活」という漢字。いろんなところで目にする。一番多いのは「活魚」「活ホタテ」といった看板類。近頃やたらと多いのが「活性化」。こちらの方は店頭ではなく、テレビや紙面で目にする事が多い。一方で魚介類の鮮度を誇る漢字、一方でなにやら人が沢山いる(賑わっている)事態を表す漢字。一体本来の意味はどうなっているのだろうと思って『字源』をあたってみた。
「活」:生存する、蘇る、勢いが強い、生気に満ちる。右側は舌ではなく、丸ノミで削ったその後をあわらす字。勢いのある様を表すのだそうだ。そこに水を表すさんずい偏が付いているのだから、奔流がほとばしるかのように下って行く様が「活」なのだろう。さらに字典をたどって行くと「活句」といった言葉に出会う。文章や詩の中で、その言葉があるから全体が生き生きとしてくる、そういう一句を「活句」というのだそうだ。
さて字源を尋ねれば成る程、ピチピチの鮮魚だから活魚は納得である。だけど活性化の方はどうだろう。確かに蘇るという意味がある。一旦衰えたものを再度復活させよう、賑わいを取り戻そうという意味合いで使われるのも納得できる。ただ取り戻すべき賑わいを表すもう一つの活、「活気」と「活性化」とでは「活」が微妙に色が変わっているような気がする。例えていえば天然染料の青と人工染料の青の違いみたいな感じだ。色の鮮やかさ、色あせのしにくさは人工染料に軍配があがるのだが…「なんとなく…ね、違うのよね…鮮やかすぎるっていうか…」と戸惑う時のあの気分。あの戸惑いを感じる違いを「活気」と「活性化」の間でも感じてしまう。
それは人の手が入っていないという意味合いではない。天然染料だって、人の手を経なければ「色」がでないのだからそこは同じだと思う。人の手が入っている・いないではなく、人の意図だけで出来上がっているのか、人の意図以外のものが働いているのかが、その違いなのではないかと思う。なんだか禅問答みたいになってきたけれど、染料の例えをこのまま続けて説明してみたい。
人工染料は天然染料の成分分析を経て誕生したものだ。どの成分が必要で、その成分をどのように組み合わせれば、人間が望む「青」を手に入れることができるのかを追求した結果出来上がったものだと言っても良い。現在の人工染料はその上に色あせがしない、にじみにくい、色落ちがしないといった機能が付け加わり、ますます「便利な」「手軽な」染料になっている。極端にいえば、誰がいつ使っても、使い方さえ間違えなければ、世界中で同じ「青」ができる。人間の意図に限りなく100%に近い出来上がりが保証されている。天然染料だとこうはいかない。例えば藍で青色に染めることを想像してみよう。藍から取れる染料に布を付けただけでは「青」にはならない。灰汁などの媒染剤がいるということではない。瓶覗(かめのぞき)という色目があるように、1度目はごくごく薄い青ともいえぬ青色になる。何度つけたら「青」になるのかは、その時々の天候や温度湿度に左右される。ココと決めてあげても望み通りの青ができるかどうかは、染め上がるまで確証が持てない。なぜこんなことが起こるかというと、布を染め上げているのは人間だけではないからだ。先ほど挙げた天候、つまり自然が勝手に手を出してくる。その手の出し方は一様ではないし、予想も難しい。だから天然染めには味が出る…というと聞こえはいいが、マダラあり、染め抜けあり、色落ちありで、染め上がってからも付き合いが必要だ。
さて、活性化には必ず出来上がり予想図がある。この予想図に限りなく結果を近づけようとして工夫を凝らすのが「活性化策」になる。出来上がり予想図はこれまでの成功例をモデルとしたものだ。数々の成功例の中から、これが成功の要素だ!と思えるものを抽出し、活性化しようとしている対象地区に当てはめる。もちろん海がない、山がない、特産物が違うという要素は考慮されるが、それは代替可能なものである。「ひこにゃん」が当たった後のご当地キャラクターを「ゆるキャラ」と一まとめにすることができるのも、「ご当地名物」+「なんらかの動物らしきもの」+「癒し系的」といった共通要素があるからだ(鰹人間やふなっしーが妙に目立つのは、共通要素から外れてしまっているからでもある)。「くまモン」のように周到な計画のもとに確立されたキャラクターもある(おかげで「くまモン」がどこのご当地キャラクターなのか、この頃だんだん不明になっている気もする)。活性化策が成功すれば、人が大勢やってきて賑わいが生まれる。結果的に衰退していたその土地が永続的に発展する契機を作ることができる。そういう人間の意図のもとに製作され、実行されていくのが活性化だ。
