CWBアドバイザー 松井名津
「お金を使わないのは罪」とドラッカーが言っているらしいんだが、この罪ってguiltyなの、sinなの?guiltyは刑法、民法に関わらず、法を侵害したとか、特定の犯罪を行なったという時に使う。これに対してsinは「神に逆らう・神の法を犯す」という意味になる。なのでもしドラッカーがsinという言葉を使っているなら、お金を使うことに非常に積極的かつ倫理的な意味を持たせていたことになる。一方でguiltyだったら、ある社会における罪になるだろう。例えば現在の社会では罪だけど、中世社会だったら罪ではないというように。
ということで、早速Googleを駆使して論文を探し、いろいろ探ってみたのだが、ドラッカーの語録や文章、ドラッカー研究の中で該当する言葉は見つからなかった。ではドラッカーにそういう発想がなかったのかというと、これまたそうではない。例えばprofit(利益)とは何かについて「利益は未来への投資である」とある。家計の貯蓄であっても、子供の教育費であれ老後の資金であれ、未来の人生を意識して「除けておく」お金であって、最終的にはある目的のために使用されるものである。事業でも利益は事業の究極的な目的ではなく、事業が成功しているかどうか(その目的である顧客の創造に成功しているかどうか)を図る指標であり、次への動きを作るための手段でしかない(そして次への動きがない事業は早晩消えて無くなる運命にある)。
とすれば、あながち「お金を使わないことは罪である」という言葉をドラッカーがいったとしても不思議ではないことになる。特にドラッカーにとって、市場は常に変化し続ける存在であり、どのような巨大企業であっても昨日の成功のまま、今日を過ごすことはできない。各企業(あるいは事業)は、常に自分の顧客は誰か、顧客が何を求めているのかを根底から問い続けなくてはならない。それを怠った時、企業は衰退することになる。その例としてドラッカーが挙げているのがキャタピラー社である。1980年代まで重機の世界シェアの7割を握っていたキャタピラー社は数年で倒産の危機に陥る。その原因をコマツの急成長に求めることもできるが、ドラッカーはキャタピラー社が既存の自社の使命に安住していたからだとする。そしてキャタピラー社が劇的な復活を遂げたのは、自社の顧客が求めているものは何なのか、自社は何のために存在するのかという根本的な問いを問い直し、その問いに応える形で自社を再編したからであるとする(具体的には単なる重機の販売から重機を使用する際に必要なサービス―修理や改修―を提供する会社へと生まれ変わった)。
この過程を、ドラッカーは「変革(イノベーション)」という。イノベーションというとシュンペーターがすぐに思い浮かぶ。シュンペーターのイノベーションは、技術革新といって良い。市場の中から現れるものというよりも、天才と時代の要請がうまく組み合わさって生み出されるものである。しかしドラッカーの「変革」は顧客の欲求やニーズの変化に合わせて組織を再編成することによって生まれるものである。組織再編(リストラクチュア)といえば即首切りを思い浮かべてしまうが、ドラッカーによればそれは愚の骨頂である。組織はそこに働く人間とマネージャーの相互作用によって運用されている。個人にとって組織はそこで働くことによって、自己の能力を高めることができる場所であり、組織再編に伴い各個人に要請されるのは、新しい環境でのチャレンジ(リスキリング)である[1]。この変革に必要不可欠なのが余剰資金、つまり利益である。利益は組織が市場や社会の変化に順応し、新たな顧客(ニーズや欲求、問題解決)を創造するために使われる。それゆえ利益=お金を使わないことは、社会の変化に対応せず、ただ無目的に流されるままになることでもある。
と考えると、これはguiltyというよりもsinに近いのかもしれない。ドラッカーは理想だけの「原理主義」も効率だけでよいとする「社会効率主義」にも加担しない。「原理主義」は目的だけを語り、効率を顧みない。結果的に社会の機能を壊してしまう。「社会効率主義」は目的を問わず、何を犠牲とするのかも問わない。結果的に相対主義に陥る。そして「機能しない社会に代わるものは、社会の崩壊と無秩序な大衆しかない…。秩序なき大衆が数を増やす社会には未来はない[2]」と述べる。機能しない社会を招いたのは、大衆ではなく(とはいえ大衆は毒性を持つと述べるが)社会そのものなのだが、その社会を未来へと動かし得るのは、利益なのである。guiltyが社会の中でこそ意味を持つ罪であるのに対して、sinが社会を支えるもの(キリスト教における神)への罪だとすれば、利益を使わないことは、社会を無秩序へと導くsinではないだろうか。
お金を使わないという罪。この言葉はキリスト教の社会でも日本でも奇妙に感じられることだろう。どちらの社会でも形は違っても「節約=美徳」という価値観があるからだ。そして利益至上主義が拡大し、お金がものをいう時代になればなるほど、お金を持っている(利益が大きい)ことは即「力」を意味していた。だからこそお金を使うことには極端に慎重になる。マルクスが言ったとおり資本主義は守銭奴でもある。景気が良ければともかく、少しでも未来が不透明になると、人も企業人もお金を使わなくなり、投資を控える。今の自分、今の組織が大事。だから不透明な未来に対して今を守りたい。そのこと自体は本能的なのかもしれない。しかしそれは未来を放棄することにつながる。ドラッカーが「利益は未来への投資である」と述べた裏には、お金を使わないことが未来を考えないことにつながるという危惧があったのではないだろうか。
もちろん「未来への投資」としてお金を使うことと、無駄遣いとは異なる。ドラッカー的にいえば、どんな未来を創るのか=目的と、どのようにお金を使うのか=効率性を両立しなくてはならない。とはいえ今最も求められているのは、どんな未来を創るのかという目的、将来像だろう。価値の多様化が叫ばれている中で、全員が一致するような目的を創出することは可能なのだろうか。私は全員が一致する目的を作らなくても良いと考えている。社会は人間が自分自身の目的なり目標なりを叶え、人生を過ごす「場」である。各人の目的は各人のものだ(まぁ社会を壊すとか、人を殺したいという目的はちょっと置いておいて)。その目的をどのように叶えるのかという手段もまた各人のものだ。これは社会の前提のように思える。が、実はこの条件自体が目的になると私は考えている。単一の目的で個人の行動を縛る社会もある。各自の目的を叶える手段が非常に限定されている(金銭しかない)社会もある。とすれば、社会を各個人がそれぞれの目的を叶えることができる「場」にすることそのものが、各人にとっての緩いけれども共通の目的となり得ると考えている。
そしてそのために「お金を使うこと」が今、最も必要なことだ。自分が持っているのはお金ではない。未来の社会、それも遠い未来ではなく、すぐ先の未来、明日や明後日、自分が過ごす場所がほんの少し居心地の良い場所になるために「使う」投票でもある。
[1] ピーター・F・ドラッカー著,上田惇生訳『[新訳]産業人の未来一改革の原理としての保守主義』,ダイヤモンド社, 1998年, PP.35-36.
[2] ピーター・F・ドラッカー著,上田惇生訳『[新訳]産業人の未来一改革の原理としての保守主義』,ダイヤモンド社, 1998年, PP.35-36.