草の根EXPOを!次世代が未来へ

CWBアドバイザー 松井名津

 インドの大学と様々な提携をすることになった。インターン交換、伝統技術の移植交流、ダンスなどの文化交流、そして、若者が世界と協働して「未来の社会をデザインするために、いかにして命を救い、人間に力を与え、人間同士を結びつけるか」の草の根EXPOを国境を越えて行う。インドは大阪万博をキャンセルした、そこを埋める。さらにラテン圏は倹約主義で一味違う(ブルーノ氏のレポート)。ここらを結び、ウェブ上でEXPOを披露しようというアイディアだ。以下、インドで大学とも語り合った筆者が語る。

 大阪万博が実施されようとしている。大阪に生まれ育っている私の母などはいまだに「あれ、本当にやるん? やめといたらええのに」と至極懐疑的である。もちろん大きな理由になっているのは、発表されるたびに増額される費用だろう。が、それ以上に「今更なぜに万博」という空気がある。まぁオリンピックならば各国選手の活躍だとか、金メダルの数だとかで盛り上がる(?)こともできようが、そもそも万博(万国博覧会)って何のためにあるんだっけ?という根本的な疑問がどこかにつきまとう。その根本的な疑問を払拭するのが開催目的だろうが、その初っ端に「万博には、人・モノを呼び寄せる求心力と発信力があります」とくると、オイオイ要は自分のために人を利用するのかよ!と言いたくもなる。(https://www.expo2025.or.jp/overview/purpose/

 しかしそれも仕方がないことなのかもしれない。元々第1回ロンドン万博からしてその目的は、大英帝国の産業力、技術力を世界に見せつけることだった。だからこそexposure=露呈なのだが、一般の人にとって蒸気機関の展示だけでは魅力に乏しい。そこで当時の万博はいわゆる「見せ物」を会場に配置し、より多くの人を会場に惹きつけようとした(『万博とストリップ 知られざる20世紀史文化史』荒俣宏, 集英社新書を読んでいただきたい)。なので本末転倒といわれようと「人集め(=金集め)」が先で、SDGsだとか、AIと人間の共存可能性だとかは所詮「お題目」に過ぎない。要は、各国がお互いの技術力だとか先端性だとか(その他なんでもいいけれど他国にひけらかしたいもの)をお披露目するために行われるわけだ。そういう底が知れているからこそ、今更感がどうやっても抜けきれない。

 そういう「ひけらかし」感が付きまとう万博という言葉を使いながら、私たちは「もう一つの」「別の」万博をやろうとしている。名付けて草の根万博(grass roots exposition by youth)。草の根万博もある意味「ひけらかし」ではある。ただしひけらかす相手は他人(他のコミュニティの人たち)だけではない。自分たちのコミュニティの人々に対してもひけらかす。expositionの原義に戻って、自分たちのコミュニティの「誇り」を掘り出して開示する運動そのものが、草の根万博である。コミュニティの誇りを掘り出すというと、「名物」や「名所」のリストアップとか、地元の人しか知らない「名店」の紹介というイメージがあるが、今回目指しているのはそれではない。まず私たちがやらなくてはならないのは、自分たちのコミュニティにとって何が誇りなのかを問うことである。それが既存の名物であっても構わないが、なぜそれが名物になっているのかという根っこを掘り起こす。例えばインドのマイソールはサンダルウッドの名産地である。ではなぜマイソールのサンダルウッドが有名なのか、木として特質なのか、香りが良いからなのか、何か神話なり物語があるからなのか。地元ではどのように扱われてきたのか。尊重されているのは昔からなのか、それとも近代に入って注目されたのか(たとえば帝国の植民地からの名物としてなのか)。尊重されているのは地元だけなのか、世界的になのか(サンダルウッド=白檀は昔から日本でも仏教とともに尊重されてきた木材であり、香りだった)等々。その過程は自分たちの根っこが何なのか、何でできているのかを発見することである。さらにその根っこを育てたのがどんな土壌だったのかを見つけることでもある。土壌とは比喩でもなんでもない。コミュニティは風土に根ざしている。コミュニティの誇りもその風土の中から生まれている。歴史の中で元々の場所から移住を余儀なくされたり、近代の国民国家の国境によって分断されてしまったコミュニティもあるだろう。その移住した先の風土によって、コミュニティの根っこは変化を遂げる。そして変化した根っこからは、新しい花や実が生まれたことだろう。生まれた時は新しいもの、伝統に逆らうものだったかもしれない。やがてそれはコミュニティの伝統の中に溶け込み、伝統の一部として意識されていく。それには長い時間がかかる場合もあるし、たかだが50年ぐらいで変化してしまう場合もある(日本人の食事の急速な変化などはその一例だろう)。

 だから見せるのは結果として姿のあるもの(物やパフォーマンス)ではない。というか、結果も見せるのだけど、それ以上に今現在あるその姿が、どのようにして出来上がってきたのか、なぜ、どのようにしてコミュニティの人々がそれを守り続けてきたのかという時間的な過程である。それはまた、それぞれのコミュニティが他のコミュニティからどんな影響を受け、自分たちのコミュニティをどのように変化させてきたのかを見つけ出す過程でもある。

 私たちの「草の根万博」はインターネット空間を使う。それは単純に時間と空間を限定することがなく、博覧会を開催できるということだけではない。インターネット空間を使うことで、展示物が変化する可能性を開いておきたいのだ。まずは、各地のコミュニティが自分たちの誇りを展示したとしよう。展示して終わりではなく、お互いのコミュニティの誇りを相互に参照することができる。そのことで意外なところで自分たちの遠縁にあたる文化等を見つけたり、似ているけれども異なった技術(やり方)に気がつくことができる。こうした気づきによって、自分たちの誇りをさらに変化させ、進化させることが可能になる。その一方で、観覧者は単に「見る」だけの受け身な存在から、関わり、貢献する能動的な存在に変わることも可能である。自分が強い興味や共感を抱いたコミュニティに、自分自身が関わることが可能だ。その第一歩は単純な「お金で応援」であってもいい。しかし興味や共感が強まるにつれて、そのコミュニティの人と関わりたい、一緒に何かを作り上げたいという思いが募っていくことだろう。その時、観覧者は受け身の存在から、自分が自分以外のコミュニティに関わり、巻き込まれる主体になる。主体となった異文化(異なるコミュニティの人)を受け入れるコミュニティも、受け入れたことによってなんらかの変化を余儀される。その変化は良い方向に向かうこともあれば、排斥など悪い方向に向かう場合もあるだろう。何か変化が起こる時、賛成と反対にコミュニティが分かれてしまうこともよくあることだ。ただ、草の根万博の展示作成に携わった人(若者)は、展示作成の過程で自分たちのコミュニティの根がただ1つではないこと、その根を育てた土壌も多岐にわたることを実感するに違いない。こうした人たちが中核になって、排斥や分断の動きを少しでも和らげられるのではないかと願っている。

 芸術が美術館に展示されるものから、見る人を巻き込むインスタレーションに変化したように、博覧会も展示する人と見る人が相互に巻き込まれ合うインスタレーションに変化できる。芸術におけるインスタレーションは、美術館から外に出ることで社会に変化をもたらそうとするものである。それと同じく、展示館にとどまらないインスタレーションを起こす私たちの目指す「草の根万博」もまた、展示館や博覧会会場から外に出て、それぞれのコミュニティと世界とに変化をもたらそうとするものである。

「生活の豊かさ」から「豊かな生活」へ

CWBアドバイザー 松井名津  

 高田さんの原稿に「貯金は増えも減りもせず、その他広い意味で財産と呼べるものが激増している」という言葉があった。この言葉自体はよく田舎暮らしの勧めなどで使われる。また高田さんは「家族・応援団や仲間・生活力・技術・経営感覚・土地・家・料理スキル・備蓄米や種・暮らしに必要な道具の数々」が増えたと書いている。こうした諸々の技術や経験を「財産」という言葉に留めておいてよいのか。財産という言葉はどこかしら一人の人間に属するもの、あるいは人間の築いたものという印象を与えがちだ。確かに都会では得られない貴重なものかもしれないが、財産といった途端、それを得るために代替手段が他にもあるように思えるし、田舎暮らしのすすめやIターンの宣伝文との相違が不鮮明になるような気がした。

 その時、ふと思い出したのが『農民芸術概論綱要』 (https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html)である。なぜ宮沢賢治の文章を思い出したのか。簡単だ。冒頭にこう書かれている。「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい」。そして「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」のだ。だからこそ農民芸術が興隆しなくてはならないと賢治はいう。「いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある 都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」なのである。

「種が大事」 日本では農協が種を蓄えていましたが、それもなくなり、商業主義の種か、アメリカの種苗会社に依存する結果になっていきそうです。原種を保存していくことがとても大事でイギリスはそれを政府の政策としてやっていると言われています。今、ミャンマーで森に入ることは戦地なので、外国人にとって命がけですが、現地の住民は可能です。
 原種はおいしくなく、実も小ぶりなものが多いです。しかし、いざという時には、それで命を繋ぐ。ハーブの取材は続けていますが、次は「食える作物の種」を保存したいと思います。湿度や温度の管理など学ばなければなりませんが、それも現地のお年寄りからヒヤリングです。天草の食べられる森(エイブル)ともリンクです。

 今の若い人は生き甲斐がないという。エンデの『モモ』に描かれた灰色の世界が自分たちの世界だと共感する人たちが多いという。だとすれば「灰色の労働を燃やす」ことのできる「芸術(アートとして生活の術や科学も含んでいる)」、生活それ自身から産まれ、生活と共に変転し、生活に根を下ろす美しいもの、楽しいものが必要なのだ。それはプロレタリア文学のように叛逆・憎悪を主題とし、そこに(あるいはそこから)新しい「美」を剔出しようとしたものではない。

