CWBアドバイザー 松井名津
高田さんの原稿に「貯金は増えも減りもせず、その他広い意味で財産と呼べるものが激増している」という言葉があった。この言葉自体はよく田舎暮らしの勧めなどで使われる。また高田さんは「家族・応援団や仲間・生活力・技術・経営感覚・土地・家・料理スキル・備蓄米や種・暮らしに必要な道具の数々」が増えたと書いている。こうした諸々の技術や経験を「財産」という言葉に留めておいてよいのか。財産という言葉はどこかしら一人の人間に属するもの、あるいは人間の築いたものという印象を与えがちだ。確かに都会では得られない貴重なものかもしれないが、財産といった途端、それを得るために代替手段が他にもあるように思えるし、田舎暮らしのすすめやIターンの宣伝文との相違が不鮮明になるような気がした。
その時、ふと思い出したのが『農民芸術概論綱要』 (https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html)である。なぜ宮沢賢治の文章を思い出したのか。簡単だ。冒頭にこう書かれている。「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい」。そして「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」のだ。だからこそ農民芸術が興隆しなくてはならないと賢治はいう。「いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある 都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」なのである。
「種が大事」 日本では農協が種を蓄えていましたが、それもなくなり、商業主義の種か、アメリカの種苗会社に依存する結果になっていきそうです。原種を保存していくことがとても大事でイギリスはそれを政府の政策としてやっていると言われています。今、ミャンマーで森に入ることは戦地なので、外国人にとって命がけですが、現地の住民は可能です。 原種はおいしくなく、実も小ぶりなものが多いです。しかし、いざという時には、それで命を繋ぐ。ハーブの取材は続けていますが、次は「食える作物の種」を保存したいと思います。湿度や温度の管理など学ばなければなりませんが、それも現地のお年寄りからヒヤリングです。天草の食べられる森(エイブル)ともリンクです。 |
今の若い人は生き甲斐がないという。エンデの『モモ』に描かれた灰色の世界が自分たちの世界だと共感する人たちが多いという。だとすれば「灰色の労働を燃やす」ことのできる「芸術(アートとして生活の術や科学も含んでいる)」、生活それ自身から産まれ、生活と共に変転し、生活に根を下ろす美しいもの、楽しいものが必要なのだ。それはプロレタリア文学のように叛逆・憎悪を主題とし、そこに(あるいはそこから)新しい「美」を剔出しようとしたものではない。
ここからは私の個人的な感覚になってしまうのだが、賢治の文章には独特の硬質の美がある。それは水晶やアメジストといった貴石を口に含んだ時の涼やかさを思わせる。「銀河鉄道の夜」に描かれた風景のように硬質でありながら柔らかである。ちょうど銀河の河原にある砂が小さな炎を宿した水晶であったように、花咲く竜胆があたかも貴石であるかのように、矛盾を難なく同時成立させる美である。賢治の描写は彼が暮らした環境の中で生まれたといっていいだろう[1]。言葉には彼の経験と感情と心情があり、彼自身の科学や論理がある。だから賢治の農民芸術の分野は料理や体操から詩歌、文芸、建築、服装と全ての人間生活に及ぶ。全ては生活から生まれ生活で生かされていく。しかしそれはいわゆる「民藝運動」とも少し異なる。なぜなら職業芸術家ではなく、全ての人が一時専門芸術家となり、また生活者に戻るような循環を考えてもいるからだ。さらにいえば科学者もまた生活者として、その身体活動とともに科学を形作ると考えられている。[2]
とはいえ、生活と科学というと現代ではこれほどかけ離れているように見えるものはないだろう。特に抽象度の高い科学、たとえば数学は虚数のように現実にはあり得ない存在を取り扱っている。賢治の科学と生活の一体化という主張は、20世紀初頭ではともかく、現在ではとても考えられない主張だと思われるかもしれない。しかし最先端の数学では数学者が数を扱うのではなく、数であることが肝心だという主張もある。こうした主張は実は数そのものが人間の身体性に基づいていることを基礎にしている。確かに17世紀から西洋では数学は極度にその抽象性を増し、抽象的な公理系の中で「数学独自」の世界を築いてきた。しかしその一方で、数学が人間の思考能力のどの部分を表しているのか、計算ができることと数学がわかることの違い(それは現代的にいえばAIと人間の脳の働きの違いともいえる)とは何かという根本的な問いに関して、再び人間の身体性を考えに入れなくてはならない。ここで人間の身体性とは、単純に人間が五感から情報を得ているということにとどまらない。人間は受動的に情報を受け取るだけではなく、その情報の中から最も必要な情報を抽出し、道具によって加工し、周囲の環境を認識する。こうして認識された環境は客体的な環境ではなく、人間と周囲によって創り出された「環境」である。
数学においても、数学者は人間が作り出した道具である数字を使い、一定の数学的環境を自分の周囲に作り出している。それは単純に数学的世界から刺激を受け取るだけでなく、日常生活や日常の風景から想像力・創造力が生み出されることになる。日本の代表的な数学者である岡潔はこうした働きを「情緒」とよんだ。[3]人
工知能と人間の脳の働きとの比較といえば、言語能力に関しても、人間の身体性があってこそ人間の言語が発達するという研究もある。こうした研究でも人間が身体とその延長である道具を使って、環境と相互作用する中で、自分の(とはいえそれは周囲の社会慣習に色濃く染められてはいるが)環境を作ることによって認識を深めていく過程が強調される[4]。
こう考えると、人間が認識を深め、自分や周囲の環境に対応して変化するために「身体」が非常に大切だということになる。たとえそれがとても抽象的な数学であっても。
さて、楠に戻ってみよう。高田さんがいみじくもいっているように、彼女の息子は「自然児」として育っている。それは彼が全身でいろんな物事を体験していることに他ならない。都会ではどうだろう。多くの親が子供たちを自然教室や自然体験に参加させようとしている。それは彼ら自身が都会の生活の中で育つ自分の子供たちに何らかの不安を感じているからだろう。いわゆる「知識」を得られる機会が多くても、その知識は既存の知識であり、賢治が求めたような灰色の労働を燃やすような新しい創造を見出すきっかけとはなり得ない。新しい創造、芸術、科学を生み出すのは、自然と人間の関わり合いとその中で生まれる身体経験を土台にした「環境」の中で育まれる気づきや発想なのだ。 こうした気づきや発想を生み出す基が楠にはある。彼らの生活を写した写真は端的に美しい。写真家が美しくアレと切り取ったから美しいのではなく、対象それ自体に美があるからこそ美しい。楠が将来の農民芸術を生み出す懐となるかどうか。それは一元に断定することはできない。しかしその可能性は十分に持っている。彼らや楠に集う人、外から(日本の中とは限らない、アジアからという可能性も高い)彼らに刺激を与える人々。こうした人々が作り上げるこれからの「楠」と
[1] 『銀河鉄道の夜』の色彩表現に関しては、ますむらひろし作画『銀河鉄道の夜(4次稿編)』(1〜4巻),風呂猫,の各巻とその後書を見てほしい。
[2] 「グスコーブドリの伝記」を参照
[3] 森田真生『数学する身体』新潮社2018年
[4] 今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 言葉はどう生まれ、進化したか』中公新書2023年