働かない若者…

若年者失業率は相変わらず9%台と高い。さらに、もともと失業率は「職を探している」のが前提条件なので、ここに含まれない若者はもっと多い。ニートと分類される若者数は、60万人。半数が25歳以上。フリーターは176万人。大学生の3年以内の離職率は約3割。

 とこうして数字を並べてみると、いったい若者たちは「働く気があるのか」という声が聞こえてきそうだ。では、逆に問い直そう。「なぜ働かなくてはならないのか」。

 小学校以前の子供が、「なんでお母さんや、お父さんはお仕事に行くの?」と聞いたとしたら、仕事のやりがいとか誇りとかよりも、まず「食べていけなくなるから」という答えを返すことが多いと思う。けれど年齢が上がると、不思議にこの問いに対して、様々な理屈や修飾語がついていく。曰く「社会への参加」「自己実現」「働きがい」…。そして、いよいよ就職活動となると、様々な自己分析ツールを使って、自分の適性やら適職を求め、自己PRでは、その職場への期待や展望を語る。不思議ともう誰も「食べていくため」という言葉を公の場では使わなくなる。

 ああ、日本は豊かなのだな…と感じる。食べていくためには、否が応でも「何かをしなくてはならない」時代が過ぎ去った社会なのだなと。そしてある意味若者にとっては不幸な時代でもある。とにかく食べていくためには、今目の前にある職や仕事にしがみついていなければならない状況であれば、迷いも悩みもない。客観的に見れば、悲惨な状況である。その仕事が自分の健康をむしばむ可能性が高く(先進諸国の企業が発展途上国で展開している「スエットショップ」など)、十分な食糧を買うだけの費用を稼げるとは限らない。「食べるために仕事をする」というシンプルな図式は、迷いを許さない。しかしもしその社会の経済状況が好調であれば、仕事にありつく望みは増大する。さらにありついた仕事で、徐々に昇給し、「食べていく」中身が充実していく。これがかつての日本だったのだろう。「金の卵」として就職列車に詰め込まれ、地方から都会に出てきた若者は、けして有利な条件で労働をしていたわけではない。けれども一旦その職を離れると、「食べていけない」という現実的な恐怖感が存在していた。そして将来より良い生活ができるという夢があった。それが「働きがい」という言葉になっていた。

 もう日本はこうした状況にはない。たしかに失業した多くの若者は厳しい生活を強いられる。フリーターの生涯賃金が正社員の1/3にとどまるのはよく知られた話である。生活保護を受ける若者も20万人に達している。一旦職を離れると、再就職が難しいという状況は、実は余り変わっていない。それどころか、高度成長期よりも現在のほうがより厳しくなっているだろう。しかし産業構造の変化と共に、「何かで食べていける分のお金が得られる」という見通しだけは、若者の間で広がっている。実際、学生時代の方が1ヶ月の可処分所得が多かった下宿生も私の周りにいる。

 さて、こうした状況の中、厳しい就職活動をしながら、「なぜ働くのか」という問いに明確な答えを持てないのが、若者の現状だろう。自分に向いている仕事なんてわからない。特にやりたい仕事なんてない。どこでもいいから正社員になりたい。正直、こうした本音は今も昔も変わっていないのだと思う。

 40年前の、30年前の大学生(その頃は進学率は3割だった)も、明確な将来像を持っていたわけではない。大学を卒業したら、何となく就職をするものだろうと思っていた。そしてその受け皿はある程度あった。入社すれば、社員研修等々、良くも悪くもその会社のやり方というのをたたき込まれていった。そして右肩上がりの経済状況の中で、もがけばとにかく業績はついてきた。自分の適性を考える必要すらなかった。

 今はどうだろう。自己分析に適性検査…。あたかも「あなたにあった仕事が既に存在している」かのような装置。そして「働きがい」や「その企業で働く理由」を求められる自己PR。ぼんやりとした本音とは別に、「あなたはなぜここで働きたいのか」という理由を求められる。それにうまく答えられないから、就職が決まらないのだと悩み始める。「働く理由」を何とか見いだそうとする。けれどそれは、プールや海を見たこともない人に、「泳ぐ理由」を問うようなものではないだろうか。働かなくてはいけないのは何となくわかっている。安定を求め、周囲の期待に応えるためには正社員でなくてはいけないとも思っている。けれどその企業にする「理由」は見当たらない。その企業のデータをいくら調べても、その企業で働く姿など想像もできない。

