安全安心が死語に!未来しよう! Progressの多様性

松井名津

わざわざ英語で始めたのは訳がある。通常Progressは進歩とか発展と訳すのだけど、単に「成り行き」とか「経過」という意味もあって、必ずしも前進とか成長という意味になるわけではないのだ。その時代、その地域なりの「成り行き」があって、その成り行きのまま進んでいった結果、没落したり、危機に瀕したり、極端な場合その国や文明が滅亡することだってあり得るわけである。

で、ミルによれば(と相変わらずミルを持ち出してしまうのだが)中世〜近代までプログレスは、王家同士の戦い・領土の取り合いとその中で の武勇の発揮であった。もちろん王家同士の戦いに無縁な一般庶民にとって、プログレスは無関係であり、たまさか領主が変わって税が重くなったりすると、抗議のために森に隠れたりしたのである。中世のプログレスは一部の人たちのためのものであり、そこで技芸がどのように発達しようとも、その恩恵は一部の人たちのものでしかなかった。これに対し、近代の「貨幣」あるいは「経済」をめぐるプログレスは、その恩恵がより多くの、より普通の人々にまで行き渡る可能性が高いプログレスだといえよう。そして、プログレスへ参加するチャンスも、中世に比べ ればより多くの人に与えられている。それゆえ通常、中世よりも近代の方が「進歩」したと考えられているわけだ。特により多くの人に必需品のみならず、ちょっとした贅沢品をもたらすことになった経済面での発展と交易は、結果的に人々の間の争いを鎮め、温和にしてきたと主張されていた( 18 世紀の終わりの頃だ)。

しかし時代が 50 年ほど進むと、今度は近代の悪弊も明らかになってきた。「貨幣の絆」だけで人々が結ばれている、情け容赦のない解雇や劣悪な労働条件、金儲けしか考えない人々 ……(ディケンズが書いた『クリスマス・キャロル』のスク ルージが代表人物だ)。全てが金・金・金になってしまった!!今の時代に必要なのはかつて中世に存在していた騎士道的精神であり、高貴や崇敬、誇りや敬愛という精神であると、ここまで書くとこの「成り行き」、なんだか戦後の日本の成り行きと似てはいないだろうか?戦時中、「武勇」「天皇陛下の御ため」の名の下、横行していた陰湿なイジメ(それは軍隊内だけではなかったろう)からの解放。 そして「アメリカの豊かさ」への憧れ。より便利に、簡単になる家事。会社で働いてさえいれば自動的に上昇していく給与。貸家暮らしから一軒家へ 。かつては一部の高級官僚や高級将校しか持てなかった「豊かさ」が、より多くの人々の手に届くようになる戦後。 ノスタルジックに語られる「昭和」はそんなイメージである。実際には貧富の差があったし、浮浪児や孤児、若年者の犯罪の多さ、失業者 さまざまな社会問題が溢れていたのだが。そして 1990 年代以降、失われた00年といわれつつ、一向に回復しない経済状況が続く中に生まれ、育ってきた若者 たち(といってももう 30 歳、 40 歳になるわけだが)は、既得権益に阻まれて自分たちが息をできないと感じ出している。そして既得権益をぶっ潰すために、あるいは、自分たちが権益を得るために、昭和の価値を壊そうとしている(その代表が憲法第9条なのかもれない) 。 その時に持ち出されるのが、自国への誇りと愛国心、規律と統制そして倫理(道徳)である。

丸山眞男という政治学者が日本の古層に「つぎつぎとなりゆくいきほひ」があるといったそうだが、意外と私たちが思っている戦後日本の「発展」は「なりゆくいきほひ」=成り行きであり、プログレスだったのではないか。高度経済成長時代、経済の成長に、給与の上昇に喜ばない人はいなかった。ところが同じ時代に水俣病やイタイイタイ病が発生しているのだが、経済成長の副作用として陰に隠れてしまっていた。ちょうど今、原子力発電所立地地域の住民が発電所の存在に対して口が重いのと似た構図だ(題目は経済成長からクリーンエネルギーに変わったけれど)。

昭和 年代半ば生まれの私にとって、高度経済成長は自分の身の回りの風景が年毎に変化することでもあった。家の周りは水田で私の家自体が風景の中で異質な存在だった。地区の道路は舗装されていないのが当たり前で、裏小路で繋がった長屋がちょっと羨ましかったりした。大きな道路を挟んで徒歩 10 分圏内に牛舎があった。水田や畑の肥料はまだまだ人糞で(年に1回誰かが肥壺に落ちる事故が発生していた) 。しかしそんな中に私の家も含めて新興住宅や社宅が建設され、水路はコンクリート化されていった。年毎の変化は「当たり前」のことであり、変化=良いこと・素晴らしいことへの進歩だとされていた。

70 年代オイルショックとともに成り行きは変化した。「大きいことは良いことだ!!」は「スモールイズビューティフル」に急展開した。公害問題が声高に
語られ、消費者運動が盛んに報じられるようになった。一夜にして、といえば大袈裟だが、憧れの対象だった自家用車は急に「排ガスの塊」「ガソリン=石油
資源の無駄遣い」の烙印を押された。夜間のネオン消灯・オフィスでの昼休み消灯が推奨され、多くの企業が自主的に協力をした(その分電気代が浮いたので、
協力金は問題にな らなかった)。灯りの消えた夜の街はひたすら寂しく、狂乱物価が消費に冷や水を浴びせかけた。消費は美徳から一転して、節約・倹約・生活の知恵になった。しかし経済が上向きになるにつれ、節約とか倹約だとかはいつの間にか自分らしい生活=消費の追求に変わった。「おいしい生活」の始まりである。そして世界的に貨幣が実物経済よりも多く出回る時代が来た。日本がニューヨークを買い占めるとか(ダイハード第1作。テロに狙われた高層ビルは日本の会社の持ち物だった)、 などといわれた時代だー今の若い人には信 じられないことだろう。オイルショックの時には狂乱物価といわれたが、日本中が狂乱する貨幣に浮かれ騒いでいた。そして迎えたバブルの崩壊。震災・サリン禍、2度目の震災、さらにコロナ禍。

