「変化の種10」インドの社会起業家紹介

CWB 奥谷京子

今回ヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』から取り上げる3組は、地域での教育、自ら苦労して学んで地域を変えようと立ち上がった若者に焦点を当てて選んでみました。どれも素晴らしい取り組みです。

〇アニル・クマール・グプタ: 草の根イノベーションの先駆者

  アニル・クマール・グプタは、草の根イノベーションにおける著名なインドの学者であり、Honey Bee Networkを設立したことで有名です。約36年間にわたる輝かしいキャリアを経て、2017年にアーメダバードのインド経営大学の常勤教授を退任しました。グプタ氏は経営教育に多大な貢献をし、2004年に名誉あるパドマ・シュリ賞を受賞しました。

 グプタ氏は、National Innovation Foundation の執行副会長および世界芸術科学アカデミーのフェローとして、イノベーションの促進において重要な役割を果たしてきました。

 彼の注目すべき貢献は、人気のShodh Yatra (右下、解説参照) など、アーメダバードのインド経営大学院でのコース開発にも及んでいます。この革新的なコースには、経営学部の学生を全国各地に連れて行き、地域コミュニティから学び、その知識体系を理解することが含まれていました。Shodh Yatraのコンセプトは、グプタ氏のより広いビジョンから生まれました。

 全国を横断し、農民、伝統的な知識の保持者、草の根の革新者、学生と交流します。

 SRISTI (持続可能な技術と機関のための研究とイニシアチブ協会) のコーディネーターとして、グプタ氏は持続可能な技術に関連する取り組みを積極的に支援しています。イノベーションの促進に対する彼の取り組みは、2011年以来、世界的な問題を扱うオンラインマガジンであるフェアオブザーバーのアドバイザーとしての役割からも明らかです。

 グプタ氏は、2009年11月のTEDインドでも講演者として洞察を共有しました。グプタ氏の使命は、草の根イノベーションの余地を世界的および地域的に拡大することを中心に展開しています。彼は、非公式セクターと公式セクターの間でアイデアを結び付け、クリエイティブなコミュニティ、個人、子供たち、技術系の学生に対する認識、尊敬、報酬を確保することを目指しています。グプタ氏は、個人、組織、企業、国家レベルで、倹約的で柔軟かつフレンドリーな共感プラットフォームを通じてオープン イノベーションを強化するよう努めています。

 グプタ氏は、共感を持ったオープンな相互イノベーションを通じて、個人、組織、コミュニティの創造性を解き放つことに取り組んでおり、1998年から2016年にかけて、インドのすべての州をカバーし、5000キロ以上に及ぶ43のShodh Yatraに着手しました。

 2017年に Honey Bee Networkボランティアとともに、第2ラウンドを開始し、画期的なイノベーションを促進し、クリエイティブなコミュニティに力を与えるという使命を追求し続けています。

― Shodh Yatraとは?

 ショーディヤトラの目的は、地元の草の根のイノベーター、伝統的な知識の保持者、革新的なアイデアを持つ学生、生物多様性の保全などで社会に多大な貢献をしている人々を、目の前でコミュニティの前で称賛し、インスピレーションを与えることです。他人に描かれてしまう。ショディヤトリスの行進グループは、科学者、革新者、村人、学生、教授で構成され、ネットワークのメッセージを伝えるために 6 ~ 7 日間かけて約100キロメートルを歩きます。

 生物多様性とアイデアのコンテストは子供たちの間で開催され、食品コンテストは一部の村で女性の間で開催されます(特に、少なくとも1つ以上の知られていない、または忘れ去られた植物作物が使用されている食品に焦点を当てています)。

〇ランジャン・ミストリー:

教育と教育を通じてビハール州を変革する起業家精神

 第一世代のインド人社会起業家、教育者、思想家であるランジャン・ミストリー氏は、ビハール州で変革を起こす人物として浮上しています。

 1996年3月14日、ビハール州ガヤのチャカウリ・ビガという小さな村で生まれたミストリー氏は、風光明媚だがナクサルの影響を受けた風景に囲まれた下位中産階級の家庭で育ちました。経済的困難に直面していたにもかかわらず、彼は学業に優れ、数多くの工学部の入学試験を突破しましたが、経済的制約により高等教育を受けることができませんでした。

 ミストリー氏の挑戦は、6年生の時に英語コーチングクラスの費用を稼ぐために教え始めた時、予期せぬ方向に進みました。彼の教育への情熱は、スラム街やナクサルの影響を受けた村の生徒を含む何千人もの生徒を教えることにつながりました。2016年に社会起業家精神に移行し、ビハール州の起業家精神の醸成に注力しました。

 パトナ大学インキュベーションハブ (PUI-Hub) の創設メンバーとして、ミストリー氏はビハール州に大学レベルで初のインキュベーションセンター兼E-Cellを設立しました。2017年に、田舎の学生を結び付けるインド初のエドテックメディアおよび発見プラットフォームである Campus Varta を設立しました。その影響力が認められ、ミストリー氏は2019年にビハール州出身として初めてフォーブス誌の「30歳未満のアジア30人」の準決勝進出者にノミネートされました。

 ミストリー氏は、ビハール州の女性に力を与えるビハール・マヒラ・ウドヨグ・サング(BMUS)の諮問委員としての役割に加えて、影響力のある講演者、客員教授、業界の指導者でもあります。2015年、彼はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスやデリー・スクール・オブ・エコノミクスなどの著名な機関からインスピレーションを得て、後にパトリプトラ経済学校と名付けられるパトナ経済学校の設立を提案しました。

 ミストリー氏のビジョンは大学レベルでの起業家精神の育成にまで及び、ビハール州のさまざまな大学でインキュベーションセンターと起業家精神セルの提案と設計において重要な役割を果たしました。2019年にはビハール州にロボット研究センターを設立するよう、州政府に提唱しました。

 教育と起業家精神に対する彼の取り組みは、Nxt100プログラムで明らかです。ミストリー氏は、無料で個人指導を提供し、100人の起業家を生み出すことを目指しています。ランジャン・ミストリー氏の物語は、ビハール州の教育と起業家精神を変革するための回復力、決意、そして根強い取り組みを例示しています。

〇ターニャ・コトナラ、ターニャ・シン:

持続可能性を備えたブーリの文化遺産の物語

 ウッタラーカンド州のユニークな文化遺産を祝い、保存するために、家族の友人でありブーリの共同創設者であるターニャ・コトナラ氏とターニャ・シン氏は、この地域の芸術、工芸、料理を促進するという使命に乗り出しました。ウッタラーカンド州のガルワリ語で「小さな女の子」を意味する「ブーリ(Bhuli)」という名前は、彼女らの社会事業の精神を体現しています。

 ブーリは、持続可能性、スワデシ (解説参照)、そしてシンプルさの原則に基づいて運営されており、ウッタラーカンド州の本質と文化の豊かさを認識させるプラットフォームを作成することを目指しています。共同創設者は二人ともソーシャルセクターで働いていたため、自分たちのルーツに対する情熱を、ウッタラーカンド州の文化構造を称賛するだけでなく、維持するベンチャー企業に注ぎ込むことに決めました。

 NIFT(National Institute of Fashion Technology)のシロンでファッションデザインの学位を取得したターニャ・コトナラ氏と、イタリアのプーサのIHM(The Institute of Hotel Management Catering & Nutrition)および美食科学大学で食品と栄養学およびフードコミュニケーションのダブル修士号を取得したターニャ・シン氏が力を合わせてブーリを設立しました。デザインと栄養に関する彼女らの専門知識の組み合わせにより、文化保存への独自のアプローチの基礎が築かれました。

 ブーリが取り組んだプロジェクトには、伝統的な衣装文化にインスピレーションを得た限定版カレンダー、手描きによる女性のための安全な空間の創造、地元の作物や料理に焦点を当てた栄養週間のお祝い、ウッタラーカンド州の床画スタイルである伝統的な壁を探求する「アイパン」シリーズなどが含まれます。

 ブーリはイラストの枠を超えて、地元の自助グループや織り業者と協力し、地元の織物を研究し、地域の職人技を強調したコレクションを作成することを目指しています。この社会的企業は、地元産のスーパーフードの普及、その健康上の利点を強調し、地元農家を支援することにも取り組んでいます。

 ブーリの取り組みは、ブーリがデザインしたポスターがウッタラーカンド州全域の 19,000か所のアンガンワディセンターを飾る「母乳育児啓発キャンペーン」などのプログラムのための政府機関とのパートナーシップにまで広がっています。アンガンワディセンターと協力して子供たちのためのインタラクティブな活動が企画され、楽しい学習体験ができました。

 設立してまだ1年にも満たないにもかかわらず、ブーリはソーシャルメディア上でフォロワーのコミュニティを構築することに成功しました。現在、ターニャ・コトナラ氏と ターニャ・シン氏がアートとコンテンツの制作のほとんどを担当していますが、近い将来、地元のアーティストやコミュニティを雇用し、トレーニングすることもビジョンに含まれています。

 ウッタラーカンド州の芸術、工芸、食文化にインスピレーションを得た今後のプロジェクトに加え、女性のエンパワーメントと児童発達のための州政府との協力により、ブーリはこの地域の豊かな文化遺産の保存と促進において有望な存在となっています。

―スワデシとは?(ベンガル語: স্বদেশী, ヒンディー語: स्वदेशी,英語: Swadeshi)インドにおいてイギリス帝国のインド支配に対して出されたスローガンのひとつであり、経済的戦略。 「国産品愛用」を意味する。

