お茶という日本文化

 日本に戻ってから2か月半が経って、もう少しでカンボジアに戻ろうと、いろんなことを整理整頓し始めていました。そんな折にふと、WWBジャパンの卒業生のことも思い出しました。日本にいないと連絡の取れない方に電話をしてみようかな…と、真っ先に思い浮かんだのが京都の小泉敏子さん(お茶の先生のお名前は小泉宗敏先生)でした。

 小泉さんはとても不思議な魅力を持つ方で、いろんな提案を京都の女性起業家セミナー卒業生と共に活用させていただきました。一番思い出深いのは東京駅のイベントスペースでの1週間の出展です。もう15年以上前でしょうか。朝7時から晩の23時まで、東京駅に着物を着て、素人の私が売り子になっても飛ぶように女性起業家の商品が売れました。その代わり、小泉さんも粋な演出を考えてくださり、様々なお茶の道具などを用意してくださったり、篠笛の奏者を呼んでくださったり…。その場で手描き友禅を披露するなど、私たちが100年先まで残したいという手仕事を東京駅の中で縦横無尽に行きかう人たちに見ていただきました。おかげさまでこれから京都に行くというのにすでにお土産を買い求めてくださった方、東北から東京に来て京都とは関係ないけれども手作りのものは素晴らしいと喜んで買ってくださった人など、小さくてもきらりと光る女性起業家たちの商品を見ていただく晴れ舞台となりました。京都という場所で女性起業家セミナーをやらせていただいていろんな方と知り合えたことは私にとっても大きな財産でした。

 もう20年近いお付き合いになると思うのですが、小泉さんは何かというと気にかけてお声をかけてくださいます。彼女が開くお茶会は京都でも有名な大徳寺や京都御所の中だったり、普通の人が借りられないような空間で、さらにはその時代考証を経てこのように献茶が行われたのではないかという形を現代に蘇らせたり、皇居で演奏する雅楽の方を招いて名前の演奏をバックにお茶をたてたりと、その演出がまた壮大なスケールです。その時間はまるで夢か現か、日ごろの喧騒を一瞬にしてかき消してタイムスリップしてしまうような気分になります。粋とは何か、雅な遊びとはどういうものか、古典で習うのではない、目の前で味わう得も言われぬ体験はこの先も二度とないものだと思っています。

 小泉さんは京都大学医学部茶道部の立ち上げからほぼ40年近く携わっており、その代々のOB・OG(第一線で活躍するお医者さんたち)からも大変慕われており、このようなお茶会などに集まる方々もそうそうたる顔ぶれであることは間違いありません。しかし、そこに私のようなサラリーマン家庭で生まれた凡人であっても受け入れてくださる懐の深さがあります。私は茶道の心得は全くありません。しかし、お茶会では精通していらっしゃる方もたくさんいて、もちろんその方たちには最高の演出を提供され、選んだ掛け軸や床の間のお花など設えに関してはもちろん、お道具も身を包むお着物も超一流です。そんな最高潮に緊迫する中でもやさしく誘導してくださり、お茶席でお隣の人の見よう見まねで体験させていただきます。どんな世界においても、どんなレベルの人に対してもきちんと対応できるというのが真の指導者なんだなというのを実感させられるのです。

 現在、小泉さんも70歳を超えられ、今年いっぱいで京大医学部茶道部での指導は退官されるということで、自分しかできないことを残りの人生でやっていかなければいけないとおっしゃっていました。その1つが「茶の湯外交」です。お茶席という日本独特の文化を通じて世界と親睦を深める。このような外交手段がほかの文化にあるでしょうか。お酒の入った食事を共にすることもあります。ただ、お酒の入った席なので素面ではありません。ダンスや古典芸能をみんなで鑑賞することもあります。しかし、お茶の席がさらにすごいところは今の時代に寄り添えるメッセージが伝えられます。掛け軸に込めた想いで何かを表現したり、今あるお花を生けることでその季節を切り取り、客人は周りの人々と一緒に自分が能動的に動いて空間を作り上げます。一期一会でその時に集まった人々でしか醸し出せない雰囲気なのです。さらには教養の高い茶人が客人をはっとさせるような言葉を伝えることが気づきにもなる、とても知的なゲーム性をも含んでもいます。そしてこの飲むお茶が混ざりものなしで農家が丹精に作りあげたものであれば、一服飲むごとに味わいが深まり、もともとは薬と同じような効能であったゆえに元気がもらえる。戦国武将が茶人を寵愛していた理由もなんとなくわかります。

