松井名津
わざわざ英語で始めたのは訳がある。通常Progressは進歩とか発展と訳すのだけど、単に「成り行き」とか「経過」という意味もあって、必ずしも前進とか成長という意味になるわけではないのだ。その時代、その地域なりの「成り行き」があって、その成り行きのまま進んでいった結果、没落したり、危機に瀕したり、極端な場合その国や文明が滅亡することだってあり得るわけである。
で、ミルによれば(と相変わらずミルを持ち出してしまうのだが)中世〜近代までプログレスは、王家同士の戦い・領土の取り合いとその中で の武勇の発揮であった。もちろん王家同士の戦いに無縁な一般庶民にとって、プログレスは無関係であり、たまさか領主が変わって税が重くなったりすると、抗議のために森に隠れたりしたのである。中世のプログレスは一部の人たちのためのものであり、そこで技芸がどのように発達しようとも、その恩恵は一部の人たちのものでしかなかった。これに対し、近代の「貨幣」あるいは「経済」をめぐるプログレスは、その恩恵がより多くの、より普通の人々にまで行き渡る可能性が高いプログレスだといえよう。そして、プログレスへ参加するチャンスも、中世に比べ ればより多くの人に与えられている。それゆえ通常、中世よりも近代の方が「進歩」したと考えられているわけだ。特により多くの人に必需品のみならず、ちょっとした贅沢品をもたらすことになった経済面での発展と交易は、結果的に人々の間の争いを鎮め、温和にしてきたと主張されていた( 18 世紀の終わりの頃だ)。
しかし時代が 50 年ほど進むと、今度は近代の悪弊も明らかになってきた。「貨幣の絆」だけで人々が結ばれている、情け容赦のない解雇や劣悪な労働条件、金儲けしか考えない人々 ……(ディケンズが書いた『クリスマス・キャロル』のスク ルージが代表人物だ)。全てが金・金・金になってしまった!!今の時代に必要なのはかつて中世に存在していた騎士道的精神であり、高貴や崇敬、誇りや敬愛という精神であると、ここまで書くとこの「成り行き」、なんだか戦後の日本の成り行きと似てはいないだろうか?戦時中、「武勇」「天皇陛下の御ため」の名の下、横行していた陰湿なイジメ(それは軍隊内だけではなかったろう)からの解放。 そして「アメリカの豊かさ」への憧れ。より便利に、簡単になる家事。会社で働いてさえいれば自動的に上昇していく給与。貸家暮らしから一軒家へ 。かつては一部の高級官僚や高級将校しか持てなかった「豊かさ」が、より多くの人々の手に届くようになる戦後。 ノスタルジックに語られる「昭和」はそんなイメージである。実際には貧富の差があったし、浮浪児や孤児、若年者の犯罪の多さ、失業者 さまざまな社会問題が溢れていたのだが。そして 1990 年代以降、失われた00年といわれつつ、一向に回復しない経済状況が続く中に生まれ、育ってきた若者 たち(といってももう 30 歳、 40 歳になるわけだが)は、既得権益に阻まれて自分たちが息をできないと感じ出している。そして既得権益をぶっ潰すために、あるいは、自分たちが権益を得るために、昭和の価値を壊そうとしている(その代表が憲法第9条なのかもれない) 。 その時に持ち出されるのが、自国への誇りと愛国心、規律と統制そして倫理(道徳)である。
丸山眞男という政治学者が日本の古層に「つぎつぎとなりゆくいきほひ」があるといったそうだが、意外と私たちが思っている戦後日本の「発展」は「なりゆくいきほひ」=成り行きであり、プログレスだったのではないか。高度経済成長時代、経済の成長に、給与の上昇に喜ばない人はいなかった。ところが同じ時代に水俣病やイタイイタイ病が発生しているのだが、経済成長の副作用として陰に隠れてしまっていた。ちょうど今、原子力発電所立地地域の住民が発電所の存在に対して口が重いのと似た構図だ(題目は経済成長からクリーンエネルギーに変わったけれど)。
昭和 年代半ば生まれの私にとって、高度経済成長は自分の身の回りの風景が年毎に変化することでもあった。家の周りは水田で私の家自体が風景の中で異質な存在だった。地区の道路は舗装されていないのが当たり前で、裏小路で繋がった長屋がちょっと羨ましかったりした。大きな道路を挟んで徒歩 10 分圏内に牛舎があった。水田や畑の肥料はまだまだ人糞で(年に1回誰かが肥壺に落ちる事故が発生していた) 。しかしそんな中に私の家も含めて新興住宅や社宅が建設され、水路はコンクリート化されていった。年毎の変化は「当たり前」のことであり、変化=良いこと・素晴らしいことへの進歩だとされていた。
