女性の自立って何だろう

あらためてタイトルにしてみると、「何を今更、経済的自立し、個人として自立することでしょ」という声が聞こえてきそうな気がする。経済的に独立できる稼ぎを有していて、自己をしっかりと持ち、職場だろうと家庭であろうと、誰とでも対等に渡り合える…そんな女性像が浮かび上がってくる。

 でも、こうした女性像を描かれるとちょっと引いてしまう人もいるのではないだろうか。男性が…ではなく、女性自身がである。統計は冷静事実を語ってくれる。相変わらず女性の平均給与は男性の7割だ。家事育児等の家庭内労働に費やす時間にいたっては、男性は女性の10分の1程度。「だから今こそ声を上げなきゃ!」といわれるかもしれない。けれど、現実に育児に介護に仕事にと「頑張らざるを得ない」女性にとって、その声はなんだか遠くから響く別世界の声のように聞こえるのではないだろうか。経済的に自立できる所得を得て仕事に邁進する一方、パートナーがいれば、育児や介護も平等に分担する…そんな理想的な生活なんて、私にはとうてい無縁のこと、どこかのエリート女性のことでしょ。そんなつぶやきが聞こえてくるような気もする。

 目指すべき理想は、無いよりは有ったほうが良い。けれど、目指すためにはどこかから始めなくてはならない。そしてその「どこ」は統計に現れたところ、頑張らなくてはならない羽目に陥っているところでしかあり得ない。

 損である。正直何もかもまっさらにして、新しい社会を!!と求めたくなる。でも、ここからしか始まりはしないのだ。かつてボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と宣言した。それは女性らしさが社会的に作られることをうたった高らかな宣言だった。けれど、人は「女になる」のだとしても、既に生きている私たちは「女になって」しまっている。自覚しているかどうかはともかくとして、私たちは自分の振る舞いを、行動を、生き方を「女性」という規定の中で、あるいはそれに逆らいながら決定している。私たちは今ここで女性であることから逃れるわけにはいかない。

 19世紀、J.S.ミルはその時代の女性を表して、次のような面白い例えをあげている。
–ここに一鉢の植物がある。この鉢の半分を日当たりの良い温室で育てよう。そしてその半分を日陰の寒風にさらして育てよう。出来上がるのは何とも奇妙な植物になることだろう。「女性特有の性質」「生まれもっと女性の性質」を言い立てる人たちは、こうして育てられた植物を見て、「その植物の持って生まれた性質どおりに育った」ということだろう–。ミルもまた、女性が「女になる」事を認めていた。けれど、彼はその奇妙な植物を否定し、新たな植物として、理想的な植物としての女性像を提示することはなかった。女性は、「優しく、柔和で、温かく、従順に」と育てられた。その当時、中産階層以上の女性にとって、手に職を持つなどということは自らの身分を落とすこと以外の何者でもなかった。温室で育ったのは、優美で、華やかだけれども寒風にさらされるとひとたまりもなくその色を失うかもしれない花だった。その一方で、女性一人一人が持っていたかもしれない大胆さ、勇気、強情さ、決断力は、寒風の中で見るも無惨にやせ衰えてしまった。こうした彼女たちに、「手に職を持て」「社会に出て自活すべきだ」とミルはいわなかった。むしろ女性の前に「現在有るような(男性が就いているような)職業と、家庭との二つの選択肢が開かれるとすれば、私はどちらかといえば女性は家庭を選ぶのではないかと思う」といっている(お陰でフェミニズムからはとんと評判が悪い)。

 ミルは社会的にその性質をゆがめられてしまった女性を、やはり家庭の中で保護すべき存在と見ていたのだろうか。もう少し彼の考えを聞いてみよう。上の例えが出てくるのはミルの『女性の解放』という本である(ただし原題は『女性の隷従』)。そしてこの本の主題は「家庭内の権力関係」である。男性が結婚という鎖で、女性を奴隷にしているのが今の家庭だというのが、ミルの主張である。より正確には奴隷よりもはるかに劣悪な状態であるという。なぜなら奴隷は、主人の前から下がれば自分自身の時間を持てるが、家庭の女性はそのすべての時間を夫という彼女の主人のために捧げることを求められるからだ(それにはもちろん男女間の性行為もふくまれている。デートレイプとか家庭内レイプといった言葉はない時代だけど、ミルは女性が家庭内で望まない性行為を強いられている可能性をはっきりと書いている)。そしてこの主人対奴隷の関係は、奴隷を奇っ怪な植物のような存在にするばかりではなく、主人である男性の性格をもゆがめてしまうという。男性は「男」というだけで、常に選りすぐれた存在であり、自分の望みが叶えられる存在として、家庭で育てられる。そして社会に出て行く。その結果、社会の中は「おれこそが1番」「俺のいうことを聞かなくてどうする」というエゴとエゴのぶつかり合い、他人を蹴落とし先に行くことが当たり前のエートスが蔓延してしまっている。

