先月号でミルに引き付けて流言飛語と言論の自由について書いたら、編集局から「じゃあ実際にどう対処したらいいんでしょう。実践的な教育として何か書いてください」との要望がきた。さて、どうしよう…。こういう時ミルって意地悪だなと痛感する。いつも方法は書いてくれるし、方向を指し示してはくれるが、実践になると「自分で考えなさい」と冷たいのだ。理想社会が社会主義になるのか資本主義になるのかすら、未来の人たちが考えるだろうとあっさりと突き放してしまう人なのだから仕方がない。ここは一番、ない知恵をひねくり回すことにする。
で、題材だが困ったことに昨今のコロナ騒ぎで事欠かない有様である。流言飛語どころか詐欺も流行している。何を取り上げようか…と思った時、BBC放送に行き当たった。面白いのは、マスクに関するBBCの態度だ。当初(3月初め)、WHOの公式見解を受けて、保健科学省や感染症の専門家を招いて「マスクは感染予防に役立たない」という論調だった。そしてこの基本的論調は今でも変わっていない。しかしつい最近、アジアと欧州でのマスク文化の違いを報じている記事の中で、以下のように報じられていた。「現在専門家の間で、コロナの感染拡大抑制に対するマスクの有用性が議論されている」。さては天下のBBCも右顧左眄か?というと、左にあらず。マスクが感染予防に役立たないのは、マスクが外からのウィルスを防ぐことができないからーここは変わっていない。しかし今回のウィルスの特徴として不顕性感染者が非常に多いことが推定されるようになった。そこで「潜在的に保菌者である人が大勢いる事態」を想定するとすれば、「感染者が感染を広げる=内から外へウィルスを撒き散らす」のを防ぐために、マスクは有用である可能性が出てきたということなのだ。(蛇足になるがアジア各国でマスクは制服と同様「儀式的」な意味を持っている。マスクを着用することが他の感染予防策への意識づけになっているという行動心理学者の意見も報じられていたー写真は明らかに日本笑)。
一方で、日本に帰国してから私がずっと感じてきた違和感がある。それはマスクに関する報道が非常に多いのに、「手洗いの励行」に関する報道や告知がほとんどないという点だ。感染予防の基本として、多くの報道機関がまず第一番に紹介し、ネットの自社サイトに「正しい手洗いの仕方」を置いているというのに、なぜか日本では手洗いの仕方がマスクに比べて軽いような気がしてならないのだ。そしてマスクに関しては種々様々に報道されている。どこそこで騒動が起きた、医療現場を優先しなくてはならない、手作りマスクの型紙…。
さて、この二つから何が導き出せるだろう。まずは報道する側が人々の知性に信頼を置いているかどうかという違いだ。BBCの報道は一見ややこしい。マスクが有用なのかどうか、という質問に対して間違っているが正しいと言っているようなものだ。何のためにマスクを使うのか、どのような場合に、どんな目的でマスクを使うのか。周囲の状況や条件が明示されない限り、マスクが有用であるかどうかという質問に対する答えは出てこない。見る側・読む側が、それぞれ報道の中にある状況を読み解くことを求めている。ということは逆に見る側・読む側がそうした能力を持っていると想定しているということでもある[1]。
日本の場合はどうだろう。マスクが品切れになっている、スーパー等でマスクを買おうと行列ができている。この事実から「マスクが足りない状況」を導き出すのは簡単だ。でもその状況がなぜ起きているのか、その状況は「新型コロナウィルス」に対する方策として有効なのかどうか。これは検証されているとは思えない。出てくる報道の多くは「マスク増産がどこまで可能か」とか「日本で生産されているマスクは必要量全体の**%に過ぎない」とか、とりあえずマスクを取り上げておこうという風情を感じてしまう。そこにはどこか「あなた方が求めているのはこんな情報でしょう。はい、お好みの情報をお届けしましたよ」「それが真実とか事実とかって。いやいやあなた方が求めているのはこの程度のものでしょう」という姿勢すら感じてしまうのだ。
どちらの社会で育つ方が「自分で考える」習慣を身につけるだろう。
そう、ミルが最も重要視したのが「社会が教育機関だ」ということだ。どんなに学校で「自分自身の判断で行動しましょう」と教えていても、「政府から通達が来たから」で右に倣えになるなら、子供は「大人になるということは、自分で判断せずに、無難に上のいうこと聞くこと」なのだと思ってしまうだろう。小・中・高とどんなに「自主的に判断する子ども」を育てようとしても、社会が「自主的に判断」しない大人ばかりなら、子供は自主的に判断するのは危険だと学習してしまう。「自分の言動に責任をとりましょう」「言葉は大事にしましょう」と教えたとしても「募集と募るは別です」という大人がまかり通るようでは無駄だ。とはいえ、こうした社会に流されるばかりが人間ではない、人には変わる力がある…はずというのがミルの希望でもある。ではその希望を実現するにはどうすればいいのか。社会全体の流れとは異なるー抗するではなくとも、異質な、別の教育はどうすれば実現できるのだろう。