 ここからは私の個人的な感覚になってしまうのだが、賢治の文章には独特の硬質の美がある。それは水晶やアメジストといった貴石を口に含んだ時の涼やかさを思わせる。「銀河鉄道の夜」に描かれた風景のように硬質でありながら柔らかである。ちょうど銀河の河原にある砂が小さな炎を宿した水晶であったように、花咲く竜胆があたかも貴石であるかのように、矛盾を難なく同時成立させる美である。賢治の描写は彼が暮らした環境の中で生まれたといっていいだろう[1]。言葉には彼の経験と感情と心情があり、彼自身の科学や論理がある。だから賢治の農民芸術の分野は料理や体操から詩歌、文芸、建築、服装と全ての人間生活に及ぶ。全ては生活から生まれ生活で生かされていく。しかしそれはいわゆる「民藝運動」とも少し異なる。なぜなら職業芸術家ではなく、全ての人が一時専門芸術家となり、また生活者に戻るような循環を考えてもいるからだ。さらにいえば科学者もまた生活者として、その身体活動とともに科学を形作ると考えられている。[2]

 とはいえ、生活と科学というと現代ではこれほどかけ離れているように見えるものはないだろう。特に抽象度の高い科学、たとえば数学は虚数のように現実にはあり得ない存在を取り扱っている。賢治の科学と生活の一体化という主張は、20世紀初頭ではともかく、現在ではとても考えられない主張だと思われるかもしれない。しかし最先端の数学では数学者が数を扱うのではなく、数であることが肝心だという主張もある。こうした主張は実は数そのものが人間の身体性に基づいていることを基礎にしている。確かに17世紀から西洋では数学は極度にその抽象性を増し、抽象的な公理系の中で「数学独自」の世界を築いてきた。しかしその一方で、数学が人間の思考能力のどの部分を表しているのか、計算ができることと数学がわかることの違い(それは現代的にいえばAIと人間の脳の働きの違いともいえる)とは何かという根本的な問いに関して、再び人間の身体性を考えに入れなくてはならない。ここで人間の身体性とは、単純に人間が五感から情報を得ているということにとどまらない。人間は受動的に情報を受け取るだけではなく、その情報の中から最も必要な情報を抽出し、道具によって加工し、周囲の環境を認識する。こうして認識された環境は客体的な環境ではなく、人間と周囲によって創り出された「環境」である。

数学においても、数学者は人間が作り出した道具である数字を使い、一定の数学的環境を自分の周囲に作り出している。それは単純に数学的世界から刺激を受け取るだけでなく、日常生活や日常の風景から想像力・創造力が生み出されることになる。日本の代表的な数学者である岡潔はこうした働きを「情緒」とよんだ。[3]

工知能と人間の脳の働きとの比較といえば、言語能力に関しても、人間の身体性があってこそ人間の言語が発達するという研究もある。こうした研究でも人間が身体とその延長である道具を使って、環境と相互作用する中で、自分の(とはいえそれは周囲の社会慣習に色濃く染められてはいるが)環境を作ることによって認識を深めていく過程が強調される[4]

 こう考えると、人間が認識を深め、自分や周囲の環境に対応して変化するために「身体」が非常に大切だということになる。たとえそれがとても抽象的な数学であっても。

 さて、楠に戻ってみよう。高田さんがいみじくもいっているように、彼女の息子は「自然児」として育っている。それは彼が全身でいろんな物事を体験していることに他ならない。都会ではどうだろう。多くの親が子供たちを自然教室や自然体験に参加させようとしている。それは彼ら自身が都会の生活の中で育つ自分の子供たちに何らかの不安を感じているからだろう。いわゆる「知識」を得られる機会が多くても、その知識は既存の知識であり、賢治が求めたような灰色の労働を燃やすような新しい創造を見出すきっかけとはなり得ない。新しい創造、芸術、科学を生み出すのは、自然と人間の関わり合いとその中で生まれる身体経験を土台にした「環境」の中で育まれる気づきや発想なのだ。 こうした気づきや発想を生み出す基が楠にはある。彼らの生活を写した写真は端的に美しい。写真家が美しくアレと切り取ったから美しいのではなく、対象それ自体に美があるからこそ美しい。楠が将来の農民芸術を生み出す懐となるかどうか。それは一元に断定することはできない。しかしその可能性は十分に持っている。彼らや楠に集う人、外から(日本の中とは限らない、アジアからという可能性も高い)彼らに刺激を与える人々。こうした人々が作り上げるこれからの「楠」と


[1]  『銀河鉄道の夜』の色彩表現に関しては、ますむらひろし作画『銀河鉄道の夜(4次稿編)』(1〜4巻),風呂猫,の各巻とその後書を見てほしい。

[2] 「グスコーブドリの伝記」を参照

[3] 森田真生『数学する身体』新潮社2018年

[4] 今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 言葉はどう生まれ、進化したか』中公新書2023年

「お金を使わないのは罪」?

CWBアドバイザー 松井名津

 「お金を使わないのは罪」とドラッカーが言っているらしいんだが、この罪ってguiltyなの、sinなの?guiltyは刑法、民法に関わらず、法を侵害したとか、特定の犯罪を行なったという時に使う。これに対してsinは「神に逆らう・神の法を犯す」という意味になる。なのでもしドラッカーがsinという言葉を使っているなら、お金を使うことに非常に積極的かつ倫理的な意味を持たせていたことになる。一方でguiltyだったら、ある社会における罪になるだろう。例えば現在の社会では罪だけど、中世社会だったら罪ではないというように。

 ということで、早速Googleを駆使して論文を探し、いろいろ探ってみたのだが、ドラッカーの語録や文章、ドラッカー研究の中で該当する言葉は見つからなかった。ではドラッカーにそういう発想がなかったのかというと、これまたそうではない。例えばprofit(利益)とは何かについて「利益は未来への投資である」とある。家計の貯蓄であっても、子供の教育費であれ老後の資金であれ、未来の人生を意識して「除けておく」お金であって、最終的にはある目的のために使用されるものである。事業でも利益は事業の究極的な目的ではなく、事業が成功しているかどうか(その目的である顧客の創造に成功しているかどうか)を図る指標であり、次への動きを作るための手段でしかない(そして次への動きがない事業は早晩消えて無くなる運命にある)。

 とすれば、あながち「お金を使わないことは罪である」という言葉をドラッカーがいったとしても不思議ではないことになる。特にドラッカーにとって、市場は常に変化し続ける存在であり、どのような巨大企業であっても昨日の成功のまま、今日を過ごすことはできない。各企業(あるいは事業)は、常に自分の顧客は誰か、顧客が何を求めているのかを根底から問い続けなくてはならない。それを怠った時、企業は衰退することになる。その例としてドラッカーが挙げているのがキャタピラー社である。1980年代まで重機の世界シェアの7割を握っていたキャタピラー社は数年で倒産の危機に陥る。その原因をコマツの急成長に求めることもできるが、ドラッカーはキャタピラー社が既存の自社の使命に安住していたからだとする。そしてキャタピラー社が劇的な復活を遂げたのは、自社の顧客が求めているものは何なのか、自社は何のために存在するのかという根本的な問いを問い直し、その問いに応える形で自社を再編したからであるとする(具体的には単なる重機の販売から重機を使用する際に必要なサービス―修理や改修―を提供する会社へと生まれ変わった)。

 この過程を、ドラッカーは「変革(イノベーション)」という。イノベーションというとシュンペーターがすぐに思い浮かぶ。シュンペーターのイノベーションは、技術革新といって良い。市場の中から現れるものというよりも、天才と時代の要請がうまく組み合わさって生み出されるものである。しかしドラッカーの「変革」は顧客の欲求やニーズの変化に合わせて組織を再編成することによって生まれるものである。組織再編(リストラクチュア)といえば即首切りを思い浮かべてしまうが、ドラッカーによればそれは愚の骨頂である。組織はそこに働く人間とマネージャーの相互作用によって運用されている。個人にとって組織はそこで働くことによって、自己の能力を高めることができる場所であり、組織再編に伴い各個人に要請されるのは、新しい環境でのチャレンジ(リスキリング)である[1]。この変革に必要不可欠なのが余剰資金、つまり利益である。利益は組織が市場や社会の変化に順応し、新たな顧客(ニーズや欲求、問題解決)を創造するために使われる。それゆえ利益=お金を使わないことは、社会の変化に対応せず、ただ無目的に流されるままになることでもある。

 と考えると、これはguiltyというよりもsinに近いのかもしれない。ドラッカーは理想だけの「原理主義」も効率だけでよいとする「社会効率主義」にも加担しない。「原理主義」は目的だけを語り、効率を顧みない。結果的に社会の機能を壊してしまう。「社会効率主義」は目的を問わず、何を犠牲とするのかも問わない。結果的に相対主義に陥る。そして「機能しない社会に代わるものは、社会の崩壊と無秩序な大衆しかない…。秩序なき大衆が数を増やす社会には未来はない[2]」と述べる。機能しない社会を招いたのは、大衆ではなく(とはいえ大衆は毒性を持つと述べるが)社会そのものなのだが、その社会を未来へと動かし得るのは、利益なのである。guiltyが社会の中でこそ意味を持つ罪であるのに対して、sinが社会を支えるもの(キリスト教における神)への罪だとすれば、利益を使わないことは、社会を無秩序へと導くsinではないだろうか。

 お金を使わないという罪。この言葉はキリスト教の社会でも日本でも奇妙に感じられることだろう。どちらの社会でも形は違っても「節約=美徳」という価値観があるからだ。そして利益至上主義が拡大し、お金がものをいう時代になればなるほど、お金を持っている(利益が大きい)ことは即「力」を意味していた。だからこそお金を使うことには極端に慎重になる。マルクスが言ったとおり資本主義は守銭奴でもある。景気が良ければともかく、少しでも未来が不透明になると、人も企業人もお金を使わなくなり、投資を控える。今の自分、今の組織が大事。だから不透明な未来に対して今を守りたい。そのこと自体は本能的なのかもしれない。しかしそれは未来を放棄することにつながる。ドラッカーが「利益は未来への投資である」と述べた裏には、お金を使わないことが未来を考えないことにつながるという危惧があったのではないだろうか。