 そうして、何十回と就職試験に、面接に落ち続けていく中で、若者は「働く理由」を見失っていく。適性があるといわれた職種で「むいてないよ」といわれ、それではと職種を広げれば「志望理由が薄弱」といわれる。なぜ働かなくてはならないのか。そう思い始めたとき、食べていくだけなら、学生時代のバイトの延長で十分じゃないのか。その方が気楽だったじゃないか。いったい、ここまで苦労して、企業で働いて、その先何になるのかという思いがよぎる。適性とか適職といった言葉がどんどん薄っぺらくなる。

 こうした経験を経た学生たちは、それでも企業に期待している。苦労して入社したのだから「働きがい」が得られるはずだと。けれど、企業側には新入社員の教育にかける余裕がない。ひたすら即戦力として実績を求める。適性も適職もわからなかったけれど、とりあえず入社したからには、バイトよりは「働きがい」のある仕事を任せられるだろう。そういう期待はあっさりと裏切られる。バイト以上にきつい仕事、それに見合わない評価。働いても「甲斐のない」日々が続くかもしれない。それを乗り越えられれば、その企業に定着することができるだろう。けれど、乗り越えられなければ…離職という道が目の前に開けている。

 素人っぽい分析かもしれないが、学生の視点から見ると、ニートやフリーターの多さも、離職率の高さも、ついでに言えば就職活動のしんどさも、根っ子は皆同じに思える。

 働く前から「働きがい」を、「適職」を追求することが、その根っ子である。そしてその発想の根底には、中学時代から深く根を張っている「自分のレベルだったらここぐらい」があるのではないだろうか。自分ぐらいだったらこの高校、自分ぐらいだったらこの大学と、自分の意志とは別にレベル分けして、行き先が用意されている。そして行き先を決める関門を突破すれば、その中で「受験」や「卒業・就職」を目指して頑張っていればいい。それと同じで、就職活動という関門を突破して、入社すれば「働きがい」は待っているはず…と思ってしまうのではないだろうか。

 「なぜ働かなくてはならないのか」。この問いに明確な答えなどない。根本的に突き詰めれば「食べていくため」なのだ。そして「今現在」食べていくためだけであれば、フリーターであってもニートであってもかまわない状況が、現在の日本にはある。そんな日本で、若年者就職支援と称して、さらに自己分析や面接対策等々、就職活動のテクニックを支援したとしても、若者はいずれ就職への動機をうしなってしまうだろう。学生時代に働くことを体験しようという「インターンシップ」も、都会では就職活動の一環になってしまっている。新入社員の定着率を上げようと思っても、そこまでの人手も労力もない。かといって何とか離職はとどめたい。正直八方手詰まりというのが、行政も企業も実感的な本音だろう。

 では処方箋はないのか。私はそうは思わない。若者に個性的な生き方や働きがいを求めるのはいい。が、その前に働くことの理不尽さを体験してもらう必要があると思っている。働くことは常に相手(仕事仲間、上司、顧客)があってのことだ。必ずしも自分のやりたいことが実現するわけではない。どんなに努力しても実績は別だ。こうした「理不尽さ」心得た上で、もう一度「働くこと」を考え直すことが必要なのではないか。その一方で小さな事でもいいから、自分がやったこと工夫したことが目に見える形でわかる体験も必要だろう。ということで、私が示す処方箋はごく単純。まずは手と足とを動かす労働を学生時代に体験すること。それもできれば最も理不尽な自然を相手に。どんなに頑張っても、一度台風が来ればすべてはおじゃん。どんなに頑張っても、ベテランの技には適わない。その一方で、ちょっとした自分自身の技量の発達を実感できること。非常にプリミティブなことだけれども、その積み重ねがもう一度若者たちに、本当に「働く事って何」を自分事として考えるきっかけを作るのではないかと思っている。その結果として、フリーターの数が変わらなかったとしても、私はそれでいいと思う。統計数字は変わらなくとも、自分自身の働き方をつかんでのフリーターと、仕方なしのフリーターとは、大いに違うと思うからだ。

 今、若者たちが「働くこと」を問い直さなくてはならない時代になっている。その時代に、年配者として私ができることは、働くことの理不尽さと楽しさを自分事として受け止めてもらえる場を作り出すことだと思っている。