」を優先する。危機意識をあおる情報が確実に売れるのは、人間が動物であり危機に敏感にならざるを得ないから仕方がない。かといってメディアリテラシーの向上をいいたいのでもない。先に書いたようにわかりやすく目を引きやすい情報によって判断しがちなのは、人間の業、性(さが)でもある。微妙な嘘や欺瞞を追求するのも本心ではない。そうではなくて微妙は嘘や欺瞞とうまく付き合う術を一人一人が考えた方が良さそうだということを言いたい。というのも、人間である限り一人一人全員が日常生活の中で微妙な嘘や欺瞞を発しているし、それに付き合わざるを得ないからだ。自分で見聞きしたことだから、経験したことだから、それは事実だし真実に違いないと私たちは思いがちだ。けれど人間の記憶に残る事実は常に「現在から見た過去」でしかない。あるいは日常的知識の文脈の中で解釈された事実、注意を喚起されることで切り取られた事実でしかない(バスケットボールの試合のビデオを見ながら、パスが誰から誰に何回渡ったのか空で記憶するようにといわれた被験者は、コートのど真ん中を横切るゴリラに全く気がつかないという実験結果がある)。私自身、自分の過去を今の自分に都合の良いように解釈し記憶している。夫婦喧嘩の時、過去の出来事を互いに全く逆に覚えていた事実に気がついて愕然としたこともある。大はマスコミから、小は自分自身や周りの人々まで、私たちは微妙な嘘…といってよいどうかわかないが、文脈に依存する解釈の海の中で生きている。

 その中で私たちはともすれば極端な行動をとりがちだ。マスコミがだめならブログ、西洋医学がだめなら代替医療等々。AがだめならBしかない。最初に書いた数字のマジックもそんな極端な行動を後押しする。なんとか確実で信頼のおける安心安全100%を求めて…。でもそれは人間である限り望むべくもないことだ。何故なら人間が関わる限り100%の事実はあり得ない。一人一人それぞれの事実がそれぞれの濃淡を伴いながら存在するだけだ。微妙な濃淡、微妙な嘘、解釈の海の中で、100%を求めようとするとかえって極端な行動をとることになる。あるものやある出来事、ある情報のなかに見つけた一つの嘘で、そのすべてを否定することになる。かといって、全てを否定して何でもかんでも自分で確かめようとしても、それは一人の人間の能力を超えてしまうし、第一不安で不安で正気を保つことも危ういだろう。何を信用したらいいのかと思い倦ねるときほど、嘘をついていないように見える、根拠があって確からしくって、他者の嘘を暴き自分の真理を決然と主張するものは魅力的に見える。それを100%信頼したくなる。こうして私たちは(私も含めてだ)AがだめならBという行動をとってしまう。

 でも、もうそろそろやめよう。この世の中が微妙な嘘で出来上がっていることを引き受けよう。100%の真実、事実はないかもしれない。でも100%意図的な嘘、欺瞞で全てが出来上がっているのでもない。頑なに嘘を拒絶する姿勢は、逆に嘘につけ込まれやすくなる。頑なに力を込めた防御の構えほど、脆く隙だらけなのと一緒なのかもしれない。武道の達人によると、一番強いのは全身を柔らかく保っておくこと、どこかに力を偏らせることなく、いつでもどの方向にでも対処できるように構えておくことなのだそうだ。不安だとか不信だとか危機が喧伝される今の時代に必要なのは、心を柔らかに保っておくことなのかもしれない。いつでも人を信じることができて、いつでも人を許すことができる。でも「なぜ」「どうして」と問うこと、疑問を持つことは忘れない。体の軸をぶらさずにふんわりと構えるのが武道の達人だとすれば、この世の中を行き来する達人は、自分軸をぶらさずに他人をふんわり信じられる人なのかもしれない。

 そんな達人になるにはまだまだ道は遠いけれど、でも心を柔らかにおおらかに保つ意識はずっと持っていたい。