 もちろん「未来への投資」としてお金を使うことと、無駄遣いとは異なる。ドラッカー的にいえば、どんな未来を創るのか=目的と、どのようにお金を使うのか=効率性を両立しなくてはならない。とはいえ今最も求められているのは、どんな未来を創るのかという目的、将来像だろう。価値の多様化が叫ばれている中で、全員が一致するような目的を創出することは可能なのだろうか。私は全員が一致する目的を作らなくても良いと考えている。社会は人間が自分自身の目的なり目標なりを叶え、人生を過ごす「場」である。各人の目的は各人のものだ(まぁ社会を壊すとか、人を殺したいという目的はちょっと置いておいて)。その目的をどのように叶えるのかという手段もまた各人のものだ。これは社会の前提のように思える。が、実はこの条件自体が目的になると私は考えている。単一の目的で個人の行動を縛る社会もある。各自の目的を叶える手段が非常に限定されている(金銭しかない)社会もある。とすれば、社会を各個人がそれぞれの目的を叶えることができる「場」にすることそのものが、各人にとっての緩いけれども共通の目的となり得ると考えている。

 そしてそのために「お金を使うこと」が今、最も必要なことだ。自分が持っているのはお金ではない。未来の社会、それも遠い未来ではなく、すぐ先の未来、明日や明後日、自分が過ごす場所がほんの少し居心地の良い場所になるために「使う」投票でもある。


[1] ピーター・F・ドラッカー著,上田惇生訳『[新訳]産業人の未来一改革の原理としての保守主義』,ダイヤモンド社, 1998年, PP.35-36.

[2] ピーター・F・ドラッカー著,上田惇生訳『[新訳]産業人の未来一改革の原理としての保守主義』,ダイヤモンド社, 1998年, PP.35-36.

インドから拡げるー草の根経済・交流圏創出を目指して

CWBアドバイザー 松井名津

 ドングレ先生とのミーティングの後、これからインドとの連携をどう位置付けていくのかという話を片岡さんと数回行った。その時にいきなり「BRICs&CWBだ」と言われた時は、正直絶句して反応できなかった。私の中でBRICsといえば広い国土・天然資源・人口をもとに大きな成長が期待できる国々であり、一般的な投資先の総称でしかなかったからだ。が、よく考えてみると「BRICs&CWB」は二極化している政治経済情勢の中で、第三極(というよりは別の未来)を現実的にするために、インドとCWB(CWBの一員としての日本)は地政学的にも絶好の位置にいるということだ。

 日本にいると、ロシアはウクライナに非人道的侵略を行い続けている国で、中国は虎視眈々と東アジアの支配を目指しているという報道ばかりに接してしまう。なのでインドの首相がプーチンと会談するとなると、インドは非人道的な国の方を持つのかと目くじらを立てることになる。しかし冷静に見れば、EUやアメリカではロシアとウクライナ間の調停はできない。何せ敵・味方の代理戦争をやっているのだから。イスラエルのガザ侵攻にしても「西欧文化圏」及び腰だ。何せ植民地統治と三枚舌外交のツケなのだから仕方ない。

 してみると西欧文化圏に属さないーその理屈に自動的に頷かない地域はインドとASEAN(中南米やアフリカもあるが経済的政治的にやや力不足だ)になる。しかもこの両地域は中国の影響を身近に受けるだけに、中国に対しても周到に立ち回らなくてはならない。非西欧でも非中国でも存在していかない綱渡りを強いられるともいえるし、強かさでいるともいえる。

 というわけで、以下のようなメッセージをドングレ先生に送った。

 「片岡さんがインドと日本の地政学的な状況を指摘してくれました。私たちCWBはただ一つの考えやただ一つのやり方で世界が支配されたり、二極化することを望みません。インドの2020年教育改革政策にあるように、私たちには西欧化されていないもう一つの考え方、私たち自身の社会に根ざしたやり方が必要です。今私たちが考えているのは、インターンの学生を一つのところで受け入れるのではなく、カンボジアやフィリピン、日本、スリランカなど私たちのネットワークの中で受け入れることです。これは西欧化された世界の中で、西欧化されていない―BRICsのように―場所で教育のネットワークを作る第一歩になると思います。日本政府はアメリカと非常に密接な関係にありますが、私たちはアメリカの金魚のフンになりたくはありません。私たちは極度な国家主義者ではありません。単にお互いの伝統的な知識や知恵を保存し、尊重し、互いに交流したいと考えています」。

これに対してドングレ先生からは非常に好意的で前向きな返事が返ってきた。

さてCWBネットワークの側から「BRICs&CWB」を考えると、経済・取引面での鍵となるのがASEAN域内での貿易・取引をさらに拡げる機会を活かせるのか、インドのインターン学生に何を学んでもらうのか(それはアジアの学生にとっても新しい見地を開くことになるだろう)になる。まずは経済・取引面を見てみよう。

 BRICsに入っているのはブラジルだが、中南米に関してはブルーノさんのおかげでスペイン語圏のコーポラティブの活動がよくわかるようになっている。そしてその基ともいうべきバスクのモンドラゴンのニュースも伝わってくる。理論的にも実践的にもCWBと非常に近いところにあるだけに、現実的な交流、取引に繋げたいところだ。

 ASEANで今注目しているのはカンボジアのバコンシステム(Bankong System)だ。元々はカンボジア国立銀行が自国通貨であるリエルの普及を目的として、日本のスタートアップ企業であるソラミツと共同開発したブロックチェーンデジタル通貨である。ブロックチェーン通貨といえばビットコインのように投機対象になってしまった感がある。が、バコンは決済の効率化、銀行口座を持たない層にも金融サービスの機会をあたる、リエルの普及に絞っている。カンボジアでは自国通貨よりもドルの信用度が高く、ドルでの決済が普通だった。私自身も何度かカンボジアに行っているが、リアル通貨は1ドル以下の支配や釣り銭としてしか見たことがなかった。この状況を強制的手段ではなく利便性によって解決しようというのがバコンである。国民の80%がスマホを持つ一方、銀行口座を開設しているのは30%に満たない。ならばスマホ上で電子決済等を可能にすれば、銀行口座と同じく「信用取引」ができる。こう説明すると日本でもすでにあるサービスじゃないか、といわれそうだ。しかしバコンは銀行間を跨いでの送金も自由にできる―個人間の送金なら手数料は0だ。取引データは各銀行や中央銀行に置かれるのではなく、ブロックチェーンの分散型ネットワークデータベースに保存される。書き換えは不可能だ。店舗での支払いはQRコードを読み取ることで可能だ。公務員の給与や税金の支払いもバコンでとなっている。おかげでバコンの取引額は700億件に及び、開設後2倍以上になったという(カンボアジアではリエルの口座とドルの口座を持つことができる。結果的にドルを日常的に使えるカンボジアは国際社会で、ドルも繋ぐことができる点で大変大きな可能性を持っている。こうした利便性をさらに拡大し、ドル社会とは別の国際通貨システムを作るのがバコンで、それがさらにカンボジア内にとどまらずアセアン内での国際取引の決済にも使えることだ。バコンのORコード決済にはタイ、ラオス、ベトナム。マレーシアが加わり、今年の6月にはインドも参加するという話が出ていた。バコン決済システムに接続することで、国境を跨いだ送金や通貨間の両替手数料がなくなる。日本は首相が導入を約束したようだが、まず、その壁を超えることはできないだろう。中国が加わると、ここでも日本は置いて行かれることになる。私たちのCWBは先行して挑戦し日本が入ってきたときの用意をしておきたい。

 これはCWBネットワークにとっては待望のシステムである。通貨(貨幣)は人や物と違って国境を超えて移動しやすいというイメージがあるが、それは投機筋のことであって、現実の商取引となると通貨の違いが大きな壁になるのだ。今までは各国に分散しているCWBファンドの口座間の取引を記録して、最終的な決済を1年に一度程度行うことで取引手数料や為替リスクを軽減してきたが、バコンシステムをCWBが利用すればさらに手軽にリスクを抑えて取引が可能だ。特にコミュニティートレードは動くもの自体は少量だけに、決済手段の手数料や通貨返還の手数料は大きな負担になる。輸送費はロジサポで軽減できるとしても、1000円、5000円単位の商品を予約注文でとなれば、その間の通貨変動や手数料は双方にとって大きな打撃になりうる。バコンであれば、共通取引媒体(バコン)のデジタル記帳で、になる。決済手段に特化させ、CWBネットワークの中で使う分にはセキュリティも心配ないだろう。バコンは国際取引に関する国境の壁をより薄くすることになる。したがってドル通貨圏や中国の元通貨圏とは全く異なる取引圏を作り出す可能性が高い。決済手段に特化すれば、うまくいけば法定通貨(各国との通貨)を飛び越える新しい通貨システムになるかもしれない。

 CWBネットワークが日本を世界に繋げることができる。ドングレさんへのメールに金魚の糞にはなりたくないと書いたが、バコンを使うことは「アメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪をひく」といわれる経済政策的にもアメリカに追随(というかアメリカの動向で右往左往する)状況に対する先端的な挑戦と思うと楽しい。い。そう思うと私自身は爽快な気分になるのだが、読者の皆さんはどうだろうか。