草の根EXPOを!次世代が未来へ

CWBアドバイザー 松井名津

 インドの大学と様々な提携をすることになった。インターン交換、伝統技術の移植交流、ダンスなどの文化交流、そして、若者が世界と協働して「未来の社会をデザインするために、いかにして命を救い、人間に力を与え、人間同士を結びつけるか」の草の根EXPOを国境を越えて行う。インドは大阪万博をキャンセルした、そこを埋める。さらにラテン圏は倹約主義で一味違う(ブルーノ氏のレポート)。ここらを結び、ウェブ上でEXPOを披露しようというアイディアだ。以下、インドで大学とも語り合った筆者が語る。

 大阪万博が実施されようとしている。大阪に生まれ育っている私の母などはいまだに「あれ、本当にやるん? やめといたらええのに」と至極懐疑的である。もちろん大きな理由になっているのは、発表されるたびに増額される費用だろう。が、それ以上に「今更なぜに万博」という空気がある。まぁオリンピックならば各国選手の活躍だとか、金メダルの数だとかで盛り上がる(?)こともできようが、そもそも万博(万国博覧会)って何のためにあるんだっけ?という根本的な疑問がどこかにつきまとう。その根本的な疑問を払拭するのが開催目的だろうが、その初っ端に「万博には、人・モノを呼び寄せる求心力と発信力があります」とくると、オイオイ要は自分のために人を利用するのかよ!と言いたくもなる。(https://www.expo2025.or.jp/overview/purpose/

 しかしそれも仕方がないことなのかもしれない。元々第1回ロンドン万博からしてその目的は、大英帝国の産業力、技術力を世界に見せつけることだった。だからこそexposure=露呈なのだが、一般の人にとって蒸気機関の展示だけでは魅力に乏しい。そこで当時の万博はいわゆる「見せ物」を会場に配置し、より多くの人を会場に惹きつけようとした(『万博とストリップ 知られざる20世紀史文化史』荒俣宏, 集英社新書を読んでいただきたい)。なので本末転倒といわれようと「人集め(=金集め)」が先で、SDGsだとか、AIと人間の共存可能性だとかは所詮「お題目」に過ぎない。要は、各国がお互いの技術力だとか先端性だとか(その他なんでもいいけれど他国にひけらかしたいもの)をお披露目するために行われるわけだ。そういう底が知れているからこそ、今更感がどうやっても抜けきれない。

 そういう「ひけらかし」感が付きまとう万博という言葉を使いながら、私たちは「もう一つの」「別の」万博をやろうとしている。名付けて草の根万博(grass roots exposition by youth)。草の根万博もある意味「ひけらかし」ではある。ただしひけらかす相手は他人(他のコミュニティの人たち)だけではない。自分たちのコミュニティの人々に対してもひけらかす。expositionの原義に戻って、自分たちのコミュニティの「誇り」を掘り出して開示する運動そのものが、草の根万博である。コミュニティの誇りを掘り出すというと、「名物」や「名所」のリストアップとか、地元の人しか知らない「名店」の紹介というイメージがあるが、今回目指しているのはそれではない。まず私たちがやらなくてはならないのは、自分たちのコミュニティにとって何が誇りなのかを問うことである。それが既存の名物であっても構わないが、なぜそれが名物になっているのかという根っこを掘り起こす。例えばインドのマイソールはサンダルウッドの名産地である。ではなぜマイソールのサンダルウッドが有名なのか、木として特質なのか、香りが良いからなのか、何か神話なり物語があるからなのか。地元ではどのように扱われてきたのか。尊重されているのは昔からなのか、それとも近代に入って注目されたのか(たとえば帝国の植民地からの名物としてなのか)。尊重されているのは地元だけなのか、世界的になのか(サンダルウッド=白檀は昔から日本でも仏教とともに尊重されてきた木材であり、香りだった)等々。その過程は自分たちの根っこが何なのか、何でできているのかを発見することである。さらにその根っこを育てたのがどんな土壌だったのかを見つけることでもある。土壌とは比喩でもなんでもない。コミュニティは風土に根ざしている。コミュニティの誇りもその風土の中から生まれている。歴史の中で元々の場所から移住を余儀なくされたり、近代の国民国家の国境によって分断されてしまったコミュニティもあるだろう。その移住した先の風土によって、コミュニティの根っこは変化を遂げる。そして変化した根っこからは、新しい花や実が生まれたことだろう。生まれた時は新しいもの、伝統に逆らうものだったかもしれない。やがてそれはコミュニティの伝統の中に溶け込み、伝統の一部として意識されていく。それには長い時間がかかる場合もあるし、たかだが50年ぐらいで変化してしまう場合もある(日本人の食事の急速な変化などはその一例だろう)。

 だから見せるのは結果として姿のあるもの(物やパフォーマンス)ではない。というか、結果も見せるのだけど、それ以上に今現在あるその姿が、どのようにして出来上がってきたのか、なぜ、どのようにしてコミュニティの人々がそれを守り続けてきたのかという時間的な過程である。それはまた、それぞれのコミュニティが他のコミュニティからどんな影響を受け、自分たちのコミュニティをどのように変化させてきたのかを見つけ出す過程でもある。

 私たちの「草の根万博」はインターネット空間を使う。それは単純に時間と空間を限定することがなく、博覧会を開催できるということだけではない。インターネット空間を使うことで、展示物が変化する可能性を開いておきたいのだ。まずは、各地のコミュニティが自分たちの誇りを展示したとしよう。展示して終わりではなく、お互いのコミュニティの誇りを相互に参照することができる。そのことで意外なところで自分たちの遠縁にあたる文化等を見つけたり、似ているけれども異なった技術(やり方)に気がつくことができる。こうした気づきによって、自分たちの誇りをさらに変化させ、進化させることが可能になる。その一方で、観覧者は単に「見る」だけの受け身な存在から、関わり、貢献する能動的な存在に変わることも可能である。自分が強い興味や共感を抱いたコミュニティに、自分自身が関わることが可能だ。その第一歩は単純な「お金で応援」であってもいい。しかし興味や共感が強まるにつれて、そのコミュニティの人と関わりたい、一緒に何かを作り上げたいという思いが募っていくことだろう。その時、観覧者は受け身の存在から、自分が自分以外のコミュニティに関わり、巻き込まれる主体になる。主体となった異文化(異なるコミュニティの人)を受け入れるコミュニティも、受け入れたことによってなんらかの変化を余儀される。その変化は良い方向に向かうこともあれば、排斥など悪い方向に向かう場合もあるだろう。何か変化が起こる時、賛成と反対にコミュニティが分かれてしまうこともよくあることだ。ただ、草の根万博の展示作成に携わった人(若者)は、展示作成の過程で自分たちのコミュニティの根がただ1つではないこと、その根を育てた土壌も多岐にわたることを実感するに違いない。こうした人たちが中核になって、排斥や分断の動きを少しでも和らげられるのではないかと願っている。

 芸術が美術館に展示されるものから、見る人を巻き込むインスタレーションに変化したように、博覧会も展示する人と見る人が相互に巻き込まれ合うインスタレーションに変化できる。芸術におけるインスタレーションは、美術館から外に出ることで社会に変化をもたらそうとするものである。それと同じく、展示館にとどまらないインスタレーションを起こす私たちの目指す「草の根万博」もまた、展示館や博覧会会場から外に出て、それぞれのコミュニティと世界とに変化をもたらそうとするものである。

「生活の豊かさ」から「豊かな生活」へ

CWBアドバイザー 松井名津  

 高田さんの原稿に「貯金は増えも減りもせず、その他広い意味で財産と呼べるものが激増している」という言葉があった。この言葉自体はよく田舎暮らしの勧めなどで使われる。また高田さんは「家族・応援団や仲間・生活力・技術・経営感覚・土地・家・料理スキル・備蓄米や種・暮らしに必要な道具の数々」が増えたと書いている。こうした諸々の技術や経験を「財産」という言葉に留めておいてよいのか。財産という言葉はどこかしら一人の人間に属するもの、あるいは人間の築いたものという印象を与えがちだ。確かに都会では得られない貴重なものかもしれないが、財産といった途端、それを得るために代替手段が他にもあるように思えるし、田舎暮らしのすすめやIターンの宣伝文との相違が不鮮明になるような気がした。

 その時、ふと思い出したのが『農民芸術概論綱要』 (https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html)である。なぜ宮沢賢治の文章を思い出したのか。簡単だ。冒頭にこう書かれている。「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい」。そして「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」のだ。だからこそ農民芸術が興隆しなくてはならないと賢治はいう。「いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある 都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」なのである。

「種が大事」 日本では農協が種を蓄えていましたが、それもなくなり、商業主義の種か、アメリカの種苗会社に依存する結果になっていきそうです。原種を保存していくことがとても大事でイギリスはそれを政府の政策としてやっていると言われています。今、ミャンマーで森に入ることは戦地なので、外国人にとって命がけですが、現地の住民は可能です。
 原種はおいしくなく、実も小ぶりなものが多いです。しかし、いざという時には、それで命を繋ぐ。ハーブの取材は続けていますが、次は「食える作物の種」を保存したいと思います。湿度や温度の管理など学ばなければなりませんが、それも現地のお年寄りからヒヤリングです。天草の食べられる森(エイブル)ともリンクです。

