道標として

松井 名津

 コロナ以来(AC)多くの人がなんとなく感じている。何かが進行中だと。学校で習う歴史は「後から見た」ものだから、変化の中にいた人はここが潮目だと思っていたに違いないと考えてしまう。けれど本当は今日に続く明日があって、でもその中にマダラに昨日と違う明日が確実に忍び込んでいるものなのだろう。そして当事者にとっても、ある日突然のように急速な変化が訪れる。不可逆的なものとして、誰の目にも見えるように。

 それまではなんとなく揺れ動いている。常識だと思っていることが、崩れるかもしれない…崩れないかもしれない。この生活が変わるかもしれない…変わらないかもしれない。崩れない方が、変わらないほうが楽だと思う人は多い。人間は過去から未来を推測するしかないから、できるだけ過去の経験が通用する方が、好ましいと思うものだ。しかし何かが進行中だという感覚が、多くの人に共有されてくると、人々は時に、自分は何を拠り所として生きるのかという問いを突きつけられる。問いに目を瞑ることもできるし、問われなかったふりをして生きていくこともできる。ただ、そこに問いがあることだけは確かだ。

 何を拠り所とするか。昔は簡単だったと詠嘆するものがいる。右肩上がりの経済成長の中で「明日はきっと今日よりも良くなる」が共通した拠り所だった。昭和の価値観が輝いて見えるのはきっとこの価値観をみんなが共有している心地よさがあるからなのだろう。過去を賛美するのが年長者であるとは限らない。意外に若者ほど「輝いていた過去」に弱かったりする。なぜなら今、未来とか将来に明るさー見通しの良さが感じられないからだ。過去を美化するの容易い。知らない世代から見れば、美化された過去が本当に存在していたと思えるから、光り輝いて見えるのも、過去が拠り所になる一因だろう。

 昭和が輝いて見える、明治維新が輝いて見える。それはこの日本特有の現象かもしれない。けれど世界的に見ても「先進国」にとって20世期は輝ける時代だったし、そうした過去への回顧が一定の訴求力を持つのは確かだろう(〜again!)。では先進国に全体にとって20世期に共通した拠り所が何だったのかといえば、おそらくそれは「科学」や人間の「理性」だったのだろうと思う。科学によって自然のもたらすあらゆる「害」(災害・病・不確実性)を乗り越えることができる。理性によって全ての問題を解決することができる(たとえ合理化が首切りの別称であったとしても)。この信仰(確かに理性や科学への信頼は「信仰」という言葉がふさわしい。実際、フランス革命の時に「理性」を崇拝する祭が行われたこともある)が揺さぶられ始めたのは、オイルショックであり、スリーマイル事故だったし、決定打はチェルノブイリや日本での大震災だっただろう。そしてこの時期に新興宗教が各地で勃興したのも、科学に対する反動だったのかもしれない。

 ところで、科学万能の時代といえばその始まりはミルが生きていた19世期半ばである。この時代はまだ科学は万能とはいえないが、科学的思考により世の中の全てを解き明かすことができるという期待を込めた熱意があった。ミル自身も科学的思考を推し進めてきた人物である。社会に関しても科学的分析と総合を目指して、新しい方法論を開発しようとしていた。それゆえ当時の人は彼のことを「理性の人」と呼んだわけである。そのミルが晩年宗教に関する論文を執筆し発表したのである。当然周囲の人は科学の立場に立って宗教を否定するものを期待した。しかしミルの発表した原稿はむしろ宗教を擁護する立場に立っていたのだから、周囲は愕然としたし、失望もした。なぜ「理性の人」ミルはあえて宗教を擁護したのだろうか。

 まず誤解されるといけないので、最初に言っておくが、ミルの宗教論は宗教家としてあるいは哲学者として宗教を考えるものではない。あくまでも「科学」の立場から宗教を論じる。さらにミルは現在が「宗教あるいは信じることが弱い時代」だから宗教を論じる時だと考えている。一つにはある宗教に対して熱狂的な感情(信仰)がないからこそ、宗教を冷静に論じることができるという点がある。しかしその一方、信仰を疑いながらも信じようとする人、神の存在を疑いながらも「それを公言すると世間に波を立ててしまう、下手をすると今の道徳を壊してしまうのではないか」と心配して沈黙を守る人等、現在の道徳を疑いながらもそれを公にすることができない人が増えているという理由からだ。ここでいうミルの科学には社会に関する、個人の行動に関する科学(それぞれ社会科学・道徳科学)が入る。とはいえミルは宗教を外から眺めて分析する(その社会においてある特定の宗教が信じられる要因は何か。ある特定の社会で宗教はどのよう
な社会的機能を果たしているのか)のではなく、宗教そのものが人間の行動に及ぼす効果とその有用性を科学的に分析しようとする。したがって彼の分析は宗教を科学の俎板にのせて、論理のメスで解剖するようなものだ。下手をすると死んだ魚を解剖して生きている生態を明らかにしようとするような馬鹿げた行為になりかねない。そして通常こうした分析からは「宗教は幻想である」という結論が出る。最初の「弱まっている」からというのも少し奇妙だ。宗教心が弱まって、世俗化しているのであれば、わざわざ宗教を取り上げなくても良さそうなものだからだ。