人生最後の集大成として、小泉さんはさらに「相手のことを想うお茶」を掲げています。私も含めて一般の人々はお茶の世界は敷居が高いと思いがちです。しかし、上に紹介したような世界平和や外交にも一役買えるようなお茶という文化を一部の人たちだけがやるものではなく、誰もが親しみをもって触れる機会を作り、さらに深めたい人は道に入るという導入部分(彼女は“序の茶”と表現しています)を作りたい、というのです。小泉さんのお宅にお邪魔すると必ずお茶室で私のような素人でもお茶を点てさせてくださるのですが、そのコツの伝授の仕方がとても上手で、初心者や外国人が初めて体験しても難しいと頭をひねらず、自分でもできたという達成感や喜びを実感できます。

「表とか裏とかいう流派でお茶碗の回し方が違ったりいろいろあるけれども、根っこは同じ。特に茶の湯外交の時ははっきり言ってどうでもいいことなんです。なぜお茶碗を回すか。自分のほうに美しい柄があると“もったいない”と思うからそれを避けるという日本人の美意識、ただそれだけのこと。だから回しすぎて再び絵柄が自分の手元に来てもいけない。もしかしたら外国人からしたら、自分のほうに美しい絵柄があったほうが喜ぶかもしれないし…」と相手の立場を慮ってお茶を考えると先生はこういう解釈になるわけです。

この“序の茶”の喜びがなければ広がらない、そのためには初めての人でも点てやすいような環境をまずは整えることが大事だという思いに至った小泉先生は、地元の有名な陶芸作家に駆け寄って、点てやすい器の開発まで始めています。だいたいお茶碗にどのくらいのお湯の量を入れたらちょうどいいか(私が点てたときはポットのお湯です)を一目でわかるような内側に絵付けを頼み、形も丸ではなくて楕円型。この方が茶筅を動かしやすいのだそうです。それをお弟子さんたちが忠実に再現し、特注することで若手作家たちの仕事づくりにつなげたいとおっしゃっています。この器と小泉さんの厳選したお抹茶と茶筅をセットにして、外国人でも自宅で楽しめるようなキットにして少しずつ広げていきたいと考えていらっしゃいます。

また、小泉先生の使うお抹茶は、宇治の生産者で、かつて神社仏閣に奉納する以外に、他のどこにも出していない門外不出の幻のお茶です。26年前に、このお茶をいただいたときに、小泉先生が6歳でお茶を始めようと決意したときに初めて口にしたお茶と同じ味がしたのに感動して、それ以来ずっとその農家に契約栽培をお願いしています。一般的にお茶は宇治、静岡など有名な産地が表記されていますが、多くの場合はその地域のものがある程度の割合で入っていれば名乗ってよいという決まりごとがあるそうです。宇治茶も近隣の関西地方で採れたお茶と配合されて、時には添加物なども配合されて出されているものもあるのだとか。コーヒーでも同じですが、どうしても自然相手の農作物はいい出来と悪い出来の年があります。毎年同じ味・品質を安定させるためにも輸出される港で混ぜられ、均一化させるという方法が長らくとられてきました。しかし、最近中南米の国々ではコーヒーの品質向上を推進し、ワインのようにどの産地、さらにはどの農園の味かといった産地別、農園別といった細かい区分のスペシャリティコーヒーなども登場しています。もともとお茶も戦国時代などは金の延べ棒かそれ以上の価値があったもので、庶民にも飲まれるように手に入りやすくなったことはもちろん大事ですが、小泉さんはコーヒーの今の状況と同じようにちゃんと農家に頑張った分だけの見返りがあるように作ってもらいたいと、代替わりしてもこの契約栽培農家を応援し続けています。また小泉さんの息子さんがつい先日脱サラして、この宇治の茶畑を一緒に守り、推進する手伝いに回ることになりました。

 お茶を点てるくらいで何がそんなに違うのかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私がたった1~2時間教わって、自分でやっただけでも大きな違いを実感できます。まずは抹茶のお粉。濃茶は苦くて甘いお菓子がないと飲めないかというと、何回も味わうごとにおいしさを感じられます(そもそもお茶席で何杯もお茶をおかわりすることはありませんよね)。品質のいいお茶だと分量も少なくてもちゃんと点てられます。そして点て方が上手になると味わいが全く変わってきます。茶筅の持ち方、意識の向け方、点てている時の音のコツを教わっただけで変わります。そしてこのようなお茶の歴史や所作がどのようにしたらきれいに見えるかというポイント、さらには今の世の中のことなどを話しているうちに、文化教養に触れて日本人としてのアイデンティティを感じ、メンターから生き方を学ぶ人格形成の場でもあり、そしておしゃべりというヒーリングなんだなぁ…と。小泉さんに会って家に帰るときには気持ちも晴れ晴れ、頭もすっきり、いろんなことを吸収したという満足感で満たされていました。お茶やお花を学びに行くのは憧れの大人たちから生き方を学んで大人になっていくという意味でもあったのかも、と。私はまだカンボジアでも日本でも若い人たちに対して、私が得てきたような学びだったり、気持ちの面で鍛錬されるような時間や場というのを提供できていないと改めて気づかされました。