 さて、次にインドのインターン生をどう活かすかである。もちろん「活かす」は双方にとって良い結果をもたらすようにという意味だ。総合的全人的教育を掲げる大学の学生だけに、通り一遍の農作業から「学べ」といっても無理がある(受け入れ側にも)。あれこれ考えてみたのだが、ふと「日本はアジアの吹き溜まりである」という言葉を思い出した。日本文化が中国や韓半島の影響を受けていることはよく知られている。しかし同時に安土桃山時代、明治以降を通じてASEAN諸国との縁も深いのである(もちろん大日本帝国植民地統治の悪縁も含めてだが)。日本人にとっては芸能の神様として親しみのある弁財天や吉祥天。このお二人はそもそもがヒンズー教出身である。弁財天はサラスバティ、ブラフマの妻であり人間の始祖を産んだとされる(ちなみにブラフマは梵天のことである)。吉祥天はラクシュミーでありヴィシュヌ神の妃である。ヒンズー教の図像と全く異なった姿形になっていると思うが、弁財天が琵琶を持物としているのと同じくサラスバティもヴィーナという琵琶に似た楽器を持つ。遠くインドヒンズー教の神々が、日本では仏教の守護神となっているわけだ。これと同じような例は結構多い。それはある文化が長い時間と長い距離を経て、どのように変化し且つその土地に受容されるに至ったかを、自分の目と足で確かめることにもなる。そうだ、文化の「道」を辿る行脚を提供しよう。

 観光客が殺到する東京、京都を避け、平和を考える広島の地から瀬戸内を渡って四国へ。松山でいろんな仏像を見た後、大洲ではスペインやヨーロッパとの交易の結果建てられた和風建築(そこには洋風の要素が取り入れられている―インドのラジャ宮殿のミニチュア版ともいえる)や南予ならではの「奇妙な崇拝対象」(狛犬ではなく狛猪や狛河童)とインドの土俗信仰の比較もできる。宇和島へ行けば、耕作放棄地を開墾しながら「仲間ない自給自足の緩やかな輪」作りの現場を見ることができる。ちょっと戻って八幡浜から船に乗り、九州へ(九州では天草も訪ねてもらえる)。そして福岡空港からインドへと帰る。そんな行脚である。移動はできるだけ旧街道を使おう。旧街道を使うことで神社仏閣の地理的位置(防衛拠点であった、地方の中核文化を担っていた)や村落との関わりもわかる。この辺りは博物館の学芸員の協力や、川を中心とした街づくりの東西比較研究を行っているスペイン人・ディエゴさん(そうだ、楠のブルーノを訪ね行くことも考えられる)の協力も得て、「みち(街道・路・川・海)」の見直しを、外からの目で行ってもらう。

 インドの学生にとっては自分たちの文化を、全く別の視点から眺めるきっかけになるだろう。文化や伝統がある形にとどまる物ではなく、流転し変容し、それでもなおその中核的なところはとどめていたりする。その現実に触れることで、自分たちの文化を見直し、新たな形に変容させるアイデアが生まれる可能性がある。それはビジネスチャンスでもある。日本側にとっても、高度成長や区画整理(街だけでなく農地も)で失われてしまった色々な「みち」に再度光を当てることにもなる。

 まだまだ荒い構想に過ぎないが、道の未知の可能性が広がると思うと、ワクワクしている。

インドChanakya 大学との協働―モニ首相の「現場主義と技術の統合」は教育の未来方向として正しい

CWBアドバイザー 松井名津

Chnakya大学という新設の大学との協働プロジェクトの始まりは、CWBの理論的なメンター役でもあるスリーダラー先生の提案から始まった。この新しい大学の副学長に以前から付き合いのあるドングレ先生が就任し、社会起業研究所を設立する計画もあるという。

社会起業の実践でCWBと連携ができるのではないかと、スリーダラー先生がドングレ先生に提案されたわけだ。たまたまドングレ先生が日本に1ヶ月以上滞在する予定があり、実際に会って話をしませんかということで、5月末ドングレ先生と会うことになった。

片岡さんからのアドバイスもあって、今までのような形式、「現地の大学で講義→学生グループ作成→ビジネスプラン→現地での実践(に対するビジネス面でのアドバイスや販路の提供)」は取らないことを大前提とした。現地での実践に手を貸すというよりも、CWBネットワークの中でインターンとして実践経験を積んでもらう方向性で話をするつもりだった。というのも今までの経験上、最初の講義時や対面時は勢いがあっても時間が経つにつれ熱が冷める。学校の行事や試験が優先される。学生グループの中でのちょっとした行き違いでグループそのものが破綻する。等々。

どうしてもスカイプ等の遠隔でのコミュニケーションでは活動のモニタリングになってしまい、手間がかかる割には実践上の結果が伴わない(もちろん学生側だけに原因があるのではなく、モニタリングをしているメンターの実力不足や経験不足にも原因がある)ことが度々だったからだ。CWBネットワークの中でということは、学生にとってはインドから外国に行くことになる。さらにこれまでの経験から2〜3ヶ月の短期では効果がない。最低でも6ヶ月、できれば1年の時間が欲しい。正直いってこうした要請をドングレ先生側は渋い顔をするのではと私自身は思っていた。

しかし、話を始めると非常にスムーズに受け入れられた。むしろそれぐらいの期間が当然という感じだ。結果的に下記のような概略が定まり細部に関しては今後ということになった。

1)インターン学生の受け入れ:小規模なビジネスの実践や経験をつむ。

2)特に農業分野での6次産業化への実践場所を提供

3)各民族特有の文化保全とビジネスを結合させる実践・実験・経験
4)インターンシップの期間は最低6ヶ月から1年:学生の負担に関しては今後話し合う。
5)学生はこのインターンシップに関して大学から単位を認定されるので、学生評価に関して大学側も関わる。CWB側もJDや評価会議の結果を共有する。

6)対象となるのはChnakya大学ビジネスマネジメント学部の2年生もしくは3年生になる予定。

7)CWBでのインターンは農作業など退屈そうに見える活動が多い。がそれは現実の作業を知り、その中から新たなアイデアなり商品を生み出すことを期待してのことなので、単純作業の日々を覚悟してほしい。

話がスムーズだったのはドングレ先生がすでにCWB(とその前身)や、日本の六次産業化の試みをご存知だったことが大きい。しかしChnaka大学が2020年に制定されたインドの国家教育政策に基づいた新設大学という要素も大いに寄与しているのではないかと考えている。そこで最後にこの国家教育政策の中での高等教育の役割を紹介しておきたい(本文はhttps://www.education.gov.in/sites/upload_files/mhrd/files/NEP_Final_English_0.pdfにある)。

National Education Policy 2020は3歳から18歳までの統合的普通教育、それ以上の高等教育および生涯教育をすべて取り扱っている。序文では多方面における技術的科学的進歩により単純労働が機械に取って代わられること、逆に熟練した知的労働の必要性が高まること、特に気候変動・資源の枯渇・エネルギー問題に対しては理系・文系の枠組みを超えた教養が必要となることが述べられ、従来の正解のある知識を身につける教育から、「どのように学ぶのか」を身につける教育が必要であると謳われる。「教育は単に認知的能力―読み書きという基本的な能力からより高度な批判的考察や問題解決までーを養成するだけでなく、社会的、倫理的そして情感的な能力と姿勢を養成しなくてはならない」。こうした方針はインドの深い伝統(知識Juan・智慧Pragyaa・真理Satyaを人間の最も高度な達成目標におく)に根ざすものである(とこの辺りはモディのヒンズー第一主義を思わせるところもあるが)。したがって「教授法は経験的で、全体的、統合的、探究的かつ発見的であり、学習者中心で議論を基礎とした柔軟なそしてもちろん楽しいものでなければならない」とされる。

さて、こうした全体方針のもと、高等教育で何よりも強調されるのが「全人的(holistic)で専門蛸壺にならない(multidisciplinary) 教育」である。その方法の一つが認定された単位(credit)を貯金できるcredit bankシステムであり、このシステムを活用することで、一専門にとらわれないコースやプロジェクトの選択が可能となる。このクレディットを基礎とする教育と並んで3本柱になっているのが環境教育と価値教育である。環境教育といっても生物多様性といった生物学・化学的なものからゴミ、汚染・衛生といった社会政策的色合いのもの、森林や野生動物の保全までを含む。価値教育は人権や自由といった西洋的価値をインド伝統的価値から捉え直す(逆かもしれないが)とともに、コミュニティへの「奉仕(サービス)」に大きなウエイトを置く。そして全人的な教育の一環に地域の産業・ビジネス・アートや職人分野へのインターンシップが位置づけられている。こうしたインターンシップは「学生に自らが身につけた知識の実践的側面に現実的に従事することになる、そしてより一層職に就く機会を高めるという副産物を得られるだろう」とされる。

ここまでなら、日本の大学でもおおよそ字面的には謳われそうな事柄である。しかしこうしたインターンシップに加えて、職業教育が従来の知識型教育と同等のものとなる。職業教育が「大学に行けなかった落ちこぼれの生徒」用だとみなされているのは、日本でもインドでも変わらないようだ。が、この教育方針ではこうしたものの見方そのものが学生の選択の機会を狭めているとする。したがって4年制分野横断型の大学は自らのカリキュラムとして、あるいは産業や企業、NGOとのインターンシップのいずれかの形態で、学生に職業教育を提供しなくてはならないとされる。起業家教育もこの職業教育の一環であり、そのために各機関は研究所を設立することになっている。ようは「お客さん」のインターンシップはいらないということだ。学生の職業選択に役立つような職業教育、しかもその職業の中にはアート(ダンスがきちんと明記されている)や職人技(織物が代表に上がっている)が含まれている。 CWBの活動は、上記の環境教育、コミュニティ中心、カンボジアの伝統舞踊をはじめとする民族文化保全を含んでいる。その意味で以上の教育方針に適合的だ。しかしそれだけに一層責任も重くなる。果たして私たちの活動は、真にインターン生にとって有益な場になり得るのか。単なるちょっとした異文化体験や起業の真似事に終わるのか。これから私たちのネットワークの真価と進化(深化)が問われることになる。

「インターンも旅の仲間」 移民コープとモンドラゴン

CWBアドバイザー 松井名津

ブルーノさんが毎回紹介してくれているラテン・アメリカ諸国のコーポラティブでは、国家とコーポラティブの関係が一つの焦点となっていた。今回のモンドラゴンの新しい動きは、増え続ける移民に対してコーポラティブが「支援」に当たるというものである。