この間、日本でも世界でも「信頼」や「信用」が大きく揺ぎ、閉塞感に満ちた空気が満ち溢れている。なぜ閉塞感を感じるのか。若者たちにも分からないとい
う。あるいは明確に「既得権益があるゆえ」と断じるものもいる。どちらもごく普通に共有化されている「成り行き」としての感覚だろう。「自分たちには特
別のことなんて起こらない」。「平凡な毎日がただ過ぎていくだけ」。「でもそれ以外に幸せはない」。「自分たちは前の世代ほど恵まれていない」。「前の
世代が一方的に得をしている」。全員がこんな思いを持っているわけではないだろう。しかし こんな思いに駆られたことがないかと問われると、なんとなく
と思ってしまう。なんとなく世間的にそうだから。結局、経済「成長」も経済「停滞」も成り行きとして、大事なことだと思ってはいないだろうか。なぜ新
聞は一面に経済ニュースを取り上げるのか。なぜ全てのニュースで経済的影響が語られるのか。生まれてから死ぬまでにいくらかかるか。どうすれば楽して金が
手に入るのか。「給与は減ったけど、仕事に生きがいを感じている」と生きがいを論じる際に、何故わざわざ給与に言及するのか。お金だけが全てではないとい
いつつ、でも最低限 は と思ってしまうのは何故か。

結局、私たちはどこかでお金を意識しつつ生活をしている。それはこれまでの成り行きであったから、仕方がないともいえる。しかし今、成り行きが変化しつつある。プログレスが経済だけではないということに気付かざるを得ないところに来ている(感染防止か経済かの二者択一を迫られたとしたら、どちらを優先するのだろう。もっともこの選択を曖昧にしたまま、成り行きに任せてなんとか切り抜けて来たのが日本だけど、たまたま運が良かっただけだった ということに終わりそうだ)。オリンピック論議では一国の宰相が 「国民の健康」と「国の国際的威信(?)」を天秤にかけている。で肝心のオリンピックといえばロス五輪からこの方「金儲けのための五輪」といわれ続け、実際アメリカのスポーツシーズンとゴールデンタイムに合わせて競技日程と時間が定まっている(選手の健康かスポンサーの金儲けかでいえば、スポンサーに完全に軍牌が上がって儲けかでいえば、スポンサーに完全に軍牌が上がっているわけだ)。金儲け五輪への批判は従来からあったいるわけだ)。金儲け五輪への批判は従来からあったけれど、パンデミック下でもなお五輪を強行するとなけれど、パンデミック下でもなお五輪を強行するとなれば、日本だけでなく世界的に五輪の存在意義が問われば、日本だけでなく世界的に五輪の存在意義が問われることになるだろう。れることになるだろう。