ミルは「経験」にそれを求めた。労働者のアソシエーションも労働者自身が社会の自然法則である(とミルが考えた需要と供給に基づく)市場法則を、経験に基づいて認識する教育装置でもあった(だからこそ失敗しても価値が高い試みなのだ)。経験から認識を得ること、そのためには経験に敏感にならなくてはならないし、その経験が自分自身のものでなくてはならない。経験が自分自身のもの、というのは少し説明が必要だろう。他人に命じられて嫌々事をなすとき、その結果に意を払うだろうか?何にしろ嫌だから、とにかくやればいいと思う、時間が経つのがすごく鈍い。にも関わらずやらなくてはならない。とすればやったという事実が残ればいい。結果の質などはどうでもいい。こうならないだろうか。これが経験が自分自身のものではないという事だ。今現在の教育で一番難しいのがここだろう。嫌々…とはいわないまでも、なぜ勉強しなくてはいけないのかはよくわからないし、勉強して本当に役に立つのかわからない。でも親がいうから、みんながしているから勉強するし、試験があるからやらなきゃいけないし。高校だけじゃ良い職業につけないから、大学入った方がいいし。ざっくりまとめるとこういう感じではないだろうか。だからこそ試験の点数という事実さえ手に入ればいいと思い、点数という事実が評価されるのであれば、それに合わせた「勉強」をすればいいと考える。こうした行動を私は無理ないものだと思うし、状況に最も適合しようとしてとった戦略としては評価する。が、結果的に人頼み、周囲を慮る行動を取ろうとする心性を育みことになる。一方で「なぜ」「何のために」という問いに対する答えは「良い学校」「良い会社」「良い給料」としてある一定の行動パタンを取る方向へと誘導されている。こうした制度の中で「経験から学ぶ」教科や科目があったとしても、生徒はあらかじめ用意されているだろう正解を言い当てようと知恵を巡らすだけになる。
では、このような状況の中で、どうすれば経験から学ぶことができるだろう。第一に正解がないことを徹底すること。したがって教員は必要ない。必要なのは先達としての経験者である。先達は自分の経験を披露するが、それがあらゆる場合に正しいとは限らないことを知っている人でもある。第二に自分の行動結果が目に見えて帰ってくることが必要である。簡単なところでは草取りである。どれだけ丁寧に行ったかは比較すれば一目瞭然となる。それだけではない。個々人の性格や癖もわかってくる。丁寧だが丁寧すぎて効率が悪いもの、目立つ草をとって先に進むもの、順序立てて作業するのが好きなもの、あちらこちらと転戦しては、また戻りと一見不効率のように見えて、最後に帳尻を合わせるもの…。どのやり方が正解でもなく、それぞれのやり方があるということもわかりやすい。誰かが評価しなくても互いに評価できる、自分の中で評価が納得できる。それが結果が目に見えて帰ってくることである。第三に自分だけでは何事もできないことが明瞭なものであること。要はチームが必要なことを実感することなのだが、これが中々難しい。一緒になって仕事をするというだけで、情報どころか話をしないものもいる。この壁を打ち破るのが、言葉が違うもの同士がチームを組むことだ。とりあえずの共通語である英語を使いつつ、なんとか話をしないと何も始まらないことが明らかだからだ。とはいうものの、これは忍耐が試される。遅々として進まないグループ活動に嫌気を差すものも出てくる。特に机上のプロジェクトだと動機の継続が難しい。こうやって条件を上げていくと、農作業にはこの全てが含まれていると痛感する。いや農作業に限らず、物を生産すること加工すること、要は手や体という感覚器官を総動員する仕事には全ての仕事に通じるエッセンスが込められていると痛感する。
さらに自然だとか天然素材を相手に仕事をすると、理不尽さに直面する。天候の変化、まさに天災である水害や台風。人間がどれほど努力しようとも一瞬にその努力を無効にしてしまう自然の理不尽さ。その理不尽さの中でも誠意を尽くさなくては何も実現できない無力さと同時に、同じ無力さの中で足掻いている仲間としての他人への共感感覚。おそらくミルが求めていた教育のエッセンスはこの他人への共感感覚育むことだったのではと考えている。
[1] ただしイギリスでBBC放送を視聴しているのはごく一部の層に過ぎないことも確かだ。彼の国では近代が始まって以来ずっと国の中にある階層の分断で悩み続けている。まぁ階層社会の業病だ。