 今の若い人は生き甲斐がないという。エンデの『モモ』に描かれた灰色の世界が自分たちの世界だと共感する人たちが多いという。だとすれば「灰色の労働を燃やす」ことのできる「芸術(アートとして生活の術や科学も含んでいる)」、生活それ自身から産まれ、生活と共に変転し、生活に根を下ろす美しいもの、楽しいものが必要なのだ。それはプロレタリア文学のように叛逆・憎悪を主題とし、そこに(あるいはそこから)新しい「美」を剔出しようとしたものではない。

 ここからは私の個人的な感覚になってしまうのだが、賢治の文章には独特の硬質の美がある。それは水晶やアメジストといった貴石を口に含んだ時の涼やかさを思わせる。「銀河鉄道の夜」に描かれた風景のように硬質でありながら柔らかである。ちょうど銀河の河原にある砂が小さな炎を宿した水晶であったように、花咲く竜胆があたかも貴石であるかのように、矛盾を難なく同時成立させる美である。賢治の描写は彼が暮らした環境の中で生まれたといっていいだろう[1]。言葉には彼の経験と感情と心情があり、彼自身の科学や論理がある。だから賢治の農民芸術の分野は料理や体操から詩歌、文芸、建築、服装と全ての人間生活に及ぶ。全ては生活から生まれ生活で生かされていく。しかしそれはいわゆる「民藝運動」とも少し異なる。なぜなら職業芸術家ではなく、全ての人が一時専門芸術家となり、また生活者に戻るような循環を考えてもいるからだ。さらにいえば科学者もまた生活者として、その身体活動とともに科学を形作ると考えられている。[2]

 とはいえ、生活と科学というと現代ではこれほどかけ離れているように見えるものはないだろう。特に抽象度の高い科学、たとえば数学は虚数のように現実にはあり得ない存在を取り扱っている。賢治の科学と生活の一体化という主張は、20世紀初頭ではともかく、現在ではとても考えられない主張だと思われるかもしれない。しかし最先端の数学では数学者が数を扱うのではなく、数であることが肝心だという主張もある。こうした主張は実は数そのものが人間の身体性に基づいていることを基礎にしている。確かに17世紀から西洋では数学は極度にその抽象性を増し、抽象的な公理系の中で「数学独自」の世界を築いてきた。しかしその一方で、数学が人間の思考能力のどの部分を表しているのか、計算ができることと数学がわかることの違い(それは現代的にいえばAIと人間の脳の働きの違いともいえる)とは何かという根本的な問いに関して、再び人間の身体性を考えに入れなくてはならない。ここで人間の身体性とは、単純に人間が五感から情報を得ているということにとどまらない。人間は受動的に情報を受け取るだけではなく、その情報の中から最も必要な情報を抽出し、道具によって加工し、周囲の環境を認識する。こうして認識された環境は客体的な環境ではなく、人間と周囲によって創り出された「環境」である。

数学においても、数学者は人間が作り出した道具である数字を使い、一定の数学的環境を自分の周囲に作り出している。それは単純に数学的世界から刺激を受け取るだけでなく、日常生活や日常の風景から想像力・創造力が生み出されることになる。日本の代表的な数学者である岡潔はこうした働きを「情緒」とよんだ。[3]

工知能と人間の脳の働きとの比較といえば、言語能力に関しても、人間の身体性があってこそ人間の言語が発達するという研究もある。こうした研究でも人間が身体とその延長である道具を使って、環境と相互作用する中で、自分の(とはいえそれは周囲の社会慣習に色濃く染められてはいるが)環境を作ることによって認識を深めていく過程が強調される[4]

 こう考えると、人間が認識を深め、自分や周囲の環境に対応して変化するために「身体」が非常に大切だということになる。たとえそれがとても抽象的な数学であっても。

 さて、楠に戻ってみよう。高田さんがいみじくもいっているように、彼女の息子は「自然児」として育っている。それは彼が全身でいろんな物事を体験していることに他ならない。都会ではどうだろう。多くの親が子供たちを自然教室や自然体験に参加させようとしている。それは彼ら自身が都会の生活の中で育つ自分の子供たちに何らかの不安を感じているからだろう。いわゆる「知識」を得られる機会が多くても、その知識は既存の知識であり、賢治が求めたような灰色の労働を燃やすような新しい創造を見出すきっかけとはなり得ない。新しい創造、芸術、科学を生み出すのは、自然と人間の関わり合いとその中で生まれる身体経験を土台にした「環境」の中で育まれる気づきや発想なのだ。 こうした気づきや発想を生み出す基が楠にはある。彼らの生活を写した写真は端的に美しい。写真家が美しくアレと切り取ったから美しいのではなく、対象それ自体に美があるからこそ美しい。楠が将来の農民芸術を生み出す懐となるかどうか。それは一元に断定することはできない。しかしその可能性は十分に持っている。彼らや楠に集う人、外から(日本の中とは限らない、アジアからという可能性も高い)彼らに刺激を与える人々。こうした人々が作り上げるこれからの「楠」と


[1]  『銀河鉄道の夜』の色彩表現に関しては、ますむらひろし作画『銀河鉄道の夜(4次稿編)』(1〜4巻),風呂猫,の各巻とその後書を見てほしい。

[2] 「グスコーブドリの伝記」を参照

[3] 森田真生『数学する身体』新潮社2018年

[4] 今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 言葉はどう生まれ、進化したか』中公新書2023年

変化の種9 インドの社会起業家紹介

CWB 奥谷京子

 ヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』も9回目を迎えますが、翻訳する私は誰よりも早く読み、楽しんでいます。やはり人口が10倍以上いる国はいろんな地域もあるし、貧富の差など社会問題もありますが、様々な経験を持つ人たちが課題解決のために立ち上がり、その勇気に励まされます。

 今回選んだ3組はすべて男性ですが、IT化できない小さな規模のNGOなどを助ける情報システムを提供したり、まだオーガニックがインドでそこまで浸透していない時に将来のためにとオンラインサイトを誰よりも立ち上げた話、そして暑い時期は50度近くある中でも人力車を引っ張る人たちを私もインドで見てすごいなと思ったのですが、その人たちに付加価値を付けてもっと稼げる仕組みを作った人の話と、なかなか面白いです。

スワプニル・アガルワル、スナンダン・マダン Dhwaniの技術が農村開発に架けた橋

 アナンド農村経営研究所(IRMA)の卒業生であるスワプニル・アガルワル氏とスナンダン・マダン氏は、社会的企業と非営利部門におけるテクノロジーの採用率が低いことを認識していました。草の根組織が業務プロセスのデジタル化で直面している課題を目の当たりにした彼らは、ギャップを特定し、それに対処することを決意しました。アガ・カーン農村支援プログラム(AKRSP)と連携して、南グジャラート州のプロジェクトでデータ集約型のプロセスを簡素化するICTおよびソフトウェアソリューションを開発しました。

 しかし、これらの小規模プロジェクトからの収益は、彼らを支えるのに十分ではありませんでした。2人は仕事に就きましたが、すぐに満足していないことに気づきました。彼らは正式にDhwani Rural Information Systemsを設立し、社会部門のテクノロジーギャップを埋めることを目指しました。当初はDhwaniを副業として運営していましたが、すぐにこの事業に完全に専念する必要があることに気付きました。

 Dhwaniは、特に農村地域の社会的影響力のある組織、NGO、非営利団体にテクノロジーソリューションを提供することに重点を置いています。同社のサービスには、データ収集、データ入力、カスタマイズされたダッシュボードでのリアルタイム データ ストリーミングのデジタル化が含まれます。既存のプラットフォームと連携し、連携する組織の特定のニーズに合わせたアプリケーションを構築します。

 課題が多く、スケールメリットもないにもかかわらず、Dhwani は社会セクター全体に共通する問題を特定しました。同社は、データ収集、分析、インテリジェント タスク、IVR技術(電話自動応対サービス)などの問題に対処するプラットフォームの作成に取り組んでいます。同社が取り組むことを目指している重要な課題の1つは、紙を多用するベースライン調査のプロセスであり、プロセスを効率化するためのICTソリューションを提供しています。

 Dhwani は、多くのIT企業が規模の大きさばかりを重視しているためにこれらの組織にサービスを提供していないことを認識し、社会的影響力を持つ組織のコスト削減に情熱を傾けています。

 サービス重視でスケールメリットがないことを認識しながらも、Dhwani は、社会セクターの一般的な問題に対応し、労働者を機械的なデータ報告作業から解放して現場での生産性を高めることに貢献できるプラットフォームを作成する可能性を見出しています。

 Dhwani は、システムが地域言語に依存せず、アクセス可能であること、つまり中等教育を受けた人でもソフトウェアを使用できる必要があることを強調しています。彼らは、社会セクターで透明性と説明責任を実現するには、デジタル化と自動化が重要であることを認識しています。

 資金提供者、特に期待の高い大口の資金提供者を説得するという課題に直面しているにもかかわらず、Dhwani は、協力するコミュニティのニーズを理解し、農村の現実に対応するソリューションを提供することに尽力しています。彼らは、ICTソリューションの提供だけにとどまらず、農村開発の文脈で人々の真のニーズを理解するために人々と時間を過ごす、開発の専門家であると自らを定義しています。

URL: https://dhwaniris.com/

マヌジュ・テラパンティ Organic Shop で成長を促進

 2010年にマヌジュ・テラパンティ氏が設立したOrganic Shopは、インドで6,000を超える認定オーガニック製品を扱う最大のオンラインでの提供者として台頭しました。このプラットフォームは、地元の製造業者、小売業者、消費者をつなぐ架け橋として機能し、オーガニック製品のマーケティングの透明性とシームレスなプロセスを促進します。