通常のビジネスを見ても、金儲けを全面に通常のビジネスを見ても、金儲けを全面に出せば出出せば出すほど、顧客が寄り付かない。だからフェアトレードすほど、顧客が寄り付かない。だからフェアトレードだとか、品質へのこだわり、環境品質、だとか、品質へのこだわり、環境品質、などななどなど、とにかくお題目を掲げておかないと、と言わんばど、とにかくお題目を掲げておかないと、と言わんばかりの商品が今日もスーパーの店頭に並んでいる(有かりの商品が今日もスーパーの店頭に並んでいる(有機機、無農薬、有機栽培、特別栽培、契約栽培、顔、無農薬、有機栽培、特別栽培、契約栽培、顔の見える生産者、地場産の見える生産者、地場産一体何がどうなっているの一体何がどうなっているのか、見当もつかないから、結局値段で買うしかなかっか、見当もつかないから、結局値段で買うしかなかったりする)。どの企業も顧客が環境優先なのか価格優たりする)。どの企業も顧客が環境優先なのか価格優先なのか、怖々でうかがっている。あっさりと低価格先なのか、怖々でうかがっている。あっさりと低価格を売りにしたいところだが、グローバル展開をすればを売りにしたいところだが、グローバル展開をすればするほど、するほど、あたりあたりが黙ってはくれない。環境や人が黙ってはくれない。環境や人権を優先した商品と銘を売っても売れるとは限らない権を優先した商品と銘を売っても売れるとは限らないーいや、全然売れないわけではないのだが、所詮数がーいや、全然売れないわけではないのだが、所詮数が限られてしまう。とはいえ環境優先や人権配慮をいわ限られてしまう。とはいえ環境優先や人権配慮をいわなければ大企業でございとはいえない感じがあるなければ大企業でございとはいえない感じがある。。企業も、個々人もどこかで今までの成り行きが変化し企業も、個々人もどこかで今までの成り行きが変化していることは感じている。でもどこに成り行きが向かていることは感じている。でもどこに成り行きが向かうのかわからない。文字通り右往左往で、やけに高いうのかわからない。文字通り右往左往で、やけに高いお金でこだわりたまごを買いつつお金でこだわりたまごを買いつつ均でゆで卵器を均でゆで卵器を買う。今まで通りの商売が通じないと思いつつ、今ま買う。今まで通りの商売が通じないと思いつつ、今まで通りを捨てきれない(それは消費者も同じだ)。おで通りを捨てきれない(それは消費者も同じだ)。お金金ばかりが問題じゃないんだというと「お花畑」と揶ばかりが問題じゃないんだというと「お花畑」と揶揄される。利益優先というと「算盤と論語」と諭され揄される。利益優先というと「算盤と論語」と諭される。兎角この世は住みにくいる。兎角この世は住みにくいとぼやきたくなる。なとぼやきたくなる。なぜなのだろう。ぜなのだろう。
実際答えは皆薄々知っているのだ。みんな誰かが実際答えは皆薄々知っているのだ。みんな誰かが「こっちだぞ!」と指差してくれるのを待っている。「こっちだぞ!」と指差してくれるのを待っている。もしくは何かが起こって、ある方向に行かざるを得なもしくは何かが起こって、ある方向に行かざるを得ない時がくるのを待っている。自分一人が飛び出すのだい時がくるのを待っている。自分一人が飛び出すのだけは避けようと、アンテナだけは高く立てて、周囲のけは避けようと、アンテナだけは高く立てて、周囲の様子を見守っている。だから住みにくく、生きづら様子を見守っている。だから住みにくく、生きづらい。いっそ、と踏み切りたいけどい。いっそ、と踏み切りたいけど踏み切るにはしが踏み切るにはしがらみがあるらみがある(と思っている)。でも、本当に何か指差(と思っている)。でも、本当に何か指差が必要なのだろうか?踏み切らなければいけない程のが必要なのだろうか?踏み切らなければいけない程の高い壁があるのだろうか?森岡泰昌が「壁にぶつかっ高い壁があるのだろうか?森岡泰昌が「壁にぶつかったというけれど、その壁を周りこんでみたら壁が切れたというけれど、その壁を周りこんでみたら壁が切れていたりしないだろうか」というようなことを書いてていたりしないだろうか」というようなことを書いていた(森岡泰昌『美術の解剖学講義』)。全くなのいた(森岡泰昌『美術の解剖学講義』)。全くなのだ。今までの成り行きが経済一辺倒だったから、そのだ。今までの成り行きが経済一辺倒だったから、その成り行きが変化するとしたら「経済ではない全く別の成り行きが変化するとしたら「経済ではない全く別のなにものか」になると思い込んでいるだけなのだ。ゴなにものか」になると思い込んでいるだけなのだ。ゴッホの「ひまわり」を3億円で買う人もいる。だからッホの「ひまわり」を3億円で買う人もいる。だからといって「ひまわり」に変化があるわけではないといって「ひまわり」に変化があるわけではない。ゴ。ゴッホが好きな人にとっては3億という金では表せないッホが好きな人にとっては3億という金では表せない絶対無比の価値があるだろう。あの絵の中に人生の全絶対無比の価値があるだろう。あの絵の中に人生の全てを見出す人もいるだろう。超一級のミステリを感じてを見出す人もいるだろう。超一級のミステリを感じる人もいれば、ただひたすら退屈な絵としかみない人る人もいれば、ただひたすら退屈な絵としかみない人もいるだろう。それぞれの価値は対立するものだろうもいるだろう。それぞれの価値は対立するものだろうか。どれか一つに価値を統一しなくてはならないのだか。どれか一つに価値を統一しなくてはならないのだろうかー「正しい『ひまわり』の価値」はあるのだろろうかー「正しい『ひまわり』の価値」はあるのだろうか?私にはそうは思えない。どの見方が正しいのでうか?私にはそうは思えない。どの見方が正しいのではなく、一枚の絵に対して無数の見方があり、無関係はなく、一枚の絵に対して無数の見方があり、無関係に見えて相互に重なり合いながら「ひまわり」の価値に見えて相互に重なり合いながら「ひまわり」の価値を作り出しているのだと考えてを作り出しているのだと考えているいる。。「あんな絵に3「あんな絵に3億も出して」という人も、「あの絵を3億とはいえ金億も出して」という人も、「あの絵を3億とはいえ金で独占しようとするなんて」という人も、それぞれので独占しようとするなんて」という人も、それぞれの見方で「ひまわり」の存在は認めているのだ。価値と見方で「ひまわり」の存在は認めているのだ。価値というのは元来そんなものではないだろうか?いうのは元来そんなものではないだろうか?

絵画や芸術だから複数の多様な見方が同時並存でき絵画や芸術だから複数の多様な見方が同時並存できるのであって、現実の社会問題ではそうはいかないとるのであって、現実の社会問題ではそうはいかないという意見もあるだろう。それも一つの見方だ。しかしいう意見もあるだろう。それも一つの見方だ。しかし現実の問題だからこそ、二者択一では割り切れないも現実の問題だからこそ、二者択一では割り切れないものがあるのではないか。どちらかが悪でも善でもなのがあるのではないか。どちらかが悪でも善でもない。多様い。多様な見方や考え方があることを前提にな見方や考え方があることを前提にしした時、た時、そのどれでもない何かが立ち現れてくる可能性が増大そのどれでもない何かが立ち現れてくる可能性が増大するのではないだろうか。かつて「ひまわり」は二束するのではないだろうか。かつて「ひまわり」は二束三文の売れない絵だった。その時も今も、「ひまわ三文の売れない絵だった。その時も今も、「ひまわり」は「ひまわり」であって変わりはない。変わったり」は「ひまわり」であって変わりはない。変わったのは人間の芸術への見方だ。何を美とするのか、何をのは人間の芸術への見方だ。何を美とするのか、何をアートとするのか。その前提がガラッと変わっただけアートとするのか。その前提がガラッと変わっただけではない。美とは何かという問いに対する答えが多様ではない。美とは何かという問いに対する答えが多様化し、混沌状態となり、何から何まで芸術になってい化し、混沌状態となり、何から何まで芸術になっていく。それでもやはりそれぞれの美のあり方は違っていく。それでもやはりそれぞれの美のあり方は違っていても、美を求めるという点では一致している。ても、美を求めるという点では一致している。だからだからこそ新しい美を求める動きは続く。現実の社会問題でこそ新しい美を求める動きは続く。現実の社会問題であろうと、民族問題であろうとあろうと、民族問題であろうと((そして「お花畑」とそして「お花畑」と揶揄されようと)揶揄されようと)多様化の中で、互いが求める先にな多様化の中で、互いが求める先になんらかの共通項があるはずだと信じることが、本来のんらかの共通項があるはずだと信じることが、本来の「成り行き」プログレスだろう「成り行き」プログレスだろう。。