今回、久しぶりに小泉さんにお目にかかることができて、文化というのは国境を越えてつながれるものだと再確認させていただけるいいチャンスをいただきました。現在、カンボジアで文化を守るということも私たちの活動の柱の1つです。私たちの生徒が昨年日本各地で踊ったことで自分たちのアイデンティティを呼び覚まし、自信をつけたことに私もとても誇りを感じています。現在はノーという女子学生がこのダンスを教えることで生計を立てられるようにするにはどうしたらいいか、スマホを使ってダンス出前サービスやオンラインでダンスを教えることなど、少しずつ形にしていこうという動きが出始めました。

そしてもう1つ、“カシューナッツを文化にしていくには?”という着想を得ました。お茶もそもそもは中国由来のもの。日本でさらに加工法、味わい方が長い歳月をかけて発展して独特の文化になったのだと思います。カンボジアのカシューナッツもルーツをたどれば肥沃ではない土地に何か作物をと40年ほど前に外から取り込まれたものです。まだまだ歴史の浅いものではありますが、それをインドやスリランカでもアフリカでもない、カンボジアだからこそというものにしていくにはどうしたらいいのか、日本のお茶会ではないですが、カシューナッツを味わい尽くす懐石料理的なものなのか、何か他の人がやっていないけれどもこれは面白い!と思うことを産地から発信していくことができるのかなと思い始めています。昨日たまたまプノンペンでカシューナッツバターをもって瓶探しやラベルを印刷してくれる会社を探していたところ、そのスタッフたちがこの商品についてとても興味を持ってくれました。国内の掘り起こしは可能性を秘めているなと手ごたえを感じました。以前のインドネシアのフローレス島でカカオの経験でもそうでしたが、生産している地域では換金作物は収入源としか見ておらず、自分たちで味わう習慣がないと自分の作った作物が美味しいと誇りを持てることが「次世代に残そう」につなげられないのではないかと思っていました。コンポントムという小さな町ですが、プーンアジの位置は産地の畑からは町中で、外国人だけでなく、カンボジア国内の人をも呼び寄せられるところです。カフェのティーダさんとも協力して、こういう話題と人を呼び、お土産を買って帰ってもらう仕掛けができたら面白いかなと少しワクワクしてきました。

女だから今動ける

タイトルを見た人の中には「女だから・・・」はないだろうという思いを持った人もいると思う。男も女も均等だ、女らしさ、女だから云々とは・・・と。ちょっとその話はストップしておいてほしい。そういう「そもそも論」をする気は毛頭ない。女だから育児、女だから家事なんて主張には正直飽き飽きしている。

 けれど、世間一般にはいまだに育児は女性という意識は強い(少子化対策の該当インタービュー対象者はなぜいつも女性が多いのだろう)、統計的にも有業男性の家事や育児に費やす時間は、週1時間以下である。

 そんな「女」だからこそ、わたしは「今」動くことが出来ると考えている。今は「」の今。長年築き上げてきた営みが、目の前で濁流に飲み込まれる理不尽。どんなに大切に思っていた人も事も、遠慮会釈なく奪われてしまう理不尽。目にも見えず、臭いもない「放射能」をめぐる錯綜した情報、先行きどうなっていくのか分からない不透明さのなかで、自分の将来を考えなくてはならない理不尽。そんな理不尽な「今」である。そしてこんな時だから「女」は動けると考える。

 なぜか。理由は簡単だ。理不尽さに「女」は常日頃からつきあってきているからだ。え?と思われるかもしれない。けれど、想像してみてほしい。一所懸命作った食事が「あ、食べてきたから」の一言で無駄になる。かと思えば「え!今日晩ご飯ないの?」と責められる(確か出かけに遅くなるからいらないといったのに)。なんだ、そんな些細なことと思うだろう。確かに些細な日常の出来事でしかない。そんな日常の中で「女」は自分の努力を踏みにじられる理不尽さや、自分に責任のないことで責められる理不尽さに出会っている。家の中のことだけではないい。仕事を持っているとなれば、仕事の現場で、それも意外なで理不尽とぶつかる。たとえばこんな風に「君、女性だから、女性のことは分かるよね。この仕事は君にやってもらうよ」(それって私が「女」だから?能力じゃないのね…という言葉は密かに飲み込まれる)。育児ともなれば、相手はこちらの都合などいっさい配慮してくれない。徹夜に近い状態で、やっと眠れると思ったら、夜中の3時に泣かれる。はずせない用件のある時をねらっているんじゃないかと勘ぐりたくなるほどのタイミングで、熱を出し病気になる。明日どころか、一瞬先のことすら予想できない。そんなものとつきあわなくてはならない。職業を持っていても、いなくても、子供がいてもいなくても、「女」はいろんな理不尽さにつきあってきた。怒る場合もあるが、怒るだけでは何も解決にならないことも知っている。受け入れたくないと思いつつ、受け入れるしかない場合もある。表面で受け入れ、さらりと身をかわすという高等手段が通用するときもある。日常的にぶち当たる理不尽だからこそ、怒ってばかり入られない、受け入れてばかりもいられない。いろんな対処方法を自然と編み出している。