 けれどミルがこの時代、わざわざ宗教を解剖しようとしているのは、実は信仰という人間の行動を規制していた原理が弱まっているからこそなのである。なぜその規制原理にしたがっているのかよくわからないが、まぁとりあえずしたがっておくほうが無難だから。自分は信じてはいないのだけど、世間一般が信じていることをこと荒立てて批判すると、信じている人まで混乱に追い込み、モラルが崩壊するのではないか。それは自分の望むことではないから黙っていよう。こうした意識が蔓延する時、人々の行為を内側から規制する原理はその力を喪い形骸化する。代替できる原理がないまま、人々はなんとなく従うが、もし誰かが「そんなもの建前だろ!本音で行こうや」「みんな内心はそんな綺麗なおままごと、信じてへんやん。頭、お花畑のめでたい奴だけやで」などという声が挙がれば、行動原理そのものが崩壊する危険性がある。そうミルは考えている。だからこそ、宗教をきちんと分析し、その有用性がどこにあるのか、それは代替可能なのかを検討する。そうして出てきたのが、彼自身の宗教である「人間性の宗教」である。

 ちょっと話を急ぎすぎた。まずはミルの議論を紹介しよう。ミルは宗教、あるいは神という概念が続いているのは、人間が持つ不可思議への畏怖と、それゆえの好奇心と想像心ゆえだとする。科学が進み、人間の知識が進んでも、世界は不可思議と神秘に満ちている。だからこそ、その不可思議を畏怖し、同時にそれを知りたいと思い、想像力を膨らませる。それは人間が何処かに向かって変化し続けるための原動力の一つでもある。その一方宗教には人々の行為を規制する役割、世俗的な意味での(とミルはいう)道徳の役割を持っている。ではこの役割は宗教と切り離すことのできないものだろうか。ミルはあっさりと否定する。人が既存の道徳律に従うのは1)権威の力2)初期教育による刷り込み3)世論の意見によるところが大きい。特に三番目の世論、周囲の人間が自分の行動をどのように評価するかによって、人は自分の行為を断念したり、実行したりする(ということで実例として挙がっているのが男女の不貞行為の差だ。一般に男性の不貞行為は容認されるので、男性の不貞行為は多い。これに対して女性の不貞行為は厳しい世間の制裁があるので、女性の不貞行為はほとんどない。という分析である。現代ではどうなのだろう)。

 ということで、宗教に含まれる不可思議への畏怖等は人間の自然な性向へ、一般的な道徳律の提供は宗教なしでも大丈夫となると、宗教の役割は消えるのだろうか。

 ミルは否という。宗教にはこれら二つを超えたもっと大きな役割がある。それはある人を「より高潔な」人になろうとする動因を作ること、社会的教師としての宗教である。そしてこれこそが宗教の本質だとする。少し長くなるが本人の言葉を引用しよう。「最高の卓越性として認識され、あらゆる利己的な欲望の対象を正当に凌駕する理想的な対象に、感情と欲望を強く真摯に向けること」が宗教の本質なのだ。なんだかわかったようなわからないような言葉なので、いらざるお世話かもしれないが、少し解説を。「個人の人生は短くとも、人間という種の生命は短くない」けれど自分が目指すところを、今の人、今の時代が受け入れてくれるとは限らない。永遠に認めてもらえず、永遠に異端者であるかもしれない。自分一人を考えるならば、この世を改革することはできないかもしれない。自分一人が目覚めていても、他が眠っているのであれば、自分もまた眠っていた方が良いかもしれない。一生かけて実現することができない理想を、誰も引き継いでくれないのではないか。大きく考えればこういうことになる。小さく考えれば「自分がこの世に残したいと思っている思いを誰が受け継いでくれるのだろうか」「私が存在したということは、数十年もすれば忘れられてしまうに違いない」ならば、なぜ今頑張らなくてはならないのか。なぜ世間に合わせてもっと楽な生き方ができないのか。そう思った時、あるいはそう思わざるを得ない状況に至った時、自分が認めてやまない、尊敬できる人が自分をきっと認めてくれるに違いないという思いに支えられたことがないだろうか。それは亡くなった親かもしれない。何十年と合わないかつての友人かもしれない。でもその人がいるから、その人がきっと認めてくれるから、そう思える人たち。架空の人物でもいい。そういう人によって「いいよ」と認められ受け入れられること。これが、人間がその時代、その社会の凡庸な基準からはみ出て、何か自分が目指す高みに向けて歩む動因になる。それこそが宗教なのだ、他に宗教にどのような役割があるというのだとミルはいう。

 そしてこういう理想のモデルに絶対的な存在、人間の能力の及ばない全知全能の存在を置くことは、かえって人々の多様な試みを型に嵌める結果になるという。ミルは明らかにキリスト教を念頭に置いて話をしている。たった一人の神が全知全能であり、その神に認められるかどうかが全てを左右しているのだとしたら、この世で頑張る必要などどこにあるだろう。いずれは神が全てを「よし」とされるのであれば、この世の悪と戦う必要がどこにあるだろう。全ての敬虔な人が救われるのだとしたら、この世で彼らを救う理由がどこにあるのだろう。一神教にはこの罠があるという。それよりも善を求めていても、その善を地上に行き渡らせるだけの力を持っていない神。人の手を必要とする神。ようはこれまで人々が崇め続けてきた人々(イエスであれ、ムハンマドであれ、ツァラストラ、ブッダ、ソクラテス等)と同じ戦列にいるのだという思いの方が、人をより高みへと導くのに適しているのではないか。そう。これがミルのいう「人間性の宗教」である。

 パンデミックの中でこの先を考える時、暗闇しか見えない人もいると思う。でも誰かが見ていると思うこと、誰かが背中を押してくれていると思うことで、一歩踏み出すことができるのではないだろうか。それは万能の神よりも、親しい人間からの方が暖かい気がするのは、多神教の世界に生きているからかもしれないが。