時代はどんどん進んでいる

 昨年の秋から日本を離れて7か月間、カンボジアの私たちの事務所にいました。コロナに振り回されて世界中でマスクをつけている日常が当たり前になっている中、私はコンポントムのプーンアジという寄宿舎に住み、地元の生徒たちとカシューナッツの収穫後に毎日のように乾燥させて袋詰めするような作業で汗を流して働いて…という生活をしていたので、何らこれまでと変わらない生活でした。敷地内の外に週1回マーケットに買い物に行ったり、銀行に出かける時以外はマスクをつけることもほとんどありませんでした。

 しかし、2月終わりくらいからカンボジアもコロナ感染者が増え始め、政府も封じ込めに乗り出しました。4月半ばのクメール正月に合わせて州間の移動禁止措置が発令され、さらにはますます広がる状況を鑑みてカンボジア中のレストランの営業が禁止になりました。

 私も昨年末から日本へ帰国する予定がどんどん持ち越され、これ以上は家族のためにも延期はできないということで、ひどくならないうちに日本に戻ることにしました。しかし、陰性証明をもらうために早めにプノンペンに着いて病院通いをするだけでなく、このロックダウン中の移動は容易ではなく、シェムリアップにある領事事務所に州間をまたぐための通行願いのレターを発行してもらうように依頼したり、いろんな手続きを踏みました。いろんな人の協力のおかげで、無事に日本まで戻ってきましたが、大阪は過去最悪の広がりを見せている時期でした。

 この帰国に際して、街中に出てみていろんな変化に気づかされました。1つはコロナに対する日本との意識の違いです。プノンペンでは早々とマスクをして外出していない人は25ドルの罰金、さらにはこのクメール新年(4月14から17日)前後にレストランの閉鎖、陽性者が現れたプノンペン最大の市場であるオルセーマーケットとさらにはオールドマーケットも閉鎖。こういうことを早々に警告を出してすぐに実行されています。しかも市場や飲食店には補償なしです。イオンなどのショッピングモール内のレストランも閉鎖。ちょうどプノンペンに着いた次の日からこのような状況になったので、静まり返ったプノンペンには驚きでした。通常クメール新年の前は民族の大移動でプノンペンから地方へ帰る人が多くてバスなどもとれない状況ですし、家族が一堂に集まり、みんなで大皿のごちそうを囲んで団欒の時間が持たれるので、その準備のためにマーケットはものすごい活気で、商売人にとっては1年のうちで1,2を争う書き入れ時です。それをカンボジア政府が封じ込めようとしているのは、やはりこのコロナ自体の感染拡大をいかに恐れているかということだと思います。それに比べると日本はかなり緩い印象を持ちます。

(私が帰国した後も大使館からお知らせが来ているのですが、プノンペン内でも移動が厳しく規制されて、ロープが張ってあって隣の地区への移動も制限され、本格的にロックダウンが始まりました。たまたまスタッフが私と入れ替えで日本から入ってくれたのですが、プノンペンで3週間ほど足止めされ、彼女のレポートによるとデリバリーサービスも近所から出ないと届けてくれないそうです)。

 また、PCR検査を受けに国立衛生研究所に行った時のこと。朝7時から施設が開いているがそれより早くに着いて並んでおいたほうがいいという情報を得て、6時20分に到着しましたが、防護服に身を包んだ200人以上の人たちがすでに長蛇の列でした。中国人の集団です。カンボジアでの広がりを恐れてすぐに祖国へ帰ろうという人たちが列をなしていたのですが、たまたま個人で並んでいた上海出身の女性が日本とのビジネスをやっていて日本語が流暢だったので、待っている間にいろいろ聞かせてもらいました。中国の検査基準はPCR以外にも血液検査もあり、2日間通わないといけないといっていました。さらには上海に着いてからすぐにホテルに2週間隔離され、物価が高いので10万円以上の滞在費がかかり、その後自宅に戻ってから7日間待機ということで、21日間も身動きが取れない状況だそうです。日本はどうなの?と聞かれ、着いてすぐのPCR検査で問題がなかったら家族に車で迎えに来てもらったら家に帰れて、家で14日間おとなしくしていればいいと伝えたら、中国と対応が全然違うんだねと彼女も驚いていました。

 そしてプノンペンに数日滞在してみて、補償もなくレストランが閉鎖されているのですが、さらにアルコール類の販売も一切禁止となりました。みんなが集まって騒ぐことを見据えていろんなことが制限されています。それでもバイクでのデリバリーサービスが定着しています。日本でいえばUberEatsみたいなサービスがこの1,2年で広がりを見せており、FoodPandaやNham24など、いろんなバイクがプノンペンの街中を駆け巡っています。ジュース1杯からでも自宅へ届けてもらっていますので、この気軽な手配の感覚はおそらく日本以上ではないかと思います。外国人が多い地区では「Take Away OK」と入口に書いて、持ち帰りだけは受け付けているカフェなどもあり、この徹底ぶりは日本で役人たちの宴会でコロナ感染というニュースとは全く違うものです。

 また、プノンペン空港でラウンジを使ったのですが、これまではビュッフェスタイルで利用者が好きな分だけ取りに行っていましたが、注文方式に変わっていました。QRコードがテーブルにあり、それを読み取るとフードとドリンクのメニューが出てきてほしいものを選び、テーブルまで届けてもらいます。これならばフードロスも防げます。