 そう、「女」は理不尽に慣れている。ことの大小はある。けれど茫然自失とする事態、自分ではどうしようもない理不尽な事態に出会ったとき「女」が強いとよく言われる。私の祖母たちも、8月15日の「勅語」を聞くやいなや、ネルのもんぺの糸をほどいたという。「これでまたコーヒーをたてて売るんや、商売がまたできるんや」と真っ先に思ったそうだ。些細な日常の理不尽さになんとか対処し続けてきているからこそ、茫然自失の事態に出会ったとき、「女」はまず日頃出来ること、慣れていることから手をつけようとするのだろう。それがそれまで理不尽さに対処してきた方法だったのだから。

 そして、日常の中で「女」が身につけているのは理不尽さに何とか対処するやり方だけではない。何年か前に、ある講座で、7人ぐらいのグループで各自が出来ることを出し合って、何が出来るかをまとめてみるというワークをしてもらったことがある。昼の講座だったのでずっと専業主婦だったとか、随分昔に仕事を辞めたという女性が主体だった。最初は「なにもないです」という声ばかりが目立っていた。そのうちの一人が「3人の子供を育てていたから…」と発言したとたん、隣の若い女性が「え、3人も育てられたんですか?実は今子育ての真っ最中で…」。その場で育児相談コーナーが始まった。70歳以上が集まったグループは、「私たちお店始められるわ!」と意気軒昂。何を始めるのかと聞いてみたら、グループの一人が和裁と洋裁ができ、趣味で布小物類を、人形を作っているメンバーがおり、タンスにいっぱいの古着の処分に困っているメンバーがいるとのこと。リサイクルショップではなく、自分たちで古着を再生しておしゃれなグッズや服に仕立て上げるのだという。

 彼女たちは別段特殊な技能を身につけた人たちではない。ごく普通に育児と家事にいそしんできた人たちだった。いや、逆にこう言った方がいいのかもしれない。育児や家事にいそしんできたからこそ、身についた技能があったのだと。それは会社組織の論理の中では評価されない技能かもしれない。けれども、日常を生き延びる上では欠かせない技能でもある。専業主婦が希少種となったといわれる現代でも、家事育児を担わなくてはならない「女」は、こうした技能を何かしら身につける。

 考えてみれば、家事や育児を担うということは、細切れになる時間、自分では思い通りに管理できない時間のなかで、いかに効率的に働くかを意識することでもある。洗濯機が止まる時間を計算しながら、朝ご飯を作り、洗濯物を干す手順を意識しながら、テーブルの上に離乳食をぶちまけようとする子供に素早く手を伸ばす、なんて芸当を、軽々とこなさなくてはいけないのだ。家事育児を担わなくてはならなかった「女」は、マルチタスクをこなし、タイムマネジメントをし、リスクを意識しているのである。

 だからこそ、私は「女」は「今」動けると考えている。途方もない理不尽さ、そのあまりの巨大さを見つめると、何をしていいのか分からなくなる。けれど、日常生活は続いていく。ともかく明日のご飯は食べなくてはならない。限られた物をどう活かすか。これは常日頃、日常の中で意識してきたことだ。やったことが無駄になるかもしれない。そんなことは当たり前だった。評価されないかも?そんなことが当たり前なのが、家事育児だ。だから無駄になるかもしれないと思っても、何かしら始めることに抵抗は少ない。さらに「女」の(通常悪口としていわれる)特徴的な行動「しゃべりながら…する」。これも「今」の状況には結構役立つ。たかがおしゃべり、されどおしゃべり。他愛もないとか、所詮井戸端会議で噂話で‥などといわれる。でもおしゃべりは内容だけに意味があるわけではない。他人と繋がっている、自分がここにいるという表明でもある。女性と男性では鬱病にかかる割合は女性が高く、自殺する割合では男性が高いのも、このあたりに原因があるという人もいるぐらいだ。理不尽さを分かち合い、互いの経験を交換するときもあるだろう。その中から、新しい動きを始めようという意欲や方向が見えることもあるかもしれない。

