今回のテーマを依頼された時、「きょうどう」を変換すると「共同、協働、経堂、教導、…」と色々出てきますねと言われて、成る程、日本語は賢いなと思った。どの「きょうどう」を取り上げても「きょうどう」の側面を表していると思ったからだ。「何か」を共に目的にしている、同じ目的等を目指して力を合わせている、目指すところを文書にして残しておく、足り無いところを教え導く…。どれも「きょうどう」の場であり得る行為だ。でも、それだけが「きょうどう」ではない気がするし、ともすれば「きょうどう」から外れてしまうようなものもある。「きょうどう」という言葉自体は毎日のように目にするし、耳にするのだけれど、その意味だとか内容を説明しようとすると、途端に言葉が足り無いような、無駄なようなもどかしい思いになる。なぜなんだろう。もちろん、この言葉が外来語だということは大きいと思う。ではと、英語ではどういうのだろうと改めて辞書を引いてみると、cooperation, joint, collaboration, community, company, united, publicとこちらも様々だ。
今話題の農協も農業共同組合だし、今や巨大なグローバル会社のサンキストも最初は農家の共同組織だった。でも農協やサンキストが「きょうどう」の組織だというイメージはない。農家の共同といえば「講」があるが、これはどちらかというとゆるい助け合いの組織だったり、相互保険の場だったりする。「きょうどう」のイメージに少し近いが、そのままというわけではない。こういう風にどれが「きょうどう」にぴったりするものなのかと探っていくと、玉ねぎの皮むきをしている感じだ。
なぜなんだろう。多分答えは簡単で、これまで書いてきたものと重複する。きょうどうは動きや構え(心や身体の)で、時と場所によって姿を変えてしまうから。一つの言葉で捉えるには複雑すぎるから。
だとしたら、答えではなく問いを立て直そう。「きょうどうではない」こととはどんなことだろう。「きょうどうしない」と「きょうどうではない」はいささか意味が違う。きょうどうしないといえば、敵対・対立・裏切り…単に同じ目的を持たない、同じことをしないのではなく、積極的に「向こう側」の立場に立って動くこと。これに対して「~ではない」は「~である」以外のすべてという意味合いを持っている。「きょうどうではない」には、最初にあげた漢字が表すものも入ってくる。教導。教える側に立っている方が一方的に教えると、きょうどうではない。同時に導かれる方が、導かれるままでいればきょうどうではない。経堂。目指すところを文書にしておいても、誰も見ないならば、当初のきょうどうではなくなる。では他の漢字たち、あるいは英語たちはどうなのだろう。いつどういう時に「きょうどうではない」になるのだろう。「協働」。「俺たち、一緒にやる仲間だろ、解れよ」。日本でよくある例の「空気読めよ」。これが出てくると「きょうどうではない」だろう。でも空気を読むこと、仲間のやっていることを解っていること、それ自体は「きょうどう」に必要ではないだろうか。「協働」collaboraiton、コラボする時、相手が何をしたいのか、何を目指しているのか、言葉で分かち合う暇などない、アドリブが必要な時もある。ライブのセッションはこれで出来上がっていると言っていいのだろう。指揮者も楽譜もない、その場限りの、絶妙なタイミングで入るリフには総毛が立つ。ステージの上も下もない瞬間。それは「きょうどう」の一瞬でもある。誰も意図していない、でも誰もが参加している、その一瞬。それを作り上げているのは暗黙の空気だし、その場の仲間(観客も含めて)が何を求めているのかを瞬間的に察することだ。でも、これは一瞬の「きょうどう」だ。その一瞬を無理やり継続しようとすると、どこかに無理が来る。絶妙な一瞬は一瞬だから絶妙なのだ。この頃の表記で書けばネ申を継続させることはネ申でない人間には無茶だ。やろうとすると先に書いた「空気読め」になるか、カルト的な組織になってしまう(別段宗教の体裁をとっていなくても、何かが万能の存在でそれ以外のものは全てダメだというやり方は、カルト的だと私は思っている)。
