アジアで実践、新しい教育

カンボジアのアジア村学校で父母会

 2人の生徒が学校を去りたいと言ってきた。先ずは、ここを運営するNPO・コミュニティワークアジアで事情を聴き、対策を練る。ここの理事は現地のダンス担当のカンボジア人で50代の男性(文化省に勤めるが、今年定年を迎える)、日本人の日本語教師(ボランティア)、そして、ここのスタート時から関わる二十代後半のカンボジア人の若者の三人だ。その若者が代表だ。

 学校を辞める事情を聞く際に、日本人の出番はほとんどない。言葉の問題に加え、家の経済状態や両親の夫婦問題、村の中での評判等は、その地域の歴史を知らないとわからない部分が多い。それを村長や学校仲間からも聞く。

 一人の生徒は両親が離婚し、お母さんの住む村に行きたいというのが原因だった。お父さんが来て最初に言っていたのは「自分が引き受けるので、ここに継続して世話になりたい」ということだったが、生徒に確認するとやはりお母さんの村に移りたいので継続は難しそうだ。お父さんは涙ぐんで説得したが生徒の結論は変わらなかった。

 もう一人は公立中学の勉強についていけないのが引き金になって、仲間と「働き学ぶ」もできなくなり、村に帰りたいという。お母さんは「帰ってきたら腕の骨を折ってやる」とか、最後は「殺してやる」とか息巻いていたが、学校側から「働かないと食事も出ないし、部屋で寝られなくなるよ」だから「これからここでレストランを始めるので、ここで働いたら良い」と勧めたが結局、お母さんが甘やかして連れて帰ってしまった。親が最後は言葉とは裏腹に甘やかすことを子は知っているのだろう。『人をダメにするのは簡単だ。甘やさせばよい』とよく言うが、きっと、その家族は口だけの家族なのだろう。村の他の父母も口出ししなかった。

 これから2か月に1回、父母会を行い、その交通費はNPOが負担することにした。一人5ドルのバス代は両親にとって決して安いものではない。お金がないことが理由で差をつけたくないという配慮だが、経済的には日本が負う部分も多いので依存関係が強くならないように気を付けることが肝要だ。依存と格差の問題は、経済的に優位な日本人にとって課題だ。出せばよいというものではない。

親にも学んでもらう、既にある未来

 両親が来た時に、親にもレクチャーすることにした。カンボジアの教育者の質は悪い。生徒から賄賂をとる先生もいる。特に勉強が遅れたりすると要求するようだ。金額を聞いて驚いた。それを借金して払うのだという。賄賂をもらった分、一生懸命に教えるのかというと違い、単に合格にすることだ。

 アセアン10か国の中でラオスと並んでカンボジアは給与水準が低い。より高い国に出稼ぎに行く。カンボジアに肩入れし、一生懸命教えても、ある日タイに行くので辞めたいと言われることもある。それは私たちも辛い。

 アジア村学校はカンボジアの街(コンポントムという中都市、だが村から来ると大都市に見えるらしい)に来て、遅れを意識するようだ。しかし、もう少し広い視野でみると、団栗の背比べで、良い成績をとって意味があるのかと思いたくなる。そのことも説明する。

「公立学校に行くのは否定しないが、そこに通わなくなったからと言って騒ぐことないですよ。それよりこのアジア村学校でITや伝統文化を学ぶほうがよほど将来価値あるものになります。AIの時代はもう来ており、ホワイトカラー的な職はどんどん減る。都市に出るより、村で農業で自立し、特技を持つことがこれからの社会で重要になります」と話したが、なかなか伝わらない。親向けのレクチャーを父母会で続け、コミュニティで役立つ人材育成の実践学校の意味を伝えていきたい。

 だからと言って、外に出ることを阻むのではなく、むしろ推奨している。コミュニティをベースにしながらグローバルな視点も大切だ。国境を越えて活躍する人材は、自分の村に帰ってくるだけでなく、国境を越えてコミュニティに仕事を作り出す。日本に研修に来て英語や日本語を話すようになる生徒もいれば、全く変わらない生徒もいる。チャンスに気付く育ち方、生き方を教えていくのは難題だが、それが新しい地平を開くと思って実践する。ここに親、先生、地域という三辺の軸は欠かせないようだ。

経済性、社会性、人間性を教育

 その方法として「働き学ぶ」を実践してきた。机の上では学べないチームワーク、社会のリアルな見方、生きる技術などを学ぶ。働きながら学ぶことは、決して金稼ぎの手法を学ぶことではない。むろん経済的にバランスしないと継続できないから重要だが、それ以上に社会の問題、コミュニティの問題解決も学ぶ。そして最後は生きることを文化や歴史から学ぶ。歴史を学ぶとそこからちっぽけな人間に気付き、自然にも謙虚に向き合えるようになる。