 そして飛行機(シンガポール航空)に乗ってみると、衛生キットが一人一人に配られ、席に着くと機内誌は当然なくなり、機内食は容器が紙製でスプーンなどもすべて木製でプラスティック製品が消えていました。これまでのプラスティック袋などの無駄を考えるとこれも大きな変化だし、さらには不特定多数の人が触る機内誌などはなくなって無駄なものがなくなっていく、こうやって世界は変化していくんだなというのを実感しました。日本ではなんでもスマホでやるのはどうも…という抵抗も根強いですが、どんどん世界はペーパーレス、非接触のコミュニケーション、人が集まる場所をつくらない、効率化が進んでいます。

 そうやって考えてみると日本もサービス産業を中心に全てを見直していく必要があります。街の美容院だったらどういうことができるのか、電気屋さんなら?小さなパン屋さん、ケーキ屋さんだったら?介護や保育サービスは?ライブの楽しみ方は?伝統的なお祭りの開催の仕方は?というのが1つ1つ問われていきます。スマホを使って注文できると翻訳も手間がかからないので新たに日本に住んでいて日本語があまり読めない外国人の掘り起こしにもなるか?など、いろんな可能性も秘めています。そして逆に直接顧客と対面した時にどんな付加価値をつけたらいいのだろう?これまでのサービスの質や内容が変わっていくことを考えるとわくわくします。

 世界は動いていることを実感しました。それもいい方向へ動いていく波を私たちがどう捉えていけるのか。上手にサーフィンしていく必要性を強く感じて日本に帰国しました。

追伸>帰国して5月初旬に書いた文章だったのですが、サーバーの不具合でしばらく投稿できませんでした。その後、7月初旬現在、カンボジアの感染者数は広がっており、1日500人~1000人近い感染者が毎日出ているようです。プノンペンやシェムリアップなど都市部が多いとは聞きますが、私が買い物に行っていた近くの食料マーケットでも感染者が出たと聞いています。早く収束することを願うばかりです。

判断の軸を自分が納得できるように決める

しばらく日本に帰っていないと毎日のニュースや情報番組にはさらされていないが、それでもスマホ、インターネット、YouTubeなどでいろんなものを見聞きできる。このところのオリンピックにまつわる失言や、霞が関との癒着や接待問題、そして当人が開き直ったり、記憶にないどころか無意識だと言ってみたり、何としてでも自分のポジションを守るために悪態をついているようだ。世間との感覚がずれている、高齢になってもきれいな幕引きができない、ここが日本の中枢だと思うと情けないやら悲しいやら。そんな風に思われる高齢者にはならないよう、反面教師だと思っている。

ところで、世界から見ても恥ずかしいと思うことがいつからまかり通るようになったのだろうか。かつては地元の名家といわれるところは、地域の人から尊敬を集めていた。狭い地域の中では誰もが顔を知っている。立ち振る舞いに気を付けたり、尊敬されるにはこうであらねばならないといったような行動規範を自ら持っていた。また、伝統の世界も大人が子供のころからプロとして育てる。例えば歌舞伎でもやっとセリフを覚えて4,5歳で舞台を踏めるような子供たちをおじいちゃんのような世代の人たちがお世話をしているのをテレビで舞台裏としてみたりするが、きちんと一人前になるために、人としての生き方を教える人がそばにいるからではないかと思うのだ。華道や茶道も師範がいて、憧れのその人の生き方を学ぶ。その人の子弟として師範に泥を塗ることがないよう、恥ずかしくない立ち振る舞いをしようと努める。こういう歯止めがきいていたのだ。

ところが今は「自由」という言葉をはき違えている人たちが変に権力や利権を握って、一生安泰で暮らせることしか考えていないのではないだろうか。国民年金で月6,7万円しかもらえないので月々のやりくりに悲鳴を上げている高齢者がいるというのに、1回7万円の食事をしても覚えていないと答弁する官僚がいるだなんてことがまかり通るのだろうか?!

日本ではこういうことが起きると、最初に私が書いたようにあぁ、あの人は情けない、恥ずかしいという気持ちになるが、欧米諸国では同じような状況があるとどんな心持ちになるのだろうか。個人を見てその人を恥ずかしいと批判するのではなくて、分別のある大人だったら、こんないい加減なことをする人を議員に選んでしまった自分に見る目がなかったとか、未来はどうなるのかと考えるとその企業の商品サービスは買わないとか、将来や社会に思いを馳せて自分の考えや行動を悔い改めるのではないかと想像する。何人か知っている友人たちのことを思い浮かべると、そんな風に見えるのだ。彼らは自分たちが社会の構成員であるという自覚が強いのだと思う。

日本では教育の過程で大人として成熟するための学びが少ないと思う。そして学校を卒業すれば学びとは程遠い。働いている企業の中では自分自身のスキルを成長できるかもしれないが、社会の中で自分自身をバージョンアップしていく機会が乏しい。その中で、単に誰かを批判するだけではなくて、自分の行動を決める価値観みたいなものは何か、改めて問い直してみたい。よく「みんなが安心して幸せに暮らせるまちづくり」というのは耳にする言葉で、誰もが合意できると思う。でもその「安心」とか「幸せ」というのはどうやったら得られていくのだろうか。今まで「波風立たせずにこのままでいい」という連続が失われた20年、30年につながったのではないかと考える。そうやって何もしなかったことが劇的に変化する世界から取り残されつつある状況に陥ってしまっている。