 マヌジュはオーガニック製品に深い情熱を持っており、将来の世代が必須製品の有害で疑わしい生産方法から保護される世界を思い描いています。このプラットフォームは、オーガニック製品の一元化された市場を提供することで、忙しい消費者が家族の健康を確保する上で直面する課題に対処します。

 Organic Shop は、チームがビジネスモデルを策定し、ビジョンを共有するために志を同じくする企業を探した2010年に始まりました。2011年、このプラットフォームは1,200を超える認定オーガニック製品のカタログでインド市場をテストしました。

 当初の課題にもかかわらず、このスタートアップは2年目に収益性を達成し、市場からの好意的な反応を示しました。Organic Shopの成長軌道は、2013年の資金調達ラウンドで大幅に加速しました。このラウンドでは、ラジャスタン エンジェル インベスターズ ネットワーク (RAIN) から30万インドルピー(約52万円) の資金を確保しました。この資金注入により、チームは製品ラインを拡大し、新しいカテゴリを追加し、提供品目を強化できました。最大のオーガニック製品カタログになることに注力した結果、45の登録ブランドとのコラボレーションと、6,000を超える製品ポートフォリオが生まれました。

 電子商取引の分野では、タイムリーで信頼性の高い製品配送が重要であるため、物流はOrganic Shopにとって大きな課題でした。しかし、同社はこの課題を、モデルを改良し、顧客の信頼を築く完璧な配送を保証する機会と捉えました。

 将来を見据えて、Organic Shopはヨーロッパ市場に進出し、世界的にオーガニック製品の主要市場および生産国としてのヨーロッパの地位を活用することを目指しています。この動きは、世界中の消費者に様々なオーガニック製品やグリーン製品を提供するというプラットフォームの取り組みを反映しています。

 Organic Shopのストーリーは、自宅の裏庭で運営されていたスタートアップから、著名なグローバル電子商取引Webサイトへと移行した同社の急速な成長の証です。マヌジュ・テラパンティ氏は、集中力を維持し、忍耐力を維持し、顧客に価値を生み出すために常に革新を続けてきたことが成功の要因だと考えています。

注)2019年ごろまでの活動はX(旧Twitter https://twitter.com/Organicshopin)でも見られますが、その後の動きがわかりません。おそらく大資本の会社がオーガニック産業に本格的に乗り出し(https://organicindia.com/)、オンラインショップも閉じたのではないかと思われます。そして現在マヌジュさんのことを検索すると、ブロックプリントなどを使ったリネン、ベッドシーツなどを販売するオンラインのサイトは存在しており、世界に向けても発信しています(https://texaura.in/)。

イルファン・アラム:人力車引きを起業家として啓蒙

 イルファン・アラムは、インドの人力車引きに対する変革的な取り組みで知られる、著名な起業家であり社会革新者です。彼の起業家としての道は、13歳の時に株式市場分析とポートフォリオ管理会社の設立から始まりました。イルファンは、インドのテレビ番組「Business Baazigar」に出演し、旗艦組織であるSammaaN Foundationの設立を記念して広く認知されました。

 非営利団体であるSammaaN Foundationの創設者兼会長として、イルファンは人力車引き部門の組織化に注力してきました。彼の人力車引きのための金融包摂モデルは広く評価され、ビハール州、ジャールカンド州、マディヤ・プラデーシュ州、ウッタル・プラデーシュ州など、インドのいくつかの州政府に採用されています。

 イルファンの起業家精神とイノベーションへの取り組みは、CNBC Young Turk 賞や CNN Young Indian Leader 賞などの受賞歴からも明らかです。彼は、インド工科大学、インド経営大学院、アイビーリーグなどの名門校の学生のメンターを務めています。彼の社会的起業家精神は世界的に認められ、彼の草の根レベルの社会的イノベーションの取り組みは、エコノミストやフォーチュンなどの出版物で特集されています。

 フルブライト、フォード、TED フェローであるイルファンは、フルブライト奨学金を得てハーバード大学ケネディスクールの行政学修士課程を卒業しました。彼はアリーガル ムスリム大学の諮問委員会メンバーとして尊敬される地位にあり、CII Yi パトナ支部やインド系アメリカ人商工会議所パトナ支部などの組織で重要な役割を果たしてきました。

 さらに、彼は CII ビハール (ER) の「スタートアップとイノベーション」小委員会の議長を務めています。

 イルファン・アラムのビジョンは、インドで起業家精神を革命に変えることにまで及びます。若者を起業家精神とイノベーションに駆り立てる取り組みに積極的に関与している彼の仕事は、ケララ州政府に認められ、12 年生(日本で言えば高校3年生)の英語教科書に彼の歩みに関する文章が掲載されました。彼の人生を変え、起業家精神を促進する献身は、社会的起業家精神における彼のリーダーシップを強調しています。

*解説:インドでは、人力車の経営者のほぼ95%が人力車を所有しておらず、日払い (20~30ルピー/日) で車を借りています。そして、彼らのほとんどは長時間労働ですが、人力車夫は家族を養うためにほとんど稼げません。イルファンが変えたいと考えているのは、人力車の車夫たちに誇りを持てる仕事を提供し、尊厳を与え、給料を上げ、さらには保険を提供することです。

 学生時代からイルファンはインドの「人力車産業」の市場潜在力と人力車運転手の劣悪な状況を認識していました。すべての人力車牽引業者を一つ屋根の下に集めて業務を体系化し、小さいながらも革新的な変化でサイクル人力車牽引部門(都市交通の30%に貢献)を近代化することです。これにより、人力車の運転手が運転しやすくなり、人力車に貼る広告を通じて収入が増えるだけでなく、ミネラルウォーター、ジュースの販売、携帯電話の充電、宅配便の集金、請求書の回収などの付加価値サービスにより、人力車の運転がより快適で楽しいものになります。

SammaaNの人力車の付加価値には、音楽、雑誌/新聞、応急処置、冷水やフルーツジュースなどの販売可能品が含まれます (この収入は運営者が共有します)。当社はインドで初めてプリペイドサイクル人力車を導入した会社です。乗客は人力車で移動中に公共料金を支払ったり、携帯電話を充電したりすることもできます。

 SammaaN人力車は航空路に次いで、乗客に保険が適用される唯一の公共交通機関であるだけではありません。顧客に大衆を呼び込み、半都市や地方の市場に浸透するための代替手段を提供します。このため、人力車牽引部門を統一的な体制のもとで組織化することに取り組んでいます。

「お金を使わないのは罪」?

CWBアドバイザー 松井名津

 「お金を使わないのは罪」とドラッカーが言っているらしいんだが、この罪ってguiltyなの、sinなの?guiltyは刑法、民法に関わらず、法を侵害したとか、特定の犯罪を行なったという時に使う。これに対してsinは「神に逆らう・神の法を犯す」という意味になる。なのでもしドラッカーがsinという言葉を使っているなら、お金を使うことに非常に積極的かつ倫理的な意味を持たせていたことになる。一方でguiltyだったら、ある社会における罪になるだろう。例えば現在の社会では罪だけど、中世社会だったら罪ではないというように。

 ということで、早速Googleを駆使して論文を探し、いろいろ探ってみたのだが、ドラッカーの語録や文章、ドラッカー研究の中で該当する言葉は見つからなかった。ではドラッカーにそういう発想がなかったのかというと、これまたそうではない。例えばprofit(利益)とは何かについて「利益は未来への投資である」とある。家計の貯蓄であっても、子供の教育費であれ老後の資金であれ、未来の人生を意識して「除けておく」お金であって、最終的にはある目的のために使用されるものである。事業でも利益は事業の究極的な目的ではなく、事業が成功しているかどうか(その目的である顧客の創造に成功しているかどうか)を図る指標であり、次への動きを作るための手段でしかない(そして次への動きがない事業は早晩消えて無くなる運命にある)。

 とすれば、あながち「お金を使わないことは罪である」という言葉をドラッカーがいったとしても不思議ではないことになる。特にドラッカーにとって、市場は常に変化し続ける存在であり、どのような巨大企業であっても昨日の成功のまま、今日を過ごすことはできない。各企業(あるいは事業)は、常に自分の顧客は誰か、顧客が何を求めているのかを根底から問い続けなくてはならない。それを怠った時、企業は衰退することになる。その例としてドラッカーが挙げているのがキャタピラー社である。1980年代まで重機の世界シェアの7割を握っていたキャタピラー社は数年で倒産の危機に陥る。その原因をコマツの急成長に求めることもできるが、ドラッカーはキャタピラー社が既存の自社の使命に安住していたからだとする。そしてキャタピラー社が劇的な復活を遂げたのは、自社の顧客が求めているものは何なのか、自社は何のために存在するのかという根本的な問いを問い直し、その問いに応える形で自社を再編したからであるとする(具体的には単なる重機の販売から重機を使用する際に必要なサービス―修理や改修―を提供する会社へと生まれ変わった)。