通常移民への支援は国家の仕事と考えられている。移民先の社会に馴染むための言葉や慣習の習得、正規の職業に就くための訓練などの費用を、移民から徴収するわけにはいかない。各個別の企業が負担金を出すというのも、移民を労働力として活用するかどうか未決定な企業にとっては、納得できる話ではない。しかし移民が社会に馴染まないまま、正規の職につけないまま地域社会に滞留することは、社会全体に不安と不安定をもたらす。したがって国家が税金を使って(国家の安全のために)移民に対する支援を行うというのが一つの理屈である。これはラテン・アメリカ諸国のコーポラティブに国家が支援を行っていた理由と重なる。社会の周縁部に存在せざるを得ない人々を、社会の中心部に同化するための支援ともいえる。

これに対してモンドラゴンの新しい動きで紹介された方策は、移民自身が起業家となるためのコーポラティブプログラムである。インタビューによれば目的は「コーポラティブが移民が自分自身の仕事を計画し人生の見通しを改善する」ことにあるという。

特に多くの移民が自分たちのコミュニティから切り離され、相互扶助や相互支援の輪の外に放り出された状態であることから、彼ら自身の困難や必要性を表明できるネットワークを作り出すことが鍵になるとされている。したがってモンドラゴンの役割はコーポラティブの概念や組織化の方法、トレーニングといった側面支援にとどまる。事実インタビューの中で「私たちのような恵まれた立場から移民にアプローチすることは、とても難しいのです。それゆえ移民たちとすでに関係がある団体や場所と協働する事が肝要になっています」「私たちは旅の仲間にとどまるべきなのです」と述べられている。

この二つの対照的なアプローチを読んで、私が想起したのは日本の障がい者運動や近年の高齢者介護で使われる「当事者主権」という言葉である。この言葉はある種の曲解を伴って使われる場合がある。健常者として長年障がい者の介助に従事する立場から、介護の問題に迫っている渡邉氏の言葉を借りれば【本人の思いは、もっともらしい装いを纏って家族や介護職員の思いへと普通にすりかえられる。「こういう状態になったんでしたら、〇〇するのが、ご本人にとって一番いいんです」-「当事者主権は耳触りが良いだけに、その言葉が都合よく曲解されることに対して、ぼくたちは重々に気をつけなければならない(渡邉琢『障害者の傷、介助者の痛み』青土社2018年)」。この記述をあらためて読んだのは、私自身の母が難病の診断を受けた上に大腿骨骨折で入院し、退院後の生活をどうするかという話し合いをケアマネージャーとしているところだった。そして私自身も「母にとって一番いいんです」という罠に陥っていることにあらためて気付かされたのだった。

一人暮らしを望む母、一人暮らしを継続してもらいたい私。その一方日々一緒に生活していく中で「一人暮らしして大丈夫だろうか?」という心配を持つ私。ケアマネージャーからは「一人暮らしをするための支援」と「施設で生活する」という二つの選択肢を示されている状況。その中でともすれば「母にとって…」という言葉で本人の意向を無視しがちになっている自分。まさしく「都合よく曲解」する状況が生まれつつあった。そしてこの曲解は、高齢者に対してだけでなく、さまざまな障がい者、移民、マイノリティと言われる人々に対して、そうではないマジョリティが陥ってしまう罠でもあると痛感した。特に国が関与している場合、いわゆる「健常者」は自分たちの税金が使用されているというただその一点を持って優越的立場に立てる。そして自分たちの意向を無意識のうちに「本人のためだから」と曲解して押し付ける。そしてその意向からはみ出していく人たちに対して「〜の癖に贅沢な、わがままな」主張をする人間だと排斥する。

日本の障がい者運動はこうした社会的規範に対する抵抗であり、社会的規範を変更するための運動だった[1]。なぜ脳性麻痺者が「外出する自由」を持てないのか―具体的にはなぜ車椅子でのバス乗車が拒否されるのか。障がいのある子供が生まれることが出生前診断でわかった時、堕胎する権利は女性だけのものなのか―それは社会から障がい者を消し去ることを意味しないか。障がい者にも性欲がある。障がいがありながら家族を持つこと、子供を持つことは「贅沢」「我儘」なのか。障がい者=当事者の欲求・要求は「健常者」にとって当たり前のことであるのに、障がいを持つから制限されなくてはならないのか。障がい者が地域で「当たり前の生活」を営むのは当然のことではないのか。当事者主権は本来こうした文脈で使われるものだった。

ところが、70年代に始まった障がい者の運動、障がい者の自立生活運動に対抗したのは労働者であった[2]。実際の現場で介助や補助にあたる病院や施設の労働者、交通機関の労働者にとって、障がい者の要求は自分たちの労働強化として受け取られ、ともに問題を解決しようという姿勢が見られなかった。90年代になると介護補償制度が各自治体で制度的に認められるにつれて、障がい者の地域生活基盤整備が進んでいく。それは障がい者に対する24時間介護補償が実現する=障がい者が地域で自分で生活していくことでもあったが、同時に福祉介護部門における非正規労働者の増大を伴うものであった。非正規労働者の増大というと負の側面が強調されるが、障がい者介護の現場ではそれまで9時~5時、週18時間という正規ヘルパー派遣以外の部分は、ボランティアによって担われていた。重労働でもある障がい者介護(介助)を無償で、しかも深夜であっても対応するボランティアを確保することは非常に難しい。したがって時給が払われ、かつ24時間誰かが対応してくれる形での非正規労働者の存在は、障がい者が地域で自立生活を営む上で必要でもあった。一方で非正規労働者の増大は、多くの人の生活基盤を切り崩すことになった。また90年代に始まった「自由化」「市場化」の動きが、社会のセーフティーネットを弱めた。その動きは同時に障がい者の介助者の給与が減少していく動きと連動していた。これはちょうどフリーターという言葉が「自由でカッコいい」働き方から「底辺労働」へと意味を変容させ、ニートが社会問題になった時期と重なる。そして介助者の報酬が切り下げられてしまうことは、障がい者の地域生活基盤を切り崩すことにつながる。

ここで長々と日本の障がい者と労働者の問題を取り上げたのは、問題が障がい者の自立と労働者に限定されないと考えるからだ。障がい者の部分を高齢者に変換すれば、現代の高齢者社会における介護問題に、移民に置き換えれば近い将来の移民と労働者の問題に通用するだろう。それゆえ、以下の引用は心に刻むべき指摘であり、モンドラゴンのインタビューと共鳴している。

「相手との対等な関係ということは、弱者と関わるとき、誰しもがみな思うことですが、こういう思いそのものが、白々しく、関わる人のうぬぼれなのです。たとえば脳性マヒ者は、障害による緊張で顔の筋肉が強ばって、どう見ても普通の人とは見られないし、また、トイレも好きな時に行けません。対等というより、そこでは、両者の立場の違いを、はっきりと双方が自覚した上で、そこは、両者の思いやりのなかで、深く理解しあっていくしかないのです。…対等な関係というのは、双方の関係の中で詰めあっていく努力をして、それぞれの立場の違いを自覚した上で、双方がお互いの生活を見あっていくという関係が無いかぎり、お互いに認め合った関係とは言えないのです」。

さて、その上でもう一度モンドラゴンの試みを考えてみよう。先に引用したようにモンドラゴンは移民に自分たち自身で起業家・コーポラティブを結成することを促すための手段、機会あるいは教育を与える立場だと表明している。さらにスペインでの事例として介護職の移民女性たちがアソシエーションを創り始め、この分野で無視できない存在になりつつあるという。日本の経験から敷衍してみるに、彼女たちは低賃金・低待遇に置かれていたのだろう。その待遇改善とともに自分たちの人生を自分たちで組み立て、尊厳を守るために、彼女たちは集団として組織を創設したのだろう。しかし、単純にコーポラティブを結成することが最終解決になると述べられているわけではない。むしろこうした動きが気づき(awareness)をもたらし、理論から実践へと実験を促すことにつながるとされる。さらに受益者は移民にとどまるものではなく、草の根からの経済を築くものすべてが受益者になりうるし、そうなるものとしてプログラムが存在すると述べられている。とすれば、これは上記の引用にある「双方の関係の中で詰めあっていく努力」を担保する試みであるといえよう。

とはいえ、モンドラゴンの試みをなぞるだけでは何も生まれないと思う。私たちが目指すべきなのはモンドラゴンを超える(というと言い過ぎかもしれない)こと、コーポラティブが1つのコーポラティブとして閉じてしまわないことではないか。唐突な言葉のように聞こえると思う。けれどこれは日本の障がい者運動が労働者や労働組合と対抗関係に陥ってしまったことを踏まえての考えなのだ。当事者は当事者だけで存在できない。障がい者であっても、高齢者であっても、移民であっても、その周囲には支える労働を担う人がいる。さらに当事者が住む地域社会の住民がいる。こうした周囲の人々もまたそれぞれの当事者としての利害を持っている。ちょうどさまざまな中心を持った円が重なり合うように、それぞれの利害は特有の焦点を持つとともに重なり合う部分がある。その重なり合った部分で、それぞれが当事者としての利益に拘泥すると、対抗関係に陥る。利益に拘泥しやすいのは、それぞれが組織の立場を重んじる時ではないかと私自身は考えている。「個人的にはわかるのですが…」というやつだ。コーポラティブも組織体である以上、組織の立場は生じてしまう。だからコーポラティブを閉じてしまわないことが必要になる。

