自由とか不自由とか

日本語で自由は一つ。でも英語だとフリーダムとリバティの二つ。そしてこの二つは時々対立する。というよりも、自由という言葉の問題ではなくて、自由という言葉で表現されるような考え方や、状態に様々な考え方があって、その間で対立がたびたび起こるという方が、より正確だろう。が、まずはこの二つの言葉を手始めにして、いったい自由ってなんだろうかという大きな問題を考える、小さなきっかけをつくってみたい。

 まず、何か(強制や拘束、制限等)がないことを求めるときはフリーダムだ。差別撤廃を求める時、フリーダムが叫ばれる。気にくわない上司、ノルマばかりの会社を、思い切って辞めれば清々する。フリーになったからだ。

 リバティという言葉には特権・権利という意味がついてくる。元々リバティは配下に着せた制服のこと。制服を着ていれば、武器が持て、食いはぐれがない(三銃士の映画や物語を思いだしてもらえるとわかりやすいと思う)。だから今でも、アメリカでは一般人が銃を持つ権利はリバティの一部になる。何かから自由になりたいというよりは、何かを行うことができるという意味での自由に近い感じだと思っておいて欲しい。

 さて、何かから自由になりたいといった場合、自由になった後でどうするのかということは、後回しになる。逆に何かを行うことを求める時、どんなルールに基づいてということが問題になるが、行うこと自体を問い直すことはあまりない。先ほどの例でいけば、 職業はフリーに選択できるし、職業からフリーになることもできる。ただし、次の職がなかなか決まらなければ、手の中からお金がフリーになって飛んでいってしまう。フリーであるからといって無闇矢鱈に行動していると、とんでもないしっぺ返しを食らう。その一方、銃を持つ権利が一般に認められている社会では、銃による事故や殺人が後を絶たない。銃を持つ年齢や手続きを厳格にしようという話は出るが、銃を持つこと自体を問い直す動きはいつも少数派だ。

 どちらの自由にも、裏面が存在する。そしてその裏面に対して、放埒という批判が、無分別だとか無思慮という嘲りがとんでくる。あたかも熟慮やルールに従うことと、自由が対立するかのような言説が結構多く存在している。たしかにフリーもリバティも、その時代その時代の「当然のルール」に逆らうことで、その存在を立証してきた。王様の気まぐれ一つで、突然逮捕され首をはねられることが当然だった時代、法に基づかない限り逮捕されない自由を求めた。奴隷だから金銭で売買されるのが当然だった時代、奴隷は人間であるとして、他の人間と同じ自由を求めた。どちらも「当然のルール」への反逆だった。

 こうした歴史を「放埒」「無分別」という人は今はいない。けれど、同時の常識人(それは大概既得権益を享受している人であることが多いが)にとっては、無分別であり、放埒であった。王の命令があるからこそ、秩序が保たれているのであり、多少の行き過ぎは(特にそれが取るに足らない平民に対するものであるのであれば)目をつぶるべきであった。奴隷が奴隷であるのは、通常の人間と異なって生まれながらにルールを守り自分で考えることができない人間もどきであるからであって、そんなものに人間と同様の自由を与えれば、たちまち身を持ち崩すに決まっていた。

 これが歴史の教訓なのであるなら、現在嘆かれる「自由の行き過ぎ」にも目をつぶり、容認すべきなのだろうか。答えは「否」だと断言したい。前例を良く読み直して欲しい。自由を求め、時代の当然のルールに刃向かったのは、そのルールに痛めつけられている側の人間である。強者に対抗するために自由という武器を使った。そう、自由は武器である。それも強力な武器になる。武器であるからこそ、勝手気ままにという意味での「自由」に使ってはならないのだ。自由は、勝手気ままに使う自由を放棄してこそ、自由になる。