 この過程を、ドラッカーは「変革(イノベーション)」という。イノベーションというとシュンペーターがすぐに思い浮かぶ。シュンペーターのイノベーションは、技術革新といって良い。市場の中から現れるものというよりも、天才と時代の要請がうまく組み合わさって生み出されるものである。しかしドラッカーの「変革」は顧客の欲求やニーズの変化に合わせて組織を再編成することによって生まれるものである。組織再編(リストラクチュア)といえば即首切りを思い浮かべてしまうが、ドラッカーによればそれは愚の骨頂である。組織はそこに働く人間とマネージャーの相互作用によって運用されている。個人にとって組織はそこで働くことによって、自己の能力を高めることができる場所であり、組織再編に伴い各個人に要請されるのは、新しい環境でのチャレンジ(リスキリング)である[1]。この変革に必要不可欠なのが余剰資金、つまり利益である。利益は組織が市場や社会の変化に順応し、新たな顧客(ニーズや欲求、問題解決)を創造するために使われる。それゆえ利益=お金を使わないことは、社会の変化に対応せず、ただ無目的に流されるままになることでもある。

 と考えると、これはguiltyというよりもsinに近いのかもしれない。ドラッカーは理想だけの「原理主義」も効率だけでよいとする「社会効率主義」にも加担しない。「原理主義」は目的だけを語り、効率を顧みない。結果的に社会の機能を壊してしまう。「社会効率主義」は目的を問わず、何を犠牲とするのかも問わない。結果的に相対主義に陥る。そして「機能しない社会に代わるものは、社会の崩壊と無秩序な大衆しかない…。秩序なき大衆が数を増やす社会には未来はない[2]」と述べる。機能しない社会を招いたのは、大衆ではなく(とはいえ大衆は毒性を持つと述べるが)社会そのものなのだが、その社会を未来へと動かし得るのは、利益なのである。guiltyが社会の中でこそ意味を持つ罪であるのに対して、sinが社会を支えるもの(キリスト教における神)への罪だとすれば、利益を使わないことは、社会を無秩序へと導くsinではないだろうか。

 お金を使わないという罪。この言葉はキリスト教の社会でも日本でも奇妙に感じられることだろう。どちらの社会でも形は違っても「節約=美徳」という価値観があるからだ。そして利益至上主義が拡大し、お金がものをいう時代になればなるほど、お金を持っている(利益が大きい)ことは即「力」を意味していた。だからこそお金を使うことには極端に慎重になる。マルクスが言ったとおり資本主義は守銭奴でもある。景気が良ければともかく、少しでも未来が不透明になると、人も企業人もお金を使わなくなり、投資を控える。今の自分、今の組織が大事。だから不透明な未来に対して今を守りたい。そのこと自体は本能的なのかもしれない。しかしそれは未来を放棄することにつながる。ドラッカーが「利益は未来への投資である」と述べた裏には、お金を使わないことが未来を考えないことにつながるという危惧があったのではないだろうか。

 もちろん「未来への投資」としてお金を使うことと、無駄遣いとは異なる。ドラッカー的にいえば、どんな未来を創るのか=目的と、どのようにお金を使うのか=効率性を両立しなくてはならない。とはいえ今最も求められているのは、どんな未来を創るのかという目的、将来像だろう。価値の多様化が叫ばれている中で、全員が一致するような目的を創出することは可能なのだろうか。私は全員が一致する目的を作らなくても良いと考えている。社会は人間が自分自身の目的なり目標なりを叶え、人生を過ごす「場」である。各人の目的は各人のものだ(まぁ社会を壊すとか、人を殺したいという目的はちょっと置いておいて)。その目的をどのように叶えるのかという手段もまた各人のものだ。これは社会の前提のように思える。が、実はこの条件自体が目的になると私は考えている。単一の目的で個人の行動を縛る社会もある。各自の目的を叶える手段が非常に限定されている(金銭しかない)社会もある。とすれば、社会を各個人がそれぞれの目的を叶えることができる「場」にすることそのものが、各人にとっての緩いけれども共通の目的となり得ると考えている。

 そしてそのために「お金を使うこと」が今、最も必要なことだ。自分が持っているのはお金ではない。未来の社会、それも遠い未来ではなく、すぐ先の未来、明日や明後日、自分が過ごす場所がほんの少し居心地の良い場所になるために「使う」投票でもある。


[1] ピーター・F・ドラッカー著,上田惇生訳『[新訳]産業人の未来一改革の原理としての保守主義』,ダイヤモンド社, 1998年, PP.35-36.

[2] ピーター・F・ドラッカー著,上田惇生訳『[新訳]産業人の未来一改革の原理としての保守主義』,ダイヤモンド社, 1998年, PP.35-36.

変化の種8 インドの社会起業家の紹介

CWB 奥谷京子

 ヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』からご紹介します。今回の紹介を読みながら、WWBのセミナーでは生まれつきあざなどがある人の支援している「ユニークフェイス」というNPO法人を立ち上げた方のことを思い出しました。インドに限らず世界では硫酸などをかけられて顔を傷つけられるというような痛ましい事故があることも今回調べたことで知りました。

 また、Self Help Group(SHG)という言葉はインドではよく耳にするのですが、自助グループを差します。例えば私も訪問した北部グジャラート州ではSEWAというグループが女性たちに手に職を持つように訓練する、自立のためのマイクロファイナンスを立ち上げるなど、いろんなプログラムが民間で作られています。

 さらには事業を始めた若者がそれはさておき、血液バンクのような取り組みも1つの出会いから始まっています。社会起業のきっかけは、「何とかしなければ!」という気持ちで心を動かされ、立ち上がって周りを巻き込みながら広がっていくというような活動がありますが、インドにもいろんなストーリーがあると改めて感じる3人をご紹介します。

<リア・シャルマ: 傷を癒し、変化を起こす>

 英国リーズ芸術大学の最終年度プロジェクトから Make  Love Not Scars (MLNS) の創設者に至るまでのリア・シャルマの歩みは、共感と活動の力の証です。インドでの酸攻撃(*)の被害者に関するドキュメンタリープロジェクトとして始まったこのプロジェクトは、リアにとって人生を変える使命となった。

 2014年、シャルマは酸攻撃生存者、主に女性の支援に特化したクラウドファンディング組織「Make Love Not Scars」を設立した。 MLNS は、生存者の身体的および精神的両面から包括的なサポートを提供し、リハビリテーションに積極的に取り組んでいる。この組織の取り組みには、生存者が自分自身とその家族を経済的に支えるためのキャンペーン、ボランティアや資金提供者へのオンライン支援、職業紹介の取り組みなどが含まれる。

酸攻撃生存者との連帯に対するリア・シャルマの取り組みは、意識を高めて生存者を支援するために1年間化粧を控えるなど、彼女の個人的な選択からも明らかだ。

MLNS は、酸攻撃生存者のためのインド初のリハビリテーションセンターを設立することで、その影響力をさらに高めている。この組織は、生存者が自分の才能やスキルを披露し、潜在的な雇用主と結びつけるためのプラットフォームとして機能している。これらの取り組みを通じて、MLNS は社会的な偏見を打ち破り、生存者の労働力への再統合を促進することを目指している。

 MLNS の注目すべきキャンペーンの1つである、2015年に開始された「End Acid Sale」は、酸(硫酸、塩酸、硝酸など)の小売禁止を目指したものだった。この影響力のあるキャンペーンは認知度を高めただけでなく、世界的な支持も集めた。その成功はカンヌ映画部門金獅子賞の受賞によって強調され、インドのキャンペーンとしては7年ぶりにこの栄誉ある賞を獲得した。

 リア・シャルマの社会分野における目覚ましい貢献は、国際的な評価を得ている。 2016年にブリティッシュ・カウンシルのソーシャル・インパクト賞を受賞し、2017年にはインド人として初めて国連ゴールキーパー・グローバル賞を受賞した。

 リア・シャルマの活動のポジティブな波及効果は、キャンペーンや賞を超えて広がっている。彼女の支持は政策形成に役割を果たし、酸攻撃の被害者に再建手術、宿泊施設、リハビリテーション、アフターケアを含む無料で完全な医療を提供するという最高裁判所の病院への命令につながった。

 リア・シャルマのストーリーは、思いやりと行動力が変革をもたらす力を体現しており、一人の献身がどのように変化を引き起こし、最も必要とする人々に癒しをもたらすことができるかを示している。

*酸攻撃(acid attack)とは…硫酸・塩酸・硝酸など劇物としての酸を他者の顔や頭部などにかけて火傷を負わせ、顔面や身体を損壊にいたらしめる行為を指す。

<ジョーティカ・バティアとヴァイシャリ・ガンジー:スルジナを通じて女性に力を与える>

 2012 年、ナルシー・モンジー経営研究所のMBA学生であるジョーティカ・バティアとヴァイシャリ・ガンジーは、スルジナを通じて女性の自助グループ (SHG) に力を与えるという使命に乗り出した。この非営利組織は、SHGへのインフラ、市場へのアクセス、トレーニング、組織的サポートの提供に重点を置いており、世代間の生計手段を創出し、貧困、虐待、人身売買の影響を受ける女性に力を与えることを目指している。

 このストーリーは、ムンバイのアンデリにある女性保護施設でのボランティア活動中に始まった。そこで彼女らは、保護された女性たちが保護施設を出て新たにスタートする際に直面する課題に気づいた。変化を起こそうと決意したバティアとガンジーは、女性たちにジュエリーを作る訓練をするパイロットプロジェクトを保護施設で開始した。手作りのジュエリーを販売するこのパイロット プロジェクトは、スルジナの影響力のある介入の基礎を築いた。