「閉じてしまわない」とは具体的にはどのようなことを指すのか。これに対する答えは抽象的なものになってしまう。組織の構成メンバーが組織への帰属意識と同時に個人としての判断を手放さないこと。逆に組織体は組織に属するメンバーが、個人として判断し異論や意見を発議したとき、その発議を拒否しないこと。さらにメンバーが個人の判断を優先させ、組織を離れることを敢えて促進すること、つまりいつでも独立していけるように個人の能力を育成し続けること。そんな組織は組織体として成立しない、維持し続けられないといわれるかもしれない。しかし、私自身はこれぐらい「閉じない」組織でないと、将来的に組織として存立し得ないのではないかという予感を持っている。


[1] 日本の先駆的な運動としては「青い芝の会」が挙げられる。青い芝の会の歴史や主な文献をまとめているのが、
http://www.arsvi.com/o/a01.htmである。

 

民主主義を問い直す

CWBアドバイザー 松井名津

近頃民主主義は評判が悪い。民意を反映しない政治だとか、金権汚職やポピュリズムだとかいわれている。あるいは西洋生まれの「民主主義」は西欧以外では通用しない(根付かない)という言説もよく聞く。しかし果たして今現在ある民主主義、西欧流の民主主義だけが「民主主義」なのか、そもそも西欧流民主主義は本来の「民主主義」なのか?この根底的な問いを立て、民主主義の可能性の別の可能性を開いて見せているのがデヴィッド・グレーバーの『民主主義の非西洋的起源について』という本だ。この本を読みながら、これまでコーポラティズムに関して立てられていた民主主義的な経営の課題が、別の光の中で浮かび上がってきたような気がしている。今日はそのことについて書いてみたい。

まずはグレーバーが実践的民主主義の要諦として挙げているものを紹介しておきたい。

「垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上位下達をよしとしない発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に伝統的な参加方式のもとでなら周縁化されるか排除されるような人びとの声を聞き入れることを保証するために、何らかの仕組みを…([その仕組みは]無限に存在しうる…)確保する必要性(p.9)」

「文化と文化の間に開いた錯綜した空間の中から(p.66)」から生み出されるものであって、何らかの強制力を伴わないもの。

異なったコミュニティ間では、相互の行き違いは武力による解決の可能性を多大に孕んでいる。しかし実際に武力を行使することは互いに望ましくない結果をもたらす。したがって互いが対等でありつつ、互いが納得できる水準で、お互いの関係性を保つために「民主主義」が生み出される。こうした「民主主義」には多様な形態があり、西洋流の議会制や代表制民主主義や選挙にのみ限定されるものではない。グレーバーは、ホデノショイ・イロクォイ連邦(アメリカ先住民による5カ国連邦で、現在のカナダからアメリカ東北部に渡る大きな地域を占めていた)の形体が合衆国連邦に大きな影響を与えたという例を挙げている。ホデノショイ(イロクォイ)の「民主制」は以下のような特徴を持っているので、グレーバーが挙げている民主主義の要諦にもある程度合致するだろう(以下の記述は木村武史『ホデノショイ(イロクォイ)社会の「宗教」』(2004)および馬場優子『堀り棒とトマホークーイロクォイ母系制における女性の地位と役割』(1992)によっている)。まずホデノショイの「首長」は人々(女性)によって選ばれ、「首長」に腐敗等があった場合は人々によって罷免される。また「首長」の権威は他の役割(戦士)や部族民に優越するものではない。ホデノショイ連邦の「首長」たちは各部族の問題を話し合いによって全員一致で解決に努める。ただし「首長」による会議だけが審議体ではなく族母によるもの、軍事を司る首長、および長老たちの審議体があり、それぞれ別途に審議を行い、最終的に公開討論を経て、長老たちが結果を発表する。

さて民主主義は何も西洋の専売特許ではなく、今ある議会制民主主義とは別の形態の民主主義があるというグレーバーの議論にある程度納得がいったところで、これがどう民主主義的な経営の課題と結びつくのか。日頃ミャンマーとカンボジアを結んだ会議に出席していて、つくづく思うのが「発議」の難しさだ。発議といっても何か小難しい議論を提起しなくてはならないという意味ではない。ミャンマー・カンボジアでいえば、「ネズミがたくさんいて困る」とか「クッキーを何種類作ったか」という感じだ。書いてみると「なんだそんなこと」レベルのものだ。しかしこれを問題(課題)と感じることが全ての始まりになる。誰かが発議しても、面倒という空気が大半であれば、その場では議論が始まらない。発議が発議になるためには、そもそもそれがなぜ問題なのかが共有されている必要がある。これが意外にというか、当然のことというか、とても難しい。発議ができないとか、議論にならないというと、だから〜は自分の意見をもっていない、個人が確立していないといわれる。個人が自立しているというのは、個人が自分の意見を持っている(あるいは個性を持っている)という意味に使われる。ある集団や組織と個人とは別個の存在で、それぞれの個人は自分たちが共同で関わっている集団や組織にどう関わっているのかが、意見として表明される。意見が表明されれば、それに対して別の個人が意見を表明する。これが西洋流の民主主義の前提になっている。

この前提は果たして実践上前提にしてよいのだろうか。同じコミュニティの人と普段と変わらず生活をしていると、人は問題を発見するよりも、問題を見逃す風に動いてしまわないだろうか。見て見ぬ振りをするというより、見えていても見えていないまま―というか問題があることに気がつかないまま過ごしているのが普通ではないだろうか。道端のゴミとか、街路樹の手入れとか、自分たちの手でやればなんとかなるものも、「誰か」に委ねておくものとしてしまう。日本ではその方が楽だから。ではミャンマーでは?その「誰か」が銃を構えて互いに争っている。だから問題が目に見える。けれど誰も手を出さない。手を出すことが命懸けになるから。そんな土地から徴兵を忌避して、カンボジアにやってきたのだから、仲間意識は強固だ。メンバーは同じ文化に属してきたから、互いを評価することに慣れていない。より正確にいえば、互いに思っていることやメンバー内でなんとなく共有されている評価はあるのだが、それを言挙げすることに抵抗がある。討論discussionという言葉が「話し合う」ではなく「話し合いで相手を負かす」というイメージを持っているのかもしれない(これは日本でも一緒のような気がする)。高い低いに関わらず、評価をすることが、仲間の和を壊しかねないという危惧がある。こうした感覚は普遍的なものかもしれない。実際、アダム・スミスは道徳の基準をproprietry(深慮と訳されるが、世間で許容される範囲を指す)に置いた。とすれば、西洋流の民主主義は「議論しても組織やコミュニティは壊れない」という強固な信頼や、組織やコミュニティとは関係なく個人が存在し得るという幻想をベースにしていることになる。

西洋流にいけば「民主主義的経営」とは、常に互いに意見を表明し、討議し、結論を導き出す集団を基盤にしたものということになる。しかし正直にいえばこれが実践できているところはあるのだろうか?グレーバーは文化が同じところではコンセンサスが優先されるという。ホデノショイでも結論は全員一致だ。そのためには表面に出ない合意形成がなされることもあるだろう。雰囲気や「風」が全員一致を生むこともある。その一方でこうした合意形成は澱んだ空気を、強制された一致を生む。だからこそ敢えて仲間意識を自覚する必要がある。評価や議論が和を乱すものではなく、より良いチームを産むために不可欠のものだということを、行動を通じて実感する必要がある。幸いビジネスでは、評価や議論が市場で生き抜くために必要不可欠だ。「ビジネスとして」はよい口実というわけではないが、グレーバーの「文化と文化の間」の空間の持つ緊張感を生み出しやすい。つけて加えて私たちの会議メンバーは「異文化」メンバーだ。国だけでない、民族も文化も年代も違う。今はまだ発議に慣れていない。でも少しずつ慣れていくだろうと思う。

バイクで2時間かかるところに仕事で出かけた時の飲食費用をどうするか。そんな問題も「どんなルールを作れば全員が納得でき、気持ちよく仕事ができるか」につながる。毎日の会議で私が聞いているのは、今民主主義が芽吹き、育ちつつある現場なのだと考えている。私たちはコミュニティが壊れてしまった、あるいは壊れつつある時代に生きている。その中で民主主義的な経営は、常に組織やコミュニティを作り上げる、育てている営みでありうると考えている

政治とコーポラティブー文化を基盤に

CWBアドバイザー 松井名津

ブルーノさんが訳してくれているラテン・アメリカのコーポラティブの論稿と、最新のモンドラゴンニュースを読んでいて、一つの共通点に気がついた。それを一言でいえば政治とコーポラティブということになる。

ラテン・アメリカではほとんどの国で、コーポラティブは政治(政府)の介入とともにあった。コーポラティブを促進する政策だけでなく、コーポラティブに有利な税制や融資が行われている場合もある。これはコーポラティブの発展に寄与したが、同時にラテン・アメリカのコーポラティブは、政策の道具として使用されもした。多くは下層労働者を体制側に引き込み管理するためだった。場合によっては先住民に対して彼らの伝統にはなかった「個人所有」をコーポラティブが持ち込む場合もあった(ラテン・アメリカのコーポラティズム1.8)。

コーポラティブ自体もこうした支援や促進策によって、政府からの独立性を失ったばかりではなく、経営体としても弱体化した面が多い。いわゆる「補助金づけ」で政府の政策に従った経営方針をとることになった。特にクーデターによって政権交代が行われた国々おいては、政変のたびに転変する政策に左右されることになった。そのため、難題解決は国に委ね、自分たちはただ組織の存続を気にかける、あるいは倒産の危機も国の力によって回避するということが起こった。

さて最新のモンドラゴンニュースに出てくる「エウスカディ」という言葉は「バスク独立」運動の中で、バスク国を意味する言葉として新たに創出されたものである。そして1970年代にはバスクの分離独立を目指すテロ活動や誘拐が頻々と起こっていた。しかしモンドラゴン協同組合はバスク語のアラサーテという地名ではなくスペイン語のモンドラゴンを名乗っている。それにはバスクの歴史が深く関わっている(以下の記述は渡部哲郎氏『バスクもう一つのスペイン《【改訂増補版】》』によっている)。