 国毎の賃金格差の問題も真正面から捉えたい。それを解決する唯一の道は起業だろうと気付いた。すべての人の格差をなくすことは難しいが成功事例を作り、それを真似て広げていく。努力と責任を教えるのは起業が向いている。そして他国で雇われ働くのでなく、コミュニティにいて、それを実現する。

 こんな目標を立てて現地の若者が代表の会社がアジアに3つできた。今後、日本人が作った組織も、現地の人に引き継がれていく。国籍にこだわらないことになるだろう。そんな意欲のあるハングリーな若者を起業候補として10人選んだ。日本にも研修に来てもらっているが、将来その中から日本の企業の社長が生まれるかもしれない。グローバルであり、かつコミュニティをベースに国境を越えて働く人材をもじってグロミティスタッフとして選任して活躍する仕組みも育成の柱としたい。いずれ、その活躍をレポートしたい。

先見性で次の社会像を選ぶ

 それらの人材が時代を作る。今後どの技術をいかに活用するかの選択だ。環境や人間性の否定になるようなものは採用しない。儲かるから、便利だからで取り入れるのではなく、将来の社会像を描き、選択することになる。それには教える側に先見性が求められる。

 第二近代はリスクを最小にすることに優先順位を置く。技術の暴走に歯止めをかける。ときにはそれが政府の意向に反することもあるだろう。それでも主張し実践する。そんな勇気ある若者育てが第二近代実践研究会の目標だと思えてきた。それは一代では終わることのない永久革命かもしれない。決して暴力に訴えるのではなく、権力に頼るのでもなく、草の根から変えていく。その担い手も自らの生き方を変えていく。目立たないし、ゆっくりではあるが、これが第二近代的な変革だと思われる。

 第二近代という概念を提唱したベック氏は、それはアジアからと言っていた。アジア、そして多様性のインドでの実践は、そんな現場だ。そこから世界の変革を引っ張りたい。

 前号で紹介したITの活用は国境を越える武器として、使い方によって役立ちそうだ。この原稿をバンガロールで書いている。第二のシリコンバレーと言われるところだ。ここにも事務所を持った。国境を越えたIT協働の拠点にしたい。

新しい組織、新しい経営のカタチ

社長をなくせるか?

 研究会に属する10いくつかの会社の中心メンバーがまじめに議論しているテーマだ。アジアから7つ、日本から5つの組織が参加している。

 代表の肩書は社長や代表だが、それは内部的にはいらないが対外的には必要となった。法的に責任を取る人が必要だからだ。あと、ほとんどのことは社長了解が不要なのが理想だとなった。メンバーが自己の自発性と責任で自分のミッション実現を目指す。そんな個々人を管理ではなく動きやすいようにする仕組み作りがリーダーの役割となる。役割も自発的に決まっていくことも多いが、時に調整役も必要になる。英語でいうコーディネーターだ。

職場よりIT組織が優先する

 10を超える組織が組織をも超えてコトをなしていこうとすると法的な役割とは別の原理で動き出す。言語もいくつもあるとコミュニケーションも大きな課題となる。英語が中心になるが、それだけでは現場と繋がれない。地域に仕事作りを目指すには現地語が必要になる。時差もあるからいわゆる勤務時間もフレキシブルになる。残業時間はあってないようなものだ。

  メールを送ってすぐに返事ができないとチャンスを失うことも多い。ルールの一つが24時間内に返事をすること。更に、自分の不得意なことや都合の悪いことを放置することもある。1週間で動かないものは担当を変える。そうすることでブレーキが少なくなる。

加速する仕掛け

動機づけが給料や肩書だった時代から仕事そのものを楽しめるかに人々の志向は移っている。ここでの働く人の動機は社会に役立っているか、そのサービスが笑顔で迎えられるかになっていく。「いいね!」も、その一つだろうが、いかにも軽い。地域で仕事作りをミッションにしていると、そのコミュニティで認められるか、だ。存在感が重要だ。

 例えば、インドネシアの組織はごみ、ツアー、ITを同時並行で経済的自立を目指している。それぞれに社長候補がいる。将来、それぞれが自立してもITソフトは共通で、その傘の下に残る。ソフトがミッションを共有する。

  4キロ四方の地域で「ごみゼロ運動を始めた。スマホに登録するとごみがポイントになる。ポイントは現在お金に交換しているが、将来は地域サービスに交換すると地域経済の活性にもなる。地域通貨の仕組みだが、バリの空港から歩いて数分のロケーションなので旅行者も巻き込める。地域貢献ツアーとでも呼ぶものもネット上に構築中だ。その中心に安いステイ施設を持つメンバーが中心にいるので、そこを新しい働き方で「楽しく働く、遊びも生活」企業呼び込みを計画している。そこから五分も歩けばサーフィンもできる浜辺だ。労働時間に縛られることなく思い切り働き、好きに自分の時間をデザインする働き方改革の提案だ。

AI時代にサラリーマンは?

