地域計画という言葉にはどこか古めかしい印象がある。もっともそう思うのは行動成長期に生まれ、農村地域だとか第○次計画と言った言葉を習ってきたせいかもしれない。ともあれ、地域にしろ計画にしろ、各々の単語は今まで使われてきた言葉だ。
まず「地域」を取り上げてみよう。地域には行政区画、集落区画のように地続きになった土地をまとめて呼んだり、商業地域、工業地域のようにその土地の性格でひとくくりにしたものもある。このところ衆目を集めている言葉では、地域ブランドに地域資源がある。何れにしても地域の特徴は「地続き」にある。地域資源と資源は付いているが、石油や金、ダイヤモンドと言った資源のように国境をまたいで存在するわけではない。同じように蕎麦が売り物だからといって信州と出雲を同じ地域としてひとくくりにして、活性化しようとは誰も思わないだろう。地域という言葉には土地に区画線を引いて、内と外に分けることが含まれている。地続きの地域が、地域資源をブランド化(地域ブランド)して、生き残りを図るというのがここ数年の動きだ。この方向性に本当に生き残りの可能性はあるのだろうか。私自身は低いと思っている。0だとは言わないまでも、極めて低いと思っている。こうした地域の活性化には二つの障壁があると思うからだ。一つは「金太郎飴」、もう一つは「人材不足」という壁である。
この二つの壁を説明する必要はないと思う。が、なぜ金太郎飴になるのか、人材不足は何なのかは説明しておきたい。地域ブランドにしろ地域活性化にしろ、掛け声は「その土地特有の良さを活かす」である。けれど何がその地域特有の良さなのかは自分たちで考えなくてはいけない。ところが大概「そんなものはない」「何が良いのかわらかない」という答えが返ってくる。そこでいち早く成功した地域へ視察旅行が始まる。そして「あれが良かった。自分の地域でもあれを」になる。農家が競争的に出荷する産直市が成功すれば産直市を、ゆるキャラはいうまでもなく、擬人化キャラを募集し…とどこかで見たような企画がならぶことになる。さらにこうした金太郎飴企画を策定しているのが、東京の某大手広告会社の出先機関だったりする。地元に人はいないのか?という声が上がりそうだが、すでに流出済みか、いても「信用」されていなかったりする(この田舎にそんな才能のある奴はいないはずというわけだ)。ようは金太郎飴と人材不足は根っこが同じなのである。「内向き志向」という根っこを同じにしているのだ。
この内向き志向という奴は、思っている以上に厄介なところがある。前も書いたことがあるが日本という土地は「外から良いものがやってくる」土地である(ユーラシア大陸の吹き溜まりといった人がいるが、言い得て妙だ)。だから良いものを生み出そうとするときに、「外のものを模倣する」という性向をどうしても持ってしまう。そのこと自体は決して悪いことではない。しかしその性向が行きすぎて、自分たちで課題を解決しようとせずに「外から来る良いものを待っている」となると話は別である。砂漠に頭を突っ込むダチョウと同じで、逃げているようで逃げていないことになる。そして残念ながら、現在の日本ではどこの地域でもこの行きすぎた内向き志向が強い(東京は?と聞かれるかもしれないが、東京こそ「外からの良いもの」を待っているところじゃないかと思う。変に「方言」が流行り、NYやどこやらで流行った「健康的な」「環境に優しい」ナントカカントカがすぐに進出して、歓迎される)。
では「計画」の方はどうだろう。近頃は教育現場でも税金等費用をかける(金を払う)のだから、それに見合う実績をというわけで、PDCAが叫ばれている(PDCAとPTSDとよく取り違えてしまうのだが、私の深層心理がそうさせているのだろうか?)。PDCAが典型的だが、まずしっかりとした計画を立てて、計画通りに進んでいるか、進まなかったらその原因は何か…という文脈で計画は使われる。それがマズイわけではない。マズイわけではないのだが…得てして「計画倒れ」が起こったり、計画通りにいかなかったときの「隠蔽」が起こったりする。どうも日本(政府だけでなく個々人も)は計画性をもって事にあたり、事実を冷静に客観的に検証し、原因となる「こと」(人ではなく)を追求するのが苦手なのではないかと思う。ついでに言うと、確証がない印象論なのだが、鰯のような小魚を食べるていると「ザッと」してしまうのではないか、綿密な計画を立てて…ということは苦手になってしまうのではないかと思ったりもしている(ヨーロッパだとイタリア・ギリシア・ポルトガル・スペイン…財政破綻したところばかりー笑)。