バスクといっても、バスク国が元々あったわけではない。アジアの諸民族と同じく、国民国家がない頃から、漠然とした集まりとしてバスクがあった(ちなみにバスク語というがその中は互いに通じないほどの方言があるという)。この地だけでなく、今のスペイン全体に国民国家という意識が出てきたのは、19世紀フランス革命後特にナポレオン戦争後の状況である。それ以前の大航海時代に、スペイン王国として世界を股にかけていた大帝国の内部は元々あった諸王国の連合という意識が強く残存していた。その中でもバスク、カタロニア、ガリシアの3地域は古くから特に強かった。特にバスクの中でも港湾に面するビスカヤ地域は、大航海地域以来、港湾都市・貿易都市として経済的に栄えており、王からの特権も与えられていた。

さらに19世紀の産業革命時には鉱業・鉄鋼・金融・保険・商業などの多くの民間企業が設立された。一方、モンドラゴン協同組合が立地する山岳地方は、農業中心で大地主制度も残っているところがあった。スペイン内戦でも、バスク地域はフランコに対して一貫して対抗したが、その内部での政治戦略はバスク分離独立・スペイン内部の自治独立・スペインとの同一化に大別され対立していた。

フランコ以降、地方自治の復活とともに、バスク語が復活するとともに、独立分離を主張する一部がテロ化し、武装闘争を続けることになる。とはいえ武装闘争は人々の支持を失っていく。それには19世紀以降産業革命によってスペインの州外や外国からバスク州内に移住してきた人々の増大という要素もあった。逆にいえばビスカヤ地域はバスク語を母国語とする人口比率が減っていった。とはいえスペインの他地域に比べ、バスク自治州は経済的にも社会的にも恵まれた地域ではあった。

20世紀後半、新興アジア諸国との競争の中でビスカヤの中心産業であった造船や鉄工業が軒並み不況・倒産、施設の老朽化が進む。産業の転換が求められる中でスペインは1986年にEC(ヨーロッパ共同体ー当時)に参加を決定、そのための構造変革を受け入れることになった。しかしその一方で分離独立の過激派のテロと社会不安のために新規投資は進まず、80年代に失業率は30%超を記録した。こうした産業衰退とともにビスカヤの都市そのものも衰退する。日本でもよくある地方都市のシャッター街と同じ風景が展開したと思って欲しい。ビスカヤ地域で地域再生化の目玉となったのがアメリカグッゲンハイム美術館とのフランチャイズ契約によるビスカヤ・グッゲンハイム美術館の建設である。なぜ文化だったのか。

たとえばここに最先端の化学工場を誘致したとする。それはかつて造船業が持っていたと同じ権益集団を生み出すことになる。何も富裕層に限ったことではない。工場に雇われたものと、雇われなかったものとの間に分断と格差を生み出すことになる。国際競争に既得産業が破れたことによって、既得権益を持っていた産業が壊滅して巨大な跡地が残った。その跡地をまた特定産業の利益に結びつけるのではなく、より多くの人々が参加可能な「文化」を前面に押し出すことによって、再開発を図ったのである。

そのための予算はビスカヤ県が負担した(バスク・カタロニア・ガリシアの3地方は独自の徴税権を認められている。各地方が徴税した税金の一部を国防等の資金としてスペイン政府に納められるが、その割合は35%程度だという)。ビスカヤ・グッゲンハイム美術館はその建築様式や展示物、街との融和が話題となり、県の負担は2年で完済されたという。

美術館の建設が全面に取り上げられたが、これと並行してさまざまなインフラが州自治体の手によって整備保全されていくことになった。結果的にバスク州外からの流入人口が多いビスカヤ地域で、バスク語を第2言語として習得し話す人口の比率が急増することとなった。非バスク語住民にとって、子供が学校でバスク語を身につけることは、子どもの将来にとって有益なことだと認識されているからこその現象である。

通常少数民族の言語保存は学校教育を通じて行われる。これはバスクでも同じである。が、周囲のコミュニティにおいてその言語を話すことが、何らかの意味や意義を持たない限り、学校内で教えられたとしても、日常的に使われることはない。もちろん文化的意義や伝統的意義はあるだろうが、それだけでは日常にはなかなか浸透しない。バスクの例は文化を保全し維持するためにも、経済的要素を組み込む必要性を表しているといるだろう。バスクではバスク州自体が徴税権を持つという財政的背景があって成功したという面も大きい。しかしそれは自分たちのコミュニティに支払った金が、自分たちの身近で使われるからこそ、住民の参加意識、関心が高いという面もあるだろう。

こうした潮流の延長線上で再び「エウスカディ」という言葉がバスク州の3つの県都を統一する統一都市圏の形成と、その都市圏が国際レベルで重要な役割を担うという狙いを持って使われている。モンドラゴンの最新ニュースで使われているエウスカディもこの意味合いであり、経済面だけでなく、環境や人権といった持続可能な社会の底支えに不可欠な要素を、自由経済の中で自律的にどう実現していくのか。社会性と経済性のバランスの未来像をそれぞれの分野で展開している動きとして、モンドラゴンが表彰されたというのが、今回のニュースの肝だと考える。

翻ってラテン・アメリカ諸国のコーポラティブのその後を見てみよう。ここでも日本では悪者扱いされる「構造改革」によって、コーポラティブは自律的な存在でなくてはならないことが明記されることとなった。もちろんこれはネオリベラル的な改革の一環ではあるが、同時にラテン・アメリカのコーポラティブが独り立ちをする契機ともなった。世界的にもこの時代にコーポラティブが社会性だけでなく、カンパニーとして位置付けられることになった(1995年)。ラテン・アメリカ諸国のコーポラティブの前にはまだ数々の難関が待ち受けている。なんといっても政府自体が、コーポラティブの特質をよく理解せずに各種制度や規制を打ち出していることが問題であると述べられている。 しかし、自律性を持った民主主義的な組織であると同時に、市場社会で求められる効率性を実現するという道は、ラテン・アメリカに限らずどの社会のコーポラティブにも突きつけられている課題である。モンドラゴンも両立に成功しているとは限らない。けれど、自律的・民主主義的組織とビジネス的な効率という二つを掛け合わせる場所として、「文化」という要素は大きな可能性を持っているのではないか。これがラテン・アメリカの諸論稿とモンドラゴンの最新ニュースを読んで、私が考えたことである。

能登半島震災、私たちに何ができるのか

CWB 奥谷京子

年明け早々、日本は能登半島で強い地震が起き、被災地の日々刻々と変わる状況をただニュースで見聞きするしかない状況が続いている。迂回ルートがなく、頼みの綱の国道もひび割れの上に雪も積もり、物流もスムーズに動かない。外部のボランティアもかえって迷惑をかけるだけで、しかし現場は人手不足で困っているというこの歯がゆい状況。1か月が経過して、少しずつ復旧のニュースも舞い込んできているが、なんだか日本の弱点がすべて出てしまっているような気がしてならない。

そんな中で2年前から石川県にUターンした元スタッフ、金丸雄司君に地震が起きて5日後に連絡を取った。高校卒業後に何をしたいかわからないから、面倒を見てやってくれと紹介されて東京の事務所にやってきた、どこにでもいる青年だった。そして山口に転勤になって、20年くらい前に豊浦町(現下関市)の無人駅でインターネットカフェをやっている時に一緒に働いていた仲間だ。当時はまだ彼も20代前半だし、あまり社会的な活動ということには興味がないのかなと思っていたのだが、現在はアウトドア用品を扱うMont-bellに勤めており、今回も寝袋やテントなどをいち早く被災地に届けることで動き、その義援隊を志願して現地に入った、とのこと。その時の写真も送ってくれた。何もできなくて悶々としていたので、いち早く動いている仲間がいることを知って私もうれしく思い、この会社にすぐに義援金を送った。

私は何ができるだろう?阪神淡路大震災のときは大学生で、当時インターネットがほとんど普及していなかった時代に、私のいたキャンパスはいち早く進んでいた。避難所から受けたFAXに書かれた必要な物資の情報を当時主流だったパソコン通信を使って、協力してくれるコミュニティに流すというボランティアを春休みに入った大学に通いながら行っていた。

2011年の東日本大震災は女性起業家と共に被災地に入ってソーシャルニットワークプロジェクトを始めた。福島第一原発付近の大熊町から避難して東山温泉に避難した人々は2カ月経っても家に戻れず、お金も節約して1時間も歩いて会津若松の街中へハローワークへ職を探しに行っていたり、津波で何もかも流された宮古の人が3か月経っても体育館で段ボールで間仕切りされた場所で生活されており、そこも見学させていただいた。仮設住宅にもお邪魔して一緒に編み物もした。

2015年、この時の経験を活かして、ネパールの大地震の後、12月末にカトマンドゥを訪れ、ソーシャルニットワークプロジェクトを立ち上げた。数カ月経っても電気が通っておらず、私が滞在していた小さなホテルで暖房も使えず、毛布を3枚ぐるぐる巻きにしてようやく眠れたが、朝は氷点下になる。まさに今の能登半島と同じだ。幸いにも水は出たので歯磨きなどには困らなかったが、給湯器が使えないので体は何とかタオルを濡らして全身を拭いたがシャワーをする気にはなれない。そして髪の毛を濡らした後も乾かせないので躊躇する。日中に陽がさすとあちこちから人が集まってきて、日向ぼっこができる時が何よりの幸せだった。でも現場の被災した人たちはコンクリートの壁に囲まれて入り口をビニールシートでふさいだようなシェルターにおり、もっと過酷な状況だったので文句は言えなかった。確か2、3泊したと思うのだが、二度と味わいたくない経験だった。その時の気温とほぼ能登は同じだと思うと、どれだけ辛いだろう…と。