 ワークシフトが言われている。様々な業種が消えていく。日本では大銀行で年間一万人以上が整理されると読んだ。ATMからスマホ決済へ、従来の銀行窓口はいらなくなっていく。いや、すでにない国もある。役所などもっと合理化すべき筆頭だろう。いわゆる事務作業や、他人に言われてやるサラリーマン要素の強い仕事はなくなっていく。安定志向で行政に就職できたから一生安泰ということはなくなりそうだ。仕事と趣味は別で、会社は金をもらうところ、という人の職場はなくなっていくのだろう。日本の学生の志向も変わりつつあるようだが、変化にどれだけシンクロしているか、一人一人の人生を選択する時代が来た。が、それほどに、その行動も価値観も変わらない。そして、時代の変化から取り残される。

勢いのあるアジア、インド

 数か国の若者が同世代間で一つのミッションに向かって働くようになると、日本人の劣化は明確になる。日本から研究会に参加している農業団体はインターンを年間20人以上受け入れる計画だという。アジアの国では農業が就業人口の70%から80%という状態だから、当たり前に地域に農作業がある。そして、子供の頃からそこで育った彼らはタフだ。暑さに強いだけでなく女の子でも鶏を絞める。肉屋で冷蔵庫にある鶏肉しか見てない日本人とは違う。同じ人間かと疑うほどに自然との共生体験の差は大きい。机上の勉強では学べない部分だ。「働き学ぶ」が問われている。しかも、彼らはとても前向きだ。受験勉強で点数だけのところと、なんでも、これからの人生に役立てようという意気込みの違いだ。

働くことがあって学ぶ

 カンボジアで学校経営をしている団体のやり方は「働き学ぶ」だ。学歴社会は、いつのかにかそれが逆転してしまった。偏差値という物差しで人間の能力を計るようになった。嘘つきであろうが、ポジションを得られる社会になってしまった。それが権力を持てば社会の信を失わせる。もし、カンボジアの汗と現場を知り、コミュニティで共に汗を流して生きることを学んでいれば見える風景も違っただろう。

  法律が先にあるのではなく、必要に応じて作っていけばよい。それが逆転すると、こんなことになる。「忘れました」がまかり通る。社会の仕組みも作り直さなければいけないが、その変革も教育からだ。日本の三権分立が虚構になる中で、吉田松陰の松下村塾は、国境を越えてアジアでそれを教える。

アジアに松下村塾を

  まだアジアでは維新以降の日本の経済発展への評価は高い。親和的だ。いくつかのアジア、インドで講座を持っているメンバーが研究会にはいる。大学闘争世代の先生もおり、日本の失敗を伝えることも忘れない。経済の講義で、自分の運動体験を伝える。石を投げても、大きな圧力団体の長になっても、自分たちの力で政治家を作っても、社会は変わらない。一人一人の市民が自らの価値観と生活を変えない限り、この格差と自然収奪の構造は変わらない。君らの世代の改革はコミュニティから君らが作り出すと教える。社会起業の勧めだ。それをアジア10としてネット上で情報交換し、スカイプで議論し競争し、新しい価値を作り出すのにITは有益だ。次の世代はITで国境をいとも簡単に超えていく。

「超える」が時代の言葉に

 克己、自らを超える。国境を超える、政府を政治を超える。時を超える意識を学ぶことも大事だ。

 何億年の宇宙の歴史から見れば人類なんて小さな存在だ。ブラックホールの存在が写真で見ることができた。

 南インドの大学とも提携しているが、ここの博物館の仮面を見て驚いた。日本の歌舞伎そのものなのだ。そうしてみていくと楽器も、サンスクリット語から派生し、仏教用語が日本人の生活にも入り込んでいる。言葉もインドが原点であることが実に多い。

 カンボジアのアンコールワット建造にはインドの技術者が協力したという。交通がそれほど便利でない時代ではあったが、国境など軽く超えている。世界の政治の風潮が自国主義となっているが小さい小さい。文化を学ぶことだ。