70 年代オイルショックとともに成り行きは変化した。「大きいことは良いことだ!!」は「スモールイズビューティフル」に急展開した。公害問題が声高に
語られ、消費者運動が盛んに報じられるようになった。一夜にして、といえば大袈裟だが、憧れの対象だった自家用車は急に「排ガスの塊」「ガソリン=石油
資源の無駄遣い」の烙印を押された。夜間のネオン消灯・オフィスでの昼休み消灯が推奨され、多くの企業が自主的に協力をした(その分電気代が浮いたので、
協力金は問題にな らなかった)。灯りの消えた夜の街はひたすら寂しく、狂乱物価が消費に冷や水を浴びせかけた。消費は美徳から一転して、節約・倹約・生活の知恵になった。しかし経済が上向きになるにつれ、節約とか倹約だとかはいつの間にか自分らしい生活=消費の追求に変わった。「おいしい生活」の始まりである。そして世界的に貨幣が実物経済よりも多く出回る時代が来た。日本がニューヨークを買い占めるとか(ダイハード第1作。テロに狙われた高層ビルは日本の会社の持ち物だった)、 などといわれた時代だー今の若い人には信 じられないことだろう。オイルショックの時には狂乱物価といわれたが、日本中が狂乱する貨幣に浮かれ騒いでいた。そして迎えたバブルの崩壊。震災・サリン禍、2度目の震災、さらにコロナ禍。
この間、日本でも世界でも「信頼」や「信用」が大きく揺ぎ、閉塞感に満ちた空気が満ち溢れている。なぜ閉塞感を感じるのか。若者たちにも分からないとい
う。あるいは明確に「既得権益があるゆえ」と断じるものもいる。どちらもごく普通に共有化されている「成り行き」としての感覚だろう。「自分たちには特
別のことなんて起こらない」。「平凡な毎日がただ過ぎていくだけ」。「でもそれ以外に幸せはない」。「自分たちは前の世代ほど恵まれていない」。「前の
世代が一方的に得をしている」。全員がこんな思いを持っているわけではないだろう。しかし こんな思いに駆られたことがないかと問われると、なんとなく
と思ってしまう。なんとなく世間的にそうだから。結局、経済「成長」も経済「停滞」も成り行きとして、大事なことだと思ってはいないだろうか。なぜ新
聞は一面に経済ニュースを取り上げるのか。なぜ全てのニュースで経済的影響が語られるのか。生まれてから死ぬまでにいくらかかるか。どうすれば楽して金が
手に入るのか。「給与は減ったけど、仕事に生きがいを感じている」と生きがいを論じる際に、何故わざわざ給与に言及するのか。お金だけが全てではないとい
いつつ、でも最低限 は と思ってしまうのは何故か。
結局、私たちはどこかでお金を意識しつつ生活をしている。それはこれまでの成り行きであったから、仕方がないともいえる。しかし今、成り行きが変化しつつある。プログレスが経済だけではないということに気付かざるを得ないところに来ている(感染防止か経済かの二者択一を迫られたとしたら、どちらを優先するのだろう。もっともこの選択を曖昧にしたまま、成り行きに任せてなんとか切り抜けて来たのが日本だけど、たまたま運が良かっただけだった ということに終わりそうだ)。オリンピック論議では一国の宰相が 「国民の健康」と「国の国際的威信(?)」を天秤にかけている。で肝心のオリンピックといえばロス五輪からこの方「金儲けのための五輪」といわれ続け、実際アメリカのスポーツシーズンとゴールデンタイムに合わせて競技日程と時間が定まっている(選手の健康かスポンサーの金儲けかでいえば、スポンサーに完全に軍牌が上がって儲けかでいえば、スポンサーに完全に軍牌が上がっているわけだ)。金儲け五輪への批判は従来からあったいるわけだ)。金儲け五輪への批判は従来からあったけれど、パンデミック下でもなお五輪を強行するとなけれど、パンデミック下でもなお五輪を強行するとなれば、日本だけでなく世界的に五輪の存在意義が問われば、日本だけでなく世界的に五輪の存在意義が問われることになるだろう。れることになるだろう。