 納得いかないと思う人が多いと思う。では、こう考えてみて欲しい。この世で最も得手勝手で、自己中心的なのは新生児だろう。新生児は自らの欲求を満たすことだけを優先している。これほど自由な存在もないかもしれない。だが、新生児は、自らの生存のすべてを他者に依存している。その意味ではこの世で一番弱い存在である。弱い存在だからこそ、その自由な欲求の発露は強者である保護者によって容認されている。成長して、自らの身体を動かし、自らの意思で行動することができるようになると、途端に新生児のような欲求のままの自由は許されなくなる。「~してはだめ」というルールが課せられるようになる。なぜなのだろうか。答えは簡単だ。新生児に比べて、成長した子供は強者だから、力を持っているからだ。自由に行使すれば、他者を傷つけかねない力を持っているからこそ、その力を自ら制御するすべを身につけなくてはならない。力を持っているものが、その力に耽溺することを、自由というのは言語矛盾だと私は思う。なぜなら、その時、その人は自らが持つ力に支配されているに過ぎないからだ。

 ハリウッド産のヒーロー映画で良くある突然能力に目覚めた主人公が、その能力の威力に振り回されてしまうとき、見ている我々は主人公の未熟さを痛感する。逆に主人公がその能力を十二分に統御したとき、主人公が能力の主人となり自由に能力を行使できるようになったと感じる。それと同じ事である。

 人は成長するにつれて、色々な力を持つようになる。その力の発達の度合いは違っているだろう。発達する分野は違っているだろう。さらに社会に出れば、仲間を作ることによって、より強力な力を手にすることもできる。あるいは組織に属することで、組織の力をあたかも自分の力のように行使することもできる。持つ力が増大すればするほど、その力が影響を及ぼす範囲も増大する。それにつれて自由は強力な武器になっていく。いい例が「報道の自由」であり、「自由な教育」だ。強者が報道の自由をいい、自由な教育を主張するとき、その自由で多大な被害を受ける側のことは忘れ去られてしまう。報道の自由であれば、報道されることによってプライバシーを侵害されるといった積極的な被害だけではない。報道しないことによって、あたかもそのようなことがこの世に起きなかったように無視されるという力も持っている。自由な教育もそうだ。個々の子供の状態を無視して、一方的に主張される「自由な教育」。それは逆に、力を身につけ始めた子供たちに、力を統御するすべを教えないことでもある。出来上がるのは生の力のぶつかり合いからできる序列と支配である(子供は基本的に残忍で、力の強いものは容赦はしない)。それを「子供たちの自主性」という言葉でくるむことになる。あるいは、できないことも個性ですの一言で、社会に出るための基本的なスキルすら教育しないまま、社会に放り出してしまう力を持っている。強者が善意から、正義感から、そして自らの強大な力を自覚しないまま、自由に行使する力ほど、自由から遠いものはない。

 そうだ、だからマスコミは見張らなくてはならない、物知り顔の教育論者には注意が必要だ…政治家には…大企業には…。

 いや、私が言いたいのはそれではない。私たち自身が「強者」である可能性を、私たち自身が強者に与している可能性を言いたいのだ。「現場としてはどうしようもない」「あれだけ報道されているのだから」「所詮一人の力などしれているし…」「それが常識だし」。世の中には強者に与するための言い訳があふれている。また、自分自身が強者の中にいる、強者の一人だということを自覚する機会も少ない。私たちはどこかで自分が「平凡な一般人」だと思っている。けれど、不自由を感じることなく日常生活を送っている限り、私たちはどこかで強者である。そしてどこかで一人の人間として、自分が強者であるがゆえの不安を持って生きている。自分の力、統御しているつもりの力が、どこかで誰かを傷つけているのではないかという漠然とした不安を持っている。その不安を的確についてくる言葉、主張に私たちは弱い。弱者の被害を聞けば、前後を忘れて善意を発揮しなくてはならないという思いに駆られる。その善意の行く末や影響を確かめることもなく。その一方、自分が弱者であるという甘美さに惹かれる。自分以外の誰か、何かが「悪の強者」であれば、自分は他人を傷つける強者ではなくなるから。

 でも、もうそういう振りはそろそろやめてもいいのではないか。私たちは強者である。自由を行使できる強者である。その自由を統御することを、自分の力の及ぶ限りに追求するときが来ているのではないか。何も難しいことではない。自分の力と頭で自分の行動と帰結を考え、模索することだけだ。そもそも自由には失敗する自由も、愚かに行動する自由もあるのだから、構えて緊張することはない。その代わりに、他の人の失敗や愚かさも許容し、互いの失敗や愚かさから学必要があるだけだ。