 スルジナは、SHGが顧客や市場に直接結びついていないという既存のモデルのギャップを指摘した。この組織は、SHG、職人グループ、女性と協力する非営利団体と協力し、インフラ、スキル構築、市場アクセスにおけるサポートを提供している。彼らの介入は通常3~5年続き、能力開発とSHGを顧客に直接結びつけることに重点を置いている。

 女性のリーダーシップスキルの必要性を認識し、スルジナは The Nudge Instituteと協力してSuper Didiプログラムを導入した。このプログラムは、自信、前向きな信念、リーダーシップスキル、成長マインドセットを植え付け、リーダーや起業家を育成することを目的としている。リーダーシップの資質によって選ばれたSuper Didisは、10週間のコースを受講し、コミュニティプロジェクトで最高潮に達する。

 スルジナの影響は経済的エンパワーメントを超えており、コミュニティ内で女性の柔軟性を可能にする繊維および食品ベースの製品に焦点を当てている。同社は再利用可能な生理用ナプキンキットを製造し、女性の健康と衛生を確保している。女性と寄付者の両方の考え方の変化に課題があるにもかかわらず、スルジナはわずか6か月で 20,000人の女性に到達し、44人​​のSuper Didisが2900人の女性に影響を与えた。

 この組織は、仕事よりも家族の責任を優先するという伝統的な考え方を克服するという課題に直面している。しかし、スルジナはそのビジョンを堅持し続け、10万個の生理用ナプキンキットを配布し、100人のSuper Didiを創設し、金融リテラシープログラムを拡大することを目指している。The Nudge InstituteとCSRプログラムの支援を受けて、スルジナは変化の触媒となり続け、女性に力を与え、持続可能な影響を生み出し続ける。

<カルティク・ナララセッティ: ソーシャルイノベーションを通じて人生の橋渡しをする>

 カルティク・ナララセッティのストーリーは、たった1つのインパクトのあるアイデアが変革をもたらす力を証明している。ニュージャージー州ラトガース大学を中退した彼は、単にスタートアップを成功させるだけでなく、人生を変えるベンチャーを立ち上げる道を歩み始めた。

 最初にRedcode Informaticsを設立し、成功に導いたカルティクの人生は、彼の軌道を変える記事に出会った時に変わった。この記事は、サラセミア(*)と闘う4歳の娘のために必死で血液を求めている家族の闘いに焦点を当てていた。血液供給不足の問題の深刻さは、カルティクに深く衝撃を与えた。

 カルティクは現在の事業を保留し、Social Bloodと呼ばれる新しい取り組みを開始しました。この組織は、ソーシャルメディア、特に Facebook の力を利用して、困っている人々と献血者を結び付けようとした。Social Bloodは米国の複数の血液バンクと提携し、深刻な血液不足に直面している30万人以上の人々への援助を促進してきた。

 カルティクの人道的努力は大いに注目されています。2011 年の Staples Youth Social Entrepreneur Award をはじめ、数々の賞を受賞しています。

 フォーブスは彼の影響力を認め、尊敬すべき30歳未満のイノベーター30人リストに2 度彼を取り上げました。アントレプレナー・インディア誌も彼の貢献を認め、インドの35歳未満のイノベーター35人の一人に彼を指名した。

 カルティク・ナララセッティの物語は、賞賛を超えて、社会変革への情熱によって個人が及ぼし得る大きな影響力を例示している。大学中退者から認められるイノベーターになるまでの彼の道のりは、共感と重大な社会的課題への取り組みに原動力を与えられた場合に、有意義な変革がもたらされる可能性を強調している。

*サラセミア:ヘモグロビン(酸素を運ぶ赤血球中のタンパク質)を形成する4つのアミノ酸の鎖のうち1つの鎖の生産が不均衡なために生じる遺伝性疾患群。サラセミアの種類によって症状が異なる。黄疸のほか、腹部の膨満感や不快感を訴える人もいる

<TEDでの紹介>

団体であっても客とエージェントの関係性にならないツーリズムに

CWB 奥谷京子

 コロナの数年を除いて、これまで6,7年にわたって大学生のゼミ旅行をプンアジでも受け入れてきたのですが、ツアー料金を預かってその予算範囲内ですべてアレンジするという従来の旅行会社のスタイルで予定も組み、やってきました。

 今年は國學院大學の学生男女12名を受け入れることになり、6月ごろから準備に入っています。ツーリズムに興味のあるプンアジの学生に自立してもらうべく、その子をコンダクターとして私が計画した全日程を引率してもらうというスタイルを当初は考えていました。そこにはみんなで少数民族の村に泊まるなども計画していましたが、去年それでいろいろありました。初めての経験の学生たちは勝手がわからないのも仕方ないのですが、村人とのギャップがいろいろありました。まずはちょっと虫が飛んできただけでダメで泣く子もいる。そしてトイレと風呂が兼用で裸足で入ることも抵抗感がある。さらにはそのバスルームに貯めてある水で水浴びもするのだがそれがわからず大量にペットボトルの水を買い込んで水着を着て外で髪の毛を洗っていたらしいのです。飲むためのきれいな水で洗うなんて…おそらくこれは村人にとっては奇異な理解できない行動だと思います。また10数名の外国人がまとめていくと、インパクトが強すぎて地域の有力者まで動いてしまう始末。そんなことから今年は2コースに分かれ、本当に地域に入って勉強したい学生だけが手を挙げて宿泊し、そうじゃない人は街中のホテルで2泊滞在というものに変えました。

 そしてツーリズムとしてまとめてお金をいただくのではなく、それぞれにプンアジの生徒が活躍したことに関してそれぞれに出すという方式に変え、それぞれの担当が活躍し、その分対価としてお金をもらうというのを明確にしました。現在スレイマウは自分の日本語を磨くためにもサンボープレイクック遺跡の案内を日本語で行うために私と時間を作って練習しています。ダンスもいいものを披露して15ドルをいただく。カシューナッツスムージーを出したらその分をいただく。そうやってそれぞれがやるべきことを理解して、その分頑張るし、それに見合うかどうかを日本の学生にも払った時点で評価してほしいと考えています。

 さらにお互いの事情の中から無理をしない。例えば当初予定していたダンスと共にお料理を出すことについては、ミャンマーから逃げてきた女子二人が残念ながらプンアジをやめたのでこちらから提供することをやめました。しかし、日本の学生が日本食を披露するということでダンスが終わった後にカンボジアの若者に海苔巻きをふるまう予定です。ただプログラムに乗っかって見学だけではなく、現地の若者に日本側からも提供しようと、このような形になりました。

 海外初という学生もいる中で引率する井門先生も大変だと思いますが、ツーリズムも時代のシフトに合わせて変化するタイミングとしてとらえ、アレンジしたツアーを消費するから、時間と手間はかかりますが、来る前から連絡を取り合って作り上げ、本人たちができることで現地の若者と交流したり、お金を自分たちで管理して自分たちで支払うという主体的な取り組みを経験することが海外に行っても自分は何かができるという発見につながるのではないかと思い、準備を進めています。「一緒に作るカンボジアの旅」はいつでも受け付けております。どんな日程で何がしたいかをぜひお知らせください。

能登を訪れ、集まる場こそ社会的共通資本。PA元スタッフと

CWB 奥谷京子

 無風で本当に暑かったのですが、7月25日に能登の入り口でいわゆる“口能登”と呼ばれる宝達志水町の金丸君(PA元スタッフ)のゲストハウスちりんに泊まり、翌日に和倉温泉、穴水町、輪島まで見てきました。今年元旦に大地震が起きてから半年以上が経ち、だいぶ瓦礫は撤収されつつあり、半島への唯一のアクセス「のと里山海道」もきれいになってきてはいますが、和倉温泉の旅館は営業再開の見込みもなく、さらに輪島はまだまだひどい状況です。今でも地割れも残っており、道路はがたがたでした。珠洲まではいけなかったのですが、もっと大変な状況なのだろうと想像します。

 今回、金沢のアジール中谷さんが現地に物資を届けに行く時に知り合った輪島の朝市でかつて引き売りしていた母娘と出会った話を聞いて、商品を買おうというのを呼び掛けます(3p参照)。能登の水産物や地元のものを買って応援することはわかりやすい1つの応援の形です。東日本大震災や熊本地震の後も、現地を訪れた時のことを思い返しながら、今回能登とこれまでとの違いは何かと思いながら車の中から街並みを見ていたのですが、仮設住宅は建ち始めているけれども、13年前の東日本大震災の時に訪れた岩手の岩泉、宮古などはある程度まとまったところには集会場が設けられていました。そこでみんながお茶を飲んでお話をしたり、時には運動をやったり、ミニコンサートがあったり、私たちが編み物を持ち込んだり、そうやって中にいる人が集まれる場所がありました。しかし、今回は寒い体育館などの避難所から早く住宅へという急務の課題があったためか、コロナもあり、あまり人が集まることを推奨していないためかもしれませんが、そういう場所が見た限りでは見当たりません。仮設住宅の敷地も1か所がそんなに大きくないので、住んでいる人の単位も少なさそうです。