そこで私は「100年先まで残したい」というのを自分の1つの判断軸にしてみた。これは京都の女性起業家たちとイベントをやったときに出てきたキャッチコピーだが、未来を見据えたとてもいいフレーズだと気に入っている。あえてこのご時世で差別発言を記すが、社会を意識しないオジさんにはピンとこなくても、子供を育てるようなたくましい女性たちにはしっくりくるはずだ。一度事故が起きたら廃炉までにとんでもない歳月がかかる原子力発電所を100年先まで残したいかどうか、これから成長産業として伸びていく分野をどこかの企業独占するこんな風土は100年先まで残したいのかどうか、資源が少ない国で何が100年先まで残る産業なのか、日本人としての誇りがある素敵な文化を100年先まで残したいかどうか、美しい風景と棚田を100年先まで残したいかどうか、優秀な人材を100年先まで残したいかどうか、ではその人材づくりは今のままで100年先まで残るようなシステムなのか。これで仕分けていくと、何が大事に残していきたいものか、近視眼的に今は大事・必要だけど将来性はないなと思うものはあっさりカットするということができるのではないかと思う。100年というのが長すぎるならば50年でもいい。今こそ見直す時期ではないかと強く感じる。

私みたいな鈍い人間でも、日本が落ちるところまで落ちたか…という絶望感が大きい。無関心、見ぬふりをしているというのではもう済まされないところまで来ている。何をやってもどうせ変わらないという諦めで終えていいのだろうか。

それをどうにかしなきゃいけないと地方の議会に知っている女性たちがこの春2人挑戦している。どちらもカカオワークショップでお世話になった地域だ。一人は先日の投票結果が出て町会議員に初当選した。彼女はガンを患い、寝たきりに近いところからの再帰で余生を地域のために捧げたいと立候補した。もう一人は子育て真っただ中なお母さんだ。こういう人たちが増えることで、これまでの利権をむさぼる人が中心で動いていく政治が地方自治から変わっていくことを願うばかりだ。

東日本大震災10年に寄せて

 今年3月11日、東日本大震災から10年を迎える。今、カンボジアに私は移住しているが、目黒で働いていてとても大きな揺れを感じ、その夜は大勢のスタッフと一緒に事務所に泊まった。その後週末に大阪の実家にすぐに帰り、あの時もメールとスカイプを駆使して大阪でリモートワークをしていた。そうか、コロナ禍の今と働き方はあまり変わっていない。
 あの地震でいろんな被害を見るにつけて心がふさいで、10年後は日本の技術でチェルノブイリの事故よりもはるかに進んで復興して、少しは明るい未来になっているかと想像していたが、今年コロナで世界の人々の心をますますふさいでいる。どちらも見えないものにますます恐怖を感じる日々になっている。

 10年前に被災地に入って、「ソーシャルニットワークプロジェクト」を始めた。福島の会津若松、岩手の宮古、大槌、岩泉、さらには青森まで広がった。そして1年目は全国から集まった応援でストールやひざ掛け、バッグなどを届けた。心待ちにしている人のために届ける、これは被災地の人たちのやりがいにつながった。慶應義塾大学環境情報学部の故・高橋潤二郎先生も「これは被災した人たちのアイデンティティを取り戻すとても有意義なプロジェクトだね」と褒めてくださった。
 このプロジェクトはおかげさまで話題になって、新聞やテレビなどでも紹介された。また現地に一緒に入って編み物を指導してくれたニットデザイナーの三園麻絵さんもあちこちに紹介してくれて、1年後の3月11日には山本寛斎さんが呼び掛けたパリで商品を紹介、化粧品会社の銀座のビルで展示会を行ったり、さらには青山のおしゃれなお店を紹介してくれたり、さらには品川の駅ビルでクリスマスツリーのオーナメントを作るなど、普通の企業が単に売り込んだだけではできないような大きな仕事もいろいろと舞い込んできた。それだけ被災地を応援するというのは耳目を集めたことだった。
 しかし、難しかったのは実際の編み手さんの生活の再建と、仕事とのバランスだった。コンスタントに被災地で仕事をお願いするためには、こちら側はあちこちに営業して仕事をとってこようとする。ニットは夏場はあまり需要がないので繁忙期と閑散期の波が出てくる。その一方、2年、3年と経ってくると、避難所やプレハブの生活から県営住宅にも引っ越しができて、だんだんと生活を取り戻している。生活の中でやらなければいけないことも増えてくる。だんだん年齢も上がってきて、リーダーだった女性は義母の介護が深刻化してきた。このまま続けられない、そして他の人もリーダーを引き受けるほどの責任を持てない、そういうところから中心だった宮古のチームは解散することになり、現在はできる人が時々三園さんからのサンプルづくりなど、単発の仕事を請けたりしている。
 この時に学んだのは、何もなかったところから仕事を作るといっても、そこに係る人たちとともに起業マインドをどうやって醸成するか、だ。得意なことから発展した編み物だったが、やはり仕事にしていこうとなれば自分のペースだけでは進めることができないし、またきちんとした商品を納品すること、商品タグをつけるなど製品として仕上げること、やはりビジネスになったら納品ルールがある。そこを面白いと思って一緒にステップアップしていかなければいけない。負担だと思ってしまったらビジネスには程遠い。お金をもらうからには顧客のニーズに合うようにきちんと仕事をする。自分の商品をプロモートしてくれる人とも利益を分かち合う。このことをよく理解しなければ、続けることが難しい。

 ここは私もとても勉強になった。現在、カンボジアに移住して、コンポントムという町で地元の中高生と一緒に暮らしている。卒業後に海外や都市部に出稼ぎに出るのではなくて、地元で仕事を創ろうということを掲げている。今年11月に高校を卒業する女子学生が4人いる。すでに一人は覚悟を決めて、会社の社長になってくれて、ビジネスへと一歩進んだ。実務はまだこれからもっと教えていかねばならないが、どうやって誰もが参加しても清潔に保ち、間違えなくカシューナッツを詰めて船便での発送準備に取り組めるかという仕組みづくりを構築している。次に、さらに地元の素材やカシューナッツを加工して商品化するリーダーをどうやって稼げるようにするか、新しい商品化やカフェも合わせてどのように収益にするか。デザインが得意な子、ダンスが教えられる子、いろんな才能も活かしてどうやって仕事にしていくかを考えている。