 そして私が今動ける「女」に、理不尽さになれた「女」に期待していることが一つある。それは理不尽さに怒りを持って立ち向かう虚しさだ。

 理不尽な出来事、理不尽さ仕打ちにあったとき、人は茫然自失とし、やがて怒りの感情を覚えることだろう。「なぜ自分だけが」「なぜ私たちだけが」…。そして怒りの感情をぶつける対象を探す。けれど、怒りの感情は(例えそれが正当なものであったとしても)破壊的な効果をもたらす。怒りの感情を抱いた本人自身に。怒りは人を縛り付けてしまう。理不尽な状況から一歩も動けなくしてしまう。まして怒りの対象を敵として固定してしまったら、なおさらだ。敵を殲滅するまで、何もできなくなる。けれど、その敵はだれだろう。日常の些細な理不尽の中では、その敵は自分がつきあい続けなくてはならない相手でもある。殲滅戦は勝利への道ではない。相手を憎み怒り…そして残るのは怒りに縛り続けられた虚しい自分。それは些細な日常ならよくわかる(夫婦げんかの後みたいに)。でも大きな物事では分からなくなる。同じ怒りを抱く人の数が多ければ多いほど、怒りが正当化されたような気になる。けれど、怒りはやはり怒りでしかない。それは人を前に進めはしない。ましてや周囲の人々を動かしはしない(怒る人間をはやし立てる人はいても)。怒りを覚えるなとはいわない。怒りは自然な感情だと思っている。けれど、怒ることの虚しさ、敵を作ることの虚しさも心得ていて欲しいのだ。

里山にて

  職業:大学教員。所属:経済学部。専門:経済思想史、主として19世紀イギリスのJ.S.ミルを対象とする。これが私の公式のプロフィール。大学教員だから、当然のごとく講義やゼミで学生を教える側にいる。そして、私のゼミは自称「経済学部農学科」である。なぜかって?2年前から松山市の郊外で米を作っているからだ。ちなみに作った米のほとんどは販売している。パッケージデザイン、価格の設定、販路の開拓はすべて学生が自分たちで行っている。教員はアドバイスはするが、介入はしない。「こうした活動を通じて、市場経済の仕組みを単なる机上の理論だけではなく実感として知るとともに、自ら動く力、課題を生み出し解決する力を養う」というのが、このゼミ活動の目的である…。
 というのは、全くの建前。

 本当の理由は単純明快。私自身が現地の里山里地に惚れ込んでしまったから。

 それゆえ、1年目の学生はある日突然「あ、里山でお米作ることになったから」と言い渡され「え~~っ」。その後「うん、そのかわりできたお米は自分たちで売っていいって。頑張ったら売り上げはあんたらのもんやから」とフォローにもならぬフォローが入り、再度「えぇえ~~!?」という具合。

 という訳で、1年目の去年は教員も学生も全くの手探り状態。教員学生とも米作りには全くの素人。里山に広がる棚田3畝(1畝は30坪)の先生は若きは70歳前から最長老は80云歳になんなんとする指導農家の方々。ひたすら教えを請う日々が始まる。
 まずは田植え。「3畝じゃけんの~。6人で一杯じゃ」。ちょうど間がいいというか悪いというか、お隣の田を借りていた市民の方がぎっくり腰。同じ棚田を耕すのも何かの縁とばかりに、隣の田も同時に田植え。しかしなぜ6人で一杯???謎が解けたのは、指導農家さんが田定規を持ち出した時。一本の竹の両端に長い棒と短い棒がくみ合わさったものがついている。竹には一定間隔でひもが小さく丸くついている。「ええか、この棒の端を畦の端に合わしてみぃ。ほれ、まっすぐせんかい」「ほうじゃ、ほしたら、ひものとこを目当てに苗をこう持って植えて…ほれ、そんなにたくさんうえたらあかんじゃろが…3本ほどでええんじゃ」「よっしゃ、一列終わったら、縦横の棒を植えたとこに当てて、ほれ、次の列が分かるじゃろ」。名前の通り「田」植えの「定規」。これで一件落着…とはいかないのが素人の哀しさ。棚田は曲がりくねってる。一列に植えながら下がっていくと、田定規が余ってしまう。さて…「先生。これ縦棒を直前の列じゃなくて、その前の列に当てて、横にずらしたら、次の列出来ますよ」と学生が発見。「あ、ほんま。あんた、頭ええやん」「単位は落としましたけどね…」。

 こんな調子で、新しい物事に出会いながら、夏の草刈り(太いナイロンひもを取り付けた草刈り機で草をたたくように刈っていく。ストレス解消にもなる私が一番得意とする作業)、田の中の草取り(稲と野生のヒエの見分けが難しい。田の中での作業なので、手足だけでなく顔を葉で切ってしまうことも)…。
 稲木干し用に里山から竹を切り出すこと。竹は細い部分は箒、雀よけの糸を張るため等々、余すところなく使えるので、里山には必ず竹があること。昔、換金作物として作っていた肉桂が今は野生化してしまっていること。愛媛で絶滅危惧種となっている蛙やトンボが復田とともに、里地に戻ってきていること。同時に猪や猿もやってくること(かつては里地に人が多かったのでよってこなかったのだという)。里山里地では教わることが多い。