「活気」はもう少し曖昧なもののような気がする。確かに人の多い商店街は「活気がある」といわれる。人気のないシャッター通りは活気がない。けれど、この二つの通りの違いは、人の数だけで決まっているのだろうか。東京新宿西口の朝出勤時刻。おそらく日本中で一番人出が多いところだ。その新宿西口の通勤風景は「活気ある」風景だといえるだろうか。あるいは山の手線の駅でもいい。通勤ラッシュの人混みは殺人的とさえいわれる。人数の多さ、人々が目的を持って急ぐスピード、どれを取っても勢いのある風景だ。けれどなぜか「活気がある」という言葉を使うのがはばかられる。なぜだろう。同じ人数がいて、同じように混雑していても、TDLの風景を活気にあふれていますと表現するのにあまり違和感がないのに、山の手線や新宿西口通勤風景を活気にあふれていると言いにくいのだとすれば、その相違はただ一つ「そこが目的なのか」だ。通勤客の目的は駅や西口そのものではない。そこは通過点だ。だからできるだけ多くの人数を効率よく運んでくれればいい。人間もそこでは運搬される荷物(自分で運搬しているけど)でしかない。一方のTDLはそこが目的である。そこにいる人間は荷物ではなくて、それぞれ自分流の何かを楽しむことを目的としている。「楽しみたい」「楽しもう」「ここは楽しい場所だ」、そう思っている人の姿はイキイキしている。
TDLはそういう仕掛けを人工的に作り出している。その点では活性化策に近い。そしてそこに集まる人はTDLという「夢の国」=現実世界ではないところを楽しむために集まっている。そういう点ではTDLは隅々まで人の意図を徹底した「夢の国」である(活性化策の多くがどことなくテーマパークに似てくるのはそのためかもしれない)。
これに対して商店街の活気はどうだろうか?確かに人は商店街に「買い物」にやってくる。日頃目にしない服飾雑貨を手にしたり、はやりの飲食店を目当てにやってくる人もいる。こうした人たちによる活気はテーマーパーク的だ。無目的に見えて目的がある。ところがこうしたテーマパーク的に活気がある商店街の裏には住宅地がないことが多い。かつてあったにしろ、だんだん少なくなっていく。なにしろ休日ともなれば車も人もいっぱいになるのだから、住んでいる住人はたまらないのだろう。より静かな場所を求めて人が出て行く。そしてテーマーパーク的仕掛けが二兎を呼べなくなってくると…平日の買い物客に乏しい商店街は一挙に活気のない商店街になる。
TDL的商店街ではないが活気のある商店街もある。大概は無秩序に広がっていることが多い。平日昼間は人通りも少ない。シャッター街一歩手前にも見える。けれど、どことなく人の暮らしの気配が漂っていて、一概にシャッター通りといえない雰囲気がある。暇そうにしてる魚屋は夕方の惣菜の仕込みをぼちぼち始めている。店の中で常連客とお茶を飲んで、かれこれ1時間以上しゃべっている婦人服の女将さんがいる。そんな雰囲気が通りを歩いていると、どこからともなく漂ってくる。「ああ、繁盛しているんだな~たぶん」と思わせる、そんな「気配」がある。
こうした静かな活気はなかなかわからない。そこに住んでいる人も自分たちのところが活気があるとは思っていないかもしれない。なぜなら「誰かが意図を持って」作っていないからだ。誰かの意図を反映していないから、人が作ったとは言えない。けれどそれを作っているのは人でもある。こうした静かな活気がどうやってできるのか、誰も明確な処方箋を書くことができない。生み出そうと思っても、必ず生み出せるとは限らない。天然染料の青に似たところがある。人以外の何かが「活気」を生み出している。それは、人と人との間で自然と醸し出される何かとしか言いようがないものだ。
静かな活気は商店街に限らない。地方のひっそりとした家並みに、田畑に感じることもある。自然が豊かなのではない。自然がよく手入れされているのだ。人の手がマメに入っていることがよくわかる土地。人が人と、そして人以外のものと会話していることがわかる土地。そこには静かな活気がゆっくりと息づいている。
20世紀、人間は常に意図と目的を持って行動をしてきた。人間以外のものは意図と目的に従うものだった。その時代の活気は意図と目的を同じにしている人が大勢集まっていることだった。これからの時代、多くの人が全く同じ意図、全く同じ目的で、同じ方向を向いて歩くことは期待できない。では活気がなくなるかというと、そうではないと思う。目的はバラバラだけど、そこで自活しようと集まってきた人たちが、人同士と、周囲の人以外のものたちと、ゆっくり付き合うことで醸し出される静かな活気が、もっと重要になってくると思うからだ。実際「活」には生業で生きているという意味もあるのだから。