 仮設住宅もそもそも窮屈です。抽選で当たったけど、これまで部屋も分かれて寝ていた夫婦が1つの部屋では耐えきれないと入居が当たったのに断ったケースがあったという話も聞きます。私もコロナの時に陽性者が機内で見つかって60名の搭乗者がプノンペンで2週間ホテルの部屋から一歩も出られなかった時があり、カップルも息が詰まりそうだっただろうと思いますが、一人は一人で私も誰とも接触がない辛い日々でした。時々SKYPEで仕事仲間とは話すけれども、ほとんどの時間はYouTubeとパソコンに向かった作業かSNSで発信(インターネットのある時代でよかった)。でも目が痛くなったらトレーニングをする。それを1年の24分の1の2週間を過ごし、音を上げたくなるくらいです。やはり知っている人や友達に直接会うことはとても大事で、仮設住宅に当たっても必ずしも知り合いが隣近所にいるわけではない状況です。たまたま輪島で公的な施設の隣に出来た仮設住宅の様子を見ていた時、ボランティアの照明であるオレンジのベストを着た人が1軒1軒安否確認とお困りごとを聞きに行っている様子も見られたのですが、これだけでは足りないでしょう。その仮設住宅の敷地内で新たなご近所さんができて、その人たちと何らか接点を作らないと、お年寄りが多ければ多いほど面倒くさがって孤立に向かう気がします。現に私の母も8カ月私が世界中で飛行機が飛ばなかったコロナの時期に日本の家に帰れなかったことで孤独や不安から精神的に滅入っていました。

 今回の能登に入る前に、東北の経験からただ何かやってもらうばかりだと田舎の年配の方は遠慮されるから、自分も役立つ一員になることで工事現場の人やボランティアできてくれる人などに気を使ってばかりの関係性にしないために、おばあちゃんたちが集まって甘酒をふるまったらどうだろうかと考えていました。お小遣い稼ぎにつなげてしまうと、私の東北での失敗はテレビや新聞で話題になればなるほどあちこちから声がかかって、供給が追い付かない、こんなに忙しくなるなんて…と被災地の女性たちを苦しめてしまったこともあります。ましてや高齢者なので張り合いとかの意味合いが強いことができないかと考えてはいました。

 アジールの中谷さんは岩手のニットワークプロジェクトも応援して下さっていて、今でも宮古のお母さんたちとやり取りがあります。あの活動は居場所を作る、見ず知らずの人たちでも編み物をやることで集えておしゃべりする場を作ったところに意義があったと思うという話をしてくれました。今、能登は半島にある市や町の人口を合わせても30万人(富山県氷見市も含む)にも満たないところで若い人は外に仕事を求めて出ているし、ますます高齢化(7年前の平成27年ですでに65歳以上が34.6%)していくエリアであることは間違いないです。金沢で救援物資を受け取る能登の人たちがオープン前から心待ちにして外に並んでおり、ほとんど年配の方々でした。長期戦になればなるほど、メンタル面でのサポートが求められます。それは深刻な事情を受け止める相談窓口も必要なのですが、もっと日常的に気軽なこと、例えばニットのように何か打ち込めるものを一緒にやるという場と時間があること、なのです。なぜ今回私が甘酒に目を向けたかというと、材料が水と麹というシンプルなのに、温度管理という手間、発酵に時間がかかります。だからこそ時間のある高齢者が取り組むのにうってつけかなとピンときました。これを事業にするとなると加工場に保健所の許可、設備に1000万の投資とか面倒なことが起きるので、売ることは考えてはいません。麹という材料さえ現地に集まれば、あとは地元の方たちが好きなペースで集まって、ふるまうのも自分たちのペースで、と思っています。今なら暑いから凍らせたら美味しいし、冬はショウガも入れて温まればいい。甘酒は「飲む点滴」といわれるほど栄養価も高くて夏バテにも効果があるので、解体や工事で頑張る人、暑い中立っている警備の人などを励ましたいし、そして作っている本人たちもワイワイ集まって作りながら飲めば健康管理になるんじゃないかと想像しています。これはぜひ真似られていろんなところで広がってほしいと願っています。

まずは金丸君にこの話をしたところ、奥さんの絵満さんも早速甘酒の作り方を調べて、これならできそう!と面白がってくれています。ゲストハウスのダイニングをお借りして、集まる時にプレス・オールターナティブは場代を支援します。この宝達志水町に奥能登から移住してきた人とまずは交流の場を作ろうという話をしています。この町は移住に力を入れていて、アウトドアが共通の趣味である金丸君ご夫婦も実は縁もゆかりもなかった土地で、職場と海と山に近くて移住者にやさしいからという理由で移住したそうです。最近はその移住窓口も能登からの相談が多いのだとのこと。その方たちが一旦は珠洲や輪島などを離れても週末に片づけに行くなど、もしも行き来をしていればそこからつながるご縁もあるかもしれない、と。すでに5組の高齢者が移住してきているそうです。また宝達志水町はツーリング好きのバイク大会が秋に開かれるそうで、金丸君のゲストハウスにも少しずつ予約が入っています。そういう中から奥能登に甘酒を届けに行ってくれるボランティアもいるかもしれない、と。少しずつ点が線になっていきそうな予感がします。長い目で応援していくためには、集う場所が必要というのが今回自分の目で見てわかり、イメージが広がりました。この構想をCWBにも呼びかけ、アジアからの支援も得たいと思っています。ミャンマーのヤナイ君が日本に来ますので、能登にも呼んで案出しです。

インドから拡げるー草の根経済・交流圏創出を目指して

CWBアドバイザー 松井名津

 ドングレ先生とのミーティングの後、これからインドとの連携をどう位置付けていくのかという話を片岡さんと数回行った。その時にいきなり「BRICs&CWBだ」と言われた時は、正直絶句して反応できなかった。私の中でBRICsといえば広い国土・天然資源・人口をもとに大きな成長が期待できる国々であり、一般的な投資先の総称でしかなかったからだ。が、よく考えてみると「BRICs&CWB」は二極化している政治経済情勢の中で、第三極(というよりは別の未来)を現実的にするために、インドとCWB(CWBの一員としての日本)は地政学的にも絶好の位置にいるということだ。

 日本にいると、ロシアはウクライナに非人道的侵略を行い続けている国で、中国は虎視眈々と東アジアの支配を目指しているという報道ばかりに接してしまう。なのでインドの首相がプーチンと会談するとなると、インドは非人道的な国の方を持つのかと目くじらを立てることになる。しかし冷静に見れば、EUやアメリカではロシアとウクライナ間の調停はできない。何せ敵・味方の代理戦争をやっているのだから。イスラエルのガザ侵攻にしても「西欧文化圏」及び腰だ。何せ植民地統治と三枚舌外交のツケなのだから仕方ない。

 してみると西欧文化圏に属さないーその理屈に自動的に頷かない地域はインドとASEAN(中南米やアフリカもあるが経済的政治的にやや力不足だ)になる。しかもこの両地域は中国の影響を身近に受けるだけに、中国に対しても周到に立ち回らなくてはならない。非西欧でも非中国でも存在していかない綱渡りを強いられるともいえるし、強かさでいるともいえる。

 というわけで、以下のようなメッセージをドングレ先生に送った。

 「片岡さんがインドと日本の地政学的な状況を指摘してくれました。私たちCWBはただ一つの考えやただ一つのやり方で世界が支配されたり、二極化することを望みません。インドの2020年教育改革政策にあるように、私たちには西欧化されていないもう一つの考え方、私たち自身の社会に根ざしたやり方が必要です。今私たちが考えているのは、インターンの学生を一つのところで受け入れるのではなく、カンボジアやフィリピン、日本、スリランカなど私たちのネットワークの中で受け入れることです。これは西欧化された世界の中で、西欧化されていない―BRICsのように―場所で教育のネットワークを作る第一歩になると思います。日本政府はアメリカと非常に密接な関係にありますが、私たちはアメリカの金魚のフンになりたくはありません。私たちは極度な国家主義者ではありません。単にお互いの伝統的な知識や知恵を保存し、尊重し、互いに交流したいと考えています」。

これに対してドングレ先生からは非常に好意的で前向きな返事が返ってきた。

さてCWBネットワークの側から「BRICs&CWB」を考えると、経済・取引面での鍵となるのがASEAN域内での貿易・取引をさらに拡げる機会を活かせるのか、インドのインターン学生に何を学んでもらうのか(それはアジアの学生にとっても新しい見地を開くことになるだろう)になる。まずは経済・取引面を見てみよう。

 BRICsに入っているのはブラジルだが、中南米に関してはブルーノさんのおかげでスペイン語圏のコーポラティブの活動がよくわかるようになっている。そしてその基ともいうべきバスクのモンドラゴンのニュースも伝わってくる。理論的にも実践的にもCWBと非常に近いところにあるだけに、現実的な交流、取引に繋げたいところだ。