 それは農作業にとどまらない。例えば農家の収入。単純に現金収入は昔から低いと思い込んでいた。ところが最長老曰く「わしが若かった頃は、里山で仕事して月に1万5千円、田んぼで仕事して月に1万5千円ぐらいは楽に稼いどったわ」。聞けば昭和20年代後半から30年代始めの頃。その頃4年制大学卒業の初任給は1万2千円程度。なんと、かつては大卒の倍の収入だった訳だ。(今農家の平均年収は200万円以下といわれている。昭和2,30年代の4大卒はエリートだったから、現在であれば年収600万は軽く超える層だろう)。

 指導農家さんたちは厳しく暖かい。学生を叱咤激励しつつ、うまくおだてほめて働かせる。そしてちょうど疲れた頃に「ほれ、スイカじゃ。裏の畑で作ったやつ。スーパーのよりまずいとはいわせん」と差し入れがくる。見事な人心掌握術。

 けれどもここには、見えないけれど、もっと大きな先生がいる。里山里地そのものだ。

 田植えをしている時、草刈りの時…。里山里地を訪れると自分の五官・五感がどんどん変わっていくのを感じる。足の裏、手の先のちょっとした変化をすぐに感じ取れ、そのかすかな感覚をたよりに自分の体の動きを調整するようになる。
 なにより裸足でたっていると、足の裏からすうすう「風」が入って、頭の上の方からすうすう抜けてゆく。手が入っていなかった竹林から竹を切り出した後、ふと肩に手をおかれた気がして振り返ると、風が吹き抜けてゆく。お疲れさん。そういわれたような気になる。雑草を刈っていると「刈られ往く 我が身にも名は あるものを」とつぶやきが漏れる。ふと手元を見ると、つい最前まで小さな可愛らしい花と思っていた草を、私の手が刈っている。多くの命を犠牲にして一粒の米が出来ていく。

 それだけにさやさやと揺れる穂並みは涙が出るほど美しい。多くの命を吸い上げているから。そしてそれを食べるのが私たち人間なのだ。

 里山里地は言の葉も鍛えてくれている。私は元々論理的に文章を組み立てる方ではない。どちらかというと感覚的というか、情感的に文章を書いてしまう方だ。だから専門論文であっても、何かを感じ、その感覚や思いのもとを突き止めるために文章を書く。その時、いつも突き止めたい何かを具体的なものやイメージに変換しながら、自問自答する癖がある。「う~ん。結局このところの論理と帰納は往還運動て進んでいく訳だから、尺取虫的なんだけど、もうちょっとこう…武張っているというっか」とか「ここでの社会のイメージって、おぼろ豆腐みたいにふわふわしてるけど、塊魂はしっかりしているって感じ」。

 こうした具体的なイメージがなぜ浮かんだのか、どこから浮かんだのか、そのイメージから何が言えるのか、そのイメージから何がどうつながっていくのか。その時々に思いついた文章を一気にかけるところまで、書いてしまう。そして大概3000字程度で原因も分からないまま止まってしまう。その時は、しばしば止まったままにしてしまうことが多い。そしてまた具体的なイメージに戻ってやり直す。こんな感じで先の見えないまま論文を書きだすものだから、ことごとく無駄な文章が乱立してはデスクトップのゴミ箱に突っ込まれ…ずに、別ファイルにしまい込まれる(もったいない精神ー苦笑)。

 里山里地はこうした癖のある私にたくさんの言葉やイメージをもたらしくれる。竹の音、風の色。言葉だけでしかなかったものが、私の手足を通じて入ってくる。山は本当に笑い、水音は千差万別。風は青くも赤くも変化する。草の香はむせ返るほど高いときもあれば、枯れかけて寂しく地をはうときもある。知らず知らずに私はそれを教えられている。里山にいるときに論文のことを考えている暇はない。論文を書いているときに里山のことを思い出すことはない。けれど同じ私の中で、両者はどこかで確かにつながっている。名も無い草が繁茂する風景、人間がいてこそ維持される自然と、荒れ果てた自然の寒々とした荒涼さ。

 人間ってどんなものなんだろう、他人が考えてることや感じていることなど所詮分かるはずも無いのに、なぜ人と人はつながれるのだろう。机上で考えていては堂々巡りする論議を里山の自然は目の前で断ち切ってくれる。豁然として。堂々として。根源にあるのは「生き続ける」ことなのだと。

 私だけではない。一緒に行っている若い学生たちもそれぞれに里山の教えを持ち帰っているようだ。単純に作業でほめられたことをしっかりと抱きしめる子もいる(あの子はずっと自分は何をやってもだめだといわれてきたといっていた)。販路開拓で交渉のこつを教えてもらった学生もいれば、試食販売で大声を出したおかげで面接が怖くなくなったという子もいる。就職活動の暇を縫って手伝いにくる学生もいる。里山に戻ると彼らの顔から角が取れる。それを「癒し」という今風の言葉にしてしまいたくはない。彼らは里山に教えてもらいに帰ってきているのだと思いたい。「生き続ける」ことの原点を。

何のための経済活動か?