通常のビジネスを見ても、金儲けを全面に通常のビジネスを見ても、金儲けを全面に出せば出出せば出すほど、顧客が寄り付かない。だからフェアトレードすほど、顧客が寄り付かない。だからフェアトレードだとか、品質へのこだわり、環境品質、だとか、品質へのこだわり、環境品質、などななどなど、とにかくお題目を掲げておかないと、と言わんばど、とにかくお題目を掲げておかないと、と言わんばかりの商品が今日もスーパーの店頭に並んでいる(有かりの商品が今日もスーパーの店頭に並んでいる(有機機、無農薬、有機栽培、特別栽培、契約栽培、顔、無農薬、有機栽培、特別栽培、契約栽培、顔の見える生産者、地場産の見える生産者、地場産一体何がどうなっているの一体何がどうなっているのか、見当もつかないから、結局値段で買うしかなかっか、見当もつかないから、結局値段で買うしかなかったりする)。どの企業も顧客が環境優先なのか価格優たりする)。どの企業も顧客が環境優先なのか価格優先なのか、怖々でうかがっている。あっさりと低価格先なのか、怖々でうかがっている。あっさりと低価格を売りにしたいところだが、グローバル展開をすればを売りにしたいところだが、グローバル展開をすればするほど、するほど、あたりあたりが黙ってはくれない。環境や人が黙ってはくれない。環境や人権を優先した商品と銘を売っても売れるとは限らない権を優先した商品と銘を売っても売れるとは限らないーいや、全然売れないわけではないのだが、所詮数がーいや、全然売れないわけではないのだが、所詮数が限られてしまう。とはいえ環境優先や人権配慮をいわ限られてしまう。とはいえ環境優先や人権配慮をいわなければ大企業でございとはいえない感じがあるなければ大企業でございとはいえない感じがある。。企業も、個々人もどこかで今までの成り行きが変化し企業も、個々人もどこかで今までの成り行きが変化していることは感じている。でもどこに成り行きが向かていることは感じている。でもどこに成り行きが向かうのかわからない。文字通り右往左往で、やけに高いうのかわからない。文字通り右往左往で、やけに高いお金でこだわりたまごを買いつつお金でこだわりたまごを買いつつ均でゆで卵器を均でゆで卵器を買う。今まで通りの商売が通じないと思いつつ、今ま買う。今まで通りの商売が通じないと思いつつ、今まで通りを捨てきれない(それは消費者も同じだ)。おで通りを捨てきれない(それは消費者も同じだ)。お金金ばかりが問題じゃないんだというと「お花畑」と揶ばかりが問題じゃないんだというと「お花畑」と揶揄される。利益優先というと「算盤と論語」と諭され揄される。利益優先というと「算盤と論語」と諭される。兎角この世は住みにくいる。兎角この世は住みにくいとぼやきたくなる。なとぼやきたくなる。なぜなのだろう。ぜなのだろう。
実際答えは皆薄々知っているのだ。みんな誰かが実際答えは皆薄々知っているのだ。みんな誰かが「こっちだぞ!」と指差してくれるのを待っている。「こっちだぞ!」と指差してくれるのを待っている。もしくは何かが起こって、ある方向に行かざるを得なもしくは何かが起こって、ある方向に行かざるを得ない時がくるのを待っている。自分一人が飛び出すのだい時がくるのを待っている。自分一人が飛び出すのだけは避けようと、アンテナだけは高く立てて、周囲のけは避けようと、アンテナだけは高く立てて、周囲の様子を見守っている。だから住みにくく、生きづら様子を見守っている。だから住みにくく、生きづらい。いっそ、と踏み切りたいけどい。いっそ、と踏み切りたいけど踏み切るにはしが踏み切るにはしがらみがあるらみがある(と思っている)。でも、本当に何か指差(と思っている)。でも、本当に何か指差が必要なのだろうか?踏み切らなければいけない程のが必要なのだろうか?踏み切らなければいけない程の高い壁があるのだろうか?森岡泰昌が「壁にぶつかっ高い壁があるのだろうか?森岡泰昌が「壁にぶつかったというけれど、その壁を周りこんでみたら壁が切れたというけれど、その壁を周りこんでみたら壁が切れていたりしないだろうか」というようなことを書いてていたりしないだろうか」というようなことを書いていた(森岡泰昌『美術の解剖学講義』)。全くなのいた(森岡泰昌『美術の解剖学講義』)。全くなのだ。今までの成り行きが経済一辺倒だったから、そのだ。今までの成り行きが経済一辺倒だったから、その成り行きが変化するとしたら「経済ではない全く別の成り行きが変化するとしたら「経済ではない全く別のなにものか」になると思い込んでいるだけなのだ。