 ASEANで今注目しているのはカンボジアのバコンシステム(Bankong System)だ。元々はカンボジア国立銀行が自国通貨であるリエルの普及を目的として、日本のスタートアップ企業であるソラミツと共同開発したブロックチェーンデジタル通貨である。ブロックチェーン通貨といえばビットコインのように投機対象になってしまった感がある。が、バコンは決済の効率化、銀行口座を持たない層にも金融サービスの機会をあたる、リエルの普及に絞っている。カンボジアでは自国通貨よりもドルの信用度が高く、ドルでの決済が普通だった。私自身も何度かカンボジアに行っているが、リアル通貨は1ドル以下の支配や釣り銭としてしか見たことがなかった。この状況を強制的手段ではなく利便性によって解決しようというのがバコンである。国民の80%がスマホを持つ一方、銀行口座を開設しているのは30%に満たない。ならばスマホ上で電子決済等を可能にすれば、銀行口座と同じく「信用取引」ができる。こう説明すると日本でもすでにあるサービスじゃないか、といわれそうだ。しかしバコンは銀行間を跨いでの送金も自由にできる―個人間の送金なら手数料は0だ。取引データは各銀行や中央銀行に置かれるのではなく、ブロックチェーンの分散型ネットワークデータベースに保存される。書き換えは不可能だ。店舗での支払いはQRコードを読み取ることで可能だ。公務員の給与や税金の支払いもバコンでとなっている。おかげでバコンの取引額は700億件に及び、開設後2倍以上になったという(カンボアジアではリエルの口座とドルの口座を持つことができる。結果的にドルを日常的に使えるカンボジアは国際社会で、ドルも繋ぐことができる点で大変大きな可能性を持っている。こうした利便性をさらに拡大し、ドル社会とは別の国際通貨システムを作るのがバコンで、それがさらにカンボジア内にとどまらずアセアン内での国際取引の決済にも使えることだ。バコンのORコード決済にはタイ、ラオス、ベトナム。マレーシアが加わり、今年の6月にはインドも参加するという話が出ていた。バコン決済システムに接続することで、国境を跨いだ送金や通貨間の両替手数料がなくなる。日本は首相が導入を約束したようだが、まず、その壁を超えることはできないだろう。中国が加わると、ここでも日本は置いて行かれることになる。私たちのCWBは先行して挑戦し日本が入ってきたときの用意をしておきたい。

 これはCWBネットワークにとっては待望のシステムである。通貨(貨幣)は人や物と違って国境を超えて移動しやすいというイメージがあるが、それは投機筋のことであって、現実の商取引となると通貨の違いが大きな壁になるのだ。今までは各国に分散しているCWBファンドの口座間の取引を記録して、最終的な決済を1年に一度程度行うことで取引手数料や為替リスクを軽減してきたが、バコンシステムをCWBが利用すればさらに手軽にリスクを抑えて取引が可能だ。特にコミュニティートレードは動くもの自体は少量だけに、決済手段の手数料や通貨返還の手数料は大きな負担になる。輸送費はロジサポで軽減できるとしても、1000円、5000円単位の商品を予約注文でとなれば、その間の通貨変動や手数料は双方にとって大きな打撃になりうる。バコンであれば、共通取引媒体(バコン)のデジタル記帳で、になる。決済手段に特化させ、CWBネットワークの中で使う分にはセキュリティも心配ないだろう。バコンは国際取引に関する国境の壁をより薄くすることになる。したがってドル通貨圏や中国の元通貨圏とは全く異なる取引圏を作り出す可能性が高い。決済手段に特化すれば、うまくいけば法定通貨(各国との通貨)を飛び越える新しい通貨システムになるかもしれない。

 CWBネットワークが日本を世界に繋げることができる。ドングレさんへのメールに金魚の糞にはなりたくないと書いたが、バコンを使うことは「アメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪をひく」といわれる経済政策的にもアメリカに追随(というかアメリカの動向で右往左往する)状況に対する先端的な挑戦と思うと楽しい。い。そう思うと私自身は爽快な気分になるのだが、読者の皆さんはどうだろうか。

 さて、次にインドのインターン生をどう活かすかである。もちろん「活かす」は双方にとって良い結果をもたらすようにという意味だ。総合的全人的教育を掲げる大学の学生だけに、通り一遍の農作業から「学べ」といっても無理がある(受け入れ側にも)。あれこれ考えてみたのだが、ふと「日本はアジアの吹き溜まりである」という言葉を思い出した。日本文化が中国や韓半島の影響を受けていることはよく知られている。しかし同時に安土桃山時代、明治以降を通じてASEAN諸国との縁も深いのである(もちろん大日本帝国植民地統治の悪縁も含めてだが)。日本人にとっては芸能の神様として親しみのある弁財天や吉祥天。このお二人はそもそもがヒンズー教出身である。弁財天はサラスバティ、ブラフマの妻であり人間の始祖を産んだとされる(ちなみにブラフマは梵天のことである)。吉祥天はラクシュミーでありヴィシュヌ神の妃である。ヒンズー教の図像と全く異なった姿形になっていると思うが、弁財天が琵琶を持物としているのと同じくサラスバティもヴィーナという琵琶に似た楽器を持つ。遠くインドヒンズー教の神々が、日本では仏教の守護神となっているわけだ。これと同じような例は結構多い。それはある文化が長い時間と長い距離を経て、どのように変化し且つその土地に受容されるに至ったかを、自分の目と足で確かめることにもなる。そうだ、文化の「道」を辿る行脚を提供しよう。

 観光客が殺到する東京、京都を避け、平和を考える広島の地から瀬戸内を渡って四国へ。松山でいろんな仏像を見た後、大洲ではスペインやヨーロッパとの交易の結果建てられた和風建築(そこには洋風の要素が取り入れられている―インドのラジャ宮殿のミニチュア版ともいえる)や南予ならではの「奇妙な崇拝対象」(狛犬ではなく狛猪や狛河童)とインドの土俗信仰の比較もできる。宇和島へ行けば、耕作放棄地を開墾しながら「仲間ない自給自足の緩やかな輪」作りの現場を見ることができる。ちょっと戻って八幡浜から船に乗り、九州へ(九州では天草も訪ねてもらえる)。そして福岡空港からインドへと帰る。そんな行脚である。移動はできるだけ旧街道を使おう。旧街道を使うことで神社仏閣の地理的位置(防衛拠点であった、地方の中核文化を担っていた)や村落との関わりもわかる。この辺りは博物館の学芸員の協力や、川を中心とした街づくりの東西比較研究を行っているスペイン人・ディエゴさん(そうだ、楠のブルーノを訪ね行くことも考えられる)の協力も得て、「みち(街道・路・川・海)」の見直しを、外からの目で行ってもらう。

 インドの学生にとっては自分たちの文化を、全く別の視点から眺めるきっかけになるだろう。文化や伝統がある形にとどまる物ではなく、流転し変容し、それでもなおその中核的なところはとどめていたりする。その現実に触れることで、自分たちの文化を見直し、新たな形に変容させるアイデアが生まれる可能性がある。それはビジネスチャンスでもある。日本側にとっても、高度成長や区画整理(街だけでなく農地も)で失われてしまった色々な「みち」に再度光を当てることにもなる。

 まだまだ荒い構想に過ぎないが、道の未知の可能性が広がると思うと、ワクワクしている。

プンアジはダンスインターンで50人をネットワークへ

CWB 奥谷京子

今回は1週間のカンボジア滞在の中でいろんなことが変化していった。その中の1つがプンアジでの私の立ち位置である。

これまでは「先生」ということで、毎回お土産を人数分持って行って、みんなでバーベキューをして…と日本から来る時々やって来ては大盤振る舞いをして親交を深めてきたのだが、今回はコンポントムに行っても日程も短く、生徒に会ったのも議論の場に通訳で必要だったスレイマウさんとたまたまカフェに居合わせたリナさん、あとはミャンマーのチームでカフェを始めてヌエヌエさんとカシューナッツバターを持ってきたムーン君。餌をくれるから慕うサチをはじめ犬たちは全員で歓迎してくれたが…。

プンアジでは生徒たちと暮らしながら公立学校が終わった放課後や休日に一緒に働いて、その中からチームワークや仕事の段取りなどを学んでいくということで進めてきたのだが、どうも今の世の中にうまくクロスしていない。私個人としてはいくら勉強ができて知識があって学歴が良くても、段取りがわからなかったり、チームワークでコミュニケーションを図って物事を進められないのでは学校を卒業した後に社会に出た時に厳しいと思っているので、若い頃から仕事やイベントを企画してチャレンジするなど、いろんな経験を積むことは大事だと今でも思っている。

だが、世界の人権保護の目から勉強すべき学生の時から働くのは児童労働だと受け取られ、役所の人が見に来るようになる。このような観点からプンアジが目指していた「学校では学べないことを働きながら学ぶ」というやり方はカンボジアにおいてもしっくりこなくなってきた。

しかし、伝統舞踊を守り、力を入れたい―これは行政も国際的にも賛同を得て、地域の人もみんな願うところなのだ。私たちとずっと協力関係にあるMr. Diもコンポントム州のあまねく学校へ訪問し、伝統舞踊をやりたい担い手を発掘することに尽力している。彼はここ数年体調を崩して入院もしており、世代交代を意識していらっしゃり、今回は4月の公演にも来日したアツのお母さん役のヴァニーさんがずっと付き添ってくれた。今回合意したのは、プンアジを伝統舞踊の中心拠点として機能させるためにも毎週末50人の若者が来るように、彼らが学びに来るガソリン代もそして食事はヌエヌエさんから提供し、プンアジで小部屋にリフォームして遠い村から来た若者たちも男女分かれて少人数で泊まれるようにしている。

そしてクイの村にもMr. Diやヴァニーさんとも一緒に訪問し、若きリーダーの一人であるミエンさんにも会ってきた。クイからもたくさん若者がダンスを学びに来て、他の村の若者たちとも切磋琢磨して、インドネシアの次はフィリピンなども考えているが、日々練習をしてうまくなることが大事だと話した。ここは大いに期待したいところだ。

言葉がなくてもダンスを通してみんなが笑顔になるというのを前回の4月の公演でも実感したばかりだ。クメール舞踊の指先まで神経を使い、体幹を鍛えたしなやかな動きもまた素晴らしい。プンアジというカルチャーセンターに集い、ここがクメール舞踊をみんなが練習できる場所としてコンポントム州だけでなく、カンボジア全土に知れ渡るようになれたらと思っている。