joint(ジョイント)という英語は耳慣れないけれど、何かをつなげて一緒にやることだから、日本語の協同に近いかもしれない。日本では珍しいかもしれないが、ジョイントパートナーシップといって全く同一の権限を持って、事務所を運営していくというやり方がある。対等の立場、対等の関係がパートナーシップだから、協同よりも共同に近いのかもしれない。私が研究しているミルは将来の労働像をパートナーシップに求めている。互いに同等の立場で、ただし役割権限は互いが納得した上で分担する。ときに役割分担が暗黙のうちに交代することもある。求めるものが異なってしまったと思えば、解散する。それがパートナーシップだという。ついでに彼にとっては婚姻関係もパートナーシップだ。だから互いに求めるものが違っていたり、愛情が消えてしまったり、一方的な権力関係に陥ったりしてしまえば、解消するのが当然なものである。こんなミルからすれば「仮面夫婦」や「上司の命令で…」はパートナーシップではない。となると、今ある働くための組織の大部分は「きょうどうではない」方に入りそうだ。ジョイントストックカンパニーは株式会社なのだが、本当にジョイントしているのは株の利益だけのところがほとんど(いやそれさえも怪しいのかもしれない。その会社の株からの利益じゃなくて、売買益が目的なら、株もジョイントしていないのだろう)。
さて「きょうどうではない」の代表格をあげてみたのだが、みんなはどの「きょうどうではない」が一番気になるだろう。役割分担が固定化している・一方的権力関係がある・空気を強制される・教え込まれる…。その一番気になる「きょうどうではない」は案外みんな(私も含めて)自身が、自分の身近であるいは自分自身でやってしまっている「きょうどうではない」かもしれない。人間の無意識は面白いことに、自分の嫌いなこと(嫌いなところ)を目の前にすると、それが気になって仕方がなくなるようにできているらしい。
私が気になっているのは「教導」だ。教員という職業はどうしても「教導」してしまう。知識や方法、考え方は所詮「教え・教わる」ものではなく「身につける」ものだとわかっていても、「わかってほしい」「身につけてほしい」が先に立つ。そうなった途端、私は教えるものになってしまい、教わることがなくなってしまう。相手は教えて貰えばいいになり、教わろうとはしなくなる。それが目に見えていても、教えることもある。けれど、正直に言えばそれは教えているのではなく、愚痴を言っているだけなんだ。「教える側」「教わる側」となった途端、教室やゼミ室にいる人間の顔がみんな一色に見えてしまう。そういう事態が何度かあって、そのたびに嫌になるんだが、なかなか脱することはできない。そんな風に自分で一番気になっているから、時々他人のそれも気になる。たとえば難民支援・災害支援の報道、障害者に関する報道。自分たちが「助ける側」だと決めた途端、役割は固定し、行動は型になり、自分も相手もレッテルとしての存在になる。「助ける側」ー「助けられる側」のレッテル以外の存在としては、互いに関わりを持たなくなるということだ。教導があっても「きょうどうではない」関係で終わってしまう。それはすごく残念なことだ。とくに「教える側」「助ける側」にとって残念なことだ。なぜなら、そこで自分の成長が終わってしまうから。学ぶこと、助けられることを忘れてしまうから。
なんらかの意味で優位な側にいる(先進国出身だとか、知識を持っているだとか)と、自分が全てにおいて優位だと思い込んでしまいがちだ。それは「きょうどうではない」仕組みしか生み出さない。けれど自分がなんらかの意味で優位だという意識は捨てがたい。正直人間はどこかで自分が他より上だと思いたがっている。たとえそれがどんなちっぽけなこと(親の社会的地位だとか、偏差値だとか)であってもだ。それは助けられる側でも同じなんだろう。「世界の矛盾や困難を一手に引き受けている我らを助けることで、おまえたちは神の国に行けるのだ」という理屈は十分に成り立つし、実際に成り立っている社会がある。助けられる側にも、優位の意識はあり得るし、当然のことだろう。大は国際的援助から小はクラスルームやご近所付き合いまで、人が集まるところには優位性の競争がある。そのなかで「きょうどうではない」ものから「きょうどう」を作り出すにはどうすればいいのか。
私にも答はない。けれど少なくともアンテナを立てておくこと、他の人間がやることに疑問(?の疑問ではなく!の疑問。そんなやり方があったのか!という驚きを持った疑問)を持つこと。そして不思議なこと、!なことや?なことを当人に聞いてみること。ようは当たり前のコミュニケーションの基本を大事にすること。そして「待つ」こと。一番難しいけれど、結果がわかるのは早くて10年先ぐらいの気持ちでいること。最後に「あきらめない」こと。何度「きょうどうではない」になっても、いつかどこかで…と何度でもやり直してみる、仕切り直してみること。そのうちに答が見えてくるさ~と楽観的にあきらめないことが肝心なのかなと思う。