CWBアドバイザー 松井名津
インドの大学と様々な提携をすることになった。インターン交換、伝統技術の移植交流、ダンスなどの文化交流、そして、若者が世界と協働して「未来の社会をデザインするために、いかにして命を救い、人間に力を与え、人間同士を結びつけるか」の草の根EXPOを国境を越えて行う。インドは大阪万博をキャンセルした、そこを埋める。さらにラテン圏は倹約主義で一味違う(ブルーノ氏のレポート)。ここらを結び、ウェブ上でEXPOを披露しようというアイディアだ。以下、インドで大学とも語り合った筆者が語る。
大阪万博が実施されようとしている。大阪に生まれ育っている私の母などはいまだに「あれ、本当にやるん? やめといたらええのに」と至極懐疑的である。もちろん大きな理由になっているのは、発表されるたびに増額される費用だろう。が、それ以上に「今更なぜに万博」という空気がある。まぁオリンピックならば各国選手の活躍だとか、金メダルの数だとかで盛り上がる(?)こともできようが、そもそも万博(万国博覧会)って何のためにあるんだっけ?という根本的な疑問がどこかにつきまとう。その根本的な疑問を払拭するのが開催目的だろうが、その初っ端に「万博には、人・モノを呼び寄せる求心力と発信力があります」とくると、オイオイ要は自分のために人を利用するのかよ!と言いたくもなる。(https://www.expo2025.or.jp/overview/purpose/)
しかしそれも仕方がないことなのかもしれない。元々第1回ロンドン万博からしてその目的は、大英帝国の産業力、技術力を世界に見せつけることだった。だからこそexposure=露呈なのだが、一般の人にとって蒸気機関の展示だけでは魅力に乏しい。そこで当時の万博はいわゆる「見せ物」を会場に配置し、より多くの人を会場に惹きつけようとした(『万博とストリップ 知られざる20世紀史文化史』荒俣宏, 集英社新書を読んでいただきたい)。なので本末転倒といわれようと「人集め(=金集め)」が先で、SDGsだとか、AIと人間の共存可能性だとかは所詮「お題目」に過ぎない。要は、各国がお互いの技術力だとか先端性だとか(その他なんでもいいけれど他国にひけらかしたいもの)をお披露目するために行われるわけだ。そういう底が知れているからこそ、今更感がどうやっても抜けきれない。
そういう「ひけらかし」感が付きまとう万博という言葉を使いながら、私たちは「もう一つの」「別の」万博をやろうとしている。名付けて草の根万博(grass roots exposition by youth)。草の根万博もある意味「ひけらかし」ではある。ただしひけらかす相手は他人(他のコミュニティの人たち)だけではない。自分たちのコミュニティの人々に対してもひけらかす。expositionの原義に戻って、自分たちのコミュニティの「誇り」を掘り出して開示する運動そのものが、草の根万博である。コミュニティの誇りを掘り出すというと、「名物」や「名所」のリストアップとか、地元の人しか知らない「名店」の紹介というイメージがあるが、今回目指しているのはそれではない。まず私たちがやらなくてはならないのは、自分たちのコミュニティにとって何が誇りなのかを問うことである。それが既存の名物であっても構わないが、なぜそれが名物になっているのかという根っこを掘り起こす。例えばインドのマイソールはサンダルウッドの名産地である。ではなぜマイソールのサンダルウッドが有名なのか、木として特質なのか、香りが良いからなのか、何か神話なり物語があるからなのか。地元ではどのように扱われてきたのか。尊重されているのは昔からなのか、それとも近代に入って注目されたのか(たとえば帝国の植民地からの名物としてなのか)。尊重されているのは地元だけなのか、世界的になのか(サンダルウッド=白檀は昔から日本でも仏教とともに尊重されてきた木材であり、香りだった)等々。その過程は自分たちの根っこが何なのか、何でできているのかを発見することである。さらにその根っこを育てたのがどんな土壌だったのかを見つけることでもある。土壌とは比喩でもなんでもない。コミュニティは風土に根ざしている。コミュニティの誇りもその風土の中から生まれている。歴史の中で元々の場所から移住を余儀なくされたり、近代の国民国家の国境によって分断されてしまったコミュニティもあるだろう。その移住した先の風土によって、コミュニティの根っこは変化を遂げる。そして変化した根っこからは、新しい花や実が生まれたことだろう。生まれた時は新しいもの、伝統に逆らうものだったかもしれない。やがてそれはコミュニティの伝統の中に溶け込み、伝統の一部として意識されていく。それには長い時間がかかる場合もあるし、たかだが50年ぐらいで変化してしまう場合もある(日本人の食事の急速な変化などはその一例だろう)。
だから見せるのは結果として姿のあるもの(物やパフォーマンス)ではない。というか、結果も見せるのだけど、それ以上に今現在あるその姿が、どのようにして出来上がってきたのか、なぜ、どのようにしてコミュニティの人々がそれを守り続けてきたのかという時間的な過程である。それはまた、それぞれのコミュニティが他のコミュニティからどんな影響を受け、自分たちのコミュニティをどのように変化させてきたのかを見つけ出す過程でもある。
私たちの「草の根万博」はインターネット空間を使う。それは単純に時間と空間を限定することがなく、博覧会を開催できるということだけではない。インターネット空間を使うことで、展示物が変化する可能性を開いておきたいのだ。まずは、各地のコミュニティが自分たちの誇りを展示したとしよう。展示して終わりではなく、お互いのコミュニティの誇りを相互に参照することができる。そのことで意外なところで自分たちの遠縁にあたる文化等を見つけたり、似ているけれども異なった技術(やり方)に気がつくことができる。こうした気づきによって、自分たちの誇りをさらに変化させ、進化させることが可能になる。その一方で、観覧者は単に「見る」だけの受け身な存在から、関わり、貢献する能動的な存在に変わることも可能である。自分が強い興味や共感を抱いたコミュニティに、自分自身が関わることが可能だ。その第一歩は単純な「お金で応援」であってもいい。しかし興味や共感が強まるにつれて、そのコミュニティの人と関わりたい、一緒に何かを作り上げたいという思いが募っていくことだろう。その時、観覧者は受け身の存在から、自分が自分以外のコミュニティに関わり、巻き込まれる主体になる。主体となった異文化(異なるコミュニティの人)を受け入れるコミュニティも、受け入れたことによってなんらかの変化を余儀される。その変化は良い方向に向かうこともあれば、排斥など悪い方向に向かう場合もあるだろう。何か変化が起こる時、賛成と反対にコミュニティが分かれてしまうこともよくあることだ。ただ、草の根万博の展示作成に携わった人(若者)は、展示作成の過程で自分たちのコミュニティの根がただ1つではないこと、その根を育てた土壌も多岐にわたることを実感するに違いない。こうした人たちが中核になって、排斥や分断の動きを少しでも和らげられるのではないかと願っている。
芸術が美術館に展示されるものから、見る人を巻き込むインスタレーションに変化したように、博覧会も展示する人と見る人が相互に巻き込まれ合うインスタレーションに変化できる。芸術におけるインスタレーションは、美術館から外に出ることで社会に変化をもたらそうとするものである。それと同じく、展示館にとどまらないインスタレーションを起こす私たちの目指す「草の根万博」もまた、展示館や博覧会会場から外に出て、それぞれのコミュニティと世界とに変化をもたらそうとするものである。