松井 名津

 今回編集からいただいたお題は「ミルと経済成長」。実はあまりにど真ん中の直球なので、バッターとしては酷く戸惑うところがある。というのも、マルクス経済学の影響が強い日本では、ミルはずっと「生気なき折衷派」の一言で片付けられてきたのだが、70年代に一度脚光を浴びた事がある。ローマクラブが『成長の限界』の中で「資本と人口の定常状態は人類の進歩の定常状態を意味するものではない」という言葉をひいて、(経済)成長至上主義に警鐘を鳴らしたからである。これまでも何度か書いたことだが、オイルショックを受けて化石燃料、ようは自然資源の限界を世界中が痛感していた時代だった。この時は日本中が文字通り暗かった(夜間照明を必要最低限に抑えた)し、省エネルックが提唱され(非常にダサくて消えてしまった)、定時帰宅が推進された。経済成長は何のために?という議論以前に、経済成長はもはやあり得ないという風潮が蔓延した時代でもあった。その中でミルの定常状態論は、低成長もしくは0成長の中でこそ、人間的発展が可能となるという説として、あるいは経済成長ではない成長(ローマクラブの研究者はそれを「発展」と名付けたが)がありうる一つの論拠として、脚光を浴びたのである。しかし、政治的背景を持つエネルギー危機がひとまず緩和され、技術進歩により多くの油田が開発されるとともに、成長の限界は遠のき、やがてバブル経済を迎えることになった。

 そして21世期を迎え、またミルの定常論を紐解くとすれば、そこから何を読み取るべきなのだろうか。定常状態はミルだけが唱えたものではない。当時の経済学では経済が成長するに従って増大する人口を支える食料の生産には限界があると考えた。食糧生産の限界に達したとき、経済成長も止まる。それ以上の経済成長を遂げるための人口を支える食料がなくなるからである。そして19世紀半ばの経済学者の多くが、この限界が目の前に迫っていると考えた。それゆえ多くの経済学者はこの限界をどうやって先に伸ばすかに注力した。リカードは自由貿易によって海外の未開拓地に食料を求め、マルサスは農業発展の限度内に工業の発展を収めることを主張した。どちらも経済発展の延命を図る点では一致していた。

 ミル自身もすべての定常状態を歓迎していたわけではない。ミルが危惧していたのはすべての土地が人間の食糧のために耕され、人間の役に立つと認められた動物、家畜しか存在が許されない、そんな定常状態である。大阪万博に代表される「明るい未来都市」もミルが危惧した定常状態の都市だ。人間の居住空間、人間の移動手段、人間の憩いとしての緑地は揃っていても、手付かずの自然、野生の自然は何一つ残っていない。人口過密として描かれるディストピアも同様だ。人口過密と格差に喘ぐーもしくは徹底的に管理されているディストピアは、全てが人間の管理下にあるという点で、定常状態の行く末を暗示しているのかもしれない。反対に何らかの戦争や災害によって地球が荒廃したという前提のディストピアは、人間の制御外にある「自然」が残存しているという点では、ミルが危惧した定常状態とはかけ離れた存在である。

 こうした定常状態は経済学の法則上必然的に訪れるものとして設定されている。そしてこうした定常状態に入る前に、経済が発展した地域は自ら選択して「別の定常状態」に入ることをミルは推奨した。それは未開発の自然を残す定常状態である。未開発の自然でミルがおそらくイメージしていたものはおそらくはフランスからスイスにかけての山岳地帯だろう。ここで青年ミルは生涯の趣味である植物採取に出会うことになる(イングランドは一度人間によってすべての森林が伐採されてしまったので、手付かずの自然は存在しない)。人を寄せ付けない峨々たる山岳の連なり。それは経済にとってはものの役に立たないどころか、経済活動を妨げる要素でしかない(だからこそ戦後日本ではトンネル工事が一大事業となり、トンネル工事やダム工事は崇高な使命を担った闘士による戦いとして描かれるー『黒部の太陽』)。しかしこうした人を寄せ付けない山岳、手付かずの自然が残っていることこそが、人間性の進展にとって必要不可欠な要素だとミルは考えた。それは定常状態論(『経済学原理』所収)だけではなく、晩年彼が立案に関わった「土地保有改革連盟」の綱領においても同様である。特にこの綱領では、未開発地やコモンズ(共有地)が人類共通の相続財産(inheritage=後に残し続けるもの)とされている。