ただ、こうした綿密な計画だけが計画ではないと私は考えている。ザッとしたなりの計画があっても良い。ザッとしたなりの計画は、破れが多いしその場でつくろわなくてはいけないし、いったい最初はどこを目指していたんだというところが出てくる。が、ザッとしたなりに何となく、キチッとはしていないけれど、取り敢えずのことはできる。やりながら考えるのか、考えながらやっているのか、やってから考えるのかの別はあれ、考えてはいる。そしてザッとなりでよければ、地域は「土地続き」の「内向き志向」から脱出できるかもしれないと考えている。
綿密に考えれば地域は地続きで一体になれるところだし、何か共通項がキチンとあって、目的を共有して、プランやビジョンを立てて活性化しなくてはいけないところだ。(ここでは「活性化」が何を目指してかは問わないでおこう。話が長くなるから)。でも、ザッとでよければ、「問題や課題が一緒のところ」でも「気候や特産物が似ているところ」でも「歴史的に縁ー因縁も含めてーがあるところ」でも、繋げる要素はでてくる。実際に藩主の縁続きで共同して地域おこしをやっているところがある。東北仙台と四国宇和島だ(双方とも伊達氏)。
だとすれば換金できる地域産業に乏しい、若者がいなくなる、女性が貧しいといった課題ごとに、土地を飛び越えて連携することも可能なのではないか。連携主体は自治体でなくていい。その土地に住んでいるごく一部の人でもいい。いやむしろ少数のほうがいいかもしれない。少数のコアとなる人が動き出すと、内向き志向の地域では大概「孤立」という運命が待ち受けている。より正確に言えば、尖った面白いコアな動きをすればするほど、内向き志向から浮き上がることになる。今まではそこからその地域で活動を広げることが大変なことだった。けれど、もうそれは必要ないのではないだろうか。ある地域にいながら、その地域とは別の地域とつながっている。それは日本の他の地域でもいいし、アジアでもいいし、アフリカでもいい(先進国でないほうが面白いと思う)。課題の解決方法を共有する必要すらない。ザッとしたものでいいのだ。極端な話、「俺ら、こんな面白いことやってるけど、あんたとこは?」「うちとこは、こんなんしてるで。なかなか売れへんけど」「同じやな」で始まって全く構わないと思う。大事なのは実際にやっている、やってみた経験の交換、知恵の交換である。
ちょっと妄想してみる。フィリピンにユネスコ世界遺産に登録されているコルディエラの棚田がある。世界遺産になったものの、現金収入を求めて若者が流出し、耕作放棄地や畑になるところが続出。一時危機遺産リストに登録されたことがある。2012年に危機リストからは外れたものの、今でも課題は山積みだ。棚田を維持するためには石積みの技術が必要だが、その技術を継承している人が減ってきているなど、私が学生と一緒に行っている里山も同様だ。作っている作物や規模は違っても、日本各地の棚田も同様である。だとすれば、お互いに技術の継承し合いっこは出来ないだろうか?日本とフィリピンでは天候も違う、使う石も違うだろう。でもザッと「石積みをする」ところでは何か共通のものがあるかもしれない。たとえ片一方で技術がなくなったとしても、もう一方が継承していれば、またその技術を応用して復活させることも可能かもしれない。あるいは「石」でなくてもいいかも?という新しい知恵が生まれるかもしれない(ペットボトルの再利用なんてことが起こったら妙に面白い風景が出来上がりそうだー耐荷重的に無理だろうが)。
妄想である。妄想ではあるけれど、日本に限らず地続きという性格を持つゆえに、どうしても内向きになってしまう「地域」を活かすためには「外」という要素が不可欠だということは、これまでも言われ続けたことだ。今問われているのは、外とどう繋がるかという繋がり方のための計画だと思う。かつての地域連携は、連携地域が遠すぎて実効性がない(姉妹都市など)か、最終的に合併を視野に入れたものだった。結局「外」をなくしてしまったのだ。「外」を無くさずに「外」と繋がるための緩やかな方策。どこか一地域と固定的につながるのではなく、多くの地域とゆる~く、でも手放さずに繋がっていける方策。そんな方策がこれからの地域計画なのではないかと私は思っている。