どこで学ぶか

松井 名津

 先月号でJ.S.ミルの教育論について概略を紹介したのだが、編集局の方から「働き・学ぶ」は難しいですかね?との注文がついた。先月号はどちらかというと教育の中身で、それも知識中心に書いてしまったので、ミルの教育が「学校の中」のものだと思われたのだと思う。

 時代的な背景もあって、ミルの中で働くことと学ぶことはちょっと微妙な関係になっている。1833年の工場法で9歳以下の児童労働は禁止されたものの、児童労働と青年・成年労働が一体化していた繊維工場などでは、児童の年齢確認をごまかすなどの逸脱行為が慢性化していた。またこの工場法は13歳未満の児童に対して工場主に教育義務を課すものでもあった。したがって「働き・学ぶ」といった場合、こうした既存の法制度に基づいた教育制度を指すことになっただろう。特に幼少者(13歳未満)に対して「ハーフタイム制度」(午前6時間、午後6時間の2シフトで労働する)を設け、労働時間の前後に教育の時間を確保しようという運動が展開されていたから、尚更である。ミル自身も児童への教育機会を確保するこうした運動を肯定していたし、称揚していた。しかし、彼自身が求めていたのは「基礎的な知識」「感性」「論理」からなる教育である。こうした教育が何のために提唱されていたのだろうか。

 ここでミルが「経験論者」だったことを思い出してほしい。ここでいう経験論はとても単純なものだ。人間はその五官から得た情報に基づいて、それのみで数々の判断をする存在である。そしてその五官からの情報に基づく判断は過誤の可能性を含むものである。それゆえ常に検証が欠かせない。こんな人間がその感覚を鈍らせたらどうなるだろう??原始時代であれば生き延びられない(だから感覚器官は研ぎ澄まされている)。しかし文明が進展するにつれて、人間は自分の身体能力を拡大する道具や機械を作り出していった。また国家や法を整備し、暴力から自分を守る装置を作り上げた。結果的に生活の利便性は増したが、感覚器官の鋭さは衰えていった。その上、機械性工場が登場すると労働者の労働は単調で繰り返しが多いものとなった。こうした労働の単調さが人間の知性を鈍らせるという危機感は実は経済学の始まり(アダム・スミス)から存在し、ミルもそれを受け継いでいた。文明の進化とともに弱まる感覚器官の鋭敏さに加え、単調な労働がもたらす知性の鈍麻。この二つに対抗するためにスミスも教育が必要だと考え、そう書き記してはいた。そしてミルの時代。保守的な立場からも急進的な立場からも、労働者や労働者児童への教育が喫急の課題だと考えられていた。

 保守と急進が対立するのは、教育の方法と内容をめぐってである。保守的な立場からは教会の日曜学校制度をモデルとした「キリスト教的基礎教育」が、急進的な立場からは宗教から中立的で、実物や画像を使う「経験的な基礎教育」「体を動かすことによって健康な身体の発達を促す」内容を伴うものが提唱されていた。さて、ミルはどうか。以前書いたことではあるが、ざっくりまとめていうと、彼は急進的な立場をとっていたが、急進的な立場が唱導する「生徒による生徒の監督・教育」には反対だった。と、ここで話を終わっても良いのだが、少し想像を膨らませてみたい。

 ミルが子供の教育について著作の一部で触れたり、手紙の中で言及している時、そこには彼自身の早期教育と、家庭内教育が色濃く反映されている。子供に早くから論理の材料となる基礎的知識を教えるべきだという主張も彼自身の体験を反映してのものだ。そして家庭内での教育に感性や情緒を求めるのは、彼自身が家庭内で感情に触れることがほとんどなかったからだ。そして彼自身が自分の幼少期に決定的に欠けていると思っていたのが、同年代の子供との触れ合いであり、実際的で実践的な活動だった。ミルの父が英才教育としてたたき込んだのは「知性」を磨くものだった。そのためになおざりにされたのは感性や情緒だけでなく、日常生活もまたそうだった。彼は後年自分自身で靴紐一つ満足に結べないと自嘲しているが、まぁ昨今でいえばネクタイ一つ満足に結べないというところだろう。だからこそ逆に「手足」を使う教育には大きな関心を払っている。ただしそれは手足を使うことが、感性や知性を発達させる場合に限る。カーライルが奴隷労働を、怠惰な奴隷に手足を勤勉に使って労働する大切さを教育するものであると論じたのに対して、そんな「勤勉」よりも「怠惰」の方がより美徳だと厳しく批判するのも、奴隷労働が感性にも知性にも結びつきようがない労働だからだ(奴隷に知性や感性がないというのではない。ある人間に奴隷労働を強いることは、その人間の知性や感性に対して破壊的な影響をもたらすことが多いという意味である)。

 さて、ここでやっと本題に入ることになる。「働きながら学ぶ」という言葉は多様な「働き、学ぶ」を含んでいる。日本の高度成長期に紡績工場の担い手となった(そして「東洋の魔女」としてオリンピック・女子バレーで金メダルをとった)女性たちの多くは、中山間地域農村出身だった。彼女たちが紡績工場に憧れ就職したのは、給与の高さとともに茶道や華道などの「花嫁修行」を工場敷地内で学べるからだった。夜間中学、夜間高校が盛んだったのは、働きながらより高い学歴を目指すことができるからだった。どちらも「働き、学ぶ」だけれども、労働と学びの内容は結びついていない。むしろ日常のモノトーンな作業や貧しい生活から抜け出すための「学び」だった。誰もが快適で便利な暮らしを求めていた時代に、より高い学歴、より多くの収入を求めることは、自分の生活に直結していた。だからこそ人々は競って「学歴」を求めた。けれどそれは往々にして既存のレールに沿って、既存社会の中でもう一つ上を目指すことでもあった。