 ではなぜこうした未開発の場所が必要なのだろう。経済発展をあるいは農業の拡大を止めてまで、未耕作地を残さなければならないのはなぜなのか。それは自然のためではない。動植物のためでもない。人間のためである。広漠で未知な存在に満ちている場所、人間に自分の存在の小ささを思い知らせるための場所、それが未開発の場所の役割である。こうした場所で孤独に自己と対峙することが、人間にとっては必要不可欠なのだとミルはいう。なぜだろうか。ミルは孤独になることで、人間は自己を振り返り、内省することができるとする。それは日常世界では経験できない内省である。日常では人は経験を蓄える。経験の中から気づきを得ることができる。しかし、日常生活に埋没してては、思索は深めることなく、浅薄に流される易くなる。特にその日常が「お互いに肘を張り、互いを押し除け、追いやろうとする」ものであれば尚更、ゆっくりと自己を見直す時間も機会もごくわずかだろう。そしてそのまま経済発展の道を進み、世界は人類の食糧のために完全に開発され、人間は孤独になることはなく、未知と出会うこともない。

 そんな世界に人間が人間として成長できる基盤が残っているだろうか。

 ミルは単純に経済発展を否定したわけではない。人間がある種の競争心を持つ限り、その競争心は何らかの形で発揮される。時にそれは獲物を争うことであったり、領地を争うことであったりする。もっとも暴力的な形で現れた場合、戦闘という形を取る。これに対して経済や貿易は人間の競争心をより穏やかな方向へと向かわせた。これがスミス以来の経済学の基本的な考え方だった。しかしミルは経済的競争が必ずしも人間性を穏やかにするものではないこと、また直接的暴力として現れないが故に、かえって歪みをもたらすことに気がついた。スミスが危惧したように工場労働者は単純作業に専念させられることによって、判断力や気力を奪われ、ただ労働する機械となる。一方で豊かな地位を得たものは、豊かであることを当然とし、たまさか「慈善」として貧困者を保護する。庇護と被庇護の関係は容易に権力関係に移行し、庇護者の自己の拡大、権力の濫用、被庇護者のへつらい、相互の妬みや嫉みを生み出す(ミル自身が『女性の隷従』で描いたように)。

 経済発展を諦め、自ら選択して定常状態に入ったとしても、こうした問題が一挙に解決されるわけではない。しかし生産量を増大するために導入された機械は、その本来の目的である人間の労力削減に使用され、一般の人々(労働者も含め)が始めて余暇を手にする。余暇を何に使うか。あるものは狐狩りに使うだろう、またあるものは熊いじめに興じるかもしれない(熊いじめとドックレースは当時の労働者に人気の娯楽だった)。そんな中で、ミルが期待したのは当時の上層労働者が始めた有料図書館(パブの2階にあることが多かった)であり、自営農家が日々行っている日常生活を彩る様々な手仕事・庭仕事だった。あるいは女性の嗜みとされていた音楽や絵画である。本に親しむことは多様なものの見方を知り、思索を深めることにつながる。手仕事や庭仕事、音楽や絵画は、理性と闘争心に偏った「男性的価値観」とは異なる価値観を感性を通じて経験することにつながる。

 人間性の陶冶といっても、あまり大きなことをミルは初手からは望んでいないと私は考える。人間が一晩で生まれ変わることなぞないということを繰り返し主張しているからだ。制度が、社会が変わったからといって、人間性もまた即座に変わると期待するのは危なっかしいと考えている。もし即座に変わると考えているのだとしたら、それは理性だけの議論で人が自分の意見を変えることができると信じているからだろう。けれど、ミル自身が論じたように理性による議論の背後には人間の感情がある。感情によって裏付けられた議論に対して理性で反論しても、相手が自分の主張を変えることはほとんどあり得ない。感性あるいは感情に理性で綱をつけることはできても、理性で感情を引っ張ることはできない。逆に感情や感性が磨かれれば、理性も血肉を纏うことができる。だからこそ、日常生活の少しの変化が必要だし、そうした変化を促すための「自然を前にした孤独」が必要となる。

 日常とは違う、余暇とも違う、空白の時間。

 何を考えるわけでもなく、ただ自然と対峙する時間。

 そう解釈するのは日本に生まれたせいかもしれない。日本では自然は人間に対して結構優しい。だから安心して自然と対峙してられる。けれど自分の命をかけなくてはならないような厳しい自然と対峙したとしても、やはり人の心は同じように反応するのではなないかと私は思っている。なぜならミルが自然と対峙する時に、人間に求めたものは己の小ささを自覚することなのだから。