これまでの震災同様、何年にもわたって応援は必要になってくる。1つ頭の中にあるのは、みんなから応援をもらっていると被災地の皆さんが遠慮したり恐縮してしまうのではなく、そこにいる人も何かで社会に役立っている、貢献していると誇りが持てることが大事なのではないか、と。例えば、伝統的な日本家屋の多い地域だったので、たくさんの瓦が割れている。それを瓦礫として単に処分せず、細かく砕いで水はけのよい瓦の利点を生かして公共施設の道路沿いに生かされ、リサイクルとなっているとか。

あるいは現在寒いので低体温症にならないためにもたくさんの使い捨てカイロを使ってもらいたいのだが、単に捨てるだけではもったいない。以前カイロの原料を水の浄化に生かしているというニュースをテレビで見たことがあったので、例えば被災地で使われたものを集め、今後の水の浄化に生かすものへと生まれ変わらせて、お寺の池、川の水の浄化などに生かすなど(今回も生活用水がかなり困ったようなので)、何か自らの行動で社会に還元できることにつなげられないか、そんなことが私の中ではよぎっている。使い捨てカイロを回収するということであれば、例えば物資を現地に届けに行ったボランティアの人々が帰りの便で持ち帰って発送するということもできる。

今回の号で紹介するインドの社会起業家で紹介しているSELCOはなかなか面白い。チャパティの話を13ページ冒頭に紹介したが、単に電気を貧困層に普及させるというだけでなく、仕事を創り出している点が興味深い。こういうアイディアは被災地でちょっと前向きに動き出そうという時に学べる要素がいろいろある。

これから暑い時のボランティアは大変なので、ソーラーパネルでかき氷マシンでもいいかもしれないなぁとも考えていたが、チャパティに代わる日本独自のものだと「飲む点滴」と呼ばれる甘酒づくりをソーラーパネルの熱源で作るというのもいいかもしれない。工事、建築などの重労働に携わる人、警備で立ちっぱなしの仕事の人、あるいは片付けなどでボランティアに入る人など、気候が温かくなっても多くの人が今後も能登に携わる。甘酒は糀と水があれば甘酒が作れる。ポイントは50~60度に温めて10時間ほど保つことだ。これをお日様の力で温度を調整出来たら、電源にお金はかからない。カンボジアでもカシューナッツの薄皮を剥く際に電気のない村でソーラーオーブンを作ったのだが、大きな鍋にお湯を常に沸かし、そこからポンプでお湯をくみ上げて(このポンプに動力が必要で、太陽光発電を活用)オンドルのようにお湯の熱を庫内に届け、冷めたお湯は再び鍋に戻して沸かして循環させるような仕組みを作った。山口大学工学部の先生と共同開発したので、例えば地元の金沢大学の先生や大学生たちとそんな機械を考案して作り、糀も全国から集め、被災地の皆さんが自分たちが飲むだけでなく、応援に来た人たちにもふるまえないだろうか。冷やせばアイスクリームの代わりに夏バテ予防にもいいかもしれない。 

まだアイディアレベルではあるが、世界の事例からも学び、被災地と何か繋いでいけたらいいなと思っている。

国境を越えて社会的共通資本を守る

CWB メンター 松井名津

シビルミニマムの前号で後藤薫平さんが宇沢弘文氏の社会的共通資本について紹介しました。 それは、1)森、空、海などの自然、2)橋などのインフラ、3)教育、福祉などの制度です。これらの社会共通資本は、人々が「豊かな経済生活を送り、洗練された文化を発展させ」、「持続可能で安定した人間にとって魅力ある社会」を実現するための社会装置として不可欠なものです。 この定義に基づいて、私は宇沢氏の社会的共通資本とパトナムの「社会的共通資本」をあえて組み合わせてみたいと思いますが、後者は経済学ではなく社会学の概念および定義です。

なぜ私が宇沢氏とパトナム氏の考えをあえて組み合わせようとするのかを説明する前に、パトナム氏の「社会的共通資本」の概念を説明した方がよいでしょう。 彼の有名な著書『孤独なボウリング』の中で、彼は近所のコミュニケーションが減少するにつれて、投票などの社会活動への積極的な参加が減少すると主張しました。また、他者への思いやりや共感が減少する傾向も反映しています。一緒にボーリングをしたり、ビンゴゲームに集まったりする近所の施設が減少するにつれて、米国の人々は個人主義的、さらに言えば自己中心的になっています。たとえ普遍的な初等教育や国民皆保険などの優れた社会制度があったとしても、人々がそれに参加できなかったりすると、これらの社会制度は当然のものとみなされがちです。そうなると形骸化してしまいます。だからこそ、私は宇沢氏とパトナム氏の「社会的共通資本」を組み合わせたいと考えています。

典型的な例は日本のPTAです。大日本帝国は敗北し、同盟軍、特に米国に占領されました。占領軍のGHQは、日本を民主的で自由な国家にするために、多くの古い確立された制度を変更したいと考えていました。 教育もその制度の一つで、GHQは小学校ごとにPTAという制度を作るよう要請しました。PTAは、米国のモデルに基づいて設立された保護者と教師の団体です。保護者と教師は、学校を取り巻くさまざまな問題や問題について話し合います。子どもへの教育だけでなく、大人への教育も。また、学校生活と家庭生活の橋渡しをし、各学校を地域社会の中心とすることも目的としていました。しかし、日本が急速に経済成長するにつれて、保護者はPTAに参加することに消極的になりました。その理由の一つは、PTA制度がトップダウン制だったということです。PTA全体で取り組むべき課題は中央PTAが決定します。各地域のPTAは、これらの問題にあまり関心を持っていない場合がありました。各PTAの活動は例年と同じで、社会に合わせて変わるものではありません。一言で言えば、本質を失ってしまいます。

日本のケースとは対照的に、プンアジの両親のミーティングは現在非常にうまくいっています。親はプンアジのコンセプトや使命を知っており、積極的に質問し、時には子供たちにプンアジのルールに従うよう説得します。両親はプンアジ自体に強い関心を持っています。

この例が示すように、社会的な仕組みをうまく機能させるには、強い動機と、強い関心を持つ人々の積極的な参加が必要です。もちろん宇沢氏はこのことをよく知っていますが、残念ながら経済分野では政府の政策のみに焦点を当てています。いずれにせよ、社会共通資本を自ら保全・維持していくためには、仕組みと人の両面を見据えることが重要です。そこで私は、宇沢氏とパトナムの社会的共通資本の概念を組み合わせます。

では、グループとして、組織として、社会的共通資本を維持し維持するにはどうすればよいでしょうか? 営利企業?理論的に言えば、営利企業は十分な利益が得られないため、社会的共通資本を維持する責任を負いません。協同組合はどうでしょう?ブルーノさんの翻訳からわかるように、モンドラゴンは個人向けの金融システム、教育施設、相互扶助などの社会の仕組みを作りました。モンドラゴンまたはバスク地域内に限り、モンドラゴン協同組合は社会的共通資本を保存および維持しています。

雇用などのビジネス面だけでなく、バスクの文化やコミュニティも同様です。従業員はモンドラゴンの使命とコンセプトをよく理解しており、モンドラゴンのメンバーであることに誇りを持っており、その経営に責任を持っています。しかし、バスク州外では、モンドラゴンが独自性を維持できない場合があります。その理由は、モンドラゴンがバスクのコミュニティに強く結びついていたからではないかと推測します。スペインがEU市場に参加したとき、彼らはスペイン国外で事業を拡大する必要がありました。外国企業や他の企業と競争するためです。

現在、社会的共通資本をどのように維持し、維持し、再生するかという問題は国境に制限されません。川、山、海、空気、それらは人類にとっての社会共通資本です。 地球温暖化は言うまでもなく、社会共通資本のそれぞれの問題は、すべての人類に影響を及ぼします。しかし、地球規模の問題は、各人にとって、その人の認識やイメージを超えている傾向があります。それぞれが関心を持っている社会共通資本、つまり各個人を取り巻く問題を維持することは容易でしょう。先進国ではありますが、各人にとって共通の利益を見つけることは非常に難しいことでもあります。政府が社会共通資本を維持すると、社会の緊張が高まることがあります(また、政府は金融危機により社会的共通資本を維持する力を失いました)。

幸いなことに、アジア諸国にはコミュニティが残っています。彼らは地域社会との強いつながりを保ち、自然とともに暮らしていました。 しかし、これらのコミュニティは「グローバリズム」と「モダニズム」によって脅かされています。彼らは伝統的な生活様式、伝統への誇りを失いました。一つのコミュニティだけでは生活を維持することはできません。一方で、コミュニティが自らの伝統や文化を強くコミットし、力ずくで維持する場合には、外国人を排除したり、外部からの変化を否定したりすることになります。それは最終的に彼らのコミュニティを弱体化させます。各コミュニティは互いに協力する必要があります。しかし、どうやって?

モンドラゴンの重要なポイントからいくつかのヒントを得ることができます。まず各コミュニティは、自分たちの核となるアイデンティティは何なのか、そしてアイデンティティを維持するために必要な社会的共通資本は何かを明確にする必要があります。第二に、各コミュニティは各メンバーがコミュニティの一員となるよう動機づけるべきであり、各メンバーは個人の尊厳として成長する機会を持っています。次に、各コミュニティは他のコミュニティと連携する方法を模索します。場合によっては、リサイクルを促進する方法など、1つの問題だけについて協力することもあります。時には、特に教育に関して多くの問題や側面と協力し、スキルや知恵を交換します。最も重要なことは、各コミュニティが互いに競争し、刺激し合う対等なパートナーであることです。一言で言えば、使命、哲学、野心に基づいたコミュニティネットワークを作ることです。 このようなネットワークの構築に成功したら、私たちのネットワークに興味のある他の組織や人々と協力していきます。 他の組織や人々は、社会的共通資本の維持についてそれほど深く考えたり行動したりしないかもしれませんが、私たちのネットワークとともに行動し、それらの一部は影響を受け、より深く協力します。 それは、私たちにとって不可欠な社会的共通資本をどのように維持するかを解決するために、上から下へや組織を作るのではなく、世界的なネットワークに拡大する方法です。