 これがミルが家庭内の権力構造から導き出した社会の構造である。

 さて、こうした「社会」に女性が進出するということはどういうことになるだろう。周囲は圧倒的に男性社会である。女性は当然ながら、その男性社会のエートスを身につけていくことだろう。いや、身につけなくては社会で生き延びることはできない。寒風にさらされて縮こまっていた勇気や決断力は、他人を踏みつける勇気へ、他人を出し抜く策を決断する力へと発達を遂げるだろう。そして温室の中で育っていた柔和さ、他人への思いやりは、社会では不用の物としてその花を摘み取られるだろう。それは本当に望ましいことなのだろうか。社会は「女になる」事を求めなくなるかもしれない。けれど女性に「男になる」事を求めるようになるのではないだろうか。そしてもし、家庭内の権力構造が根本から変わらないうちに、女性が社会進出するとしたら…女性は「女になり」ながら「男になる」事を求められはしないか。ミルが危惧していたのはこのことではなかったかと私は思う。

 というのも、ミルは家庭内での教育に人間性の陶冶を託しているからだ。家庭内教育といってもいわゆる学業ではない。美を感じる心、いとおしさや愛情、思いやり…人としての美質を養うことである。そしてこれまで「女」のための物とされたこうした美質を、男も身につけ学ぶことを求める。それは生き馬の目を抜く資本主義的な社会を根本から作り替えるために必要な、人間を形成するためである。その役割を今まで「女」としてこうした美質を押しつけられて育てられた女性に期待するのである。それはミルが女性に対して、社会をよりよい物にするために期待した役割であり、彼女たちの生活の核として提示しものでもあった。

 さぁ論を現在に戻そう。私たちは「今、ここ」から始めなくてはならない。理不尽さや何重にも背負わされている役割を持つ今、ここ。その中で、あなた自身が最も大切にしたいことは何なのだろう?女だからという言葉も外し、逆に男女平等なのだからという思いも外し、ただひたすら自分の中を探ったときに、あなたの核になっているものは何だろう?難しい問いといわれるかもしれない。ではこう聞き直そう。「あなた自身が、あなた自身に対して絶対に許せない、あなたの行為とは何?」。これはある小説で出てくる言葉。推理小説作家として世評は高くなったが、自分の作品の方向性や男性との対等のつきあい方に悩み、故郷といえる大学に帰ってきた女性に対して投げかけられた言葉。彼女はこんな答えを出す。「私が絶対に許せないのは、私自身がつまらない駄作だと思っている作品を義理に駆られてほめること」。彼女にとっての核は「作品の質」だった。そこから彼女は自分の小説を徹底的に見直すというきつい作業に手を染めていくことになる。あなたにとってはどうだろう。会社の仕事、家庭での喜び、地域社会での交流…そんな漠然とした答えではなく、あなたが絶対にあなた自身に対して許せないあなたの行動。それがあなたの核だ。今、ここにいる、ここで生きている、あなたの核だ。 そんなことをいわれても…結局それって「本当の私」探しなんじゃないの?といわれるかもしれない。私はそう思ってはいない。核はどこかにいる、どこかにある「本当の」「理想の」私の中にはない。今の私の中にしかない。だから「今のあなたにとって」と聞いてみて欲しいのだ。

 その核を、今ここから育てていこう。女性全員に通じる理想の姿など無い。無理に肩肘を張って生きる必要もなければ、理不尽さを堪え忍ぶ必要もない。男であれ、女であれ、余計な物を取っ払って、自分自身の「核」を捕まえること。その核を自分の瞳のごとく大事に持ち続けること。今すぐに芽を出さなくても、今すぐに花を結ばなくても、その核を抱き続けること。そしてその核の存在を、周囲の人に伝えること。それが、「今、ここ」から始められる第一歩だと私は思う。蛇足だけれど最後に一言。核は変化してもいい、嫌きっと変化して行くのだろうと思っている。