 また、日本のソーシャルニットワークプロジェクトは、全国からいただいた毛糸を無償でいただいたことで原価がかからずに済んでいた。800組もの人々から集まった毛糸を有効活用させていただき、さらに4年後のネパールの被災地にも広がった。100人近い編み手さんたちが集まり、ニットだけでなくフェルトの商品も作るようになっている。現地のネパール人スタッフも日本がフェアトレードとして買ってくれることを当てにしつつ商品を作り続けてきたが、コロナで日本への輸出が難しくなったという状況が転機となり、ネパール国内に売るようにギアを入れ替えている。チラシや動画のスキルもあげて、大いに販売促進をして、少しずつ認知されるようになった。だんだんとビジネスに育ってきているのは嬉しい。

 この震災、そしてコロナはいろんなことを気づかせてくれた。立ち上げたプロジェクトを長く続けるためには、常に無理があるのでは辛いし、しかし一度つかんだお客様をどうやってリピートしてもらえるかを考えないといけないし、清潔感に対する基準が国や文化によっても違うので、輸出してトラブルがないように気を付けなくてはいけない。仕事を創ることの難しさと面白さを日々経験させてくれている。

第二近代の個人化が進んだ先

根強い安定志向

 15年ほど前にいくつかの大学で現役大学生とかかわることがあった。その際に地方の大学で特に聞かれたのが「収入のいい男子と結婚して専業主婦になること」だった。え?平成の世でもそんな古風なことをいうの?と驚きの読者も多いと思うが、意外に女子大生はコンサバだったのだ。「いやいや、何が世の中起きるかわからないのよ。結婚した相手がもしかしたらDVであなたが苦労するかもしれない。女性問題などで離婚するかもしれない。旦那さんが急に倒れて亡くなるかもしれない。夫にぶら下がるんじゃなくて自分で食べていけるように考えなきゃ」と当時は笑いながら話していたが、そのようなことは今や日本の各地で起きているだろう。

 きっとその学生たちも今や30代後半になり、子育て真っただ中の女性たちも多いと思う。どうなっているかなとふと思うこともある。

 経済成長が上向いている時代は何も考えないでもある程度は稼げる。しかし、バブルがはじけて経済成長が望めない時代に突入してからは、今までの延長線上に日本はもうない。それを身近な大人たちもあまり指摘せず、政府は景気回復ばかりを口にして、かつてのような好景気の幻想を国民が抱く。両親が享受してきたようなモデルはとうに崩れたことを自覚していない女子大生があまりに多かった。しかし、この安定志向は令和になった今でも根強く残っていることがさらに驚きだ。

最小社会単位が家族から孤に

 これも10年以上前の話だが、ある男女共同参画センターの評議員を頼まれ、そこを運営していた団体が適切に事業を行っているかを評価するという仕事の依頼が舞い込んできた。そこは全国でも有名なセンターで、会議に臨む前の事業報告書に目を通させてもらった。私は女性の起業支援事業に対してのアドバイザーだったわけだが、他の項目を見ると若い女性たちを引きこもりから脱却、起業へとお手伝いをするという内容もあった。最初に参加した若い女性たちのアンケートの集計結果があった。その中でも忘れられなかったのが「家にいても落ち着かない」と答えている女性がかなり多かったことだ。

 私たちは社会学で“家族は社会を構成する最小単位”と教わっている。しかし、そこにいることがつらい、居心地が悪いと感じている女性が多いという現実にショックを受けた。彼女たちにとっての居場所はどこになるのか?親の過干渉も目立っていた。昔であれば、親と関係性が悪くても、同居している祖父母が助けてくれたり、近所の心やすいおばちゃんがいたり、誰か身近な大人がその子の支えになれていたのだろう。しかし、今は核家族、そして隣人との付き合いもないような都会生活では、見守ってくれる大人があまりいない。ドアを開ければ小言を言われるので、親とも断絶をして自分の部屋にこもる。そういう人たちが増えているということだ。

 ウルリッヒ・ベックは“第二の近代”において個人化がさらに進むことを述べているが、いまや、社会の最小単位は家族ではなくて「孤」になってしまっているのではないだろうか。これは子どもや若者だけでなく、孤独死する人たちからもわかるように高齢者、さらには都会に一人暮らしをする人たちも、だ。周りの目、世間体、干渉を嫌がって田舎から都会に子どもが出たがると、ある地方の親御さんから話を聞いたことがあるが、いったんは得た“自由”がだんだんと“勝手”に変わり、他人との接点がなくなる。いい時は好きなように生きられているように感じる。しかし、いざという何かが起きた時に “孤独”へと陥る。「将来のことは少しは考えなきゃ…」と気持ちがあっても自分一人で考えることは堂々巡りで回答が出ず、対話もない。ま、いいかとスマホなどに逃避して時間はあっという間に過ぎていく。そしていよいよ大変になった時に何も打つ手がなく、情報に踊らされて右往左往する。

 昨年のコロナで「第2波で女性の自殺率が急増」という記事を何度も目にする。物理的に移動もできなくなって、“孤人化”してしまったことが女性たちを追い込んでしまった原因の1つではないかと推測する。

コロナでメンタルパンデミック

 コロナはどんどん専門家の研究が進んでいるが、ワクチンよりも何よりも、心身共に元気であることが一番のようだ。誰かが“メンタル・パンデミック”と書いていたが、コロナがきっかけで情報に右往左往して元気な人が落ち込んでいく。不安ばかりが募って何もしない状態では、免疫力も下がって、危険だ。そして日本は「こんな時期に東京からこの田舎に帰ってくるなんて許せない」というような変な正義を振りかざした同調圧力がさらに気持ちを萎えさせる。きちんと規則正しく自炊をベースとした生活にして、あまり多くの人と今は接触することを避け、変に怖がらずに平常心を持つことが大事なのではないかと思う。