 ミルが目指していたのは、おそらくこういう形の学びではないと思う。彼は労働者が会費制の図書室を作り、自費で本を集めて回覧するという運動を高く評価している。そしてそうした運動のためにもと、自著『経済学原理』の廉価版を出版している。鉄道と新聞が国中の隅々に普及する時代に、労働者が無知蒙昧の状態で満足することはあり得ないのだと(期待を込めて)語る。労働者が労働者として教養を積むこと、自分達が属している経済社会について知識を持つこと。しかし、それだけが学びではない。労働者にとって自分たちが持ち寄った資本によって、アソシエーションを組織し、市場で自分たちの力量を試すこと。これが労働者の「教育」に最も大きな力を持つとミルは考えていた。日常的に市場の動向に敏感になり、自分たちの賃金や物の価格がどのように決まっているのかを実感する。その実体験の上で経済学の書物は意味をもってくる。その一方でいわゆる実務教育は「仕事の中で」身に付ける物だとする。社会の一員として求められる教育は、専門技術ではなく一市民として自力で考え、自力で判断するためのものなのだ。

 では、社会に出る前の教育はどうだろう。手と足を使い、経験を豊富にするための教育。それは確かに「働く」ことと結びつく。任された仕事をどうすれば上手く効率的に仕上げることができるのか、誰が一番うまく場を仕切る人で、誰が一番うまく仕事ができる人なのか。どうすれば先輩に追いつけるのか。こういう事柄は現代の日本ではスポーツクラブや習い事で身につくと期待されているものだろう。なぜスポーツクラブ(将棋や囲碁、競技かるたでもいいのだが)で身につくと期待されているかといえば、「結果」が目に見えるからだと思う。競技であれば負けることもあるし、勝つこともある。どちらにしろ自分がやってきたことが一つの結果として残る。その結果が次の行動を促す。それが諦めることであったにしてもである。だとすれば、働くことの方がもっと有効ではないだろうか。お手伝いの枠を超えてきちんと働く。かつて自営業の子供であれば誰しもが体験したであろうことだ。働くとすぐに結果が見える。失敗すれば全体にどういう影響が出るかもすぐにわかる。一緒に働くのが大人であれば尚更、ごく身近に「こうなりたいモデル」が存在するーー私の場合はホールを仕切っていた30歳前後の女性だった。親よりも怖い先輩として、そして信頼でき一流の仕事をする大人として、彼女のようになりたいと小学校高学年から中学を卒業するまで、彼女のやり方を真似ようとしていた。

 その時に学んだことは、知識ではなく論理だと思っている。論理と日本語にすると、何やら小難しい理屈のように思えるが、英語ではreasoning、筋道が通っていること、理にかなっていることである。どうやって仕事を組み立てるか、どうすればうまく体を動かすことができるようになるか。それは単純に人真似では身につかない(自分と他人とでは体格も運動神経も異なっている)。試行錯誤の中で自分なりのやり方を見つけることが、ここでの論理だ。これは現在の学校のように一律に同じことを同じように教える場で身につけるのはなかなか難しいのではないかと思う。自分の体と頭で試行錯誤しなくてはならないことと、学校の勉強のように予め設定されている正解にどれだけ早く辿り着くかということは、全く別のカテゴリーに属していると思うからだ。ただし、やはりこれは「働く」が自分の意思を伴って行われているからこそだと思う。もし単調な仕事をただ稼ぎのためだけにやらされるのであれば、その仕事で何かを学ぼうとも、誰かから学ぼうとも思わないだろう。

 ミルの時代の児童労働は主として炭鉱での運搬、織物工場での糸繋ぎなど子供の小さな体格とすばしっこさに目をつけた単純労働だった。だからこそ彼は児童労働に反対するし、子供には教育を受ける権利がある、学校に通わせるべきだという。けれどそれは彼が「学校教育」のみを絶対視していたことではないと考えている。それよりも、子供をより広い場所に連れ出すこと、新たな経験を積ませることに主眼がったのではないか。彼自身が、父親の手元を離れ初めて欧州大陸で過ごした時に、山々の風景に、同じ年頃の子供との交わりに、それまで経験したことのない世界が存在することを痛感したように、親の拘束が強ければ強いほど、親の世界から離れて子供が生活し、学べる場が必要なのだ。

 今の大学生を相手にしていると、彼らが自分の周囲の世界からなかなか出ようとしないことを痛感する。そして親の言いつけに反抗しない「良いこ」であろうとすることも痛感する。そして親の方は「子供の自由に」と放置しながら、「普通の人生を歩んでほしい」と口にしている感じがする。真綿で包まれて育ち、真綿に包まれたまま、息ができないとは思わず、でも浅くてしんどい呼吸を続けているのが常態になっているのじゃないか。そんな気がしてならない。自由で豊かに見えながら、どこかとてもしんどく、表情が乏しい彼ら・彼女らを見るとき、何を言っていいのかわからないけれど、とりあえず何かを懸命に追いかけてみないかと声をかけたくなる。包まれた世界から一歩踏み出すのは、冬の朝に暖かい布団から出る以上に勇気がいることだ。でも暖かい布団から出てみれば、意外と手足が動くものだ。決められているように見えるレールを外れることは、勇気がいるように見えるかもしれない。けれどよくみればそのレールはあちこちでガタがきているのだ。