ゴなにものか」になると思い込んでいるだけなのだ。ゴッホの「ひまわり」を3億円で買う人もいる。だからッホの「ひまわり」を3億円で買う人もいる。だからといって「ひまわり」に変化があるわけではないといって「ひまわり」に変化があるわけではない。ゴ。ゴッホが好きな人にとっては3億という金では表せないッホが好きな人にとっては3億という金では表せない絶対無比の価値があるだろう。あの絵の中に人生の全絶対無比の価値があるだろう。あの絵の中に人生の全てを見出す人もいるだろう。超一級のミステリを感じてを見出す人もいるだろう。超一級のミステリを感じる人もいれば、ただひたすら退屈な絵としかみない人る人もいれば、ただひたすら退屈な絵としかみない人もいるだろう。それぞれの価値は対立するものだろうもいるだろう。それぞれの価値は対立するものだろうか。どれか一つに価値を統一しなくてはならないのだか。どれか一つに価値を統一しなくてはならないのだろうかー「正しい『ひまわり』の価値」はあるのだろろうかー「正しい『ひまわり』の価値」はあるのだろうか?私にはそうは思えない。どの見方が正しいのでうか?私にはそうは思えない。どの見方が正しいのではなく、一枚の絵に対して無数の見方があり、無関係はなく、一枚の絵に対して無数の見方があり、無関係に見えて相互に重なり合いながら「ひまわり」の価値に見えて相互に重なり合いながら「ひまわり」の価値を作り出しているのだと考えてを作り出しているのだと考えているいる。。「あんな絵に3「あんな絵に3億も出して」という人も、「あの絵を3億とはいえ金億も出して」という人も、「あの絵を3億とはいえ金で独占しようとするなんて」という人も、それぞれので独占しようとするなんて」という人も、それぞれの見方で「ひまわり」の存在は認めているのだ。価値と見方で「ひまわり」の存在は認めているのだ。価値というのは元来そんなものではないだろうか?いうのは元来そんなものではないだろうか?
絵画や芸術だから複数の多様な見方が同時並存でき絵画や芸術だから複数の多様な見方が同時並存できるのであって、現実の社会問題ではそうはいかないとるのであって、現実の社会問題ではそうはいかないという意見もあるだろう。それも一つの見方だ。しかしいう意見もあるだろう。それも一つの見方だ。しかし現実の問題だからこそ、二者択一では割り切れないも現実の問題だからこそ、二者択一では割り切れないものがあるのではないか。どちらかが悪でも善でもなのがあるのではないか。どちらかが悪でも善でもない。多様い。多様な見方や考え方があることを前提にな見方や考え方があることを前提にしした時、た時、そのどれでもない何かが立ち現れてくる可能性が増大そのどれでもない何かが立ち現れてくる可能性が増大するのではないだろうか。かつて「ひまわり」は二束するのではないだろうか。かつて「ひまわり」は二束三文の売れない絵だった。その時も今も、「ひまわ三文の売れない絵だった。その時も今も、「ひまわり」は「ひまわり」であって変わりはない。変わったり」は「ひまわり」であって変わりはない。変わったのは人間の芸術への見方だ。何を美とするのか、何をのは人間の芸術への見方だ。何を美とするのか、何をアートとするのか。その前提がガラッと変わっただけアートとするのか。その前提がガラッと変わっただけではない。美とは何かという問いに対する答えが多様ではない。美とは何かという問いに対する答えが多様化し、混沌状態となり、何から何まで芸術になってい化し、混沌状態となり、何から何まで芸術になっていく。それでもやはりそれぞれの美のあり方は違っていく。それでもやはりそれぞれの美のあり方は違っていても、美を求めるという点では一致している。ても、美を求めるという点では一致している。だからだからこそ新しい美を求める動きは続く。現実の社会問題でこそ新しい美を求める動きは続く。現実の社会問題であろうと、民族問題であろうとあろうと、民族問題であろうと((そして「お花畑」とそして「お花畑」と揶揄されようと)揶揄されようと)多様化の中で、互いが求める先にな多様化の中で、互いが求める先になんらかの共通項があるはずだと信じることが、本来のんらかの共通項があるはずだと信じることが、本来の「成り行き」プログレスだろう「成り行き」プログレスだろう。。