 私はこの時期に日本に帰れなかったので今回は経験をしていない。カンボジアは今のところこれまでの累計で500人にもまだ満たない。巷ではマスクをしたり、銀行に入るときは検温したり、手袋や消毒液も飛ぶように売れ、価格も高騰しているが、パニックにはなっていない。徐々に結婚式シーズンで人が集まるような機会も増えつつある。一体何が違うのだろうか。気候の違いももちろんあるが、私は生活スタイルではないかと思う。交通手段がバイクが中心で遠出も少ない。国内で観光旅行をする人はまだまだ少ない。ご飯も自分たちでちゃんと1から作り、特にプーンアジでは薪を割ることから始めるわけだが、体を動かす「営み」がある。洗濯も大きなたらいいっぱいにゴシゴシ手で洗って干して…。ここにいる子たちで肥満の子はいない。なんでもボタン一つで楽ができて、時短は図れるが便利すぎることがこれらの運動を営みの中から奪い取っているからなのか。

教育の在り方-私たちの実践

 そして高度経済成長期が限界をとうに迎えていて、失われた20年、30年といわれて久しいのに、教育のシステムは旧態依然だ。今や大学もリモート授業ばかりだそうだが、先生がZoomなどをこなせないから今期はレポートだけ提出といった、生徒たちの勉強の意欲をそぐような行動を起こしている人も結構いると聞いて呆れた。また60人くらいしかいない学科でも一人ずつプレゼンをしたことがなくて、パソコンは持っていてもワードでレポートを書くのみでほとんど機能を使いこなせていないという生徒はたくさんいる。その子たちが卒業して就職して、今やもう1から研修・教育投資ができるほど企業も金銭的・時間的に余裕がない。ということは、転職組の中堅を入れたほうが仕事が回るということで、若い働く人たちの雇用機会が減る。大学4年間で何をしていたかがここで大きく分かれるのではないかと感じざるを得ない。就活の時に取り繕っているようでは手遅れだ。

 現在、プーンアジでは中学生から高校生までのカンボジア人の学生を受け入れているが、ここで私たちは将来都会や海外に出稼ぎにいかなくても、地元で自分で仕事を起こせるようなスキルを身に着けてもらうようにそれぞれに仕事を出している。生徒たちは家も経済的に裕福ではなく、町中に高等教育を受けさせるためにかかる費用を工面するのも一苦労だ。そこで我々が仕事を提供することで寝食する場所を提供し、学校以外の時間は労働力を提供するという形を採っている。親元を離れているから当然甘えられない。ご飯は自分で作らないといけないし、洗濯などもすべて自分。生活の基礎的な部分ももちろん身に着けている。そして、カシューナッツの仕事も今コミュニティで行われているような仕事からさらに発展して自ら商品開発したものを売っていくような試みや、ITの仕事なども請け負う。親はいないからちゃんと自分で起きないといけないし、スマホをやりすぎて夜更かしするというのは禁止にしているので昼夜逆転現象ということもここでは共同生活ゆえにできない。

 日本では子供を大人たちはどう捉えているのだろうか。塾に勉強に忙しいからやらせない、お母さんも仕事で忙しいから変に手伝わせると時間がかかるからやらせない、こういう光景が多いと思う。しかし、子供だから…といつまでも特別枠を設けていると、急にある年齢に達したからといってできるわけでもない。“できない”のは経験し、自信をつけるようにやらせていないことも大いにある。子供なりにできることをやって身に着けさせる場が必要であって、この能力がかなり欠落していることが、ひいては将来自分が自立することをイメージできないことへもつながりうる。生活するための基礎、今のように外に出られないときに自分で自炊をすることを楽しめたり、家でも内職できることを考えて見つけ出したり、時間があるゆえにやれることは若いうちは実は結構あるはずだ。世の中の動きを知って、これまでとは違う時代が来ていることを実感して自分の足で立っていける子供たちを育てていかなければ、いざという時に自分が自分を守るしかない。それがコロナで加速度的に近づいているような気がしてならない。政府の言うとおりにしていたら生活も保障をされて安心だということはあり得ないし、雇用を守るといいながら週休3,4日制を導入すると、食べていけない正社員も出てきそうだ。正社員=安定ではなくなる。そんなときに自分で家をベースとした副業をやるためにどんなアイディアを思いめぐらせたらいいかなど、自分で考えて事業を起こす楽しみを知らなければ、楽しく乗り切ることなんかできやしない。そろそろ日本は何でもあって素晴らしい、金持ちの国だという幻想から目が覚めないと、かなり事態は悪化している。

 最近、プーンアジでは少しうれしいことが起きた。ここのところ順調にカシューナッツの仕事が進んで、昨年よりも倍近い量を早い時期に終えることができそうだ。次の収穫までに1か月ほど時間があり、その分ここでは仕事ができない。そんな中、家への仕送りも含めてもっと稼ぎたいと、敷地内で地元の女性起業家ティーダさんが経営するドリンクカフェでパパイヤサラダを売りたいと上級生の女子たちが言い始めた。自分で少し先のことを考えて小商いにチャレンジする、とてもいいことだと私は思っている。ないなら自分で生み出す、このトレーニングをすることはとても大事だ。日本の同世代の若者たちにこの先を読んで危機意識はあるだろうか。学校で教われないならば自分でどこかからつかんでいくしかない。私はカンボジアを舞台に、日本人カンボジア人にかかわらず、こういう場を提供していきたいと思っている。